1904(明治37)年10月の戦況
※艦隊の名称を誤認していたため、該当箇所を訂正しました。(2020年12月10日)
「待ってください!どうしてそうなるんですか、西郷さん!」
1904(明治37)年10月8日土曜日午後2時、皇居。兄と私が参加する月に1度の梨花会、その開始早々に、私は国軍大臣の西郷さんに抗議する羽目になっていた。
今日の梨花会の議題はもちろん、ロシアとの戦いのことだ。だから、総理大臣の伊藤さんか、国軍大臣の西郷さんから、戦況の説明がされると思っていた。ところが、開始直後に立ち上がった西郷さんは、「増宮さまに戦況をご説明いただきましょうかのう」と言い始めたのだ。
「私は軍医少尉に過ぎません。海兵大将でもある西郷さんより、軍事的な知識は劣ります」
「それでも、色々とご存知のはずです」
抗議した私に、西郷さんはこんなことを言って、ニコニコと笑っている。
「それは、西郷さんたちが、私が迪宮さまで癒される暇がないくらい……じゃなかった、西郷さんたちがちゃんと仕事をしているか心配になるくらい、青山御殿に入り浸ってるからでしょう」
帰京した日の梨花会で、原さんが「毎日誰かしらは青山御殿に参上する」と言っていたけれど、10月初旬も終わろうとする現在も、その状況が続いている。まず、午前中にやって来ることが多いのは、三条さんと山縣さん、松方さんと黒田さん、山田さん、西園寺さん、後藤さんと言った面々だ。主に、担当している仕事について話してくれることが多いのだけれど、三条さんの場合は書道を、山縣さんの場合は和歌を指導されながらの話になる。午後には、青山御殿の別館にたむろしている人々が、お茶目当てでやってくる。西郷さんに児玉さん、山本さんに桂さん、時には伊藤さんも加わって、戦況や世界情勢の話をしていく。土日には解放されるかと思いきや、井上さんに茶会に招かれたり、威仁親王殿下の所に舞踏を習いに行ったり、原さんと陸奥さんが私をいじめに……じゃない、私に議論を吹っかけに来たり、息をつく暇がない。おかげで、ベルツ先生たちも青山御殿に来られていないし、私も医科研どころか、隣にある皇孫御殿に行くことすらできないのだ。
(ストレス解消の手段が、縫合の練習と後藤さんとの議論ぐらいしかないって、辛すぎるでしょ……ううっ、早く横須賀で働きたい……)
この1か月ほどのことを思い返していると、
「梨花さま」
私の隣の席から、我が臣下が私に呼びかけた。
(!)
「わ、分かった!説明する!」
私が慌てて椅子から立ち上がると、
「おや、俺はまだ何も申し上げておりませんが」
大山さんは不思議そうな顔でこんなことを言う。
「いや、分かる。“これもご修業でございます”って言うんでしょ?どう言っても逃れられそうにないから、もうあきらめたの」
「察しがよろしゅうございます」
大山さんが軽く一礼する。
「僕との討論でも、そのご聡明さを是非発揮していただきたいですねぇ」
外務大臣の陸奥さんからの手厳しい言葉は無視することにして、私は軽くため息をつくと、戦況について説明を始めた。
「まず、海に関しては、制海権は日本と清が握っています。ただし、連合艦隊の“初瀬”は沈み、“敷島”も行動不能になっていますし、駆逐隊にも大きな損害が出ています。万が一、バルチック艦隊が日本近海に回航してきたときに備え、駆逐隊の再編が急務です」
「うむ」
上座にいるお父様が軽く頷く。伊藤さんや西郷さんから戦況は既に聞いて知っていると思うけれど、お父様は私の説明をきちんと聞いてくれていた。
「また、朝鮮での親ロシア勢力は、元山の陥落により一掃されました。朝鮮にいるロシアの諜報員たちも、質が悪い上に、今や清の諜報機関に踊らされています」
「清とロシア、ロシアと朝鮮の国境はどうだ?」
私の向かい側に座った兄が、適切な質問を入れてくれる。
「両所とも、兵の動きはほとんどありません。それどころか、一発の弾も発射されていない状況が続いています」
私の話し方に合わせてくれる兄に感謝しながら、私は説明を続けた。「唯一の例外は、清とロシアの国境沿いにあるシベリア鉄道です。ここは、清軍の砲撃やユダヤ人ゲリラの破壊工作で、時折破壊されています。そのため、ウラジオストックの補給は遅延しています」
「日本海の制海権を我々が握っているのも大きいですな」
開戦と同時に、東宮武官長から参謀本部次長に転任した児玉さんが得意げな表情で付け加える。実は、ロシアの極東地域……沿海州と呼ばれる領域で、ユダヤ人ゲリラが活動しているのは、この児玉さんの策だ。ロシアと清との国境地帯などで強制労働させられ、日本や清に逃亡してきたユダヤ人を、日本も清も数年前から保護している。彼らのほとんどは、日本や清、その他の国での定住を望むのだけれど、中には、ロシアに戻って、今なお苦しむユダヤ人の同胞たちを救いたいと願う者もいる。そんな人たちに、児玉さんたちは清の陸軍と協力して、ゲリラ戦術を仕込んだのだ。彼らは開戦と同時に、密かにロシア沿海州に侵入し、最も効率の良いやり方で彼らの戦いを始めたのだ。すなわち、シベリア鉄道の破壊を。
「ハバロフスクから線路をウラジオストックに伸ばそうとすれば、沿海州の大半を占める山岳地帯ではなく、清との国境を流れるウスリー川沿いの狭い土地を通る方が、工期も費用も掛けずに線路が敷設できます。しかし、立地上致し方無いとはいえ、清との国境から3kmも離れていない場所に、数百kmにわたって線路を敷設せざるを得ないとは……ロシアが気の毒になって参りました」
国軍次官から、大臣官房長兼軍務局長に降格した桂さんが、飛び切りの笑顔で言う。けれど、その笑顔には猛毒が含まれていることが明らかだ。
「それから……あの、この先は、誰かに説明を代わってもらいたいんですけれど」
私が一同を見渡しながら言うと、
「どうなさいました?」
大山さんが首を傾げた。
「ほら……ロシア陸軍の士気低下のことは、私が言うのはちょっとおかしいような気がしてね。当事者みたいなものだから」
「なるほど」
小さな声で私が言うと、大山さんは納得したように頷いた。「では斎藤さん、ロシアの陸軍のことについて説明していただけますか」
「ご心中お察し申し上げます、増宮殿下……」
大山さんの声に応じて立ち上がった斎藤さんは、私に向かって深々とお辞儀をした。
「ん?どういうことだ、参謀本部長?」
「はい、極東地域のロシア陸軍では、士気が非常に低下しています」
不審げな兄の声に、斎藤さんはこう説明すると、ため息をついた。
「それは、今回の開戦の内幕が、兵士たちに知られてしまったからです。ニコライがアレクセーエフの言に乗ってしまい、増宮殿下の身柄を得るために開戦したという事実が……。ハバロフスクにいるクロパトキン総司令官以下、内幕を知って呆れかえり、軍を極力動かさない方針を堅持しています。中央からの督戦にも、“シベリア鉄道の故障により補給がままならぬので動けない”と回答し、軍を全く動かしておりません」
「“皇帝の嫁取りに付き合っていられるか!”という訳ですか。それは確かに、増宮さまは言いづらいでしょう」
文部大臣の西園寺さんが、ニヤニヤしながら斎藤さんの説明に続ける。
「ロシア陸軍の思考回路は、とてもまともだと思います。それに、彼らのおかげで、余り血が流れていないのは、歓迎すべきだと分かっているんですけれど……」
「ふふ、日本のために諦めていただきましょう」
遠くに力なく視線を向けた私に、児玉さんが笑いかける。もちろん、開戦の内幕がロシア陸軍の兵士に知れ渡っているのは、中央情報院の仕業である。この人たちは、どこまでも世界を翻弄している。
「ええ、ドイツの皇帝のことも含めて、諦めてはいるつもりです。ポーランドの独立を支援してくれるのは、大変ありがたいんですけれど、なんでその動機が、“騎士として増宮を助けなければならない”なのかなぁ……」
私はこう答えると、またため息をついた。ちなみに、開戦直後に、ドイツの皇帝・ヴィルヘルム2世がポーランド独立を支援することを決めたのも、中央情報院の仕事だ。中央情報院のドイツ担当者が、帝国宰相・ビューローさんにわざと開戦の内幕の詳細を流し、皇帝に奏上させるように仕向けたのだそうだ。
「ビューロー宰相は、皇帝がポーランドに軍を派遣すると言ったのを押しとどめたそうですが、ドイツがポーランド独立を支援するだけでも我々にとっては十分。それだけでも、欧州のロシア陸軍を釘付けにすることができます。しかも、皇帝が同盟国のオーストリアとイタリア、更にオスマン帝国にも同様の動きを呼びかけてくれましたから、釘付けの効果が更に高まっております。弥助どんに工作を依頼する手間が省けましたなぁ」
西郷さんがのんびりと言う。ドイツと同じように、オーストリアはロシアとの国境地帯に陸軍を派遣し、大規模な“訓練”を行っている。“訓練”していた部隊が、隣国に“侵攻”を始めるのはよくある話だから、欧州方面のロシア陸軍は、ドイツとオーストリアの軍の動きに警戒しなければならない。更に、同じ動きをしているオスマン帝国の陸軍にも注意を払わないといけない。また、オーストリアとイタリアはそれぞれ、地中海で艦隊訓練を派手に行い、ロシアの地中海艦隊の動きを牽制していた。
「ですから、増宮さまには大変申し訳ございませんが、来週来日されるカール・アントン殿下のご接伴、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
「に、日本のために頑張ります、はい……」
私は顔を引きつらせながら、国軍次官の山本さんに返答した。カール・アントン殿下はドイツの皇族で、皇帝の遠縁に当たる人物だ。恐らく皇帝は、何か彼に言いつけているに違いない。
(肖像写真と揮毫はいい。コスプレ写真も、100歩譲って撮られてやる。あ、でも、胸元が強調されるような写真は、ちょっとイヤだな……)
カール・アントン殿下経由で私に伝えられるであろう皇帝のリクエストに怯えていると、
「なるほど。残る唯一の問題は、バルチック艦隊の回航ということだな」
兄が難しい顔で言った。
「その通りです」
私が反応するより早く、伊藤さんが一礼しながら返答した。
「全く、アレクセーエフの奴め、死してなお、我々を苦しめるとはな……」
山縣さんが眉をしかめて両腕を組んだ。
実は、バルト海や黒海に現在配置されているロシアの艦隊の規模は、“史実”の同時期とほぼ同じになってしまっている。これは、先日東朝鮮湾の海戦で死んだアレクセーエフのせいだった。去年太平洋艦隊の司令長官に就任するまで、奴は黒海艦隊の司令長官をしていた。その期間中、奴は軍の上層部に、黒海とバルト海の艦隊に大量の軍艦を配備するよう何度も上申していたのだ。その頃まだ実権を握っていたウィッテさんに“予算不足だ”と妨害されたものの、黒海とバルト海の艦隊に所属する軍艦の建造は、“史実”と同じペースで進んでしまった。もっとも、奴が主張していたペースで軍艦が建造されていたら、黒海艦隊とバルト海艦隊の規模が、“史実”の2倍弱に膨れ上がっていたそうなので、“史実”と同規模に抑えられただけまだマシなのだけれど。
「残念ながら、バルチック艦隊の派遣計画は着々と進んでいます。牽制するために、フィンランドで反乱を起こさせましたが、ニコライが計画を止める気配はありません」
私の隣で、大山さんが残念そうな声で付け加える。現在のフィンランドは、実質ロシアが支配している。しかし、フィンランド人たちはロシアの支配に反発していた。中央情報院はそこに目を付け、フィンランド人の民族主義者たちを支援して、ロシアの支配に対する反乱を起こさせたのだ。
「ニコライは本当に愚かですね。バルチック艦隊が無事にウラジオストックに入港できる可能性など、“史実”以上に低くなっているのに。だからと言って、妨害の手を緩める気はさらさらありませんがね」
眼の奥に鬼火をちらつかせながら、陸奥さんがニヤリと笑った。斎藤さんによれば、バルチック艦隊は、“史実”でも困難を乗り越えながら日本近海まで回航してきたらしいけれど、どうやらこの時の流れでは、“史実”よりも大変な目に遭いそうである。
(でもさぁ、この人たちなら、こんなまどろっこしいことじゃなくて、もっと効果的なことができるはずだけど……)
私がそう思った瞬間、
「おや?増宮さま、どうなさいました?」
思わぬ方角から、穏やかな声が聞こえた。三条さんだ。
「まるで、お手本を書き写していらっしゃる時みたいに、眉根に皺が寄って……なんか、難しいことを考えてらっしゃいますかねぇ?」
「……話を聞きながら、ずっと思っていたんですけれど」
完全に油断していた。政府の役職からは身を引いているけれど、流石は維新の元勲の1人、小娘の考えていることなどお見通しらしい。私は素直に、帰京してから疑問に思っていたことを、梨花会の面々に尋ねてみることにした。
「ドイツの宮廷にフィンランド……そこまで中央情報院が手を伸ばせるのなら、ロシアでニコライを退位させる、っていう策が出てきてもいいように思うんです。皇帝を退位させるってなると、ロシア国内に対する影響が大きすぎて、社会主義や共産主義がはびこる危険もあるから退位はさせない、ってことなんでしょうか?それとも、ロシアの宮廷には、中央情報院の手が及ばないということでしょうか?」
すると、
「よくお出来になりました」
隣から、暖かい手が優しく頭に乗せられた。大山さんだ。
「もちろんそれは最初から考えておりますよ、梨花さま。ロシア宮廷で無血クーデターを起こし、ニコライを退位に追い込んで、日本と清にとって無害な人物に皇帝になってもらえば、この戦争を終わらせることができます」
「ですが、神輿の準備が整っていないのですよ」
横から児玉さんが、苦笑しながら付け加えた。「その手を使うのは、ニコライがバルチック艦隊の敗北を見ながらも、あくまで己の欲望を満たそうと動く時でしょう」
「そこまで掛かりますか。我輩としては、増宮殿下を害し奉らんとする者どもの元凶たるニコライを、一刻も早く排除していただきたいのですが……」
厚生次官の後藤さんが、右こぶしを固めながら硬い表情で言う。私に医科研の状況や衛生政策のことを報告してくれる時と違い、彼の声には明らかに怒りが混じっていた。
「ロシア国内には、日本の東朝鮮湾での勝利はまぐれだと考える者たちが相当数存在します。アレクセーエフが増宮殿下に固執した結果、艦隊指揮を誤って負けたのであって、もっとまともな司令官が指揮を執っていたら、東朝鮮湾の海戦はロシアが勝利したのではないか、と考える者たちが……確かに、否定できない面はあります」
後藤さんにこう答えたのは、彼の幼馴染でもある斎藤さんだった。
「む、実、そうなのか……」
「ああ、だから、そいつらの目を覚ますために、もう一押しが必要になる。残念ながらそれは、日本に向かって回航してくるバルチック艦隊が、何らかの形で失敗すること、になるだろう。もちろん、ニコライがその前に和平交渉に応じれば、奴の退位を企てる必要もなくなるが」
「是非、ニコライには、さっさと和平交渉に応じて欲しいです。そうしたら、余計な犠牲者を出さずに済むから」
ため息をつきながら私がこう言うと、
「朕もだ」
お父様も短く言った。その威厳ある声に、自然と私の頭が下がった。もちろん、この場にいる梨花会の面々もだ。
「四海皆兄弟とも言う。……だが、ニコライがあくまで我が国と戦うと言うなら戦わねばならん。章子を守るためでもあるが、この国を守るためにな」
「はい」
お父様の言う通りだ。私を、いや、日本を不幸にする論理を唱える奴らが攻めてくるのなら、巻き込まれないように撃退しなければならないのだ。もちろん、犠牲者が少ないのに越したことはないけれど。
「備えは怠るな。しかし、和平の道も引き続き探れ。よいな」
「はっ」
兄と伊藤さん以下、出席者は一斉に、お父様に最敬礼した。




