カール・アントン殿下との昼食会
1904(明治37)年10月10日月曜日、午後3時。
「大山さん、……あれは一体何かな?」
青山御殿の私の居間の入り口。乗馬の練習を終えて居間に戻って来た私は、部屋の奥を指指しながら隣にいる大山さんに尋ねた。私の指の先には、机に置かれた通常礼装がある。晴れた空のような水色の光沢のある布地の上には、白い薄い紗が上から合わせられている。紗には白い小さな花と緑色の蔓が、精巧な刺繍で表現されていた。目立つのは、スカートの左側に咲いている紅いバラの造花だ。服のサイズから考えると、私のために作られた服だというのはわかるのだけれど……。
「梨花さまの、新しい通常礼装でございますよ」
我が臣下は優しい声でそう言って微笑する。……おかしい。これは絶対おかしい。なぜなら……。
「私、“新しい通常礼装を作って”って、あなたにお願いしてないよね?」
「ええ」
私の問いに、大山さんは微笑を崩さずに頷いた。
「じゃあ何で、新しい通常礼装があるの?もう、2着もあるじゃない!」
すると、
「おそれながら、2着“しか”でございます」
大山さんは私に言い返した。「通常礼装は、お召しになる機会が多いものです。2着だけで着回してしまいますと、帽子やアクセサリーを変えても、服の色や模様を覚えられてしまいます」
「でも、年に何回も着ないわよ!来月から働くんだから、着るとしてもお正月ぐらいだし、そのお正月も、仕事をしている可能性があるのよ!」
大山さんに反論していると、
「章子さん……あら、どうなさったの?そんなに怖い顔で」
居間に現れた母が、不思議そうに私に尋ねた。
「母上!大変なの!」
私は母の着物の袖を掴んだ。「大山さんが、私の知らない間に、新しい通常礼装を勝手に作ってしまって!着る機会なんてそんなにないのに、もったいないことを……」
私の声で室内に目を動かした母は、机の上の通常礼装に目を止めると「あら」と嬉しそうな声を上げた。
「あの通常礼装、仕上がったんですね、大山さま」
「母上?!」
私は目を見開いた。「今の口ぶり、まさかとは思うけど、この通常礼装は母上が作らせたの?!」
「いいえ、皇后陛下の思し召しです」
母は静かに首を横に振った。
「へ……?」
「東朝鮮湾の海戦が我が方の勝利に終わって、章子さんが日本に帰れるという見込みが立った時に、皇后陛下が仰せになったんです。“新しい通常礼装を仕立てて差し上げましょう”と」
「はい?!」
「来週、章子さんはカール・アントン殿下との昼食会に出席されるでしょう?ご出席の皆さま方は、章子さんのご容姿だけではなく、お召し物にも注目なさいます」
「……」
「章子さんが初めて通常礼装をお召しになったのは2年前。皆さま、章子さんのその時のお召し物の色や模様を、まだ覚えていらっしゃると思います。カール・アントン殿下が、章子さんが古い洋服を着ていらっしゃるとご存知になったら、どう思われるでしょうか」
「そこは、人それぞれじゃないかなぁ。贅沢に走ってないって好意的に思う人もいるだろうし、古い服でみすぼらしいって思う人もいると思う」
「そうですね。でも、章子さん」
口を尖らせた私に、母は優しく語り続ける。
「章子さんはあまり使いたくないようですけれど、章子さんのご容姿は、章子さんにとっての、いいえ、日本にとっての武器の一つです。その威力を存分に発揮するためには、美しく着飾ることも大事です。皇后陛下はそうお考えになって、今の章子さんの魅力が最も引き立つお召し物を仕立てるようにとおっしゃったのだと思います。それにね」
母はここで一度言葉を切ると、私に微笑んだ。
「このお召し物の布は、産技研の豊田佐吉さまが、新しい自動織機を使って織ったものです。刺繍は全て日本でやったものですし、スカートに付いたバラの花の花芯には、御木本さまが養殖された真珠を使ってありまして……」
(うわぁぁ……)
私は頭を抱えた。産技研の手が加わっている通常礼装なら、私には着る以外の選択肢はない。
(い、いや、だけどそれは今じゃないんじゃ……)
何とかして、今ある通常礼装で来週の昼食会に出席する方法はないだろうか。模索する私の耳に、
「梨花おば様!」
突然、可愛らしい声が届いた。
「み、迪宮さま?!」
慌てて振り返ると、そこには水兵服を着た兄の長男・迪宮さまが、笑顔で立っている。その後ろに控えているのは、皇孫御殿の職員さんだ。どうやら、お散歩の途中で青山御殿に立ち寄ったようだけれど……。
「梨花おば様、お元気ですか?ちっとも来て下さらないから、寂しくてこちらに参りました!」
私の名前は“梨花”ではなく“章子”だと、会うたびに教えているけれど、3歳5か月になった迪宮さまは、私を“梨花”と呼ぶのをやめてくれない。「私は章子だよ」と訂正を入れてから、
「ごめんね、迪宮さま。そっちに行きたかったんだけれど、お客様がたくさん来て、行く暇がなかったんだ」
私は迪宮さまの頭を、久しぶりに心行くまで優しく撫でた。
と、
「わぁ、あそこにあるお洋服、すごく綺麗!」
室内に目を移した迪宮さまが、嬉しそうに言った。
「付いているのは、バラの花ですか?」
「ええ、そうでございますよ。迪宮さまは色々なことをご存じですね」
母が迪宮さまに答えると、
「このお洋服、梨花おば様がお召しになるの?」
迪宮さまは可愛らしくこう尋ねた。
(?!)
動揺する私に容赦なく、
「梨花おば様がこのお洋服をお召しになったところ、見たいです」
迪宮さまは無邪気にリクエストする。
(だ、ダメ……そんなキラキラした目で見ちゃ……そんなことされたら、私、私……)
「……わ、分かった!」
可愛い可愛い甥っ子のおねだりに負けた私は、顔を真っ赤にして叫んだ。
「今から着るから待っててくれるかな、迪宮さま?」
私の頼みに迪宮さまは「はい」と素直に頷いた。
「では花松どの、増宮さまの御召替えのお手伝い、よろしくお願いします」
「かしこまりました。では章子さん、こちらへ」
満面の笑みの大山さんに答えると、新しい通常礼装を持った母は、私を寝室へと導く。
(畜生……っ!)
迪宮さまが現れたタイミングが、明らかにおかしい。用意周到な我が臣下のことだ。もし私が新しい通常礼装を着るのを、母が説得しても嫌がったら、迪宮さまにダメ押しをさせようと計画していたに違いない。そうでなければ、迪宮さまが青山御殿に来るわけがないのだ。
(謀ったな、大山さん……っ!)
文句を言いたくてたまらないけれど、どうあがいてもこの新しい通常礼装を着ない選択肢が出てこないのは、私も一応理解しているつもりだ。先方に華美過ぎると思われないか心配だけれど、とにかくこの新しい通常礼装を着て、カール・アントン殿下を淑女らしくおもてなししよう。私はそう覚悟を決めたのだった。
10月17日月曜日、正午。
『ようこそいらっしゃいました、殿下。章子と申します』
新しい通常礼装を着て、アクセサリーもしっかり身につけた私は、ドイツから一昨日来日したカール・アントン殿下を皇居で出迎えていた。カール・アントン殿下は現在36歳。立派な口ひげとあごひげのおかげか、痩せた身体は実際よりも年齢を重ねているように感じられた。
『あなたが増宮殿下ですか。お噂はかねがね聞いております』
私のフランス語のあいさつに、カール・アントン殿下はドイツ語で答えた。
『あ、ドイツ語ですね。私、ドイツ語の方が得意なんです』
私はすぐに言葉をドイツ語に切り替えた。こちらの方がフランス語より楽だ。
『やはりですか。公使から、あなたがバイエルンのマリー妃殿下とドイツ語で話していたと聞きましたので、ドイツ語の方がよろしいかと思ったのですが』
この時代、ヨーロッパの上流階級で話されているのはフランス語だ。だから、外国の皇族や王族と話すときはフランス語を使うことが多い。隣でカール・アントン殿下を出迎えた兄がフランス語であいさつしていたので、私もフランス語であいさつしたのだけれど、考えてみれば、相手はドイツ人なのだから、最初からドイツ語を使う方がよかった。
『はい、ドイツ語の方が楽です。やはり、医学を勉強するなら、ドイツ語も学ばないといけませんから。お気遣いいただきありがとうございます』
私がカール・アントン殿下にニッコリほほ笑むと、
「おい、章子。一体何を話しているのだ」
隣に立っている兄が心配そうに尋ねた。今回、私は国賓を招いたお父様主催の食事会に初めて出席するけれど、今、私のそばにお目付け役はいない。そんな時に、自分が分からないドイツ語を私が話しているから、兄としては、私がボロを出していないかとても心配なのだろう。
『殿下、私がドイツ語を話していると、私が失礼なことを殿下に申し上げていないかと、兄が心配してしまうようです。私、こういう食事会の席に出るのが初めてですから』
カール・アントン殿下にドイツ語で正直に事情を打ち明けると、
『では、私が増宮殿下と秘密のお話をしたくなったら、ドイツ語で話しましょう。その他の時はフランス語で』
殿下は微笑しながらこう言った。
『よろしいですね。ではそうしましょうか』
私も殿下にニッコリほほ笑んだ。
出席者一同が挨拶を交わし終えると、昼食会になる。日本側の主な出席者は、お父様とお母様、兄と節子さま、有栖川宮威仁親王殿下と奥様の慰子妃殿下、伊藤さんと山縣さんと陸奥さん、そして私である。ただし、この他に通訳係の職員も何人か出席する。お父様とお母様の通訳を務めるのは、大山さんの奥さん・捨松さんのお姉さまでもある山川権典侍で、お母様の席の側に控えていた。
カール・アントン殿下は、とても穏やかで、理知的な人だった。そう言えば、5年前に会った皇帝の弟・ハインリヒ親王殿下も、穏やかな人だったから、皇帝の身内だから、ということで、変に身構えなくてもいいのかもしれない。……いや、彼らを通して、皇帝が妙な要求をしてくるという意味では、やはり警戒する方がいい。今回も、あのよく分からない皇帝は、軍医少尉の正装を着た私の写真を、直立したもの、椅子に座ったもの、更に馬に乗っているものと3種類のポーズで要求してきた。もちろん、大礼服を着た私の写真と、私の揮毫も添えて欲しいというリクエストもあった。まぁ、日本とドイツの親善を深めるのに役立つと信じて、やるけれど……。
(本当に役に立つんだよね?)
そんな思いを抱く私をよそに、昼食会は和やかに進んでいき、最後のデザートと飲み物がテーブルに出された。コーヒーを一口飲んで、ほっと息をついた時、
『この度は災難でしたね、殿下』
隣に座っているカール・アントン殿下がフランス語で私に話しかけた。
『この度、とおっしゃいますと……?』
『貴国とロシアとの戦争のことですよ』
私のフランス語にこう返答すると、カール・アントン殿下もコーヒーを口にした。『聞けば、ニコライは、あなたの身柄を狙って戦争を起こしたそうですね』
『本当だとしたら、困ったものですわ』
本当は罵倒したくてたまらない。けれど、私は罵倒できるほどフランス語が得意ではないし、変なことを言ったら国際問題にもなってしまうかもしれない。だから、このぐらいにしておいた。ニコライに対する文句は、外交ルートで陸奥さんにたくさん言ってもらおう。
と、
『ところで』
カール・アントン殿下がドイツ語で話し始めた。
『あなたほどの美女ともなると、国内でもたくさん縁談がおありでしょう』
『あら、秘密のお話ですね』
微笑みながら、会場を見渡してみる。宮内省の職員は、伊藤さんや山縣さんの側にいて、こちらからは遠い位置にいる。山川権典侍の専門はフランス語だし、皇族では私以外にドイツ語の分かる人間はいない。ある程度は言葉を選ばないといけないけれど、かえって気楽に話せるかもしれない。
『それが、ちっともなんですよ』
私はカール・アントン殿下に笑顔を向けた。『妹たちは、先日、皇族の少年たちとお見合いをしたんですけれど、私にはそういうお話が一切ありませんの。北白川宮の恒久殿下という方が、私と年が近くて独身ですけれど、その方、私が軍人ですから、私に怯えていらっしゃるんです』
『おやおや、それはそれは』
カール・アントン殿下が苦笑する。そんな彼に、
『でも、私、一生独身でもいいかしら、って思うんです』
私はこう言った。
『私は早く一人前の医者になって、父と兄を助けたい。それなら、色恋に費やす時間を、医学の修業に充てる方がいい。ご縁があれば恋もしますけれど……ご縁が無かったら、私、医学と結婚しようかしら』
カール・アントン殿下に、飛びっきりの営業スマイルを向けようとした瞬間、
『“幸せな恋と結婚を諦めない”』
ここにいないはずの人の声が聞こえた。……そんなバカな。今日は仕事が忙しいから、昼食会には行かないと言っていたし、私の皇居までの付き添いも、千夏さんに託していたはずなのに。
『医師免許をお取りになる時、天皇陛下と皇后陛下にこう誓われましたね、増宮さま?』
(ウソ、でしょ……)
私は恐る恐る、肩越しに後方を振り返る。私の左斜め後ろ、今まで誰もいなかったはずのその位置に、黒いフロックコートを着て立っていたのは、非常に有能で経験豊富な我が臣下、その人だった。
『おや、あなたは?』
『申し遅れました。大山巌と申します。もう15年ほど前のことになりますが、この国の陸軍大臣を務めておりました』
不審げなカール・アントン殿下の声に、大山さんは完璧なドイツ語で答える。『有能な将軍としても有名な方ですよ』と近くの席にいたドイツ公使が言い添えたこともあり、カール・アントン殿下はすぐに警戒を解き、大山さんにあいさつを返した。
『恐れながら殿下』
大山さんは真面目な表情でカール・アントン殿下に向き直った。『増宮さまは、今回の戦争に、ひどくお心を痛められました。御自ら戦場に臨まれたこともお心に負担を掛けましたが、何と言っても、ニコライが増宮さまの身柄を狙って今回の戦争を起こしたということ、そのこと自体が増宮さまのお心を深く傷つけました。前代未聞の開戦理由ですから、無理からぬことと存じます』
『その通りです。我が皇帝陛下も、今回のことではひどくお怒りでした』
大山さんの言葉に、カール・アントン殿下が深く頷く。
『しかし、戦争が終われば、増宮さまのお心も癒えるかと思います。医学だけではなく、ご自身の幸せにも眼を向けられる日がきっと来ると……そう信じております。増宮さまの外見の勇ましさに捉われず、内面のお優しさを理解されるご夫君は、必ず増宮さまの前に現れるでしょう』
大山さんのドイツ語を止めたい。何とかして、そんなことはないと否定したい。そう思うけれど、
「反論は許しませんよ、梨花さま」
大山さんは私に日本語で囁きかける。
『ですからどうぞ、増宮さまのお心が癒えるのをお待ちくださいと、皇帝陛下にお伝えいただければ幸いです』
『分かりました、大山どの』
カール・アントン殿下は満足げに答えると、今度は節子さまの方に顔を向けた。フランス語で2人が話し始めたのを確認すると、
『ちょっと、なんで大山さんがここにいるのよ!』
私は英語で大山さんを咎めた。英語なら、カール・アントン殿下にも、周りにいる兄や威仁親王殿下にも分からないだろう。
『梨花さまが心配になりまして、仕事を早めに片付けて参上したのです』
大山さんは、私の質問に見事な英語で答えると、ため息をついた。『まさかこのような晴れの席で、梨花さまがご自身を傷つけようとなさるとは、思ってもみませんでした』
『私は自分を傷つけていません。事実を述べただけです。恒久殿下が私と結婚したいなんて、天地がひっくり返ってもないでしょう。それに、維新以来の日本で初めての女性軍人である私に言い寄るような馬鹿が、この国のどこにいると思ってるの?』
すると、
『聞き捨てなりませんね』
思わぬ方向から、視線が私に突き刺さった。威仁親王殿下だ。
(は?!)
眼を見開いた私に向かって、
『意外そうな顔をされるとは心外ですね。留学時代に鍛えたこの英語、まだまだ衰えていないつもりだったのですが』
威仁親王殿下は英語で言うと、ニヤッと笑う。
『それに、また自分を傷つけるとは……。俺は兄として悲しいぞ、梨花』
気が付けば、兄まで英語でこんなことを言って、私をじっと見据えていた。
『兄上?!いつの間に英語を話せるようになったの?!』
『お前が実習に行っている間に勉強した。お前はドイツ語も英語もフランス語も話せるのに、俺はフランス語しか話せないから悔しくなってな』
私の質問に兄は英語で答えると、『ところで大山大将、どうも最近、梨花は淑女としての自覚が足りないように思うのだが』と大山さんに英語で話しかけた。
『残念ながら、仰せの通りかと思います。国軍将兵は紳士淑女たれ。軍人勅諭にも記されておりますが、凄惨な戦場をご経験なさったせいか、お心が傷付き、悪い刺激を受けてしまっているようにも見受けられまして……』
『何よ!そんなことを言うなら、一刻も早く横須賀で働かせてよ!医者としての仕事をすることこそが、私の傷付いた心を癒す唯一の方法よ!』
必死に反論してみたけれど、
『いいえ』
我が臣下はそう言って、私の身体を後ろから優しく抱きしめた。
『今の梨花さまにとって、仕事をなさることは、心の痛みを一時紛らわすための手段に過ぎません。お心の傷ときちんと向き合うこと。傷を自ら深くするのではなく、癒すこと。この2つが、梨花さまがなさるべきことでございます。……どうやら、ご教育が必要なようですね』
『か、勘弁してよ!』
振りほどこうとしても、大山さんの腕は私の身体から離れない。
『頼むぞ、大山大将。俺と節子も協力する。梨花を一人前の淑女にしなければな』
『私も、梨花会の面々とともに協力いたします。増宮さまには是非、和歌や茶道のみならず、人の心の機微も知っていただきたいですからねぇ』
兄と威仁親王殿下がじっと私を見つめている。気が付けば、少し離れた席に座っていた伊藤さんと陸奥さんが、私をニヤニヤしながら見つめている。もう逃げ場所は残されていないことを、私は悟らざるを得なかった。
……こうして、横須賀の国軍病院に赴任するまでの10日間余り、私は大山さんに“ご教育”を受ける傍ら、これまで以上に青山御殿に押し寄せた梨花会の面々により、和歌や茶道の稽古をさせられたり、惚気話や若かりし日の恋愛話を延々と聞かされたり……医学に全く触れられない日々を過ごす羽目になったのだった。




