もう一つの結末
廊下に面した障子を開けると、すぐそこに、山縣さんと伊藤さんがいた。爺と山田さんもいる。私の姿を見ると、全員が一斉に平伏した。
「もう……みんな、立ってください。そんな風に頭を下げられてしまうと、調子が狂います」
私はため息をつきながら言った。
「し、しかし……」
伊藤さんが平伏したまま呟く。
「それに、これから、大兄さまの所に行かないといけないから……ほら、通るのに邪魔ですから、お願いだから立ってください」
「はあ……」
四人とも、渋々と言った感じで立ち上がった。
「山田さん、このまま、大兄さまの所に行きます。ついてきていただけますか?」
「ま、増宮さま?」
「だって、山田さんも、お母様と皇太子殿下の、お見舞いの使者でしょう?見舞う相手に会わずに、東京に帰るつもりですか?」
「そ、それは……」
「ほら、大山さんと一緒に、行きますよ。……大山さん、今、大兄さまたちはどちらに?」
「本日は、知恩院と、清水寺を御参拝された後、二条離宮にてご休息される予定です。そろそろ、清水寺から二条離宮に向かわれる頃でしょうか」
大山さんが、軍服のポケットから懐中時計を取り出して答えた。
「二条離宮?」
「二条城、と申し上げる方が、増宮さまにはわかりやすいでしょうか?」
「!」
大山さんの言葉に、私は目を見開いた。
「二条城!大政奉還の舞台になったところですね!前世で、見学したことがあります。縄張りは、あまり防御的ではないけれど、二の丸御殿の障壁画が素晴らしくて……あ、そうか、未来に、二の丸御殿は残っているのだから、この時代でも、残っていますよね」
「確かに、そうですね」
大山さんが、ニコニコしながら頷いた。
「二条城なら、京都御苑の南側から出て、丸太町通を西に歩いて、堀川に沿って南に歩いたら着くはずだけれど……」
「道順を御存じなのですか?!」
私の言葉に、山田さんが驚きの声をあげる。
「中学の時に修学旅行で行ったし、大学生の時にも3回行ったから、大体の道と距離は覚えています。まあ、道幅や周りの風景は、前世とは違うでしょうけれど……様子を確認しがてら、歩いて行きましょうか」
「御意に」
大山さんは、私の右手を握ったまま、先に立って、御所の廊下を歩いた。私の侍従さんが、私たちについて行こうとしたのだけれど、御所で待機するように伝えた。御所を出ると、御苑の南側から丸太町通に出て、西に向かって歩き始めた。
「昔の京都には市電が走っていたと、前世で聞いたことがあったけれど……まだ走ってないみたいですね」
丸太町通を歩きながら、私は大山さんに尋ねた。右手は、大山さんとつないだままだ。
「市電?」
「市内電車。路面にレールを敷いて、その上を電車が走ったそうです。私が生きていたころには、もうバスと地下鉄に置き換わっていましたけれど」
「電車ですか……確か来月には、蹴上に発電所ができると聞いています」
「蹴上?」
「琵琶湖疎水の水力を利用して、発電をするそうです」
「琵琶湖疎水……なんとなく、聞いたことがあるような……」
「京都は、維新の動乱と、東京への奠都で人口が減り、一気に産業が衰退しまして……知事が、京都の産業振興策として計画したのですよ」
私の左隣を歩く山田さんが、こう教えてくれる。
「なるほどね。……その発電所の電力を使えば、電車が走れるかもしれませんね」
(“史実”でも、そうだったのかな?)
考えていると、堀川にぶつかる。南に曲がって少し歩くと、道の両脇に人が沢山並んでいるのが見えた。
「すごい人出ですね」
「ニコライ皇太子を、見物に来たのでしょう」
大山さんが言った。「もう間もなく、ご到着される旨が伝わっているのでは」
「なるほど。外国の人まで見物して……」
「外国の人?」
「ほら、東大手門の前。どこの国の人かな」
私の視線の先には、彫りの深い顔立ちの外国人の女性がいた。髪は黒に近い茶色だ。そして、身にまとった洋服は、暗い緑色だった。一瞬、喪服かと思ったほどで、だから余計に彼女の姿が目についた。
(なんか、すごく地味な服装だなあ)
そう思っていると、彼女は手に下げたバッグから、木で作った箱のようなものを取り出した。
(まさか……!)
「あの人!」
私は叫んだ。
「どうなさいました、増宮さま?」
尋ねる大山さんを、
「東大手門に、油を掛ける気よ!」
私は軽く睨みつけた。
「は……?」
「前世で、そういう事件があったの!お城や神社仏閣に、油を掛けて回った奴がいて!」
そう言うが早いか、私は、大山さんとつないだ手を振りほどいて、箱を手にした外国人女性に向かって、全速力で駆けた。
「こらあ!そこの異邦人!」
通りの人ごみを、東大手門に向かってかき分けながら、私は叫んだ。
「手に持った油を、地面に下ろせぇ!」
人垣の先頭に出ると、英語で叫びながら、通りを全速力で突っ切って女性に近づく。間の距離は、10メートルぐらいだ。大きな声で叫んでいるのだけれど、女性は反応しない。私の英語が下手なのか、それとも、相手に英語が通じないのか。……まあ、どっちだっていい。文化財を汚そうとしている、怪しからん人物なのには変わりないのだから。
「下ろしなさいよ、その油!」
彼我の距離は、5メートルほどまで詰まって、ようやく女性がこちらを見た。目を丸くしている。だけど、手に持った油の入った箱を、下ろす気配がない。
(こうなったら、実力行使あるのみ!)
「とう!」
私は女性に体当たりした。女性がよろめく。箱が女性の手から離れ、二条城のお堀の水面に向かって飛んでいく。
「貴重な歴史的文化財に、何をするの!」
英語で私が叫んだ時、大きな水音がした。数瞬後に、大量の水しぶきが私に掛かる。
(あれ?)
呆気に取られている私の首に、急に強い力が掛かった。
「?!」
外国人の女性が、私の首を両手で締めあげている。何事か呟く、その言葉の意味は全く分からないけれど、黙っていれば美人で通りそうな顔が、どす黒い憎悪で染まっていた。明らかに、私に殺意を向けている。
(あ、ヤバい、これ、死ぬ……?)
そんな思いが脳裏をよぎった瞬間、
「梨花さま!」
大山さんの声が響いた。
(……死ねない!)
私は渾身の力で、女性の右脚を蹴り上げた。もちろん、“弁慶の泣き所”を狙ってだ。
「……!」
私の喉に掛かる力が緩んだ。その隙を見逃さず、私は半歩前に進んで、スカートに包まれた脛を更に蹴り上げた。女性の手が、私の喉から離れる。私はすかさず、後ろに跳んだ。
「増宮さま!」
着地した私の身体を、山田さんが後ろから抱きかかえた。
その私の視線の先で、銀色の光が閃いた。
地面に倒れた洋装の女性の喉元に、軍刀の切っ先が突き付けられている。
……大山さんだ。
「大事ありませんか?!」
山田さんの声に、無言で頷いた私は、大山さんから目を離せなかった。
確か、天皇より、10歳ぐらい上だから、50歳に近いはずなのだけれど……。
(カッコいい……)
厳しさと鋭さを感じさせる立ち姿は、天皇と皇太子殿下の傍らに控えるに相応しい、忠良で武勇に優れた軍人、そのものだった。
洋装の女性が、両手首を縄で縛られ、私服警官に連れていかれるのを見届けると、大山さんは軍刀を鞘に納め、私の方に歩み寄った。
「ご……ごめんなさい!」
私は大山さんに、深く頭を下げた。
「つい、頭に血が上って……以後、気を付けます!」
「そうしてください、増宮さま」
大山さんは、軽くため息をついた。
「しかし、よく見つけられました。これで、皆、胸を撫で下ろせます」
「?」
大山さんの言葉に、私が首を傾げると、
「では、あの女がそうでしたか」
山田さんが言った。「増宮さまには、政治犯の名前までは、伝えていなかったのですが……」
「はにゃ?」
「ヴェーラ・ニコライエヴナ・フィグネル。シュリッセリブルク要塞から逃亡し、我が国に滞在している可能性のあった、ロシアの先帝の暗殺犯ですよ」
「は?!」
山田さんの言葉に、私は目を見開いた。
「あの女、文化財を油で汚そうとした人間じゃなくて……暗殺犯?」
「ええ。手に持っていたのも、手投げ爆弾でしょう」
(嘘でしょ……)
思わず脱力した私は、倒れそうになるところを、山田さんに支えられた。
「油じゃなくて……爆弾……それ、知ってたら、体当たりしませんでしたよ……」
ため息をついた私に、
「しかし、増宮さまの勇気に、ニコライ皇太子も、この国も救われた訳です。増宮さまのご武名が、ますます上がりましょう」
山田さんがニコニコしながら言った。
「それ……医者を目指している人間にとっては、絶対に必要のないものですよね……」
「しかし、俺にとっては、誇らしいものです」
大山さんが微笑した。
「はあ……大山さんがそう言うなら、しょうがないかなあ……。逆らったら怖いし」
「何ですか?」
「な、何でもありません、はい」
私は慌てて、大山さんに向かって首を横に振った。
「これはこれで……いい主従ですね」
山田さんがクスリと笑った。
それから私たちは、二条城に入り、親王殿下に面会した。その流れで、ニコライ皇太子とゲオルギオス王子にも会わざるをえず、“水に濡れているから、短時間にするように”という条件を付けて、彼らに面会した。
英語が少しなら分かるというので、簡単に英語で自己紹介だけして、後はにっこり笑っておいた。ニコライ皇太子も、ゲオルギオス王子も、握手した手をなかなか離してくれなくて困ったのだけれど、大山さんが、フランス語で彼らに何事か囁くと、二人とも、私を怯えた目で見て、慌てて手を離した。それを聞いていた親王殿下も山田さんも青ざめていたけれど……おい、大山さん、外賓に何を言ったんだ。
外賓さえいなければ、ゆっくり二条城を見学したかったのだけれど、大山さんに促されて、山田さんと一緒に京都御所に戻った。御所内の一室で濡れた着物を着替えて、昼食をとった後、一人でくつろいでいると、天皇に呼ばれた。
「事の次第は、山田から聞いたが……ずいぶんと無茶なことをしたようだな」
上座に正座した天皇が、私に苦笑する。
「あの……それについては、私の早合点からの無謀な行動だったので、申し訳が立ちません」
私はとにかく、平伏するしかなかった。
「大山がいなかったら、どうなっていたことか……」
(確かになあ……)
あの、ヴェーラという女性に首を絞められた時、死ぬのではないか、と感じたのだ。けれど、大山さんが私の名前を呼ぶ声が聞こえたから、死ねない、と思って、反撃ができた。
「まあ、よい。以後、無茶な行動は慎め。とはいえ、そなたはこの時代のことをよく知らぬがゆえに、知らず知らずのうちに、無茶をしそうであるから、きちんと橘について武術を修めて、自らを守る術を身につけよ」
「かしこまりました」
私は頭を下げたまま返答した。
(橘さんの稽古が、更に厳しくなるのか……)
まあ、“史実”の大隈さんの襲撃事件もあるし、今回、ニコライ皇太子も襲われかけたわけだし、天皇の言う通り、武術はきちんと学ぶ方がよさそうだ。
「しかし、ようやった、梨花。予想以上の働きだ」
「え、は、はあ……」
「褒美を……と言いたいところだが、そなたは金に淡白なようだから、朕の手許金をやっても喜ぶまい。何せ、そなたが自由にできる金を、北里に全額つぎ込んでもよいと言ったらしいではないか」
「あ……それなら、お願いが一つあります」
私は頭を上げた。「北里先生以外にも、日本には優れた医学者が、これからたくさん出てくるはずです。医学以外の理系分野でも。私の時代には、大学だけではなくて、国が研究機関をいくつか作っていました。いずれ、そういう研究機関を作らないといけないと思うので、その時には、陛下にも出資をして欲しいです」
「ほう?」
「実際に、計画を動かすのは、北里先生が日本に戻るあたりからだと思いますけれど……」
「分かった。その時には、朕も出資しよう」
「ありがとうございます、陛下」
私はまた、頭を下げた。これなら、北里先生が日本に戻ったら、大きな研究所が作れるはずだ。
「しかし、そなたへの褒美は、それと大山でいいのか?」
天皇の言葉に、私は首をひねった。
「それと大山って……まるで、大山さんをモノのように……」
すると、
「そなた、大山と、君臣の契りを結んだのではないのか?」
天皇が言った。
「へ……?」
「堀河も伊藤も山縣も、威厳のある、立派な姫君ぶりだったと、そなたを褒めちぎっていたが……」
私は、数時間前に起こったことを思い返して、一つ一つ検証した。
確か、“私の側からいなくなるな”と、私が大山さんに言って、大山さんが“主君たるもの、軽々しく頭を下げてはいけない”と言って、私が“主君だとか、そんなのわからん”と答えて、そうしたら、大山さんが“ご存じないのならば教えます”と私を上座に座らせて……。
「あ゛」
私の口から、変な声が出た。
「あれ……そうだったんだ……」
――死のうなどとは、二度と考えるな。この梨花に誓え。よいな。
数時間前に、軍刀を渡しながら、大山さんに言い放ったセリフが、頭の中に蘇る。
(うわー……)
私は、大きく項垂れた。
内親王が、元老を自分の臣下にするなんて……歴史も変わったもいい所だ。
「どうした?」
「いや、あの、こんな結果になるなんて思ってなくて……」
項垂れたまま、私は言った。「私が生きていた時代は、士農工商なんてとっくに消え去ってるし、封建的な主従関係なんて、小説や、歴史の中のお話でしかない時代だし……」
「ふむ。しかし、今は、武士はいなくなったとしても、君臣の契りは息づいておる時代だな」
天皇が静かに言った。
「だ、大体、私が、陛下を差し置いて、大山さんの主君だなんて……」
「そなた、“我が傍らで、天皇と皇太子に仕えよ”と大山に言うたと聞いた。そなたを通じて、最終的に、大山が国家に尽くすというのであれば、何の問題もない。……朕の師を譲るのだ。大山を、粗略に扱うなよ」
「あ、はい……」
反射的に答えた私は、諦めの境地に達していた。
天皇の師とも思われた大山さんが私の臣下……どう見ても、臣下の方が、私より、経験も力量も上だ。
「さて、当初の予定通り、明日には京都を発つぞ。名古屋の離宮に一泊して、明後日、東京に戻る。ニコライ皇太子を、16日には東京で迎えなければならないのだ」
「はあ……」
(名古屋かあ……)
前世の私の故郷だ。京都への移動中にも通過したけれど、寝ていたので気が付かなかった。
「名古屋の離宮って、どこにありましたっけ?」
私の生きていた時代には、名古屋に離宮はなかった。
すると、
「名古屋城だが」
天皇が答えた。
「へ?」
「名古屋城の本丸と天守が、この一月から離宮になっておる。昨年末まで、第三軍管区が使っていたがな」
「あ!」
――来年早々には離宮になってしまうが、今ならまだ国軍のもの。
去年の11月、西郷さんがこう言っていたのを、私は思い出した。
「ということは、……濃尾地震で倒壊する多聞櫓が、生で見られる、ということですか?」
「多聞櫓は知らぬが……本丸御殿に泊まるぞ」
(本丸御殿に……泊まる……?!)
「ありがたき……ありがたき幸せ!」
私は天皇に平伏した。
写真帳だけでも、もう大満足だったのだ。それなのに、生で多聞櫓と本丸御殿が見られるなんて……。
(素晴らしすぎる……転生して、転生してよかった……!)
一気に幸せの絶頂に駆け上った私の目から、思わず涙がこぼれ落ちた。
「そうか……そう言えば、そなたは城が好物なのであった」
天皇が微笑した。
「ただ、本丸御殿で眠れるようにはしておけ。そなた、大津事件の前夜、殆ど眠れていなかったらしいと山田に聞いたぞ。常に平静を保つよう、修行せよ。よいな」
「あ、はい……、承知いたしました……」
そっとため息をつきながら返答すると、天皇が、声をあげて笑った。
ようやく、女性キャラを出せましたよ……。もちろん、彼女をこれだけで終わらせるつもりはありません。
大津事件編(?)は、あと閑話1話で終わりの予定です。よろしくお付き合いのほどをお願いします。




