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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第38章 1904(明治37)年白露~1904(明治37)年霜降
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閑話 1904(明治37)年大暑~処暑:公債募集

 時間は少しさかのぼる。

「昨日は大変ご苦労だったね」

 1904(明治37)年8月6日土曜日午前10時、麹町区大手町1丁目の大蔵省大臣室。松方正義大蔵大臣は、執務用の机の前に立つ高橋是清大蔵次官をねぎらった。

「いえ……閣下をはじめ、先輩がたの経験なさったことを思えば、これしきは乗り越えなければなりません」

 高橋大蔵次官はそう答えると、

「それに、昨夜は帰宅してから、蕎麦を2人前平らげましたから、今日も元気いっぱいです」

こう付け加えてニッコリ笑った。

「増宮殿下が日本に戻られたら怒られるぞ。“食べ過ぎだ”と」

「増宮殿下にお会い申し上げる前でしたら、恐らく5人前は平らげておりました」

 松方蔵相の呆れたような声に、高橋大蔵次官は真面目に回答する。その様子のおかしさに、松方蔵相は思わずクスリと笑う。しかし、その顔はすぐに厳めしいものに戻った。

「冗談はさておき、高橋くんには、外債の引受先を探しに、ニューヨークとロンドンに早速行ってもらいたい」

「承知いたしました。初回の外債募集額は600万ポンド、日本円にして約6000万円の外債募集……陸戦に日本が参加することになれば、もっと大量の金額が必要ですね」

「その通り。今回の募集がどうなるかは分からないが、斎藤くんや伊藤さんによると、“史実”の初回募集では、相当苦労をしたらしい。日本がロシアに勝つと、全く思われていなかったからだ」

 打てば響くような受け答えに、愛弟子の著しい成長ぶりを感じながら、松方蔵相は重々しく言う。

「はい、“史実”より、多少は状況がよいでしょうが、全力を尽くします」

 ふっくらした顔に並々ならぬ決意を漲らせ、高橋大蔵次官は力強く頷いた。

「うん。しかし、君が全力を尽くしてなお、引受先の募集に苦労するようであれば……」

 松方蔵相は椅子から立ち上がり、高橋大蔵次官のそばに歩み寄ると、何事かを小さな声で告げた。

「……よろしいのですか?!」

 高橋大蔵次官が、つぶらな瞳を更に真ん丸くした。「ご存知になれば、絶対にお怒りになりますよ」

「非常時だ、止むをえない。もしお怒りになったら、責任はわしが取る」

 松方蔵相は重々しく頷くと、

「それから、わしの秘書官の深井(ふかい)君を供に連れて行くとよい。彼は英語が達者だ」

と高橋大蔵次官に言った。

「はい、松方閣下がおっしゃらなければ、私からお願いしようと思っていました。彼は非常に有望ですから」

「流石だね」

 松方蔵相の真面目な表情が一瞬緩んだ。

「さて、君のいない間、有望な他の若手たちを鍛えながら、わしもお役目に励もう。行ってきたまえ、高橋くん。君の行動の全ての責任はわしが取る」

 こうして、大蔵次官・高橋是清は、秘書官1人を同行者にして、アメリカへと旅立ったのだった。


 1904(明治37)年8月26日金曜日午前8時半、アメリカ・ニューヨークにある日本総領事館。

「さて、どこから手を付けようかねぇ……」

 昨夜ニューヨークに到着した高橋是清大蔵次官は、食後のコーヒーを一口飲むとのんびりと呟いた。

「はい……」

 緊張した表情で返事をしたのは、高橋大蔵次官の随行者・深井(ふかい)英五(えいご)大蔵大臣秘書官である。

「先ほど、朝刊の何紙かに目を通しましたが、おおむね、日本と清に非常に同情的な論調でした。しかし、東朝鮮湾の海戦の結果については、“日本が勝ったのが真実だ”と言い立てている社もあれば、“それは日本によるでっち上げだ”と主張している社もあり、論が分かれていました。恐らく、詳報が入って来ないことによるものだと思いますが……」

「それから、連合艦隊がロシア太平洋艦隊に勝ったということが信じられない、ということもあるのだろうね」

 深井秘書官の言葉に、高橋大蔵次官は眉を軽くしかめながら更に指摘を加えた。「実際、私も信じられないのだ。太平洋艦隊の主力艦がほとんど行動不能になったというのが。いや、東郷司令長官なら下手なことはしないというのも分かるのだが……」

 と、2人のいる部屋のドアがノックされた。返答をするとドアが開き、そこには総領事館付きの駐在武官が立っていた。彼は総領事から、ニューヨーク滞在中の高橋大蔵次官と深井秘書官を世話するよう言いつけられていた。

「御朝食はいかがでしたか、次官閣下」

「完璧でした。ありがとうございます。お役目でなかったら、もっと食べられたのでしょうが」

 しかめていた眉は、既に元の位置に戻っている。高橋大蔵次官は駐在武官にニコニコ笑いながら答えた。

「それはよかったです」

 駐在武官は更に高橋大蔵次官に近づき、

「これを……」

と言いながら、何枚かの紙を手渡す。

 そして、

「総裁からです」

と高橋大蔵次官の耳元で、素早く囁いた。

(!)

 “総裁”。高橋大蔵次官にとって、その言葉が指し示す人物は1人しかいない。青山御殿の別当……いや、中央情報院総裁の大山巌歩兵大将である。世界各地の日本の公使館や総領事館に配置されている駐在武官は、日本の非公式の諜報機関である中央情報院の構成員になっているのだ。

「大蔵大臣閣下からの命令を受けまして、銀行家の住所などを領事館で調べてまとめたものです。もしご参考になればと思いまして持って参りました。それでは」

 高橋大蔵次官に紙を渡した駐在武官は、そう言いながら深井秘書官に微笑むと、一礼して部屋を出て行った。

「はぁ……松方閣下がここまで手を回してくださったとは」

 呆気にとられたように呟いた深井秘書官に、

「そうだね」

高橋大蔵次官は軽く頷いて、すぐに手渡された紙に目を通し始めた。もちろん、松方蔵相の要請もあったのだろうが、必要な情報がここまで揃えられているのは、中央情報院総裁の命令もあったからだろう。

「この一覧の一番上に書いてある、クーン・ローブ商会のシフという人から会ってみよう」

 やがて、高橋大蔵次官は紙から目を離すと、こう言った。

「承知いたしました。早速、連絡を取ってみましょう」

 深井秘書官が一礼する。たちまちのうちに会う約束が整い、高橋大蔵次官と深井秘書官がクーン・ローブ商会を訪れたのは翌日の午後のことだった。

「よく来てくださいました」

 クーン・ローブの頭取、現在57歳のジェイコブ・ヘンリー・シフは、日本からの客人を暖かく出迎えた。

「極東地域での戦争のことを聞き、状況が知りたくてたまらないのです。どうなっているのか、差し支えなければ教えて下さらないでしょうか?」

「我々も、開戦後すぐに日本を発ちましたので、新しい情報は何もないかもしれませんが……」

 そう前置きすると、高橋大蔵次官と深井秘書官は、話しても差し支えない事項をシフ氏に伝えた。シフ氏の質問は、日本国内での産業……特に、医科学研究所での研究の進展、日本国内での戦争の報道のされ方、そして日本の国民感情などにも及んだ。

「……ロシア軍に対する世論は硬化しています。“ユダヤ人を虐げているロシアの軍人が、更に増宮殿下まで害し奉らんとしている”という論調が圧倒的です。日本の皇太子殿下や、他の若い皇族方も激怒され、“自分が出征する”とまでおっしゃいました。一方、一般のロシア人に対する論調は穏やかです。日本政府も万が一の事態を恐れ、ロシア正教の教会などに軍を派遣し、暴徒の発生から守るために彼らを保護していますが、暴徒は全く現れていないと聞いています」

「そうですか、よくわかりました。……ところで、清とロシアの戦線については、何か聞いておられないですか?」

 高橋大蔵次官がシフ氏の質問に一通り答え終わると、シフ氏は更にこう尋ねた。その顔は真剣そのものだった。

「申し訳ありません。そちらについては余り……ただ、我々が日本を出発した時点で、清とロシアの国境地帯で戦いがあったという話は聞きませんでした。もし、清の陸軍が苦境に陥れば、我が国に出動要請があると思うのですが、その話もありません」

「なるほど」

 シフ氏は頷くと、

「ああ、ブラゴベシチェンスクの同胞たちは、どうなっているのだろう……」

そう呟いてうつむいた。

「あの……“ブラゴベシチェンスクの同胞”と言いますと?」

 ブラゴベシチェンスクは、ロシアが清との国境地帯に築き上げた要塞だ。突然出てきたその地名に高橋大蔵次官が驚いて質問すると、

「実は……私、ユダヤ人でして」

シフ氏はこう答えた。

「なるほど」

 ブラゴベシチェンスクでは、不当逮捕で流刑にされたユダヤ人たちが、要塞化工事のために強制労働させられている。過酷な労働と待遇に耐えかねたユダヤ人たちは次々に脱走しているが、脱走に失敗した者たちが全裸で柱に括りつけられ、ロシア兵にナイフで惨殺され、死体が戸外にさらされる……という事実は、欧米社会には広く伝わり、欧米各国の反ロシア感情を形成するのに一役買っていた。

「それはお辛いでしょう。何とか、我が国もお役に立てればよいのですが、脱走してきたユダヤ人たちを助けることぐらいしかできず……」

 高橋大蔵次官の心からの同情の言葉に、

「とんでもない。日本も清も、とてもよくしてくれていると思います」

シフ氏は強い口調で答えた。「脱走した同胞たちを保護して、求める者には自国の国籍を与え、生計を立てる基礎を整えてくれる……ユダヤ人の1人として、感謝の言葉もありません。そして、我々としては、そんな日本と清がこの戦争に打ち勝つことで、ロシアの政治を改良するきっかけを作れないか、それによって、ロシア国内で苦しんでいるユダヤ人を救えないか……このように考えているのです」

 シフ氏は、ここでいったん言葉を切ると、

「高橋閣下、ニューヨークで発行する予定の日本の公債、私が引き受けてもよろしいでしょうか?」

高橋大蔵次官を強い視線で見た。

「引き受けてくださるのですか!」

 深井秘書官の叫びに、

「もちろんです。ロシアで苦しむ同胞のために協力いたしましょう」

シフ氏は力強く頷いた。

「ありがたい……実にありがたいことです」

 高橋大蔵次官は大きく息をつくと、深々とシフ氏に頭を下げた。

「これで、増宮殿下に怒られずに済みそうです」

「増宮殿下……ああ、先ほども話に出てきましたね。大変にお美しいし、才女と評判も高いですが……」

「はい。日本を発つとき、“万が一公債の引き受け手が現れない時は、増宮殿下のお写真を引き受けた者に差し上げるという条件も含めろ”などと、大臣に言われましたが……」

 承諾が得られた安心感もあってか、高橋大蔵次官が微笑交じりに漏らすと、

「高橋閣下」

シフ氏の表情が突然硬くなった。

(まずい!)

 せっかく円満に話が整ったのに、まさか、もう話がこじれてしまうのだろうか。緊張する高橋大蔵次官に、

「どうしてそれを早く言ってくれないのですか!」

シフ氏はつかみかからんばかりの勢いで叫んだ。

「ください、お写真をください!場合によっては300万ポンドの引き受け額を、450万ポンドまで増やしていい!公債の利率も下げていい!ですからどうか、増宮殿下の写真を私に!」

「お、落ち着いてください、シフ殿っ!」

 高橋大蔵次官と深井秘書官は、興奮するシフ氏をなだめるのに、20分の時間を掛けなければならなかった。


 シフ氏との打ち合わせを早々と済ませると、高橋大蔵次官と深井秘書官はロンドンに向かった。ロンドンに到着したのは9月上旬だったが、その頃には既に東朝鮮湾での海戦の結果も知られており、公債を引き受けようという銀行家が何人も現れた。そして彼らは決まって、

「ところで、シフ殿から聞いたが、我々にも増宮殿下の写真をくれるのであろうな?」

「ドレス姿と軍医少尉の正装だと聞いたが、出来上がるのにどれくらいの時間がかかる?」

真剣な表情で高橋大蔵次官に問いかけ、“写真は引き受けた銀行すべてに差し上げる、軍医少尉の正装の写真はこれから出来てくるので、ロンドンに到着するのは早くて年明けだろう”という高橋大蔵次官の内心呆れながら、しかし表面上は非常に真摯な回答を得て、書類にサインをしたのだった。

 そして2か月後の公債発行日、ニューヨークでもロンドンでも、引き受け銀行の店頭には、申込者が殺到することになったのだが……自分の写真を銀行家たちが争って求めてきたと知った増宮章子内親王が、

「もうやだ、この欧米……」

と、暗い顔をしてブツブツ呟いていたのは、また別の話である。

※「実業家奇聞録」(実業之日本社、1901年)に載っていた高橋さんの大食い記録。

「天ぷら10人前に飯4人前。その直後にザルそば22枚、更にあんパン20個以上」

当時の一人前のサイズがどのくらいだったかにはよりますが、どんだけカロリーを取っているんですか……。(白目)

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