閑話 1905(明治38)年小満:ある少尉候補生の混乱
「畜生!10機以上いやがる!」
機銃にしがみついた攻撃員が叫んだ。
「奴ら、零戦には見向きもしないで、この機と2番機を……!」
必死に機銃を操る彼の声を聞きながら、
(待ち伏せ攻撃、か……)
俺は座席に座ったまま、目をつむってじっとしていた。そりゃあそうだ。ルーズベルトやニミッツにしてみたら、陛下よりもこの俺の方が憎いに違いない。太平洋や南シナ海を、散々に荒らしまわったこの俺の方が……。だから乱数表も必死に解読して、俺の移動の予定も掴んだのだろう。
(しかし、やはり2年はもたなかったなぁ)
開戦の前、日米で戦争が発生した場合の展望を問われて、確かこう答えた。“やれと言われれば、最初の半年1年の間は暴れてご覧に入れよう。しかし、2年3年となれば、全く確信はない”と。確かに、最初の半年は良かった。だが、ミッドウェーで“赤城”“加賀”“蒼龍”“飛龍”が、鍛え上げたパイロットたちと共に海の藻屑となってから、どうもうまく行かなくなった。その中で、何とかアメリカを講和会議のテーブルに引きずり出すような勝ち戦を……とあがいたのがこのザマだ。
「エンジンに被弾!」
機長の声と同時に、機体が更に大きく傾いた。その拍子に、俺は右の額をどこかにぶつけた。意識が急速に曇り、言葉をかき集めようにも、捕まえた単語が指の間からスルリと抜けていく。……そうか、これが、死ぬってことだな、きっと。
(陛下……みんな……もうし、わ、け……)
そこで完全に闇に飲まれた。身体も、魂も、全てが一切の無に還る……。
そのはずだった。
△△△
1905(明治38)年6月2日金曜日午前9時、佐世保港にある国軍病院の個室。
「うん、左手の傷に化膿の兆候は無いね」
白衣を着て、白いマスクをつけた軍医が、寝台に座っている患者の手に包帯を巻きながら言った。
「先ほど見た右下腿の傷も、化膿していない。状態が落ち着けば、左の大腿から植皮をすることも考えなければ」
「あの、先生」
真剣な表情で尋ねた若い男性患者の右腕には、点滴の針が刺さっている。
「俺は、もう死ぬのでしょうか?」
すると、軍医がマスクの下から、軽く笑い声を漏らした。
「どうしてそんなことを思ったんですか、高野候補生?」
「あ、いや……」
“高野候補生”と呼ばれた患者は、一瞬、恥ずかしそうに目を伏せると、「今、俺がいるのが個室なので……」と軍医に答えた。
「昔、父が病院に入院していた時は、20人、いや、30人は入るような病室に入院していました。個室に移るのは、死ぬような病状の患者だけだと聞いたことがあって……」
「ああ、なるほど」
軍医は納得したように頷いて、
「確かに、私の任官する前には、国軍病院でも30人近くの患者が同じ部屋に入れられていたようですね」
と説明を始めた。
「しかし、今から10年以上前、ノーベル賞を取られた森先生が大改革をなさったのです。細菌の急激な伝播を防ぎ、患者個人の空間を確保して、落ち着いた療養生活を送れるようにするため、病院の部屋はなるべく仕切り、各部屋には換気のため、窓をつけるように……とね。それから、士官候補生以上は病状に関わらず個室に入院することになりましたし、他の病室の定員も4名になりました」
「なるほど……」
高野候補生は頷いた。どうも、現状と合っていない。前回は……こうではなかったように思う。それに、この右腕に刺さったものは何なのか。
「それから先生、もう一つ尋ねてもよろしいでしょうか?」
「いいですよ、何でも」
軍医は心よく首を縦に振った。話好きなのか、それとも数日前の大戦果に高揚しているのか……両方かもしれない。
「この右腕の針は、一体何のために入っているのでしょうか?見たことがないものでして」
「この管ですか。これこそ、あの北里博士が発見なさったペニシリンの点滴ですよ。傷を化膿させる細菌を殺す薬を投与しているのです」
「細菌を、殺す薬……」
「確かに、病院でないとなかなか投与できない薬ですね。軍艦の薬品庫にもありますが、投与するのに使うガラスの瓶が、波浪や射撃による振動で全滅して、薬が投与できないことも多いですから」
「はぁ……」
なるほど。一応納得はした。しかし、こんな夢のような薬、今の日本にあっただろうか?
「高野候補生には、明日、病院船で横須賀に転院していただきます。重症患者がたくさんいて、治療が落ち着いた患者は他の病院に転院してもらうことになったんです。足の手術は横須賀ですることになるでしょう。横須賀の先生方にも申し送っておきますが……そうだ」
突然、説明を続けていた軍医の眼が輝いた。
(ん?)
訝し気に首を傾げる高野候補生に、
「横須賀と言えば、増宮殿下がいらっしゃいますね」
軍医は嬉しそうに言った。「確か高野候補生は、殿下と同じ“日進”に乗り組んでいましたよね。殿下と顔を合わせたことはありますか?」
「い、いえ、俺は、今年の1月に“日進”に配属されたばかりなので……」
まただ。そのお方のことが、一番よく分からない。その思いを表情に出さないよう注意しながら、高野候補生は軍医に答えた。
「ああ、そう言えばそうでしたね」
軍医は目の前の患者の態度を、特に不審にも思わなかったようだ。変わらない調子で頷いた後、
「もしかすると、今度は会うことが出来るかもしれませんね。では、夕方にまた診察に来ますよ」
そう言って、病室から去っていった。
「ふう……」
海兵少尉候補生・高野五十六は、座ったまま大きく息を吐いた。
(一体、何なんだ……)
高野少尉候補生は、昨年の8月末、広島県の江田島にある海兵士官学校を卒業した。戦時中だったので、毎回半年ほどかけて行われる卒業後の練習航海は3か月で切り上げられ、今年1月に、連合艦隊第1艦隊に所属する装甲巡洋艦“日進”に配属された。5月27日からの海戦では、竹内平太郎艦長の伝令役として最上艦橋にいた。
日没間際の午後7時前、艦橋近くの砲が爆発を起こし、左手の人差し指と中指、そして右のふくらはぎの肉を、飛来した金属片でもぎ取られた。爆発の衝撃を食らって意識が遠のいた刹那、突然、年を重ねた自分自身が殺される情景が、高野候補生の脳裏に入り込んで来たのだ。その自分は、姓を“高野”から“山本”と変え、今、東郷平八郎海兵中将が就いている連合艦隊司令長官になり、アメリカ合衆国や、日本の同盟国であるはずのイギリスと戦争をしていた。ハワイにあったアメリカ軍の基地を、飛行器――記憶の中では“飛行機”と書いていたけれど――をいくつも載せられる“空母”という軍艦を駆使して攻撃した。しかし、空母が敵の反撃で一斉に失われると、戦いの旗色は悪くなっていき、前線の視察に向かっている時に、敵の待ち伏せ攻撃を受けて戦死したのだ。
(な、何だこれは?!)
突然自分の身に起こった出来事に、高野候補生が混乱して動けないでいると、
――高野、しっかりしろ!
すぐそばにいた竹内艦長に介抱され、軍医の所に運ばれた。艦内で応急処置を受けた後、30日に“日進”が佐世保に入港すると、彼は直ちに国軍病院に搬送された。そこで、左手の人差し指と中指の切断手術と、右のふくらはぎの本格的な処置を受けたのだが、治療が一段落ついた今日になっても、高野候補生の頭は混乱し続けていた。
(入ってきたこの記憶、出だしから細かく違っている……)
そう思うのは、流れ込んだ記憶でのこの負傷の経過と、実際の負傷の経過とが異なっているからである。記憶の中では、左手の傷は細菌が入り込んだせいで手の甲まで腫れてしまい、高い熱にも苦しめられた。しかし、手術を受けた後はその気配は全くない。それはペニシリンを点滴で投与されているから、と軍医は言うが、記憶の中の自分は、そんな薬を投与されてはいなかった。第一、記憶の中の自分が死んだ約40年後にも、そんな魔法のような薬は日本になかったと思うのだが……。
と、再び病室のドアがノックされた。
「高野候補生、“日進”の竹内艦長から電報が届きました」
入ってきたのは看護兵だ。彼の手から押し頂くようにして電報用紙を受け取ると、高野候補生はカタカナの羅列に目を通した。“怪我の具合はどうか。横須賀に移ると聞いたので、横須賀にいらっしゃる増宮殿下にお前のことを頼んでおいた”というような文章が書かれているのを確認し、更に、看護兵も病室から立ち去ったのを確かめると、高野候補生は大きなため息をついた。
(増宮殿下……。この方が、一番よく分からないのだ)
増宮章子内親王。今上の第4皇女だが、姉宮たちの相次ぐ薨去により、実質的な長女である。高野候補生より1つ年上の22歳で、医術開業試験に独力で合格して医師免許を取った後、父帝の命で国軍軍医学校に入学し、現在は横須賀にある国軍病院で軍医少尉として働いている。そのはずなのだが、流れ込んだ記憶の中に、彼女の存在が全く見当たらないのだ。維新以来初の女性軍人という、非常に目立つ存在である彼女のことを覚えていないということは絶対にありえないのに、だ。他にも、10年ほど前に日本と清との間に戦争があった、とか、“義和団事件”とか“北清事変”とか呼ばれる事件が5年前に清で起こった、とか、実際には発生していない事件が、流れ込んだ記憶の中では発生したことになっている。
(よく分からん。怪我をして、脳までやられてしまったのだろうか?)
少しだけ勢いをつけて、高野候補生は寝台に寝転がった。“日進”で使っていたハンモックと違って、寝台は揺れることは無い。けれど、怪我をして、こんなに思考が揺れてしまうくらいなら、元気で“日進”に乗り続けて軍人として国のために尽くし、ハンモックに揺られて眠りにつく方が遥かに良かった。
(とにかく、療養に努めて傷を治して、元気になってまた軍艦に乗れるようになるのが先決だ。動揺してはいかんぞ、五十六!)
自分自身を叱咤すると、高野候補生は目を閉じた。もう数日も経たないうちに、彼の身に生じたことが、驚愕と共に解き明かされることになることも知らずに……。
※山本五十六さんの死因については諸説ありますが、敢えてその辺は突っ込んで検討していません。(どうあがいても外因による死亡ですので)ご了承ください。
※ペニシリン自体は実際には1928年に発見されていますが、日本で生産が試みられたのは、1943年12月に潜水艦伊8が持ち帰った医学雑誌を日本人研究者が見てから、という説を取りました。(宮本孝.敵中突破五万四〇〇〇キロ : 遣独潜水艦伊8のブレスト訪問記.社会労働研究(42)2.P1-51.法政大学社会学部学会.1995)




