皇居へ
「爺、私、もっと、別の本が読みたいです」
6月も終わりに近づいたある日。
堀河さんのお屋敷の書庫で、お屋敷の職員さんに抱かれながら、私は堀河さんにお願いした。
「別の本、と言いますと……」
爺、こと、堀河さんは、私が少しだけ目を通した、漢籍の本を何冊か抱えていた。
本当に、少しだけ目を通した、という言い方がピッタリくる。文字が一つ一つ分かれている本を探してほしい、と言ったら、堀河さんが取り出してくれたのがこれらの本なのだけれど、内容は“論語”だの“孟子”だの、要するに元の世界では“古典”に分類されるものだった。
私が欲しい情報は、こういうものではない。
「地図とか、地誌とかはないのですか?」
「地図、ですか……」
「そう、できれば、きちんとした測量に基づいて、作ってあるものがいいです。山や川の名前が書かれていれば、もっといいのだけれど……」
「そこまでのものは……さすがに我が家には無かったか、と……」
堀河さんは、腕組みして考え込んでしまった。
(しまった……)
私は内心、舌打ちした。もしかしたらこの時代、測量して地図を作る、ということをしていないのだろうか。色々な建築計画・都市計画や、治水事業なんかで、正確に測量された地図は必須だろうし、港湾整備や、軍事計画の一環で、海の深さを測定したり、海底の地形を把握したりするのは、とても重要なことなのだと思うけれど……。
(もしかして、そこまで技術が進んでないのかな……いや、“伊能図”があれば、それを見せてもらう手はあるかな?)
“伊能図”は、江戸時代に、測量に基づいて作成された地図だ。幕末に、伊能図を見せられた外国人が、その正確さに驚いた、という逸話もあったはずだ。
「少し、相談してみましょう」
と堀河さんが言って、その場は流れたのだけれど、数日たった7月の初め、
「増宮さまの、ご希望のものかどうかは、分かりませんが、地図が見られるとのことですので、これから爺と出かけましょう」
と言われて、急遽外出することになった。
この世界に来てから、初めての“お出かけ”である。
予想はしていたけれど、交通手段は馬車だった。前の世界では、全く乗ったことはない。
日本人形のような和服を着せられた私は、堀河さんの隣にちょこんと座り、流れる景色を観察していた。
すれ違う車は、ほとんどが人力車で、たまに馬車が現れる程度だ。
道行く人は、ほぼ全員が和服ベースの服装だけど、男性は、ステッキを持ったり、山高帽をかぶったりして、和洋折衷、といった感だった。
街並みは、ところどころに洋館があるが、あとは、江戸時代の街並みを残しているようで、木造の日本家屋――それも、時代劇に出てきそうな古い様式がほとんど――だった。
「ところで、私たちは、どこに行くの?図書館ですか?」
行き先を確認していなかったのを思い出して、堀河さんに聞くと、
「皇居でございます」
と答えられた。
「は?」
「ですから、皇居でございます」
堀河さんは、厳かに言った。
(ちょっと待て……)
私は、口をあんぐり開けてしまった。
皇居というのは、もちろん、天皇陛下の住まい、ということだろう。まあ、この世界では、私は内親王らしいので、天皇陛下に会う資格はあるのだろうけれど……
ちなみに、私がなぜ、堀河さんのお屋敷で日々を過ごしているのか、というと、皇室のしきたりで“里子”に出されているからだ。そのため、生まれてこの方、堀河さんが自分のお屋敷で、私を育てている、ということだった。
幼くして、両親と離れて暮らしているのだけど、私にとっては、気楽でよかった。この世界では自分の両親であるとはいえ、天皇皇后両陛下に会うなどとは、畏れ多すぎる。
(あ、でも、皇居って、江戸城の中だから……江戸城の遺構、少しは見られるかな?)
半分緊張、半分ワクワクしていると、馬車は純和風の、大きなお屋敷の前に到着した。
「あれ?お堀の中じゃないの?」
皇居と言えば、昔の江戸城の中にあるはずだ。馬車は、当然あるはずの大きい堀を、通過しなかった。
「は?」
「その……皇居は、お堀の中にあるのではないのですか?江戸城の跡に、皇居があるのでしょう?」
「増宮さま……確かに、江戸城を皇居にしておりましたが、御殿が焼けましたので、今、皇居は、赤坂のここにございます。来年になれば、新宮殿が、江戸城の跡にできまして、ご移転になりますが……」
「な、なんですって……」
堀河さんの言葉に、私は青ざめた。
「いつ?!いつ、御殿が、焼けてしまったの?!」
「明治6年ですから……今から15年前ですね」
そう言えば、江戸城は、日本最大の面積を誇った城郭なのだけれど、前世で残っている遺構は、その規模の割には少ない。しかも、その少ない遺構が、火事で焼けてしまったなんて……。
(ちきしょー!江戸城の、御殿が見られないって……そりゃないよ……)
がっかりしながら、堀河さんに抱かれて馬車を降り、屋敷の中に入る。職員と思しき人と、二言三言話すと、堀河さんは私の手を引いて、廊下を歩き始めた。
「さ、ここです」
堀河さんが私を招き入れた部屋には、棚がいくつもあり、和綴じの本がたくさん載せられていた。洋書や、新しそうな本がぎっしり詰まった本棚もある。どうやらここは書庫らしい。明らかに、堀河さんのお屋敷のそれより、蔵書は豊富だ。
「これ、全部、見ていいの?」
「もちろんです、陛下に許可は取っております」
「では、地図があるところに連れて行ってください」
「かしこまりました」
堀河さんが、とある棚の前に私を導く。よいしょ、という掛け声とともに、堀河さんが棚から下ろしたものは、大きな紙の束だった。一番上の紙面に、彩色で描かれていたのは、東京湾の海岸線と、そこに注ぎ込む川の流れ。そして、街道や宿場の位置と名前。等高線は描かれていないけれど、それ以外は、前世の地図と、ほとんど変わりはない。
「これは、“伊能図”ですか?」
「さようでございますが……増宮さまは、なぜそれをご存じなのですか?」
(未来でも有名ですから、なんて、言えないなあ)
言ったところで、信じないだろう。あいまいに微笑してごまかし、福島県の地図を探すようにお願いした。
さすがに福島県は、広かった。どの地図に目当てのものが載っているのか分からなかったけれど、内陸部の地図でようやく見つけた。猪苗代湖。そして、その脇に小さく描かれた、磐梯山。
「やっぱりあるのか……」
存在しないという、わずかな希望にかけていたけれど、磐梯山はこの世界にもあった。
「爺、この山は、噴火したことがありますか?」
「噴火、ですか?さあ」
「……とにかく、調べます。地理の本を探してください。私は低い所にある本を探しますから、爺は、高い所にある本を探してください」
私は部屋の入口の方に戻った。端から、順番に本を探そうと思ったのだが、襖の近くに、書庫には似つかわしくないものを見つけた。
「なんでこんなところに、サーベルが?」
壁に立てかけてあったサーベルは、持ち手も含めると、私の今の身長程度の長さはあった。私の身体は5歳児だから、大体1mあまり、だろうか。こんな間近に、サーベルを見たことなどもちろんないので、倒さないようにゆっくり横にして、抜いてみた。銀色の光を静かに放つ刀身は、まるで日本刀のよう――日本刀?
私は、サーベルの刀身の鍔元に、何か彫り物がしてあるのに気が付いた。龍が彫ってあるようにも見える。
(どこかで見た気がするけれど……)
武器の類を見たのは、この世界に来てからは初めてだ。となると、前世で?考えていると、書庫の入口が不意に開いた。
「やれやれ、刀を忘れるとはな……」
爺の声ではないな、と思って振り返ると、そこには、古めかしい軍服を着た、体格のいい、長身の男性の姿があった。見たことがある顔だ、と思って記憶を探って、愕然とした。
「天皇……陛下……?」
後の世に大帝とも称される、明治天皇、その人だった。