閑話 1905(明治38)年小満:対馬沖海戦(2)
1905(明治38)年5月29日月曜日、正午。
「ほぼ全滅、ですか……」
日本海上を佐世保に向かって航行中の“三笠”の司令長官公室。報告を聞いた秋山参謀が、ため息をつくように言った。
「にわかには信じがたいな」
右手に包帯を巻いた広瀬武夫副官も、呆然とした表情で呟いた。
27日昼間の戦闘で、バルチック艦隊は旗艦の戦艦“クニャージ・スヴォーロフ”をはじめ、“オスリャービャ”“インペラートル・アレクサンドル3世”“インペラートル・ニコライ1世”“オリョール”の5隻の戦艦、“イズムルート”“オレーク”“ジェムチェク”“アルマース”“アヴローラ”の5隻の巡洋艦を喪失した。27日の日没後から行われた駆逐隊・水雷艇隊の夜襲で、戦艦“ナヴァリン”“ボロジノ”、そして装甲海防艦の“アドミラル・ウシャーコフ”“アドミラル・セニャーヴィン”“ゲネラル・アドミラル・アプラクシン”が沈没した。特に、鈴木貫太郎中佐の率いる第3駆逐隊の戦果がすさまじく、大火災のため浮かぶ鉄塊同然の姿になっていた“ボロジノ”に止めを刺しただけではなく、“アドミラル・ウシャーコフ”“アドミラル・セニャーヴィン”の2隻を、投下した連携機雷で沈没させた。
28日の日中には、鬱陵島の東で、一緒に行動していた戦艦“シソイ・ヴェリキー”と巡洋艦“ドミトリー・ドンスコイ”を、日本の第2戦隊と清の第1戦隊が共同で撃沈した。巡洋艦“アドミラル・ナヒーモフ”“スヴェトラーナ”、そして5隻の駆逐艦が投降した。巡洋艦“ウラジーミル・モノマフ”だけはどうやらウラジオストックに逃れたようだけれど、ロシアがはるばるバルト海から送り込んだ戦艦8隻、装甲海防艦3隻、巡洋艦9隻の大艦隊はほとんど消滅してしまったのである。
もちろん、日本・清の艦隊も無傷ではない。旗艦の“三笠”では、数十名の戦死者と多数の重軽傷者を出した。また、第1戦隊の最後尾にいた“日進”では、日没直前の午後7時ごろに砲の中で砲弾が自爆する事故が起こってしまい、多数の重軽傷者が出てしまった。第2戦隊の“浅間”は舵をやられて航行不能だし、第2駆逐隊の“漣”と“迅雷”は、27日の夜襲時に衝突してしまい、お互い中破した。また、清の戦艦“建遠”も、敵砲弾が命中したため中破している。しかし、日本・清の主力艦のほとんどは、何とか海の上で健在だった。
「殿下のご予言以上の戦果だな」
島村参謀長が満足げに頷く。しかし、その言葉に、秋山参謀は違和感を覚えた。それは、海戦が始まる直前にも彼の脳裏をかすめたものだった。
(予言……本当なのか?本当に、増宮殿下が予言をなさったのか?)
と、
「長官殿」
児玉参謀本部次長が、隣に座っている東郷司令長官に声を掛けた。
「ちょいと、秋山参謀を借りてもよろしいですかな?」
「どうぞ」
司令長官が微かに頷くのを確認すると、児玉参謀本部次長は椅子から立ち上がり、秋山参謀を手招きする。不審に思いながらも、秋山参謀は小柄な参謀本部次長について行った。
「秋山、お前、揺らいでいるだろう」
参謀本部次長は、私室としてあてがわれている部屋に秋山参謀を招き入れると、扉を閉めながら言った。
「は……?」
突然投げかけられた言葉に秋山参謀が反応できないでいると、
「増宮さまのことだ」
児玉参謀本部次長は声を潜めた。「増宮さまを神のごとく崇めていたお前のことだ。増宮さまの予言が当たり過ぎて、気味が悪いと感じているのか?いや、……今まで参謀本部で囁かれてきた予言は、本当に増宮さまがなさったのかと疑っているのか?」
「!」
大声を上げそうになったのを、秋山参謀は必死にこらえた。彼の頭の中では、様々な考えが駆け巡っている。児玉参謀本部次長がじっと自分を見据えているのも、秋山参謀の考えを飛躍させていた。
(“予言”を疑うこと自体が、国軍内でやってはいけない行為なのだとしたら……国軍上層部が……いや、それよりももっと上の人間たちが、“予言”という絶対的な存在を使うことで、参謀本部を操っていたというのか?もし参謀本部次長がその一味なのだとしたら……“予言”を疑った俺は、参謀本部次長に消されてしまう、だろうな……)
「せめて、辞世を詠ませていただけませんか……」
死を覚悟した秋山参謀は、絞り出すように言った。
「あ?」
「で、ですから、俺を殺すのでしょう?その前に、辞世を詠ませていただければと思ったのですが」
あっけに取られたような表情の児玉参謀本部次長は、秋山参謀の言葉を聞いても表情を変えなかったが、やがて、
「ふ……ふ……ふはははははっ!」
座った椅子から転げ落ちそうな勢いで笑い出した。
「な、何がおかしいのですか!」
秋山参謀は椅子から立ち上がった。「これでも海兵大尉です。死ねと言われれば死ぬ覚悟はできておりますし……」
「落ち着け、秋山。多分、考えが飛躍し過ぎているぞ。俺はお前を殺そうなんて、これっぽっちも思ってない。だから落ち着いて、椅子に座ってくれ。殺されるのが不安なら、俺の軍刀と拳銃を、お前に預けてもいい」
目上の人間にここまで言われてしまっては、命令に従わざるを得ない。秋山参謀は渋々椅子に座り直した。それを確認すると、
「なぁ秋山、お前、輪廻転生とか、タイムスリップとかいう概念は知っているか?」
児玉参謀本部次長は秋山参謀に尋ねた。
「はい。聞いたことはあります」
秋山参謀が頷くと、
「実は、増宮さまには前世の記憶がある。今から約120年後の未来で生きていらしたという記憶がな」
児玉参謀本部次長はとんでもないことを言い出した。
「は?!」
目を丸くした秋山参謀に、
「本当だ。前世でも医者をなさっていたそうだ。駆け出しのころに事故死なさったということだが」
参謀本部次長は言い聞かせるように話し続けた。
「ペニシリンは知っているな?それから、結核の2剤併用療法や、ビタミン、エックス線。それに、俺がいつも測ってもらっている血圧のこと」
「ええ。医学のことは門外漢ですが、そのくらいは流石に……」
いずれも、日本が成しえた、医学上の大発見である。
すると、
「全て、増宮さまが、未来の医学の知識をこの時代に還元しようとなさって、医学者たちを集めて実現させたものだ」
児玉参謀本部次長は厳かな声で告げた。
「はい?!」
「ああ。俺も初めて増宮さまにお会いした時には驚いたぞ。あの時、増宮さまはまだ8歳だったが、ランドセルから血圧計と聴診器を取り出して、“血圧を測定してあげるわ”と言い放たれてな。俺の血圧が高いと分かったとたん、塩分制限と運動療法のことを、くどくどと説明されたよ」
「……」
秋山参謀は、黙って話を聞いていた。児玉参謀本部次長が語ることは、信じられないことばかりだ。しかし、いくら頭脳明晰であっても、8歳の子供が血圧を測り、高血圧の治療法を語ることはあり得ない。それは専門的な医療の知識が何らかの形で……前世の記憶という形でその子供に入り込んだとしなければ、説明がつかない。秋山参謀は、参謀本部次長の語っていることが真実だと悟った。
「増宮さまは前世の学生時代、小遣い稼ぎのために塾で歴史を教えていたそうだ。それで、我が国がたどる歴史についてもある程度覚えていらしてな。“予言”というのは、その増宮さまの記憶や、同じ世界に生きた記憶を持つ人間が覚えていたことを統合したものだ。ただ、日本が1945年に連合国に敗北して、だいぶ日本人の価値観や歴史観が変わったから、増宮さまのお持ちの記憶が歪んでいることも多くてな。“予言”を作り上げるのに大分苦労した。もっとも、我々があがいたおかげで、その“予言”からかけ離れていることも、今は多くなっているが」
確かに、参謀本部次長の言う通りだ。“予言”では、今から10年前の1894(明治27)年、日本と清との間に戦争が起こるとされていたが、それは当時の上層部の努力で回避されている。そして、今の時期、日本はロシアと戦ってはいたが、清は心強い味方ではなかったし、日本は大規模な陸戦を中国大陸で強いられ、多数の死者を出していたはずだ。
「だから、前世の記憶をお持ちだということを除けば、増宮さまは特別な力を持っているわけではない。欠点ももちろんおありだ。ご自身を過度に卑下する悪癖には、大山閣下が手を焼いていらっしゃるし、ご自身に向けられている好意に余りにも鈍感で……ああ、話していて、じれったくなってきた」
「はぁ……」
「だがな、秋山、俺は増宮さまが好きだよ」
戸惑う秋山参謀の前で、児玉参謀本部次長は口元を緩めた。「増宮さまは、この時代で、ご自身に出来ることを全力でやろうとなさっている。医師として、内親王としてな。だから、増宮さまが将来、やりたいと思うことを全て出来るように、実現したいと思う世界を実現できるように、この手で増宮さまを鍛えたくなるのさ。増宮さまがそれを御存じになったら、“勘弁してほしい”とおっしゃられるだろうが」
児玉参謀本部次長の顔には、今まで見たことのない、柔らかい微笑が浮かんでいる。まるで慈父のような……という言葉が、秋山参謀の脳裏に過ぎった。
「……さて、これで秋山の疑問は解けたかな?」
「はい、納得しました。もちろん、誓って他言いたしません」
秋山参謀は児玉参謀本部次長に深々と頭を下げた。
「うん、話が早くて助かる。まぁ、このくらいの口の堅さがないと、次の勤務先ではとてもやっていけないが」
「次の勤務先……俺の、ですか?」
秋山参謀が尋ねると、「うん」と児玉参謀本部次長が軽く頷いた。
「“三笠”が日本に戻ったら、広瀬と一緒に中央情報院に移ってもらうぞ。今、院はロシアに対する謀略の最後の段階に入っているから大忙しだし、これからもずっと忙しい。秋山のような優秀な人材が1人でも多く欲しいのだ。……ちなみに、青山御殿付きの宮内省職員に偽装してもらうことになるから、増宮さまが東京に戻られれば、お住まいと同じ敷地で働くことができるぞ」
「……!」
思わず背筋を伸ばした秋山参謀に、
「お前、本当に増宮さまが好きだなぁ」
児玉参謀本部次長が笑いかけた。
(閣下こそ……)
口に出しかけた言葉を、秋山参謀は慌てて飲み込む。それを見て、「お前も大概だが」と児玉参謀本部次長は小さく呟くと、
「まぁいい。お前の優秀な頭脳は、連合艦隊のためだけに使うのはもったいない。世界だ。世界のために使え。世界中の戦争を少しでもなくして、1人でも多くの人間を助けるために使え。それが増宮さまのお望みでもある。……いいか、秋山」
そう言って、ニヤリと笑った。
「はっ!」
秋山参謀は立ち上がり、児玉参謀本部次長に最敬礼した。
こうして、世界史上稀にみる大海戦となった対馬沖海戦、その勝利の立役者の一人となった秋山真之海兵大尉は、海戦終了直後に広瀬武夫少佐とともに予備役に回り、宮内省の職員として奉職することになった。そして、彼がその職位を隠れ蓑にして、世界規模の様々な謀略に手を染めたという事実は、21世紀に入ってから情報公開法に基づいて公表された機密文書によって明らかになり、近代史研究に一石を投じたのである。




