下僕
1906(明治39)年5月21日月曜日正午、青山御殿の食堂。
「あら、最後のデザートまで食べ終わったのに、死にそうな顔色が全然変わらないわね。章子、生きてる?」
私の右隣の椅子に座って、私をあきれたような目で見ながら冷めた口調で確認したのは、忍で血圧の研究に従事しているエリーゼ・シュナイダーことヴェーラ・ニコライエヴナ・フィグネルだ。私とは、大津事件以来の腐れ縁である。
すると、
「フィ……じゃない、シュナイダーさん……」
私の向かいに座った今日の昼食会の主賓、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフさん……“史実”では“レーニン”と呼ばれる男性が、慌ててヴェーラを止めにかかった。
「何よ、どうしたの、下僕?」
相変わらずの冷たい声で尋ねるヴェーラに、
「流石に、内親王殿下にその口のきき方はまずいでしょう!」
ウリヤノフさんは強張った表情でツッコミを入れる。しかし、ヴェーラに一睨みされると、ウリヤノフさんは叩きつけようとしていた言葉を飲み込んでしまった。
「ウリヤノフさん、いいですよ、抗議してくれなくても。だって、エリーゼって、いつも私にこんな口調で話してるじゃないですか」
青い糸で大きな花が刺繍してある空色の通常礼装を着た私は、唇を引き結んでいるウリヤノフさんを、苦笑しながらなだめた。
「私が注意しても、どうせエリーゼの口調は直りません。だから、私はあきらめてます」
そこまで言うと、自然にあくびが出てしまい、私は慌てて右手で口を覆った。デザートと一緒に、濃い目のコーヒーを出してもらったけれど、どうしても眠気が消えない。
「増宮さまは、今朝まで国軍病院で勤務されていらっしゃったんですよね。主人から伺いました」
ヴェーラの前でニッコリ微笑むのは、葡萄色の通常礼装をまとった大山さんの奥様・捨松さんである。
「はい、結構な大仕事になってしまったんですが、少し、うまく行かなくて……食事中ですから、詳細は差し控えますけれど」
実は、日付が今日に変わるころ、近衛師団の兵舎から、築地の国軍病院に虫垂炎の患者が運び込まれたのだ。熱も高く、腹膜炎の症状も出ていたので、待機番だった上官を呼び出し、手術に持ち込んだのは良かったのだけれど……。
――殿下、術者をやって御覧なさい。
呼び出した上官に、突然そう言われてしまった。面食らった私は、咄嗟に反応することが出来なかった。
今まで、虫垂炎の手術には何十回となく参加している。それも、術者を直接手伝う第1助手としてだ。けれど、術者はやったことが無かった。
(術者は初めて……そこまで出来るだけの力があるか、わからない……だけど、第1助手は何度もやってる。手術の手順は、頭の中に入ってる。いける……の?)
――……あ、あのっ!
術者をやります、と上官に返答しようとした時、
――いや、まだダメですね。
上官が首を横に振った。急な展開に、両目を見開いた私に向かって、
――殿下に迷いがお有りでした。
上官は厳しい声で話し始めた。
――ご自分が術者をなさる技量を持っているかどうか、逡巡なさるご様子が感じ取れました。
私は反論できず、うつむいた。まったくもって、上官の言う通りだったからだ。
――殿下、このような時は、例え初めてのことであっても、“やれる”と自信を持って即答できるようにならなければなりません。即答できるだけの知識を持ち、修練を重ね、自信を深めておかなければなりません。そうでなければ患者の命、殿下のメスに任せる訳にはまいりませんぞ!
――っ!
――殿下、術者をおやりになるつもりで、私の第1助手に入ってください。
――……はいっ!
(そうだ……私、第1助手をやっている時、その視点が足りなかった……)
上官に返事をしながら、私は今までの行いを反省していた。
第1助手の役目は、術者がストレスを感じることなく手術を進められるように、全力でサポートすること。そのためには、常に術者の動きの先を読んで動かなければならない。けれど、私は今まで、術者の動きは見ていたけれど、術者の視点で術野を見ていなかった。術者をやりたいのなら、第1助手の視点からだけではなく、術者の視点からも手術を見られるようにならなければならない。
(私の最終目標は、第1助手の役目をより良く果たすことじゃない!術者をやって、手術を成功させることだ!今まで、そんなことに気付けずにいたなんて、なんてバカなんだろう……でも、とにかく、修業あるのみ!)
心の中でリベンジを誓った私は、必死に第1助手の業務を果たしたのだけれど……。
「大方、仕事がうまく行かなかったのが悔しくて、今度は上手くやろうと思い詰めていたから、当直が終わるまで、仮眠しようと思っても全然眠れなかったんでしょ。章子の考えることなんて、単純なのよ」
未明の出来事を思い出していた私を、ヴェーラの冷たい声がバッサリと切り捨てた。
「そういうところ、章子って考え方が求道的っていうか、サムライよね。こんなサムライに惚れて戦争を起こすニコライって、本当にどうかしてるわ」
「どうなさいました、増宮さま?」
うなだれた私に、左隣に座っている大山さんがそっと声をかける。
「全く反論できなくてね……。それに、エリーゼのセリフの後半は、私も全面的に賛成だし……」
私がため息をついた瞬間、
「ウリヤノフさんは、ロシアに戻られたら、小学校を開かれると伺いましたが……」
捨松さんが隣の席のウリヤノフさんに尋ねた。
「はい、首都の近くのガッチナという街に。日本大使館の方々にもご尽力いただいて、校舎の建設や職員の募集をしている最中です」
ウリヤノフさんが、非常に流ちょうな日本語で答える。
実は、今日、ヴェーラたちが青山御殿にやって来たのは、ロシアに帰国することになったウリヤノフさんを送別する昼食会を、私の主催で開いたからだ。招待客は主賓のウリヤノフさんとヴェーラ、そして大山さん夫妻と、こじんまりとした会である。
去年の政変で、ロシアではミハイル2世が即位し、憲法が制定され国会が召集された。名実ともに立憲君主制の国となることを目指すロシアは、教育に非常に力を入れ始めた。そのため、ロシアでは大量の教育者が必要とされている。それを知ったウリヤノフさんは、母国に戻り、教育者として母国に尽くすことにしたのだ。彼はヴェーラの“下僕”として研究の手伝いをするだけではなく、東京外国語学校でロシア語の講師として働いたり、軍人に個人的にロシア語のレッスンをしていたりして、相当な額のお金を貯めている。小学校の建設費はその貯金額で十分賄えた。もっとも、その小学校、中央情報院のロシアでの活動拠点の一つになるそうなので、院からそれなりの資金は出ているのだけれど。
「皆さまには、本当にお世話になりました」
ウリヤノフさんは昼食会に出席している一同を見回すと、私に向かって頭を下げた。
「特に、増宮殿下には、色々とお気遣いをいただき、ありがとうございました」
「ああ、大したことはしてないですよ」
一応謙遜してみせながら、
(そりゃあ、色々気を遣うに決まってるだろ、レーニン!)
私は“史実”での彼の名前を、心の中でウリヤノフさんに叩きつけた。彼が危険な思想を持たないかどうか、本当に心配だったのだ。“史実”でレーニンは、ロシア帝国を滅ぼし、正教の聖職者たちや“反革命”とみなされた人物を次々と逮捕して、裁判もなしに処刑した。彼なりに言い分はあるのかもしれないけれど、私に言わせれば、単なる虐殺以外の何物でもない。ただ、この時の流れでは、ヴェーラに数えきれないほど折檻されたせいか、ウリヤノフさんは、危険思想を持たないごく真面目な教師になった。
(これで本当に、危険な思想が広まらないかはわからないけれど、出来ることをやっていくしかないのよね……)
「ウリヤノフさん、お元気で。ロシアに戻っても、今までと同じように、教育の道に尽くしてくださいね」
こう言ってニッコリ笑うと、ウリヤノフさんは、
「はい、ありがとうございます。増宮殿下のお言葉を胸に、ロシアの教育のために尽くします」
と力強く答えてくれた。
「ガッチナに行っても、たまには私に手紙をよこすのよ」
私の右で、ヴェーラがつまらなそうな口調で言った。「そうしたら、散々にこき下ろした返事を書いてあげる。その手紙を書くのと、章子をイジめるのが、今の私の楽しみなんだから」
ヴェーラはロシアには戻らない。ロシアでまだ大した罪を犯していなかったウリヤノフさんは、堂々とロシアの土を踏めるけれど、皇帝暗殺犯の一人で、しかも収監されていた監獄から脱走したヴェーラは、ロシアに戻れば重罪人として官憲に追われる身だ。それだけの重罪は、ロシアの政治体制が変わっても、流石に消えはしない。もちろん、身分証明書を中央情報院の手で偽造してロシアに戻ることも出来るけれど、彼女はそれを選択しなかった。
(寂しくないのかな……)
故郷から離れ、誰も知っている人がいない異国に暮らす。そして、一生故郷に戻らないというのは……。
と、
「ちょっと章子、なに辛気臭い顔をしてるのよ」
ヴェーラが私をにらみつけた。「私はこの国で生きて、この国に骨を埋めるって決めたのよ。イジメ相手に、“かわいそう”って同情される覚えはないわ」
「いや、別に“かわいそう”なんて思ってないですけど……」
私の反論を聞かずに、ヴェーラは椅子から立ち上がり、
「ほら、さっさとコーヒーを飲み切ってしまいなさいな、章子。そうしたら医科研に案内してもらうわよ。新しい下僕を譲ってもらうんだから」
そう言うと、食堂から出て行ってしまった。
「全くもう、しょうがないなぁ……」
私は慌ててコーヒーを飲み干すと、
「大山さん、何とかエリーゼを応接間で引き留めておくから、馬車の準備をお願いね」
と言いながら、ヴェーラの後を追った。
午後1時。
用事があるので先に帰宅するという捨松さんと別れ、私は大山さん、ヴェーラ、ウリヤノフさんと馬車に乗り、麴町区富士見町にある医科学研究所に向かった。ウリヤノフさんが帰国するので、“自分の血圧の研究を手伝ってくれる新しい助手を、医科研の研究者から一人紹介してほしい”と、ヴェーラが先日大山さんを通じて私に頼んできたからである。さっきのセリフから考えると、ヴェーラはその助手をこき使う気満々だろうし、その助手がヴェーラの扱いに耐えかねて脱走するかもしれない。
(だから、ある程度相性が合っている人の方がいいよね……)
そう思ったので、こちらで勝手に助手をあてがうのではなく、ヴェーラと助手候補者に直接会ってもらい、相性が合っているかを判断した上で助手を決めることにした。ちなみに、今回の訪問は微行扱いにしてもらったので、私たちを出迎える職員はいなかった。
「で、これが、医科研に所属している研究者と学生の名前と、研究している課題を一覧にしたものです」
医科研の玄関を入った私は、手に持っていた数枚の紙をヴェーラに渡した。私からひったくるようにして紙を受け取ったヴェーラは、内容にざっと目を通すと、
「人が増えたわねぇ……」
感慨深げにつぶやいた。
「この名前は清の人ね。これは、シャムの人かしら。留学してくる人が多くなったのね」
「インドやフィリピン出身の人もいますよ。新イスラエルの学生からも“留学できるか”という問い合わせがありました。それに、アメリカやヨーロッパの研究者が、実験企画を持ち込むこともあります。医科研の名声が、世界的に上がって来たからですね。だからこそ、研究の質は保たないといけないんですけれど……」
医科研の総裁として、現況をヴェーラに説明しながら廊下を歩いていると、前の方からドタドタと足音が響いてきた。
「じょ……女性の濃厚な気配がする……あっ、宮さま!」
「げっ」
やって来た人影を見て、私は思わず足を止めた。あの特徴のあるボサボサ頭は、誰が何と言おうと、“史実”で1000円札の肖像画に選ばれ、この時の流れでも既に数々の研究成果を上げている、野口英世さん、その人である。
「ん?あの人、写真で見たことがあるような……」
首を傾げたヴェーラに、
「そりゃそうですよ。あれ、野口英世さんですから」
私は吐き捨てるように答えた。
「あの人が!蛇毒の血清の研究を完成させて、百日咳菌を発見した、新進気鋭の医学者って有名な……って、章子、何ですごく嫌そうな顔をしてるの?」
「管理が大変なんですよ、あの人……」
私とヴェーラが話している間にも、野口さんは吸い寄せられるように私に近づいてくる。
「ああー、相変わらず、宮さまは天女さまみたいに奇麗だぁ……それに、宮さまの隣の女の人も、年増だけどすごく美人だぁ。今日はなんていい日なんだろう……宮さ……ぶべしっ!」
顔じゅうの筋肉をだらしなく緩めて、両腕を大きく上げて私に抱き付こうとした野口さんの腹部に、私は回し蹴りを叩きこんだ。もちろん、周りに壊れたらまずいものがないのは確認済みだ。蹴りを食らった野口さんは、その場に崩れ落ちた。
「くう、やっぱり通常礼装だと動きにくいわね」
眉をしかめた私に、「増宮さま」と大山さんの呆れた声が投げられた。
「俺という護衛がおりますのに、ご自身で手を下されるとは……このような時には、淑女は護衛に不届き者の始末を任せるものですよ」
「いやー、今の位置からだと、あなたより私が攻撃する方が早そうだったし……」
私はそう言って、大山さんに誤魔化し笑いを向ける。どうも、大山さんの口から“始末”という言葉が出ると、命のやり取りが行われてしまいそうで怖くなるのだ。ただ、流石にそれは口に出しては言えないので、ずっと笑顔のままでいると、
「ふっふっふ……愛の鞭ですね、宮さま!野口英世、この程度でへこたれはしません!」
野口さんが何事も無かったかのように立ち上がった。
「なんでレベルアップしてるのよ、野口さんは……」
「“レベルアップ”とは聞いたことがない言葉ですが、とにかく増宮さま、ここは俺にお任せを……」
一歩退いた私の前に、大山さんが身体を滑り込ませようとした瞬間、
「へぇ、章子の蹴りを耐えるなんて、結構頑丈じゃない」
ヴェーラが左手で野口さんの襟首をつかんだ。
「へうっ?!」
予想していなかったのだろう。野口さんがバランスを崩し、前に倒れ掛かった。
「気に入ったわ。ねぇ、章子。こいつ、私の下僕にしていい?」
「心情的にはどうぞ、って言いたいんですけど……」
私はため息をつきながら答えた。「野口さんには今、百日咳菌のワクチンの研究をしてもらっているんです。だから、エリーゼが今までやって来た血圧のこととは、ちょっと分野が違うっていうか……」
「ああ、別に問題ないわよ、章子。私、この下僕の研究に乗り換えても構わないし」
「み、宮さま、この大人な雰囲気の外国の美人さんは、一体どなたなのでしょうか?もしかして、一緒に遊んでもい……へぶっ!」
非常にいやらしい笑みを顔に浮かべた野口さんの腹に、ヴェーラの右こぶしが容赦なく打ち込まれた。
「生意気な口を叩くんじゃないわよ、下僕のくせに」
ヴェーラの両眼の端は、悪鬼のように吊り上がっている。小さいころ、彼女に首を締め上げられて殺されかけた時のことを思い出して、私は背筋が寒くなった。
「野口先生、この方は、エリーゼ・シュナイダーさんと言って、東京帝国大学の三浦先生の血圧の研究を長年手伝っていた医学者です。降圧薬の臨床試験にも携わっておられましたよ」
動けないでいる私に代わって、大山さんがヴェーラを偽名で野口さんに紹介した。
「へぇ、そうなんですか。じゃあ、エリーゼさんは宮さまと同じように……あひゃっ?!」
今度は野口さんの左頬に、ヴェーラの右手が閃く。平手打ちされた野口さんは、同時に掴まれていた襟首を放されてしまい、前のめりに床に倒れた。
「下僕の分際で、気安く名前を呼ばないでちょうだい」
「ひゃ、ひゃい」
「ほら、さっさと立って、私をあなたの研究室に案内なさい、下僕」
「ひゃ、ひゃい、ご主人さま」
野口さんはよろよろと立ち上がると、「では、ご案内いたします」とヴェーラに恭しく一礼する。そして、先に立って、ヴェーラの案内をするべく歩き始めた。……なんだかちょっと嬉しそうなのは、気のせいだろうか。
「う、ウリヤノフさん、彼女っていつもあんな感じなんですか?」
野口さんの後ろを歩き始めたヴェーラに聞かれないように、ウリヤノフさんに小声で尋ねると、
「いえ、あれはまだいい方です」
ウリヤノフさんは静かに首を横に振った。「もっと機嫌が悪いと、首を絞められたり蹴り飛ばされたり……流石に他の誰かがいると、手や足は出ませんし、手や足が出る相手も、シュナイダーさんが気に入った相手だけです。あれも、あの人なりの愛情表現だと、わかっているつもりなんですが……」
(いや、それ、愛情表現で説明できる範囲を超えてる)
私は心の中でウリヤノフさんにツッコミを入れた。
「しかし、野口先生、あの攻撃を受けて立ち上がれるとは、なかなかの素質がありますね。あの様子なら、あの人を任せても……」
(どんな素質だよ)
野口さんのあの嬉しそうな顔、明らかに目覚めてはいけない何かに目覚めている気がする。……多分、これ以上考えない方がいい。
「よさそうな組み合わせではないですか」
大山さんが、野口さんとヴェーラの後姿を見ながら微笑した。
「あの2人を組ませて、百日咳菌ワクチンの開発を進めさせてはいかがでしょうか、増宮さま」
「いいかもしれないけど、三浦先生の了承も取らないといけないわね。ヴェーラの代わりの人材を、三浦先生の研究に回すかどうかも考えないといけないし……」
野口さんとヴェーラが向かった方向からは、「ほら、さっさと説明なさい、下僕!」というヴェーラの冷たい声と、「はい、喜んで!」という、野口さんのとても嬉しそうな声が聞こえてくる。もし、大山さんの言うプランが実現してしまったら、この大騒ぎがずっと続くのだろうか。それなら、他の研究者たちの迷惑になってしまうから、あの2人のために別棟を建てる方がいいかもしれない。厚生次官の若槻さんに、別棟の建築理由をそのまま告げる訳にはいかないから、どんな理由をでっち上げて建築費を獲得すればいいのか……考えるだけでも頭が痛くなった。
(頼むから、野口さんには、お札の肖像画になって欲しくないなぁ……)
もちろん、私が死んだ後の未来なんてわからない。それに、人に対する評価なんて、その時代時代で変化する。それは分かっているけれど、私は心からそう願わずにはいられなかったのだった。




