内大臣府出仕
1891(明治24)年、2月14日、土曜日。
学校が午前中で終わると、私は馬車で三条さんの家に向かった。
「具合はどう?」
三条さんの家に詰めているベルツ先生に尋ねると、
「今、熱が38度5分まで上がったところでして……」
彼はこう答えた。
「ベルツ先生、アセトアミノフェン、行きましょう。そこまで熱が上がったら三条さんも辛いですよ。体力も消耗してしまうし」
「承知しました。1回量としてはどの程度ですか?」
「300から500㎎かな。一日に、1500㎎までは投与して大丈夫。痛みを抑える目的だったら、一日4000㎎まで投与できるけれど」
ベルツ先生が、鞄の中から天秤を取り出した。手に持っているガラス瓶には、アセトアミノフェンが入っているのだろう。計測を終えたベルツ先生は、アセトアミノフェンを包んだオブラートを持って、三条さんの寝室に向かった。
「……ダメです」
数分後、ベルツ先生が、頭を振りながら戻ってきた。
「ダメって、どういうこと?」
「得体の知れない薬だから、飲みたくないと……」
「ああ、もう!」
私はいらいらして立ち上がった。「こんな時まで、外国のモノを怖がってるんじゃないわよ!ベルツ先生、オブラートを貸して!私が飲ませに行く!」
「あ、殿下、そこまでなさらなくても……」
ベルツ先生が止めるのも聞かず、私はオブラートをベルツ先生の手からひったくって、三条さんの寝室に向かった。
寝室の襖を勢いよく開けると、布団の中で寝ていた三条さんが、薄目を開けて私を見た。
「ま、増宮さま?!」
飛び起きようとする三条さんを「そのまま寝てなさい!」としかりつけ、私は枕もとに近づいた。
「三条さん、この薬、どうしても飲んでくれませんか?」
「得体が知れませぬゆえ……」
三条さんは、弱弱しく首を横に振る。
「これは、私の生きていた未来でも使われている薬です。私がお願いしても、飲んではもらえませんか?」
以前、勝先生の指示で、三条さんに泣き落としを掛けたことを思い出して、私は頭を下げ、三条さんをじっと見上げた。
こんな時に限って、涙は出てこなかったけれど、
「わ、分かりました。……飲ませていただきます!」
三条さんは私の手から、アセトアミノフェンを受け取って、湯呑に入った水で飲み込んだ。
「ふう……」
一息ついた三条さんが、激しくせき込む。明らかに、痰が絡んだ咳の音だ。
「三条さん、痰は出せている?」
「は、はい、何とか……」
「そうか……」
私は腕組みした。
肺炎で怖いのは、痰が肺の組織を詰まらせてしまい、“無気肺”といって、肺が機能していない部分を作り出してしまうことだ。もし、固い痰が、太い気管支に詰まってしまったら、無気肺が大きくなってしまって、命取りになりかねない。
「ベルツ先生、せめて、部屋を加湿しましょうか」
「加湿、ですか?」
ベルツ先生が首を傾げたので、私は、無気肺の発生するメカニズムについて説明した。
「なるほど、それは、少しでもやる方がよいでしょう。しかし、どうやって?」
「加湿器なんて、この時代にはないですもんねえ……。火鉢の上に、お湯の入ったやかんを置いて、常に沸騰させておきましょうか」
少なくとも、何もしないよりはましだろう。
「ちなみに今、呼吸音が低下している場所はありますか?」
無気肺になってしまった場所では、呼吸音が聞こえづらくなる。
「右の下葉ですね。右中葉には、水泡音が聞こえます。おそらくそこが病変でしょう」
ということは、右下葉の気管支に、痰が絡まっている可能性があるということか。
「ダメもとで、痰の体位ドレナージ、してみましょうか?」
私が提案すると、
「ドレナージ……ですか?」
ベルツ先生がまた首を傾げた。
「あ、ごめんなさい、もしかしてドイツ語じゃないのか……重力を利用して、痰を出してみようかと」
すると、ベルツ先生が、「ああ、なるほど」と手を打った。
「おっしゃりたいことが分かりました。気管支の構造を利用して、重力を使いながら、絡まった痰を気管支の中枢側に動かし、排出させよう、という訳ですか。しかし殿下、それは足元に置く台や箱のようなものが、たくさん必要ですね」
「そうですね、全身状態にも気を付けないといけないから、せめて血圧も測りながらやらないと」
「な、なにをする気ですのや……」
三条さんが、怯えた目でこちらを見ている。
「大丈夫大丈夫。痰を、自力で出せるところまで動かすだけだから。三条さんは、足をものすごく高く上げて寝ていてくれればいいの」
私は優しい声で言った。できる限り、三条さんを落ち着かせなければいけない。
「はあ……寝てればええんですか。そんなら、議会の議事録でも読ませてもらいながら……」
「仕事はダメ。おとなしく寝て、水分を取って食事をして!」
私と三条さんが話している間に、ベルツ先生が三条さんの屋敷の人と話をつけてくれて、高さ20cmくらいの木箱を、いくつも準備してくれた。
「オッケー。じゃあ、木箱を2つ重ねて、その上に三条さんの足を乗っけて」
「承知しました」
ベルツ先生が三条さんの脚を、布団の上から抱えた。
「え、ちょ、ああ?!」
突然のことで騒いでいる三条さんの脚と箱の間に、座布団を差し込んで、
「だから言ったでしょ。“足をものすごく高く上げて寝てもらう”って」
私はため息をついた。
「今が未来だったら、痰の吸引をしていたところだけれど、痰は自分で出せる、と言うことだから、痰が移動してきたら、頑張って出してくださいね。あと15分ぐらいこのままで、それが終わったら、今度はこの姿勢のまま、うつぶせになってもらいますよ」
本当は、痰の吸引もできればいいのだけれど、前世のような吸引器なんて、もちろんない。
「じゃあ、血圧を測るから。胸苦しくなったり、頭が痛くなったりしたら言ってくださいね」
私は血圧計の空気袋を三条さんの腕に巻き付けた。お正月の時は、血圧計から逃げていた三条さんだけれど、今日は熱があるからか、おとなしくしている。
血圧計のゴム球を握り締め、空気袋に空気を送り込もうとした時、
「殿下」
とベルツ先生が声を掛けた。
「どうしたの?」
「吸引というのは、一体どのように……」
「機械で真空状態を作り出して、その力で、のどにたまった痰や唾液を吸い込むのだけれど……」
私が答えると、
「つまり、実験で使うピペットで、液体を吸い上げるような原理を使う、ということですね?」
ベルツ先生が更に言った。
「まあ……未来では、もっと大規模な仕掛けになるけれど」
すると、
「作れますね」
ベルツ先生が微笑した。
「へ?」
「血圧計用の、その大きなゴム球。その先に、ゴムの細いカテーテルを接続すれば、簡易的な吸引器になりませんか?」
ベルツ先生の言葉に、
「ああっ!」
私はゴム球を取り落した。
(確かにそうだ……)
前世で、実家に帰った時だ。“災害対策のために、電気を使わない吸引器を診療所に備えておくかどうか”で父親が悩んでいて、私や兄たちに意見を求めたことがあった。その時に父親が見せてくれた吸引器のカタログに、確かに“手に収まるサイズのゴム球を押しつぶして、その力で痰を吸い上げる”というものがあった。
「ベルツ先生、すごい……それだったら、この時代でも作れます!」
興奮した私は、ベルツ先生の手を握った。
「今日帰ったら早速作ってみます。材料はそろっているので、明日にでも持ってこられるでしょう」
「お願いします!」
力強く頷いたベルツ先生の頬は、紅潮していた。
そのまま、医学談議に花を咲かせそうになった私たちの上に、
「あのー……わし、あとどのくらい、このままでいたらええんやろ」
三条さんの声がのんびりと響いて、私は慌てて、三条さんの血圧測定に戻った。
2月15日、日曜日。
「昨日より、調子ええですわ」
布団の上に身を起こした三条さんは、見舞いという名目で診察に来た私に微笑した。
「本当に?」
「熱はまだありますけど、息をするのは楽ですねえ」
「まだ、油断は禁物ですよ」
ベルツ先生が言った。「呼吸音の低下はありませんが、右中葉の水泡音は、昨日と変わっていません」
「そうね、……で、ベルツ先生、吸引器は出来たのかしら?」
私が尋ねると、「こちらです」と、ベルツ先生が吸引器を見せてくれた。血圧計用のゴム球と、その先に接続された、細いゴム製のカテーテル。カテーテルの先端を、自分の耳元に近づけ、ゴム球を押しつぶして放すと、空気が強く吸い込まれる音がした。
「ないよりは、ましね」
マスクの下で、私は微笑した。
「食事は出来ているわよね?水分を取って、しっかり休んでください、三条さん」
「ありがとうございます」
ひとまずは小康状態、ということで、ベルツ先生と方針を確認し合って、すぐに三条さんのお屋敷から出た。
16日の月曜日も、学校帰りに馬車に乗って、三条さんのお屋敷に向かった。
「酷い目に遭いましたわ……」
私の姿を見るなり、三条さんはため息をついた。
「どうしたの?」
「痰が出せんから、言うて、ベルツ先生が痰を吸引してくれたんですけどね」
そう言って、三条さんは、傍らにいるベルツ先生を恨めしそうに眺めた。
「痛かったのなんのって……びっくりしましたわ」
「しかし、痰は取れましたな」
ベルツ先生の言葉に、「せやけど、痛かったわあ……」と三条さんはつぶやいて、またため息をついた。
「ごめんなさい、三条さん。私もきちんと説明しておけばよかったです。でも、痰が気管に詰まってしまうと、呼吸ができなくなってしまうから大変なのよ」
「うーん、増宮さまがおっしゃるなら、我慢しましょう……」
渋い顔をした三条さんに、私は「また明日来ますからね」と言って、寝室を出た。
ところが、その約束が果たせなくなってしまった。
17日の朝、毎朝の侍医の診察の時、私の熱が38.5度あったのだ。
(うわー……私がインフルエンザにかかった……)
前世のように迅速診断はできないけれど、状況証拠と症状からは、間違いなくインフルエンザだろう。マスクもしていたし、うがい、手洗いもしっかりしていたのに……。まあ、前世でも、インフルエンザの患者を診た医療従事者が、自分もインフルエンザにかかるのはよくあることなので、しょうがないといえばしょうがないのだけれど。
当然ながら、外出もせずに、自室にこもるしかない。この状態に外に出てしまったら、自分がインフルエンザウイルスをまき散らすことになる。
「花松さん、あなたと侍医以外、この部屋に絶対に近づけないで。見舞いの客が来たら全部断って。伊藤さんや大山さんはもちろんだけれど、たとえ皇太子殿下や節子さまであってもダメよ。食事も部屋で食べます。あと、花松さん、うがい手洗いはしっかりして、マスクもつけてね!」
「わかりました。鬼の霍乱ですわねえ……」
苦笑しながら頷いた花松さんに、三条さんとベルツ先生にお詫びの伝言をしてほしいことと、私用に、アセトアミノフェンを処方してほしいことをベルツ先生に伝えることを、私は更に頼んだ。
ところが、その日の昼すぎ、診察に来た侍医に、森軍医中佐がくっついて入ってきた。
「ちょっと……森先生、入っちゃだめですよ。インフルエンザがうつります」
「大丈夫です」
マスクをした森軍医中佐は、力強く断言した。「それより増宮さま、三条閣下の屋敷に滞在されているベルツ先生から、伝言を受け取ったのですが……」
無言で受け取った紙を開くと、「三条閣下が呼吸困難症状を来たした」ということが書かれていた。
(やっぱり、油断は禁物だったのか……)
私はよろよろと立ち上がると、新しい紙に「酸素の投与を、毎分2リットルから開始してほしい。解熱と排痰は試みてほしい」と書いて、森軍医中佐に渡した。
「森先生……ニワトリの方も忙しいところ、申し訳ないけれど、使いを頼まれてくれますか?もしかしたら、何往復もさせるかもしれませんが」
「もちろんです。まあ、ニワトリの方は順調ですし」
今は、白米で育てていたニワトリのエサを玄米にして、経過を見ているところだ。
「よろしくお願いします」
私は頷いた。本当は、電話でやり取りができればいいのだけれど、新しいものが嫌いな三条さんの家には、電話が引かれていない。情報をやり取りするのは、使いを立てて手紙をやり取りするのが、一番確実で速い方法だ。花松さんには、森先生の出入りだけは許していいと伝えておこう。
その後も、私の熱はなかなか下がらなかった。アセトアミノフェンを内服すると、熱は下がってくれるのだけど、半日ぐらい経つと、また上がってしまう。
本当は安静にして、寝ていなければいけないところに、森先生がベルツ先生からの伝言を持ってくる。そうすると、三条さんの状態を一生懸命推測して、ベルツ先生への返事を書かなければならない。
「増宮さま……ベルツ先生と、かように伝言をやり取りされるとは……一体?」
不思議がる森さんには、あいまいに微笑してごまかした。
そうして、森先生が私の部屋に現れる頻度が少なくなったころ、私の熱もようやく落ち着いて来たのだった。
1891(明治24)年3月7日、土曜日。
「はー、治るのに、すごい時間がかかった……」
私は自分の居間の椅子に腰かけて、ため息をついていた。
「まあ、よろしゅうございました。お元気になられて」
私のお見舞いに来てくれた爺が、にっこり微笑んだ。
インフルエンザに続いて、軽い気管支炎を併発してしまったらしく、私の熱は、なかなか下がり切らなかった。三条さんのことを、ベルツ先生とやり取りして相談していたのが、病状を悪化させてしまったらしい。3月2日の朝に、ようやく熱が平熱に戻り、3月5日から華族女学校に登校し始めた。
「まさか、増宮さままでインフルエンザにかかられるとは、思いもしませんでしたな」
大隈さんが大きな声で言う。
「まあ、わしもインフルエンザにかかってしまいましたからな」
伊藤さんが苦笑する。大隈さんや伊藤さんの他にも、私の居間には、両陛下と三条さん以外の“梨花会”のメンバーが顔を揃えていた。
「あの……ところで、三条さんは?今日はみんなで、私のお見舞いに来ると言っていたよね?」
そう言った私は、不安に襲われた。
3月5日に華族女学校に登校した帰り、三条さんの家に寄ろうと思ったら、大山さんに止められたのだ。6日も同じ状態だった。
(まさかとは思うけれど、熱を出していた時の新聞は、全然読めていなかったし、本当は、三条さんはもうこの世にいなくて、それを私に隠しているとか、そんなことはないよね?)
そう思った瞬間、
「どっこいしょ、と……」
居間の入口に、フロックコート姿の、上品な紳士が現れた。
「三条さん……」
私は立ち上がって、三条さんに駆け寄った。
「ああ、良かった!心配しました!」
抱きついた私に、
「おお、びっくりするけど、嬉しいですわぁ……生きてて良かった」
三条さんはにっこり笑って、頭を撫でてくれた。
「三条どの、お元気そうで何よりです。そろそろ、内大臣の職務に復帰されるのでしょうか?」
伊藤さんが尋ねた。三条さんが病気で出勤できない間、枢密院議長の伊藤さんが、内大臣の代理として勤務をしていたそうだけれど……。
「いや、辞めますけど?」
のんびり言った三条さんの言葉に、その場にいた全員がきょとんとして、次の瞬間、
「は?」
「何を仰せになられるか!」
騒然となった。
「そう言われてもねえ……」
三条さんは苦笑した。「わし、大事を成せるような神経は、とてもない。今までやれて来たのも、伊藤さんや黒田さん……内閣の全員と、陛下のおかげや。こんな大病もしたし、そろそろ、のんびり楽隠居させてもらおうと思って……実はもう、陛下のご内諾ももらいましたんや」
「な、なんですと……」
山縣さんが呆然としている。「では、後任の内大臣はどなたになさるのか?陛下はどのように仰せで?」
すると、
「勝どの」
三条さんが声を掛けた。
「へ?」
「勝どのに、後任の内大臣をお願いしますわ」
「ちょ……ちょっと待ってくんな、三条どの!」
三条さんの言葉に、あの勝先生が慌てていた。
「おれ、元幕臣だぜ?それが宮中入りって……公家衆が黙っちゃいないだろう?それに、内大臣って言えば、おれの旧主の最終官位だぜ。臣下のおれが、旧主の官位に並んじまうって……」
「近衛、九条、二条、一条、鷹司……五摂家の当主には、全部根回し済みや。誰も反対せえへんかったなあ。ま、それで、病み上がり早々忙しくて、増宮さまが、我が家に来ていただけるというせっかくのお申し出を、断らざるを得なかったんやけどねえ……」
「!」
勝先生が青ざめた。
「それに、勝どのの言葉は、陛下もすでに予測されていてなぁ。“ならば、内大臣ではなく、内大臣府出仕ということにせよ”と仰せや。あとは勝どのの気持ちと、“梨花会”の了承だけや」
「参ったな……予測済みかよ……」
勝先生が、頭を掻いた。
「わしは賛成ですな、勝先生」
伊藤さんが言った。その言葉に全員が頷く。
「それに、勝どのも……内大臣府にいる方が、色々やりやすいやろ?」
のんびりした三条さんの言葉に、
「そうだな……よし、おれも男だ、この命果てるまで、陛下にご奉公しようじゃねえか」
勝先生がニヤリと笑った。
すると、
「そう言うてくれると思いました。そしたら、わしはこのまま、増宮さまの輔導主任に……」
三条さんが、私の身体を抱き寄せた。
「な、そ、それはいけませんな、三条どの。まだ、体調も十分には回復されていないのでは?」
伊藤さんが血相を変える。
「さよう、俊輔の言う通り。輔導主任はこの山縣が……」
「どさくさに紛れて何を言ってるんだ、狂介!輔導主任はこの俺だ!」
山縣さんと井上さんが、なぜか争っている。
「いや、ここは吾輩じゃろ」
「大隈さん、何を言われるか。増宮さまの輔導主任は、この松方こそがふさわしい……」
「いえ、松方さんの経済の講義よりは、私が法律の講義を、輔導主任として増宮さまに……」
「山田さん、輔導主任はこの西郷じゃ。口出しするでない!」
大隈さん、松方さん、山田さん、西郷さんが口々に言う。……だからなんで、この“呪いの市松人形”に、みんな近づきたがるんだ!
「ああもう、あなたたち、いい加減にしなさいっ!!!!」
私の心からの叫びが、天井に響いて、消えた。
こうして、3月9日、三条さんは内大臣を退任し、勝先生が“内大臣府出仕”の資格で、実質的な内大臣に就任することになった。
そして、いよいよ、“大津事件”の対策が、本格化していくことになるのだけれど――それはまた、別の話である。
※「三条実美公年譜」の記述と、この時代の医学レベル(レントゲンはまだ未開発)等を勘案して、「排痰がしっかりできていて、酸素が供給できていれば、容態が変わらなかったのでは?」という結論に至り、こうなりました。
頸動脈怒張とか、肝腫大とか浮腫とか、肺水腫に見られる所見が年譜に書かれていれば、多分史実通りの結末にしていたんだと思いますが……。
可能な限り医学的に、ただしいい方に拡大解釈していますので、ご容赦のほどを。




