葉山の生活
1905(明治38)年2月20日月曜日、午前9時。
「ま、増宮殿下、当直勤務が終わった後ですのに、お元気ですね」
横須賀にある国軍病院。その玄関を出た時、私を馬車で迎えに来た東條さんが、緊張した表情で私に話しかけた。
「あ、分かります?」
私は東條さんに微笑みを向けると、紺色の軍用外套の前をしっかり合わせた。寒いと思ったら、雪が舞っている。けれど、私の心は高揚して、とてもポカポカしていた。なぜなら……。
「昨日、いや、12時を回っていたから今日ですね。虫垂炎の緊急手術があったんです。その手術で、私、第1助手をやらせてもらえたんです!」
去年の11月にこの横須賀の国軍病院に赴任してから、3か月半が経った。その間、患者の診察に手術にと、色々な経験を積ませてもらっている。そして、月に2回の当直番だった昨晩、この横須賀港にある海兵の宿舎から、腹痛の患者が国軍病院に運び込まれてきた。圧痛のある部位は右下腹部……虫垂炎の可能性が高かった。腹膜に炎症がある所見もあったし、39度の熱も出ていたので、夜中だったけれど虫垂炎の手術が出来る上官を呼び出して、彼と協議の上、緊急手術をした。もちろん、執刀医は上官だったけれど、他に助手が出来る医者がいなかったので、私が第1助手を務めたのである。
第1助手は、執刀医が手術しやすいように、常に先読みをしてサポートしなければならない。執刀医がメスが欲しいと思えば、思った瞬間にメスを差し出し、視野をもっと広げて欲しいと思えば、その思いが言葉になる前に筋鈎を引っ張って視野を確保する。今までやらせてもらっていた第2助手とは役割が全然違うので、頭も身体も疲れたけれど、何とか上官をサポートすることができた。
「虫垂炎の手術の第1助手は初めてでしたけれど、“なかなか筋がいい”って上官も褒めてくださって。今まで虫垂炎の手術に2、30件は第2助手で参加させてもらいましたからね。手術の手順と局所の解剖を、しっかり頭に叩き込んだ甲斐がありました!」
私が目を輝かせながら両こぶしを握り締めると、
「か、解剖ですか……」
東條さんが一瞬身を震わせた。
「やはり、血は流れるのですよね……」
「まぁ、いくら出血しないように気を付けて手術していても、多少は」
血が流れるのが怖いのか、と東條さんに尋ねようとして、私は口にしようとした言葉を飲み込んだ。東條さんの顔は青ざめている。グロテスクな光景を連想させる言葉をこれ以上耳に入れると、東條さんは倒れてしまうかもしれない。
(うん、たぶん私の感覚が、普通の人と違っちゃったんだよな。東朝鮮湾の海戦で、妙に耐性が付いたし……)
元々、前世でも、手術には何度も立ち会わせてもらっていたので、血が流れる光景には慣れていた。東朝鮮湾の海戦の後には、多少の流血には全く動じなくなってしまった。ただ、そのこと自体にびっくりする人も多いだろうから、余り大っぴらに言えることではない。
「とりあえず、馬車に乗りましょうか。さっさと別邸に帰って休みたいですし」
私は咳ばらいをすると、目の前に停まっている馬車に乗り込んだ。
(いやぁ、素晴らしい生活だなぁ)
横須賀に勤務している私が今住んでいるのは、葉山御用邸の別邸である。去年の9月に日本に帰ってきたところ、横須賀に勤務するのが2か月後の11月になってしまったのは、御用邸別邸から横須賀までの通勤路の要所に、私を警備するための詰所を増設するためだったそうだ。私の住む青山御殿の別当である大山さんは、日本の非公式の諜報機関・中央情報院の総裁でもあるから、ずっと葉山にいる訳にはいかない。大山さんがいなくても私の身に危険が及ばないようにする仕組みを整えるために、時間が必要だったという訳だ。
中央情報院の仕事が忙しく、大山さんが葉山にやって来るのは週に1度ぐらいだ。そして、梨花会の面々も葉山まではやって来ない。東京にいたころは毎週私に議論を吹っかけにやってきた陸奥さんと原さんも、もちろん御用邸別邸には現れない。大山さんと兄にしょっちゅう会えないのは寂しいけれど、母も私と一緒に御用邸別邸にいるし、外科の技術を集中して磨くことが出来る。私の身柄を狙った戦争が起こっているというとんでもない状況の中、世間の喧騒から離れた静かな環境の中で暮らせるのはありがたい。……ただ一つのことを除いては。
(帰って少しだけ眠ったら、のんびり解剖書を読み直すか。それで、今日の手術をきちんと復習しよう。一刻も早く、虫垂炎の手術の、いや、他の手術でも執刀医が出来るようにならなくちゃ!)
決意を新たにしていると、向かいの席に座った東條さんが、また一瞬身体を震わせる。私は慌てて愛想笑いを彼に投げ、顔を見られないように、馬車の窓の外に視線を向けたのだった。
「あ、雪が止んだね、母上」
午後1時半。葉山御用邸別邸の食堂で遅い昼食をとっていた私は、食堂の窓から外を覗いて声を上げた。別邸に戻ってからも降り続けていた雪は止み、一面の雪景色の上に青空が広がっていた。
「あら、綺麗ですね」
食事をする私に付き合ってお茶を飲んでいた母が、私と同じように窓を覗く。
「雪だるまが作れそうですね、章子さん。これからどうですか?」
「母上、流石にそれは勘弁して。当直の明けの日だから、のんびりしたいの」
私は箸を置くと、軽くあくびをした。別邸に戻ってから寝間着に着替えてひと眠りしたけれど、食事が終わったら、布団の中でゴロゴロしていたい気もする。ただ、私の場合、ここで眠り過ぎてしまうと、夜に眠れなくなるので、午後は頑張って起きていなければならない。まぁ、明日も休みだから、あさっての出勤日までには、睡眠のリズムも整うだろう。
(当直が終わったらすぐに休めるっていうのは幸せだな……。東京帝大の勤務システムを、国軍でも取り入れてくれて本当に助かったな)
艦上勤務では難しいけれど、国軍病院の勤務なら、東京帝大と同じように、不規則ながらも週休3日は補償される。休みの日に、外部の病院でアルバイトをすることも可能だ。30連勤や2日連続当直が当たり前だった前世の勤務とは、比べ物にならないくらい良い労働環境である。もし、“史実”の日露戦争のように、大規模な戦闘が立て続けに発生していたら、このように平時と変わらない勤務は出来なかっただろうけれど、幸い、陸上でも海上でも、東朝鮮湾の海戦以降ほとんど戦闘がない。だから、平和な時と同じように、勤務の日はしっかり仕事に全力投球できる。
「さてと、お昼も食べ終わったから、濃い目のコーヒーを淹れてもらって、のんびりひなたぼっこしながら、虫垂炎の手術の復習をしようかな……」
椅子の上で大きく伸びをしながらこう言った時、
「宮さま!」
突然食堂に大声が響き、私は動きを止めた。千夏さんだ。
「ああ、千夏さん。どうしたんですか?」
彼女も、母や東條さんと同じように、私についてこの別邸にやって来ている。千夏さんの余りの慌てように、私が軽く眉をしかめて尋ねた時、
「増宮さん」
彼女の後ろから、思わぬ人が姿を現した。……お母様だ。
「お母様!」
私は急いで椅子から立ち上がった。「こんな寒い中を……!言っていただければ、私の方から本邸に参りましたのに!」
「よろしいのですよ。お散歩の途中で、立ち寄らせていただいただけですから」
薄い萌黄色のデイドレスを着たお母様は、私に向かってニッコリ笑った。
実は、昨年の11月の上旬……私が葉山御用邸の別邸に入ったのとほぼ同時期に、お母様はすぐ隣にある葉山御用邸の本邸に入り、そのままずっとそこで過ごしている。なぜ葉山にお母様がいるかと言うと……。
「ところで増宮さん」
お母様が、笑顔で私に問いかけた。
「先日のバレンタインに山縣どのからいただいた歌の返しは、もうなさったのですか?」
(!)
「あ、あー、その……出来ておりません」
隠そうとしても、どうせすぐにバレるし、お母様に嘘はつきたくない。私は正直に現状を告白した。
すると、
「では増宮さん、一緒に別邸のお庭を散歩しながら、歌の想を練りませんか?私も、歌を詠んでみたくて」
お母様は笑顔を崩さずにこう言った。
(そう来たか……)
「あ、はい、かしこまりました……」
雪に足を取られて危ないから、庭園に出るのは止めるべきと進言しても、前言を撤回するようなお母様ではない。私は素直にお母様のお供をして、庭に出ることにした。
実は、梨花会の面々が葉山にほとんど現れないのは、お母様のおかげなのではある。私が葉山に引っ越す直前、伊藤さんや山縣さんは「毎日でも葉山に参上する」と言い張った。そんなことをされては私が困るし、国の要職にある人が毎日葉山に出掛けてしまったら、国の大事な仕事が進まなくなる。そう言って説得したのに、伊藤さんたちは主張を曲げなかった。そこで、大山さんに相談したら、
――俺が殺気で黙らせるのと、皇后陛下に説得していただくのと、どちらがよろしいですか?
……逆にこう尋ねられてしまった。前者だと、後々禍根が残りそうだったので、後者を選んだのだけれど、お母様の説得の結果、「お母様が葉山御用邸の本邸に滞在する代わりに、梨花会の面々は葉山には来ない」という、よく分からない結論が出た。そして、お母様は、葉山御用邸の本邸に、避寒も兼ねて長期滞在しているという訳だ。
(全く、どうしてこんな結論が出ちゃったのかな。お母様の側にいられるのは嬉しいんだけどさ……)
去年の秋の出来事を思い返していると、
「まぁ、増宮さん、ご覧になって!」
1人で先を歩いていたお母様が前方を指し示した。庭園の中には、ちょっとした高台になっているところがあり、相模湾が一望できる。その海の向こうに、真っ白な山が見えた。一面雪に覆われた富士山だ。
「すごい……こんなの、初めて見ました。しかも、一面雪景色だし……」
素直な感想を口にすると、
「増宮さんの世では、葉山から富士山は見えたのかしら。大気が汚染されていたとおっしゃっていたことがありましたけれど」
お母様が微笑を含んだ声で尋ねた。
「どうなんでしょう。前世で葉山には行ったことがなかったから、分からないです。条件が良ければ東京から富士山が見えましたから、葉山なら多分大丈夫だったとは思いますけれど……」
お母様と私の周りには誰もいない。親子2人での散策だ。私は考えたままのことを正直に答えることが出来た。
「前世の私が生きていた頃まで、この景色を残すにはどうしたらいいかな。大気汚染の抑制のために、やらないといけないことがたくさんありそうだけれど、専門的な知識がある訳じゃないからなぁ……」
眉をしかめながらため息をつくと、
「増宮さん、それは産技研の皆さんにお任せすればいいでしょう?」
お母様が苦笑した。「今は、この景色を心行くまで五感で楽しみましょう」
「……はい」
どうやら、抵抗は無駄のようだ。私は目の前の景色に集中することにした。そうでないと、後で言葉が出てこないのだ。
「……いかがですか?」
5分ほど経った頃だろうか。お母様が隣に立つ私を振り返った。
「……とてもきれいです」
頭の中で言葉を探しながら、私はお母様に答えた。
「そうですね。他には、この景色を見て思うところはありますか?」
「んー……」
どうも、和歌に出来るような詩的な表現をするのは苦手だ。真っ白な富士山を睨みつけていると、
「ご安心なさって、増宮さん」
お母様が微笑んだ気配がした。
「増宮さんの言葉や表現を馬鹿にする人は誰もいません。もちろん、私も馬鹿にしません。だから、恐れずに、感じたままを言葉になさって」
「……空に雲も無くて、目に映るものは海と空以外真っ白で、空も大地も清められた、というか……」
私は苦しみながら、感じた印象を、言葉に変換していった。
実は、山縣さんに習ってはいるのだけれど、私は和歌を詠むのが本当に苦手だ。カルテや他の学術的な文章を書くのは全く苦労を感じないのだけれど、芸術的な文章を書く、特に和歌を詠む、という場面になってしまうと、とたんに筆が止まってしまうのだ。特にこの1、2年は、その傾向が強くなってしまって、山縣さんに和歌の課題を出されたら、兄や千夏さんに毎回助けを求め、時には代作をしてもらいながら、課題を山縣さんに提出していた。
今、山縣さんは葉山にはやって来ない。それなら、苦手な和歌からも解放される……と思ったら、そうではなかった。勤務が無い日にお母様に呼ばれ、御用邸の本邸にお邪魔すると、人払いをした部屋にお母様が座っていて、隣の席に座るように言われる。机の上には、小さな花瓶に季節の花が活けてあり、窓からは本邸の整えられた庭園の様子も見える。そして、私が座ると、お母様は必ずこう言うのだ。
――ねぇ、増宮さん。一緒に歌を詠みましょう。
と……。
兄はもちろん東京にいるし、人払いがされているから、文章が得意な千夏さんに助けを求めることもできない。休みの日の度に、私は和歌に苦しめられていた。それさえなければ、葉山での生活はとても快適なのだけれど……。
「まぁ!とても素敵ですね、増宮さん」
ため息をつこうとした瞬間に、お母様が私に笑顔を向けて、私は慌ててため息を止めた。
「白は御神事でもよく使われる色です。増宮さんがこの雪景色をご覧になって、“清められた”とおっしゃったのはよく分かります」
お母様はそう言って、とても嬉しそうに頷く。「他には、どんな印象をお持ちですか?」
「あとは、そうですね、真っ白な富士山がとても神々しい感じがしますけれど……あの、本当にこんな感じ方で、私、この時代の人間としておかしくはないんでしょうか……?」
恐る恐るお母様に尋ねると、
「大丈夫ですよ、増宮さん」
お母様が私の頭を優しく撫でた。
「この時代の人間として、いいえ、人間としておかしくはありませんよ。ただ、言葉に対する感覚が、私やお上とは少し異なるだけです。和歌に関しては、“この時代の人間と違う”という思いは、増宮さんの足かせになってしまいます。ですから、無理にこの時代の言葉の感覚に似せようと思いながら歌を詠むのではなく、何も考えず、まずはありのまま感じたことを、言葉にすればよろしいのですよ。言葉は後でいくらでも直せますから」
「はい……」
私は首を縦に振った。
葉山に来てから毎回毎回、お母様にこう言われて、ようやくお母様の言わんとしていることが分かってきたような気がする。お母様は、いや、たぶん山縣さんもだけれど、私が東京で和歌を詠むときに、兄と千夏さんに助けを求めているのを察している。だから、私が和歌を詠むときに助けを求めずにはいられない理由を、根本から取り除こうとしているのだろう。私の魂はこの時代ではない所からやってきたということを、和歌を詠むことによって思い知らされたくない、という私の思いを。
「では増宮さん、別邸に戻って緑茶でも飲みながら、一緒に和歌を詠みましょうか」
ニッコリほほ笑むお母様に、私は元気よく「はい」と返事した。
※実際に第2助手をどのぐらいやったら第1助手になれるか、というのは、手術の種類や状況によってさまざまなケースがあると思われます。




