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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第6章 1891(明治24)年啓蟄~1891(明治24)年立夏
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閑話 1891(明治24)年立夏:桂中将の困惑

 1891(明治24)年5月13日、午後1時半。

 この日、京都への行幸の帰途、名古屋離宮に立ち寄られた天皇陛下に拝謁するため、第三軍管区司令官の桂太郎歩兵中将は、名古屋離宮にいた。

 2日前の5月11日、大津で、来日したロシアのニコライ皇太子を案内していた大山東宮武官長が、津田三蔵という巡査に襲われた。幸い、馬車に同乗していた有栖川宮(ありすがわのみや)威仁(たけひと)親王殿下が、津田を撃退し、津田は捕縛された。威仁親王殿下は、軽度の打撲傷を負われたが、天皇陛下の侍医である、帝国大学医学部のスクリバ医師が、“業務に差し支え無し”と判断し、翌日から、ニコライ皇太子の接伴委員長の業務に復帰した。威仁親王殿下の武勇優れた働きは、日本国内の新聞でこぞって賞賛された。

 天皇陛下は、5月10日に、京都御所でニコライ皇太子とギリシャのゲオルギオス王子と会食された。11日は、終日京都御所にご滞在の予定だったが、有栖川宮威仁親王殿下の変事を受け、彼を見舞われ、次いでニコライ皇太子とゲオルギオス王子にも、迷惑をかけたことを詫びられた。ニコライ皇太子もゲオルギオス王子も、事件が起こったことは全く不快に思わない旨を陛下に答えられ、揃って、威仁親王殿下の武勇を褒め称えられたとのことだった。

 13日早朝に、天皇陛下は特別列車で京都停車場を出発された。伊藤枢密院議長、山縣内務大臣、山田司法大臣が供奉している。そして、11日夜に、皇后陛下と皇太子殿下の御名代として、京都に威仁親王殿下のお見舞いに向かわれた、増宮(ますのみや)章子(ふみこ)内親王殿下も同行していた。

(増宮殿下に、謁見できるとは……)

 昨年の12月に、参謀本部長の児玉歩兵少将と話をして以来、桂中将は、増宮内親王殿下に謁見する日を待ち望んでいた。しかし、増宮殿下がお住まいなのは東京だ。第三軍管区を預かる身では、上京する機会はなかなかない。謁見できるのは中央に転勤してからだろうか、と考えていたが、思いがけなく、機会が巡ってきた。

 御年8歳ながら、皇后陛下と皇太子殿下の御名代を務められるとは、増宮殿下がご英明であるという(あかし)である。彼女が不世出の大天才なのは、間違いないだろう。

「久しいな、桂」

 名古屋城本丸御殿の表書院。上段の間に、天皇陛下が座しておられた。

 その手前、桂の左手側に、桂中将の求める人がいた。増宮内親王殿下だ。群青色の女袴に、白縹(しろきはなだ)の小さな花模様を散らした、白地の着物をお召しの増宮殿下は、長く美しい黒髪を、青い飾紐(リボン)を使って、後ろで一つに束ねておられる。切りそろえた前髪の下の顔は、この世のものとは思えないほど美しかった。

「行きは静岡に泊まったゆえ、そなたには会えなかったが……息災にしておるか」

「はっ」

 下座に正座した桂中将は、天皇陛下に一礼した。顔を伏せたまま、チラチラと、増宮殿下の様子をうかがう。頬を薄紅色に上気させ、夢見るような瞳を辺りに向けられる増宮殿下は、非常に愛らしかった。

(まるで、着物の中の花が外に飛び出して、周りに光を放ちながら、美しく咲き乱れているような……)

 そんな感想を抱いた時、

「章子」

天皇陛下が、増宮殿下を呼ばれた。増宮殿下は、気づかれないのか、周りに視線を向けられたままだ。

「章子!」

 少し苛立ったような天皇陛下の声に、増宮殿下が目を軽く見開かれた。

「は、はい!」

 増宮殿下が、慌てて天皇陛下の方に向き直られる。

「そなたは、客人が来ているのに、調度に見惚れおって……」

「申し訳ありません」

 増宮殿下が、深々と天皇陛下に頭を下げられた。青色の飾紐(リボン)が揺れる。

「気持ちは分かるが、ほどほどにせよ。ほら、桂に挨拶を」

 天皇陛下に促されて、増宮殿下は桂中将の方に向いて座り直された。

「初めまして、章子と申します」

「第三軍管区司令官の、桂太郎と申します」

 桂中将は一礼して、頭を上げた。増宮殿下と目が合った瞬間、

「……!」

増宮殿下の美しい顔が、驚愕に歪んだ。

「いかがなさいました、増宮さま?」

 増宮殿下の向かいに座る伊藤枢密院議長が、不思議そうな顔で尋ねた。

「伊藤さま、あの、その……」

 増宮殿下は、助けを求めるように、伊藤枢密院議長を見つめられた。

「大変失礼いたしました、増宮殿下。むさくるしい軍人の顔を見て、さぞ驚かれたのではないかと……」

「ご……誤解しないでください、違います!」

 桂中将の言葉に、増宮殿下は首を横に振られた。「申し訳ありません。個人的な事情で、取り乱してしまって……大変失礼を致しました。お許しください、桂さま」

 増宮殿下はそう言われて、桂中将に頭を下げられた。とても御年8歳とは思われぬ、大人びた言葉遣いである。

「いや、こんな一軍人ごときに……恐縮でございます」

 桂中将も、深々と増宮殿下に頭を下げた。

「増宮さま」

 伊藤枢密院議長の隣に正座した山縣内務大臣が、口を開いた。「先日、我々が献上した名古屋城の写真ですが、この桂が手配してくれたのです」

「本当ですか?!」

 増宮殿下が驚きの声をあげられる。

 次の瞬間、小さな足音が桂中将に近づき、彼の横で止まった。

「ありがとうございます……ありがとうございます!」

(な!)

 桂中将は、あまりのことに目を丸くした。増宮殿下が、彼のすぐ横に正座し、彼に向かって頭を下げておられたのだ。

「ま、増宮殿下……お顔をお上げください」

「1冊につき、300枚以上の写真……大変だったと思います。ご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした。けれど、これは絶対に、後世の城郭研究家と、城郭マニアのためになる仕事です。心より感謝申し上げます、桂さま」

 桂中将の言葉を無視して、増宮殿下は頭を下げ続けられる。

(まにあ……?)

「はあ……全く、しょうがない奴だ」

 増宮殿下の様子をご覧になった天皇陛下が、苦笑された。

「すまぬな、桂。この章子は、城郭が好きでな。今回も、名古屋離宮に泊まると聞いてから、ずっとこんな調子なのだ」

「陛下、それは当たり前です。写真帳でしか見られなかった貴重な城郭を、この目で直に見られるとなれば、……これに勝る喜びはありません」

 上座を振り返りながら、増宮殿下は断言された。

「ふふ」

 山縣内務大臣の隣に座る山田司法大臣が、微笑する。

(陛下のことを“お父様(おもうさま)”とは、お呼びにならないのだな……)

 桂中将が思った瞬間、

「そうだ、桂。章子に、この城を案内してやってくれぬか」

天皇陛下が声を掛けられた。

「!」

 思わず桂中将は、頭を上げた。

「昨年末まで、この城は国軍のものであったのだ。朕よりも、この城の構造に詳しかろう」

「は……謹んで、承りました」

 桂中将は、そっと増宮殿下の方を伺った。喜ばれるかと思いきや、増宮殿下の美しい顔には、困惑の表情が浮かんでいた。

(おや……?)

「あ、あの……山縣さま」

 増宮殿下は、山縣内務大臣の方を向かれた。「一緒についてきてもらっても、いいでしょうか?」

「増宮さま?」

「この名古屋城を独り占めするのは、あまりにも申し訳なくて……山縣さんなら、お城に詳しそうだから、一緒に楽しめるかなと思って、ね?」

 少し緊張した声で、増宮殿下はおっしゃった。

(初対面の人間とは、話しづらいのであろうか)

 桂中将はこう思い、

「山縣閣下。この桂からもお願いいたします。国軍の大先輩として、この桂にご教示いただくこともあろうかと思います。なにとぞ」

山縣内務大臣に深く一礼した。

「あ、う、うむ。桂がそう言うならば」

「「ありがとうございます」」

 桂中将はかしこまった声で、増宮殿下はほっとした声で、山縣内務大臣にお礼を告げた。


「さて、どこからがご所望でしょうか、増宮殿下?」

 表書院の廊下に出て、桂中将が増宮殿下に尋ねると、

「多聞櫓から」

増宮殿下は即座に答えられた。

(やはりか……)

「おそれながら……大天守でも小天守でもなく、多聞櫓なのですか?」

 桂中将が聞くと、

「だって、多聞櫓はもうすぐな……じゃなかった、多聞櫓まで残っている城郭は、なかなかないから、構造や縄張りに占める位置を、きちんと確認しておきたくて……」

増宮殿下はこう言って、微笑された。

(まるで、天女のような……)

 桂中将が、増宮殿下に見惚れていると、

「桂」

山縣内務大臣が、厳しい声を発した。

「はっ」

「増宮さまをジロジロ見るな。失礼であろう」

「も……申し訳ありません」

 桂中将は、大仰に頭を下げた。

「確かにこの不細工な顔、見てもいいことはないと思います」

 増宮殿下は、真顔で言われた。すると、

「何を仰せられますか!」

山縣内務大臣が、血相を変えた。

「不細工などとはとんでもない。光り輝くばかりに愛らしく美しい……まして本日は、その麗しさがいや増さって……」

「だから、山縣さま、あなたの美意識が狂っていると、何度言ったらわかるのかしら……」

 増宮殿下はそう言って、ため息をつかれた。

「増宮殿下」

 桂中将の声に、増宮殿下が歩みを止められた。

「山縣閣下のお言葉は、間違っておられないと、この桂も愚考致します。おそれながら、増宮殿下は、ご自身の類まれな美しさに、まだ気づいておられないだけかと……」

「うむ、桂、よう言うた」

 山縣内務大臣が満足げに頷く横で、

「気づきたくもないわね」

増宮殿下が吐き捨てるようにつぶやかれた。しかし、眉をしかめたその表情も、笑顔とはまた別の美しさを放っていた。

「とにかく、多聞櫓はどこかしら?」

「は、はい、ご案内いたします」

 桂中将は、慌てて先に立ち、増宮殿下を御案内した。

 多聞櫓の前に着くと、増宮殿下は腕を組み、少し考え込まれた。

「いかがなさいました?」

 山縣内務大臣が、増宮殿下に問いかける。

「いえ……今日一日で、どこまで見られるかしらと思って……」

 そう言われた増宮殿下は、眉根を寄せた。

「このまま放っておかれたら、日没まで、ずっと多聞櫓から出てこられなさそうで……だけど、大天守と小天守も見ておきたいし……うう、どうしよう……」

(日没まで、出てこられない……?)

 日没までは、あと3時間以上はある。多聞櫓に、そこまで見るべきものがあるのだろうか。怪訝に思った桂中将の横で、

「では、時間を決めればよろしいかと」

山縣内務大臣が提案した。「1時間。大天守と小天守もご覧になるならば、多聞櫓に割ける時間は1時間ほどかと思います。1時間後に、我々が呼びに多聞櫓に入りますから、その時には、次の御見学場所に向かっていただければ、と」

「そうですねぇ……」

 山縣内務大臣の言葉を、増宮殿下は目を閉じて検討されたようだ。

「わかりました。1時間で、多聞櫓にきっちり別れを告げます。そもそも、見られること自体が、私にとって望外のことなのですから……。1時間後に、あなたたちが私を呼びに多聞櫓の中に入ったら、多聞櫓との今生での縁はこれまでと潔く諦めて、外に出ます」

 増宮殿下は、一つ頷いてこう言われた。

「お待ちください。案内はよろしいのですか?」

 桂中将が増宮殿下に尋ねる。

「桂さまが手配していただいた写真で、内部構造と見どころは、ある程度把握しています。説明を聞く時間が惜しいので、申し訳ないけれど、多聞櫓だけは、私一人で楽しませてください。他の所は、みんなで回りましょう」

「承知いたしました……」

 微笑された増宮殿下に、山縣内務大臣が一礼した。

「じゃあ、行ってきますね」

 増宮殿下は、多聞櫓の入口に向かって駆けていった。“飛鳥のような”という表現がぴったりくる、軽やかな走りだ。今日の青空を思わせる色の飾紐(リボン)が、桂中将と山縣内務大臣から、たちまちのうちに遠ざかる。

 山縣内務大臣が、離れていく増宮殿下に深々とお辞儀する横で、

(今生での縁はこれまでと、潔く諦める……?)

桂中将は、増宮殿下の言葉に引っかかっていた。

 国軍の管理下にあったころはともかく、今や、名古屋城は離宮なのだ。増宮殿下ならば、その気になれば、いつでも来訪することができる。

(まるで、多聞櫓が近々のうちに無くなってしまうかのような……そして、それをご存じであるかのような……)

 そこまで考えを進めて、桂中将は、かつて児玉参謀本部長が言ったことを思い出した。

(まさか……源太郎の言うように、増宮殿下は本当に未来の世を……?!)

「桂」

 山縣内務大臣の声が飛んで、桂中将は、慌てて身体を向け直した。

「はっ」

 頭を軽く下げ、大先輩の言葉に備える。

「今、何を考えていた」

「い、いえ、何も……」

 かしこまって答える桂中将に、

「荒唐無稽なことであろう」

山縣内務大臣は言った。

(“荒唐無稽”だと……?なぜそのような言葉が?山縣閣下は……増宮殿下について、何か知っておられるというのか?!)

 内心の動揺を気取られぬように、桂中将は、

「いえ、私は何も考えておりませぬ」

頭を下げたまま、山縣内務大臣に答えた。

「ふん……」

 山縣内務大臣は、桂中将を一瞥すると、増宮殿下が入られた多聞櫓に視線を向けた。

「わしは、変わらねばならん」

 独り言のように、山縣内務大臣が言う。

「は……?」

「あの方のわしに対するご評価は、大分手厳しい。わしの後継者たる、お前の評価もな。しかし……あの方は、そのご評価に縛られ過ぎている」

 山縣内務大臣の言葉に、桂中将は困惑した。

(一体、何のことを言っておられる?!)

 桂中将には、さっぱり、見当がつかなかった。

 自分が、今でも旧陸軍関係者に多大な影響力を保っている、山縣内務大臣の後継者になるとは、考えたこともない。

「だが、あの方自身も、そのことに気が付き始めた。ふふ……聡明なご性質である証拠だな。あの方が、大山どのを縛っていた鎖を断ち切られたのと同じように、ご自身を縛る鎖を自ら断ち切られて、しかるべき修業を積まれたならば……、そして、その知識を、あの方にしかできない発想でお使いになるのならば……陛下のおっしゃるような“上医”に、なられるやもしれぬ」

 山縣内務大臣の言葉が、桂中将に向けられたものなのか、単なる独り言なのか、桂中将にはそれすらも理解できなかった。

「わしもその時に備えて、少しずつ、己を変えねばならん。大山どのには及ばないが、わしも一介の武弁として、あの方をお助けせねば」

「……」

 桂中将は、山縣内務大臣に、返答することができなかった。

(“あの方”とは……、増宮殿下のことなのか?)

 ようやくそのことに思い至った時、

「桂」

不意に、山縣内務大臣が、桂中将を呼んだ。

「は」

 桂中将は、頭を更に一段下げた。

(さと)いお前のことだ。気が付いているのであろう、あの方のことに」

 桂中将は答えなかった。

(もし“あの方”が増宮殿下のことであるとするならば……やはり、増宮殿下は重大な秘密を……)

「児玉も山本も、あの方のことを、それとなく嗅ぎまわっているが……ふ、わしも焼きが回ったものだ。大山どのに教えられるまで、それに気づかぬとはな」

 桂中将は、ひそかに息を飲んだ。

(源太郎と権兵衛の動きが、気取られている?!)

 あの二人がヘマをするようなことは、無いと思っていたのだが。

(流石、大山閣下……)

 桂中将は、内心、舌を巻いた。あの人は、何も見ていないようで、実はすべてを見て知っていて、知らぬふりをしているのだ。

(それゆえ、()()()()()()()を任せられているのであるがな……)

「桂」

 山縣内務大臣が、桂中将を呼んだ。

「はっ」

「焦るな。お前たちの価値を、あの方がお分かりになる時は、必ずやってくる。わしらも協力してやるが……それが早いか遅いか、さて、こればかりは分からぬな。だが、その時までは、他言無用だ。漏らせば、お前らを斬ることも考えねばならんからな。……よいな、桂」 

 黙って桂中将は一礼した。

 その頭上で、

「しかし、陛下と皇太子殿下と、麗しきあの方……ふふ、よい世になりそうだ」

山縣内務大臣の静かな笑い声が、五月の爽やかな風に乗って、名古屋の青空に吸い込まれていった。

これ、桂中将シリーズを、もう一本書かないといけないですね……。

次回からは新章の予定です。

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