閑話 1905(明治38)年小満:対馬沖海戦(1)
1905(明治38)年5月27日土曜日、午後1時55分。
「あの、閣下」
連合艦隊旗艦“三笠”の最上艦橋。司令部参謀・秋山真之海兵大尉は、自分の隣に立つ男に声を掛けた。
「なんだ」
答えた男は小柄だった。身長は5尺……150cmほどしかない。着ている軍服の色は、海兵の指定色である紺色でも、夏服の白色でもなく、歩兵の指定色のカーキ色だ。頭に無造作に乗せられた制帽の下の瞳は、キラキラと輝いていた。
「やはり、司令塔に入られた方がよろしいのでは……」
秋山参謀の言葉に、
「断る」
カーキ色の軍服の男は即座に返した。
「せっかくの美味しいところを、俺に見逃せと言うのか?」
「そうは言っておりません」
秋山参謀は、わざとしかめっ面を作った。「しかし、閣下はご持病をお持ちです。血圧が上がってしまっては……」
「さっき軍医長に血圧を測ってもらったら、上が120の、下が68で、“正常の範囲内”と太鼓判をもらったぞ」
「そうだとしても、閣下の身に万が一の事が起これば、参謀本部も中央情報院も混乱しましょう。是非とも司令塔に入っていただかなければ……」
「参謀本部も中央情報院も、俺一人が抜けたからと言って影響が出るようなヤワな組織ではない」
カーキ色の軍服を着た児玉源太郎参謀本部次長は、秋山参謀にこう答えると、ニヤッと笑った。その時、
「分隊長、“こうこくのこうはい、このいっせんにあり”とは、一体どういう意味でありましょうか!」
下の甲板から、水兵が問う大声が聞こえた。つい先ほど、“三笠”には国際信号旗のZ旗――連合艦隊の信号簿で“皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ”という文が割り当てられた――が掲げられた。その旗が意味する文章が各艦に伝わり、そして各艦に取り付けられた伝声管や、艦内を走り回る伝令によって、総員に伝えられたのだが、文章の意味が取れない者もいたようだ。
すると、
「この戦に勝てなければ、増宮さまが、ニコライにさらわれてしまうということだ!」
児玉参謀本部次長が、甲板に向かって怒鳴った。
「だから、全員で力を合わせて頑張れ!」
上から降ってきた大声に、質問をした水兵はすぐには対応できなかったらしい。数瞬の間を置いて、
「はっ!」
水兵の慌てた声が聞こえ、
「この戦に勝てねぇと、増宮殿下がロシアにさらわれるぞーっ!」
彼はこう大声で叫びながら、艦橋近くから去っていった。
「児玉閣下……」
秋山参謀が眉をしかめた瞬間、
「まぁまぁ、秋山君。そんなにカリカリしなくてもいいじゃないか」
2人のやり取りを横で聞いていた、連合艦隊参謀長の島村速雄大佐がなだめた。その隣には、連合艦隊司令長官の東郷平八郎海兵中将が静かに立っている。幕僚たちは児玉参謀本部次長だけではなく、東郷司令長官にも司令塔に入るように勧めたけれど、彼は即座に断った。仕方ないので、島村参謀長と秋山参謀だけが司令長官のそばにいることにしたのだが、なぜか児玉参謀本部次長も、最上艦橋に残ってしまったのである。
「児玉閣下も覚悟の上だろう。それならば、邪魔するのはかえって野暮というものだよ」
直接の上官にこう言われてしまっては、流石の秋山参謀も口を閉じざるを得ない。ムスッとした秋山参謀に、
「という訳で、一つお目こぼしを頼むよ、秋山大尉」
児玉参謀本部次長は愛嬌のある笑顔を向けた。
フィリピンと台湾の間を、西から東に向かって通過したバルチック艦隊は、5月21日、台湾の東沿岸で漁をしていた清の漁船に目撃された。そしてその後、どうやら宮古島と沖縄本島の間にある宮古海峡を通過したらしい。25日の朝に、本国からついてきた輸送船5隻を、“上海に向かえ”と命じてから分離したけれど、これを数時間後に清の沿岸警備隊が捕まえ、経路が明らかになった。
輸送船の乗員は、今後艦隊がどのルートを通るかはロジェストヴェンスキー司令長官から聞かされていなかった。しかし、彼らが艦隊から分かれたのは、今後予想される艦隊決戦に、輸送船が足手まといになるからだというのは、簡単に想像がついた。そしてそれは、バルチック艦隊は、目的地に到着するまで輸送船からの補給を必要としない、ということも意味している。つまり、バルチック艦隊が、ウラジオストックまでは、遠回りとなる津軽海峡や宗谷海峡を通るルートではなく、対馬海峡を通るルートで進軍するということが確定したのだ。26日の正午から、済州島で待機していた戦艦“定遠”と“鎮遠”、巡洋艦“海天”“海圻”からなる清の第2戦隊、“千歳”“高砂”“秋津洲”“千代田”の4隻の巡洋艦からなる日本の第4戦隊、そして日本・清の合計102隻の哨戒艇が、碁盤の目のように仕切られた対馬海峡のそれぞれの担当海域を哨戒した。
5月27日午前2時、清の哨戒艇が不審な灯火を発見し、艦隊全体に無線で注意を促した。その打電を受けて、近くにいた日本の特務艦“信濃丸”が、大胆にも怪しい灯火に近づき、それがバルチック艦隊の病院船のものであることを確認した。そして、午前4時10分、“信濃丸”は全艦隊に向け、“敵艦見ゆ”と打電したのである。
「おー、見えてきた、見えてきた!」
午後2時過ぎ。最上艦橋に立つ児玉参謀本部次長が、嬉しそうな声を上げた。ほぼ南に、バルチック艦隊の艦列が見えたのだ。戦艦8隻、装甲海防艦3隻、巡洋艦9隻と数は多いのだが、バルト海から続いた整備もままならぬ長い長い航海は、バルチック艦隊の船足を遅め、士気を低下させていた。
バルチック艦隊の西側の離れたところには、“信濃丸”の打電を受け、ある程度の距離を保ちながらバルチック艦隊に接触を続けていた清の第2戦隊、そして日本の第5戦隊と第6戦隊が見える。一方、“三笠”に引き続いているのは第1戦隊の戦艦5隻、そして第2戦隊の巡洋艦6隻である。その北方には、“安遠”“建遠”“寧遠”の新鋭戦艦3隻からなる清の第1戦隊が、そしてその東には、山口県の油谷湾から出撃した日本の第3戦隊が、第1・第2戦隊の手から逃れ出たバルチック艦隊の艦艇に痛打を与えようと、手ぐすね引いて待っていた。どの船もきちんと整備を受け、訓練を積み、士気も旺盛である。
(油断さえしなければ、まず、五分五分には持ち込めるだろうが……)
ふうっと大きく息を吐いた秋山参謀の耳に、
「ふふふ、増宮さまの予言の通りだな。あの予言より、バルチック艦隊は更に痛めつけられているようだが」
児玉参謀本部次長の嬉しそうな声が届いた。
「それは閣下が、散々悪戯をなさったおかげでしょう」
島村参謀長が穏やかに指摘すると、
「本当は、ここまで来る途中で、バルチック艦隊全てを海の藻屑にしたかったのだがな。ロジェストヴェンスキーも悪運の強い奴だ。だが、敵の現れた位置、会敵の時刻は、ほぼ増宮さまの予言通り。後は慢心せず人事を尽くせば、予言以上の勝利となるだろう」
児玉参謀本部次長は頷きながらそれに答えた。
(増宮殿下の予言……)
――秋山大尉、私にそんな力はありません!
秋山参謀の脳裏には、昨年の7月初めの光景が蘇っていた。
今上の実質的な長女・増宮内親王殿下は“天眼”をお持ちである……国軍が合同した直後から、参謀本部で囁かれていた噂である。磐梯山の噴火など、いくつかの天変地異を予言したとされる彼女が予見した未来では、日本は、今から40年後に、国中が焦土と化す敗北を喫してしまうという。それを回避するために、参謀本部では様々な研究を行っていると秋山参謀は聞かされていたし、それを信じて疑っていなかった。
ところが、昨年の7月、自在丸事件発生の急報が入り、軍医学校の実習を連合艦隊で行っていた増宮内親王は、“自分に予言の力などない”と噂を真っ向から否定したのだ。謙遜してそう言っているのではないかとも思ったが、あの時流れた彼女の涙は、その発言が真実であることを物語っていた。
(ご本人が“天眼”をお持ちではないと否定された……。しかしそうなると、予言の数々は、一体どこから出てきたのだ?児玉閣下は、殿下のお言葉についてご存知ないのだろうか?)
秋山参謀が思考を深めようとした矢先、
「では、そろそろでしょうか」
島村参謀長がゆったりした口調で言った。
「ふふふ、敵の頭を押さえる、か。ということは……」
児玉参謀本部次長が呟くように言った瞬間、東郷司令長官の右手がスッと高く挙げられた。白い手袋に包まれた右手は、円を描くように左へと倒される。まるで、仕舞の所作のような動きが終わるやいなや、
「艦長、取り舵いっぱいだ!」
操舵室に繋がる伝声管に向かい、島村参謀長が叫んだ。
1905(明治38)年5月27日、午後2時5分。
かつて増宮内親王が予言したとされるほぼ同じ時間、同じ場所で、後世“東郷ターン”と呼ばれることになる急激な左回頭が始まったのである。
その後の展開は、ほぼ一方的だった。
最初の十数分こそ、連合艦隊の先頭を行く“三笠”には、バルチック艦隊の砲弾が何度か命中した。特に、午後2時20分ごろに命中したものは、わずかな隙間から、司令塔内に大量の金属片となって入り込み、東郷司令長官の命令に従って司令塔内に入っていた広瀬武夫副官の右手を傷つけた。
しかし、砲弾の命中率は、日本・清の連合軍が、バルチック艦隊より圧倒的に上だった。
――日本艦隊の射撃の命中率は、ロシア艦隊のそれを遥かに上回っていた。普段の訓練の積み重ねと、そして高揚した士気が、驚異的な命中率をもたらした。“プリンセス・マスノミヤを守れ”という言葉が士官たちから発せられると、水兵たちは雄たけびを上げながら砲台に取りつき、砲弾を素早くセットし、砲弾をロシアの船に命中させた。この場にはいない一人の美しく高貴な女性が、日本艦隊に異様な力をもたらしていた。
第1戦隊の4番艦・“朝日”に観戦武官として乗艦していたイギリスの海軍士官・ウィリアム・ペケナム大佐は、後に“対馬沖海戦”と呼ばれることになったこの戦いについて、こう書き残した。……ともかく、日本艦隊の砲撃命中率は、バルチック艦隊のそれを凌駕していた。
第2戦艦隊の先頭にいた“オスリャービャ”は、海戦開始15分ほどで火災を起こし、船体が傾いて砲撃を止めてしまった。バルチック艦隊の旗艦、第1戦艦隊先頭の“クニャージ・スヴォーロフ”も、日本艦隊の集中砲火を浴び、午後2時50分ごろ、火災を起こしながら急に右に曲がった。
「あれは……!」
“三笠”の最上艦橋で叫んだのは、児玉参謀本部次長だった。「奴ら、第2艦隊の後ろをかすめて、北方に逃げるつもりか?!」
すると、
「いや、舵の故障でしょう」
島村参謀長が、静かに首を横に振った。
「東朝鮮湾の海戦で、“ペレスヴェート”が舵を壊して戦闘を離脱した時の動きとそっくりです。“クニャージ・スヴォーロフ”は発砲していません。既に戦闘能力を失っています。ですから、後続の戦艦列の頭を押さえ続け、まだ健在な艦の戦闘力を奪う方が大事です。それに、我々が“クニャージ・スヴォーロフ”を逃しても、第3戦隊と清の第1戦隊が襲い掛かるでしょう」
「なるほど。流石は俺の師匠」
児玉参謀本部次長が頻りに頷く。その前方で、東郷司令長官も微かに頷いていた。
日本の第1戦隊・第2戦隊は、ひたすらバルチック艦隊の進路を扼し続けた。大火災を起こしていた“オスリャービャ”が沈むと、“クニャージ・スヴォーロフ”に代わって先頭になった“インペラートル・アレクサンドル3世”も日本艦隊の猛攻撃を受けて沈没した。午後3時半ごろには、戦艦“ボロジノ”“オリョール”も大火災に包まれ、攻撃力を喪失している。この状況を見て、何とか沈没艦を出さずに踏みとどまっていた巡洋艦隊は、戦艦隊に付いて行くのをやめ、急な転舵を繰り返して第2艦隊の後方をかすめ、北方への遁走を図ろうとした。
ところが、彼らの前に、丁汝昌提督が率いる清の第1戦隊が立ちはだかった。清の第1戦隊は、日本艦隊の攻撃をかわして逃走しようとする艦を葬ることに主眼を置き、主戦場の北側で、獲物が来るのを待ち構えていたのである。
丁汝昌提督の艦隊指揮は巧みで、逃走しようとする敵艦の進路を確実に塞いでいく。普段ならば、戦艦を振り切れる速度を出せる巡洋艦群だったが、リバウを出航してから、まともな整備を受けられていないために全速力を出すことが出来なかった。清自慢の新鋭戦艦3隻による猛攻の前に、バルチック艦隊の巡洋艦は次々と沈没していった。
そして、日本・清の艦隊の攻撃を受け、逃げることもできず、止めも刺されない艦は、波間に漂うことになる。舵を壊して戦線離脱した旗艦“クニャージ・スヴォーロフ”もそのうちの1艦で、舵を直す作業が懸命に行われていた。
そこに現れたのは、日本の第3戦隊である。“笠置”“吉野”“対馬”“明石”の4隻の巡洋艦から構成されたこの戦隊は、孤立した敵艦を各個撃破する役目を命じられていた。傷さえなければその火砲で敵巡洋艦を追い払える戦艦“クニャージ・スヴォーロフ”も、この瞬間にはただの獲物でしかなかった。
巡洋艦4隻の集中砲火と、“笠置”“吉野”から近距離で発射された魚雷の威力に、“クニャージ・スヴォーロフ”は耐えられなかった。午後4時32分、ロジェストヴェンスキー司令長官を乗せたまま、“クニャージ・スヴォーロフ”は日本海の水底へと沈んでいったのである。
※“海天”“海圻”は実際の海天級防護巡洋艦を想定しています。
※気になる方もいらっしゃるかもしれないので、一応、作者の中で想定していた連合艦隊の陣容を挙げておきます。
●第1艦隊
第1戦隊:三笠(旗艦)・八島・富士・朝日・春日・日進・龍田(通報艦)
第3戦隊:笠置(旗艦)・吉野・対馬・明石
第1駆逐隊:吹雪(旗艦)・霰・有明・曙
第2駆逐隊:東雲(旗艦)・霞・漣・迅雷
●第2艦隊
第2戦隊:出雲(旗艦)・吾妻・八雲・磐手・浅間・常盤・千早(通報艦)
第4戦隊:千歳(旗艦)・高砂・秋津洲・千代田
第3駆逐隊:朝霧(旗艦)・村雨・朝潮・白雲
第4駆逐隊:陽炎(旗艦)・叢雲・夕霧・不知火
●第3艦隊
第5戦隊:厳島(旗艦)・橋立・松島・浪速・高千穂・須磨
第6戦隊:扶桑(旗艦)・海門・磐城・鳥海・愛宕・筑紫・摩耶・宇治
注)連合艦隊司令部は第1艦隊・第1戦隊司令部を、第2艦隊司令部は第2戦隊司令部を、第3艦隊司令部は第5戦隊司令部を兼ねる。
……戦艦2隻が消えた影響を考慮して、開戦時の第6戦隊が消滅し、第7戦隊が第6戦隊にスライドした形です。あと、駆逐艦は中・大破組から何隻か復活させましたが、実際より駆逐隊が1隊少ないです。
ちなみに、清の方は戦隊それぞれに4艦からなる駆逐隊が1隊ずつついている設定です。




