約束
「梨花」
不意に天皇に前世の名を呼ばれ、私は顔を上げた。
「そなた、西南の役については、どの程度知っておる?」
「明治10年に発生した、国内で最後の、そして最大の不平士族の反乱……」
天皇が何も言わないので、肯定の意味ととらえて、私は喋り始めた。
「その頭目として担ぎ出されたのが、当時、鹿児島にいた西郷隆盛。陸路、熊本城まで攻め寄せたけれど、熊本城が落ちなくて、官軍の猛反攻に遭って敗走。鹿児島で官軍の総攻撃に遭って、西郷隆盛が自刃して、乱が終わった……ということぐらい、です」
「そうか……詳しい彼我の将官については、知っているか?」
「大山さんが官軍にいたことは知っています。あと、山田さんもいたと聞きました」
「そこまで知っておるか」
天皇は腕を組んだ。
「指揮官の山縣も、西郷の遺体を見て、泣いたと聞いた。……長州の者ですら辛かったのだ。西郷と同郷の者は、本当に辛かったであろう。黒田も、従道もそうであったが、特に大山は、西南の役が終わった後、魂が抜けたようになっていた。最後の決戦にも参加していたから、その辛さは、なおさらであっただろうな……。冗談が好きで、快活で、機転が利く男であったのが、極端に口数が少なくなった」
(そりゃあ、そうだよな……)
天皇の言葉に、私は頷くしかなかった。
大山さんと西郷さんは、とても仲がいい。その大山さんが、西郷さんの兄である西郷隆盛と仲が悪かったとは、考えにくい。
西南戦争は、ただの反乱ではなかった。今現在、国の中枢に関わる人々に、深い傷を残した戦いだったということを、私は実感した。
「あれは……西南の役の翌年のことであったか。北陸に行った折、大山と話す機会があった。確か、朕はこう言った。“即位して以来、朕を真に育てた者は西郷である。今、西郷は賊軍の汚名を着せられて、さぞ悔しかろうと思う。西郷を師とも仰いでいた朕も悔しい”」
「……!」
私は、叫びだしそうになった口を、右手で押さえた。
「“その方はかつて、西郷に育てられ、西郷を師と仰いでいたと聞いた。それならば、朕とそなたは同門だ。そなたは朕より年上で、朕より西郷に師事していた時間が長いのであるから、西郷亡き今、西郷の代わりに、兄弟子として、年下の朕にいろいろと教えてくれなければならぬ。朕はそなたを、西郷の身代わりとも思う”……こうであったか。とにかく、このようなことを朕は、大山に言った」
「西郷隆盛の、身代わり……」
「それからは、大山に生気が戻った。寡黙なのは変わらなかったが、己に与えられた勤めを果たし、軍の発展に貢献した。それで、よかったと思っていたのだが」
「何と……」
山田さんは呆然としている。その両目に、涙があふれていた。
「それで……陛下は、大山さんのことを、“師に等しい”と、おっしゃったのですね。西郷隆盛は師であったから、その身代わりとしての大山さんは、陛下の師に等しい、と……」
私が確認すると、天皇は、黙って頷いた。
西南戦争の後……慕っていた西郷隆盛を、自ら討たなければならなかった大山さんは、どんな気持ちだったのだろう。戦争を全く経験したことのない私には、彼が本当に辛かったのだろうと想像は付くけれど、その絶望の深さを、完全に理解することはできない。
けれど、西郷隆盛の身代わりと思う、と天皇に言われた大山さんは、その言葉で立ち上がることができた。
大津事件の犯人に、“おのれ、西郷隆盛!”と呼ばれながらサーベルを振りかざされた時、大山さんは、どう感じたのだろう。
「爺……大山さんは、今どちらに?」
私は口を開いた。「私と入れ代わりに、東京に戻ってないでしょうね?」
「この御所の中に、いらっしゃいます。今、大山どのの代わりに、大隈どのが、若宮殿下と一緒に、ニコライ皇太子の接待をしておられまして、伊藤どのと山縣どのが、辞職を翻意するように、大山どのを説得しておられますが……」
爺が言った。
「しかし、辞意を撤回させるのは、難しいかもしれませんね……」
山田さんがため息をついた。
「山縣さんは、西南の役の掃討軍にいた。この私もです。陛下のお言葉がいただければ、あるいは、とも思いましたが、そういうご事情がおありになるということならば、おそれながら、陛下のお言葉でも、難しいやもしれません。伊藤さんが説得できなければ……」
「大山さんが、東宮武官長をやめてしまう、ということですか……」
私は立ち上がった。
「爺、大山さんの所に、案内してください」
「増宮さま?」
「大山さんに、謝りに行きます。辞められてしまう前に、せめて、大山さんに謝りたい……」
言い終えた時には、私はもう、廊下に出ていた。
爺の後について、御所の廊下を歩くと、前方から、伊藤さんと山縣さんの声が響いてきた。
「そこにいるんですね、大山さん?」
大声で呼びかけると、
「……増宮さま!」
伊藤さんが、廊下の先から飛び出してきた。
「まさか、本当にいらっしゃるとは……」
「陛下のお召しですから、参上するのは当たり前でしょう。それで、大山さんは?」
こちらです、と、伊藤さんが私の先に立って、案内してくれる。廊下の角を曲がってすぐの所にある障子を開けると、14,5畳ほどの広さの畳敷きの部屋に、大山さんと、山縣さんが、向かい合わせに正座していた。
「増宮さま……」
山縣さんが、呆然としている。
軍服姿の大山さんは、黙って私に一礼した。
「大山さんと、二人にしてください」
「は……承知しました」
山縣さんが立ちあがって、障子を閉めると、私は山縣さんの座っていた位置に座った。
「増宮さま……上座に、座っていただけないでしょうか……」
大山さんが、困惑した表情で、違い棚のある方を指し示した。そちらは、一段床が高くなっている。
「いいえ、ここでいいです」
私は首を横に振った。
「私は、あなたに詫びに来たのですから」
「詫び、ですか?」
「はい」
私は頷いた。
「犯人の名前を聞いて、ようやく思い出しました。犯人の名前は、津田三蔵だったと。それさえ……それさえ思い出していれば、犯人をあらかじめ捕まえておけて、大山さんに、こんな辛い思いをさせないで済んだのに」
すると、
「増宮さま。そのようなことをおっしゃいますな」
大山さんが言った。
「増宮さまが犯人の名を思い出せぬは……それは、天命でありましょう。それに、御身を傷付けてまで、記憶を取り戻そうとした増宮さまを止めたのは、俺でございます。増宮さまの責任ではございません」
大山さんは、静かに微笑した。
「それに、増宮さまの知識のおかげで、“史実”にない、早い治外法権の撤廃を、我が国は獲得できたのです。大隈さんも脚を失うことなく、内閣も瓦解せずに済んでいる。すべてにおいて、そのような奇跡を望むのは、天の理に反しましょう」
そう言うと、大山さんは傍らに置いた軍刀を掴んで、私に差し出した。
「増宮さま。俺を……斬ってください」
「……は?」
「どうぞ、斬って、罰をお示しください。……増宮さまに斬られれば、本望にございます」
(はああああああ?!)
叫びださなかっただけ、上出来だと思った。
「……ちょっと待ちなさい、大山さん。あなた、本気で言っています?」
努めて平静に、私は大山さんに尋ねた。
「無論でございます。どうぞ、ご存分に、増宮さま」
軍刀を差し出したまま、大山さんは答えた。その声音は、普段と変わりなかった。
(いやいや、待てよ……元老を、内親王が手打ちにするなんて……)
“史実”に、そんなことは絶対に無かった。あったら、教科書に取り上げられる大事件だ。
そもそも、私の前世は医者だ。それに、今だって、医者になりたいのに……。
「あの……大山さん、大兄さまが足を打撲された、という事実から、大山さんが私に斬られたい、と思うに至った経過が、申し訳ないけれど、私にはわからないんです。その……私、中身は平民だし、あなたたちと育った時代が違うし……感覚があなたたちとすごくずれているから、……よければ、詳しく聞かせてほしいのだけれど……」
大山さんは無言だった。
私は、大きくため息をついた。
「しょうがない。では、私なりに、推測したことを言いましょうか。……大山さん、犯人に、“西郷隆盛”と言われて、動揺というか……衝撃を受けたのですか?」
大山さんが、身を固くしたような気がした。
「反論しなければ、肯定したと理解します。大山さんは、西郷隆盛さんに育てられたも同然だったと、陛下に聞きました。そして、西南戦争の後、大山さんに陛下が、“西郷の身代わりと思う”と、声を掛けられたことも。それから大山さんは……西郷隆盛、そのものを目指して生きていたのではないですか?」
「増宮さま……!」
大山さんが、絞り出すように言った。
「止めたければ、反論しなさい。……そう思っていたからこそ、犯人に“西郷隆盛”と呼ばれた時、大山さんは動揺した。自分の目標が、成就したと思ったのかもしれない。ここで、西郷隆盛として、斬られるべきだ、とも思ったのかもしれません」
大山さんは辛そうだった。けれど、私は構わず、推論を述べた。
「だから、そのまま、動けなかったのでしょう?それで、犯人を止めに入った大兄さまが、ケガをしてしまったから、あなたは……」
「お許しください……それ以上は、もう……」
大山さんの両肩が震えていた。彼は、銀色の鞘に納められた軍刀を、再び私に乱暴に差し出した。
「どうか……この大山を、斬っていただきたい……」
「何を言っているの!」
「斬っていただきたい……!」
大山さんは私に近づくと、無理やり、軍刀を私に押し付けた。畳に落ちそうになった軍刀を、私は慌ててすくい上げた。両手に、ずしり、と重みが伝わる。
「申し訳ありませんが、反論はさせませぬ」
大山さんが言った。
「今や、俺の生殺与奪の権は、増宮さまにある」
「?!」
私は眼を瞠った。
「お覚悟なさいませ、増宮さま。どうぞご存分に、この大山をお斬りなさい」
正座した大山さんは、平生の大山さんに戻っていた。
顔には、微笑をたたえている。
軍刀を持つ私の手の震えは、止まらなかった。
(こんなの……)
いくら、時代時代で考え方が違うからと言っても、私と大山さんの育った環境が違うからと言っても、……こんなこと、絶対納得できない。
「ふ……ふざけるのも、いい加減にして!」
私はありったけの声を、大山さんにぶつけた。
「増宮さま……?」
大山さんが、不思議そうな顔をした。
「大山さん……忘れましたか?」
私は、感情があふれ出そうになるのを必死に抑えながら、大山さんに言った。
「私の前世は、医者ですよ?そして、去年の夏、伊香保で言った、今生でも医者になりたいという思いは変わりません。……医者が、人を傷付けるために、剣を振るえると思いますか?」
「……!」
大山さんが、目を見開いた。
「まして、この国にも、陛下にも、皇太子殿下にも、私にも必要なあなたを、どうして殺せると言うの?」
私は、軍刀を畳の上に静かに置いた。
「いくら……いくらあなたの生殺与奪の権が、私にあると言っても、この刀は、私には要りません。これは、あなたが、陛下と皇太子殿下のために振るうべきものです」
私は背筋を伸ばして、大山さんに向き直った。
「大山さん、あなたが私を傷付けまいと大切にしてくれるように、私もあなたが大切です。だから、もう二度と、簡単に死のうとしないで欲しい。私の側を去らないと、約束して欲しい」
「!」
「そして、この私の側で、天皇陛下と皇太子殿下のために、あなたなりのやり方で、あなたに与えられた職責を全うすると、約束して欲しい。お願いです!」
私は、大山さんに向かって、頭を下げた。
天皇のように、“西郷隆盛の身代わりと思う”などとは言えない。
弁舌に巧みでもないから、説得することもできない。
私に出来るのは、誠心誠意、お願いすることぐらいだ。
「増宮さま、……お顔を上げて下さい」
大山さんが言った。「主君たるもの、そう簡単に、臣下に頭を下げてはいけません」
「主君とか臣下とか、本で読んだことしかないし、中身が平民だからよくわからないけれど、あなたの、……あなたの辞意を撤回させるためなら、何だってします!」
私はなおも頭を下げ続けた。
「そこまで、おっしゃっていただけますか……」
大山さんが小さく呟いた。
「ご存じないならば、教えて差し上げます。……増宮さま、刀を」
「?」
「刀を、お持ちいただけますか」
「え……あ、はい」
私は軍刀を掴んだ。
(まさか、また“斬れ”なんて言わないよね……?)
訝しんでいると、
「上座にお座りになって、もう一度、この大山に命じていただけますか?側を去ることは許さぬと……陛下と皇太子殿下に仕えよ、と」
大山さんはこう言った。
「は、はあ……」
大山さんに言われるまま、私は上座に移動した。右手に、大山さんの軍刀を掴んだままだ。
「ええと……」
私は困惑していた。
(命じるって、一体どうやって?)
誰かに何かを命じようと思って、言葉を発したことがほとんどない。花松さんや侍従さんに何か頼むにも、必ず最後には「お願いします」と付け加えるようにしている。まあ、昨年夏の伊香保では、無茶苦茶な命令を出してしまったけれど、あの時は逆上して理性を失っていたから、ノーカウントにさせてほしい。
(戦国時代っぽく、すればいいのかなあ?)
戦国時代を扱った時代小説なら、前世で何冊も読んだことがある。それに出てくる姫君のように、言葉を発したらよいのだろうか。
(でも、一人称が“わらわ”じゃ、この明治時代でも古めかしいよね……それに、二人称が“あなた”なんて現代っぽいから、陛下みたいに“そなた”って言う方がいいのかな?“側”は“傍ら”で、“約束してほしい”は、ええと……)
ちょっと悩んで、私は口を開いた。
「大山……、そなたがこの梨花を大切に思うてくれるように、この梨花も、そなたを大切に思う。それゆえ、我が側から、去ることは許さぬ。我が傍らで、そなたなりのやり方で、陛下と皇太子殿下に仕え、おのれの職責を全うせよ。そして、死のうなどとは、二度と考えるな。この梨花に誓え。よいな」
精いっぱい、威厳がある姫君のように喋ってみる。そして、右手の軍刀を突き出すと、大山さんが、両手で捧げ持つように、それを受け取った。
「……かしこまりました。この大山、梨花さまのために、天皇陛下と、皇太子殿下のために、職責を全う致します。そして、簡単に、死のうなどとは考えぬと……梨花さまに、お誓い申し上げます」
大山さんは、そう言って、深く頭を下げた。
「では……、ニコライ皇太子の、接伴の役目に、戻るのですね?」
「はい、梨花さま」
大山さんが、微笑した。とても、晴れやかな笑顔だった。
「ああ、よかった!」
私は、大きく息を吐いて、正座した脚を崩した。
「うにゃあ……無理だよ、姫君っぽくなんて……。大山さん、ごめんなさい、呼び捨てにしてしまって……」
「確かに、少し言葉遣いが、古めかしいような気もいたします」
大山さんがクスっと笑った。「しかし、この大山のことは、呼び捨てにしていただいて結構ですよ、梨花さま」
「無理です無理です。さっき、呼び捨てにしてしまったのは、喋り方に慣れてないから発生した事故なので……お願いですから、どうか殺気を向けないでください」
私は、慌てて大山さんに頭を下げた。
「ご主君に殺気を向けるなど、どうしてできましょうや」
大山さんが不思議そうに言う。「それに梨花さま、先ほども申し上げましたが、主君たるものが、臣下にそう簡単に頭を下げては……」
(いや、前から、殺気を時々向けられていた気がするんだけどなあ……?)
私は内心ツッコミを入れたかったのだけれど、大山さんにまた殺気を向けられそうな気がしたので、やめておくことにした。
「さて……、一緒に行きますか、大山さん」
ため息をつきながら、私は立ちあがった。
「行くとは、どちらへ?」
「ニコライ皇太子のところです。大兄さまも、そこにいるんでしょう?私が京都に来た名目は、大兄さまのお見舞いですから、大兄さまに会わないと、格好がつきません。……連れて行って、くださいますか?」
私は右手を、大山さんに差し出した。
「御意に、梨花さま」
大山さんは、私の右手を、優しく握った。




