閑話 1891(明治24)年小満:と或る官僚の独言
※一人称ミスを修正しました。(2019年1月5日)
1891(明治24)年、6月4日。
わたしは椅子に掛け、自分の机に向かい、考え込んでいた。
上司は宮中に参内するため、午後から不在にしている。
彼からわたしに与えられた書類仕事も多少あったのだが、疾うに片付けてしまった。同じ仕事をしたことがあるのだ。結末も分かり切っている。時節と途中経過が少し変わっている。ただそれだけのことだ。
(しかし……)
わたしは、ここ十数年来の出来事に思いを馳せた。
初めは、夢ではないかと思ったのだ。
自分が殺される夢など、――激しい政争を経て、栄達を遂げて宿願を果たしたが、いつの間にか、相容れぬ敵と同じように世論に攻撃され、一刀の下に命を断たれるという夢など――病を得て、生死の境を彷徨したがために、疲れが見せた幻覚なのだろうと、そう思っていた。
ところが、現実はその夢の記憶の通りに、寸分も違わず進んでいった。
法学校に学び、騒動に関与したと言われて退校処分になった。拾ってくれる人があって新聞記者になったが、社の方針が変わったために退職し、気が付いたら役人になっていた。すべて、夢の記憶の通りである。愛のない結婚をした相手も、記憶と違わぬ女性だった。
そこまで、流れ込んだ記憶の通りの人生をなぞって、わたしは思った。
これでいいのか?
このままいけば、わたしの宿願は達成されるだろう。
少年時代のあの日、敬愛するあの人を理不尽な理由で奪い去り、わたしたちに逆賊の汚名を着せた奴らに復讐することは。
だが、もっと早く、奴らの力を削ぎ、奴らを屈服させることはできないのか。
日本から離れて仕事をこなしながら、それを考える日々が続いた。
そして、結論は出た。
先生に巡り会えばいい。
流れ込んだ記憶の通り、先生に巡り会ったら、先生とともに奴らと戦い、奴らの力を奪い去ってやるのだ、と。
ところが、帰国して、時節を待っていたが……先生はわたしの前に現れなかった。
それどころか、現実が、記憶と相反するように進み始めた。
外務大臣の爆弾襲撃事件は、発生しなかった。従って、それをきっかけに生じた内閣崩壊も起こっていない。
さらに時が進むと、憲法発布ともに、陸軍と海軍が合同した。
帝国憲法も、軍隊の指揮権が総理大臣に移譲され、予算や軍備、人事に関しても総理大臣の管理下に置かれた。更に言えば、各大臣は総理大臣が任命し、天皇が承認するものになった。皇室典範にも、譲位に関する規定は無かったはずだ。
そして、先生がやるはずだった治外法権撤廃の仕事は、憲法発布と同年に成し遂げられてしまった。近隣諸国との外交方針も、転換していた。
第1回帝国議会の政党勢力図も、記憶とは変わっていた。そして、大規模な軍拡を目的とした予算は提出されず、ごく常識的な予算が提出された結果、国会内でのゴタゴタも生じず、予算はすんなり成立した。
郡制は施行されていない。それは喜ばしいことだ。郡制の維持に必要な役人どもは、藩閥の勢力の温床だったからだ。
民法典論争が起こる気配もない。法典調査会と条約改正施行準備委員会が、記憶より何年も早く設立され、建設的な議論が進められている。
教育勅語の内容も、少し変わっている。女子教育を充実させ、社会、そして世界に通用する女子を育てるという文言は、入っていただろうか?そういえば、足尾銅山の対策も、“記憶”より何年か早く始まっている上に、大規模になっている。
情勢の変化に戸惑っているうちに、わたしの義父のような男から、こう声を掛けられた。
――お前が優秀なのは知っている。ついては、転属を願いたい。今一番忙しい職場を助けてほしい。
よりによって、転属先は、流れ込んだ“記憶”の中で、最も争った男の下だった。
そして、上司となったその男に命じられたことは、かつて自分が行ったことを、形を変えてさらに大きく行うことだった。
(この男の力を削ぐことになるのだが……それでもよいのか?)
だが、これはわたしの望みを果たす好機だ。それに、“大津事件”が起これば、この男は職を辞さねばならないはずだ。身分卑しい、謀略好きなこの男のことだ。大津事件の責任を、全部わたしに押し付けて、わたしを辞職させる可能性もある。
わたしは直ちに、命じられた仕事に取り掛かり、無事に形にした。かつて自分がやったことを、大規模にするだけだ。この男への根回しという大変な作業をしなくてよい分、仕事は前回より、遥かに簡単に終わった。
そして、いつ辞職を命じられてもいいように、覚悟をしていたのだが……。
大津事件そのものが、発生しなかった。
いや、発生したのかもしれない。しかし、犯人……津田三蔵という名前だったのを、事件が起こってからようやく思い出せたのだが、奴が襲ったのは、ニコライ皇太子ではなく、馬車に陪乗していた日本人武官だった。事件は日本人を狙った傷害罪として片づけられ、ニコライ皇太子は東京のみならず、日本各地を訪問して、ロシアに帰って行った。
わたしの首は、つながってしまった。
気が付けば、“記憶”の中の同じ時点より、わたしは高い地位にいる。そう言えば、先生も衆議院議員には立候補されていない。未だアメリカにいらっしゃる身では、立候補自体が難しいが。
(流れ込んだ“記憶”と大きく異なったこの状況……はて、どうしたものか)
わたしが腕を組もうとしたその瞬間、部屋の扉が開けられた。
「戻ったぞ」
上司だった。
「お帰りなさいませ」
わたしは考えていたことを顔面から瞬時に消し去って、椅子から立ちあがり、上司にうやうやしく一礼した。
「参内の首尾は、いかがでございましたか、閣下」
「ああ、上々だよ」
上司は、明らかに上機嫌だった。その表情の出方は、“記憶”の中の上司と、全く違いはない。考え方は“記憶”より、若干わたしに近くなっている。性格も、少し積極的になっているような感じもある。だが、基本的には“記憶”と変わらない。上司を、それと悟られぬように御することなど、何十年もこの男と争った記憶を持つわたしには、容易いことだ。
「君、君の明日の午後の予定は、空けておいてくれたかね」
上司がわたしに尋ねた。
「は、空けました」
わたしは頭を下げたまま答える。
「そうか、ならば明日の午後、一緒に花御殿に参上する」
「花御殿に、ですか。すると、皇太子殿下に拝謁するということですか?」
あの方を取り巻く状況も、大きく変わっている。大夫と武官長に、元老が就任している。更に、威仁親王殿下まで、東宮賓友に任命されている。あの二人も、威仁親王殿下も、あの方に関わるようになるのは数年先のことのはずだが……。
「いや、皇太子殿下は、明日は近衛師団に行啓される。我々は、増宮さまに拝謁するのだ」
「は……」
わたしが頭を下げている先で、上司は自分の机の上にある、写真立てに目をやった。
「ああ、お美しく、愛らしく、そしてとても聡明で、度量を兼ね備えていらっしゃる。しかるべき修業をお積みになれば、英国のヴィクトリア女王など足元にも寄せ付けぬ大人物になるだろう。……君には、増宮さまに拝謁する資格があるよ、原君」
上司の視線の先には、正装されたあの方と、そして、あの方が優しく慈愛に満ちた眼差しを注がれる、わたしの記憶にない、美しい少女の姿があった。