帰京(2)
皇居の車寄せに到着した馬車の窓からは、フロックコートを着た男性たちが二手に分かれて並んでいるのが見えた。梨花会のみんなだ。馬車の扉が開いて、私が地面に足を下ろした瞬間、
「増宮さまっ!」
列の真ん中あたりにいた伊藤さんが、私に向かって全速力で駆けだした。
「あ、こら!」
「抜け駆けは許さんぞ!」
梨花会の面々の怒号が響く中、伊藤さんは速度を緩めずに私の所に走りつき、
「増宮さま!よくぞ、よくぞ御無事で……!」
走ってきた勢いのまま、私に抱きついた。けれど、次の瞬間、
「俊輔っ!増宮さまから離れろ!汚らわしい!」
こちらも全力で駆けてきた山縣さんに後ろから肩を掴まれ、伊藤さんは私の身体から強引に引きはがされた。
「汚らわしいとはなんじゃ!狂介こそ、増宮さまを想って大量の和歌を詠んでおったくせに!」
「俊輔も、増宮さまの“汝、我が身を案ずる余り、国家の大略を誤るなかれ”という電文がなければ、艦隊を鎮海湾から日本に戻してしまっていただろう!」
「何だと……?!」
「やめなさい!」
私の前でにらみ合った伊藤さんと山縣さんに向かって、私は声を叩きつけた。
「心配してくれていたのはとてもありがたいです。けれど、私はあなたたちの喧嘩を見に、東京に帰ってきたわけじゃないんです!」
「ははっ!」
「申し訳ございませんでした!」
お互いに拳骨を見舞おうとしていた2人が、ぱっと殺気を収めて、私に向かって最敬礼する。
「素晴らしい。戦場を御経験なさったからか、威厳が増したような気がしますのう」
開戦と同時に、山本さんに代わって国軍大臣になった西郷さんがのんびりと頷き、
「だな、西郷さん。いやあ、無事に帰ってきてくださって、よかったよかった」
井上さんがしみじみと西郷さんに答えた。
一つ咳ばらいをすると、私は並んでいる梨花会の面々に近づき、挨拶を一人一人交わしていく。ところが、その中に、大蔵次官の高橋さんの姿が無かった。
「高橋さんはどうしたんですか?」
一同を見渡しながら尋ねると、
「今は、ニューヨークを出て、ロンドンに向かっている頃かと思います」
大蔵大臣の松方さんが重々しく答えた。
「あ、そうか、外債の募集……」
「ご明察。国庫の歳入だけでは、やはりこの戦、戦費が賄いきれませぬゆえ。開戦の数日後には、高橋くんはアメリカに出発致しました」
「ですよねぇ……」
私は軽くため息をつく。“史実”の日露戦争では、当時のお金で18から20億円の戦費が掛かったと、伊藤さんからも原さんからも聞いている。一概に計算するのは難しいけれど、私の時代だと、およそ360から400兆円というとんでもない金額になる。だから“史実”では必死に外債を募集したと言うことだけれど、この時の流れでの日露の戦いでも、やはり外債で戦費を調達しなければならないようだ。
「さぁ、両陛下がお待ちかねです。増宮さま、こちらへ」
伊藤さんが先頭に立ち、私を案内してくれる。いつも梨花会が行われている宮城の会議室には、既にお父様とお母様がいた。
「章子!」
「増宮さん!」
「お父様、お母様……帰って参りました」
同時に椅子から立ち上がった2人に、私は最敬礼した。そのまま、いつもの自分の席まで動き、椅子を引こうとした時、
「章子、こちらへ参れ」
お父様が私に声を掛けた。
「はい」
素直にお父様の言葉に従い、お父様の椅子の近く、お父様から1mほど離れたところで立ち止まると、
「違う、もっと近くだ!」
お父様から大きな声が飛んでくる。
「あ、はい」
もう一歩、お父様に近づいて、そこで足を揃えて立っていると、
「ああ、もう……」
お父様が苛立ったような声を上げ、次の瞬間、私に向かって足を踏み出し、
「“近く”と言ったら、こうであろうが。全く、じれったい……」
私の身体を前から抱き締めた。
「よく……よく、無事に戻ってきた、章子」
「お父様……」
「帝王たるもの、全ての者を分け隔てせず平等に愛さねばならぬと思うが……やはり、我が子への愛情は偽ることができぬな」
私を抱いたままお父様が呟くと、
「ですなぁ。ううっ、ええ話や……」
三条さんが答えながら涙ぐんだ。
と、
「お上、少しずれてくださいませ」
優しい声が私のそばで聞こえた。お父様が私を抱いたまま、左に身体を動かすと、
「増宮さん……!」
お母様がお父様の腕のすぐ下に手を回し、私の身体に横からしがみついた。
「お母様……」
「よく、御無事で戻られました。毎日、増宮さんの無事を祈っていました」
「ありがとうございました、お母様」
私は軽く頭を下げた。「だから、“ペレスウェート”の衝角攻撃から逃れられたのかもしれません」
あの時は、本当に慌ててしまって、“みんなで助からなければ”ということしか考えられなかった。私のそばにいた新島さんは、移乗攻撃を受ける可能性まで考慮して、全く動じていなかったにも関わらず、である。妙な因縁が出来てしまったけれど、“迅雷”の魚雷が“ペレスウェート”の衝角攻撃を阻止したのは、ひょっとしたら、お母様が祈ってくれていたからかもしれない。
「でも、お母様……救えなかった人がたくさんいました」
私は目を伏せた。「それに、この戦争が起こった原因を聞いて、私……」
「増宮さん、私にお顔を見せてください」
不意に、お母様がこう言った。慌ててお母様の言う通りにすると、私の腰に回っていたお母様の右手が私の身体から離れ、私の顔に向かってスッと伸びた。
「増宮さん、あなたは医師なのですよ」
――自分の傷を、自分で拡げてはなりませんよ。
10年ほど前だろうか、葉山でお母様は私に言った。その時と同じように、お母様はピンと伸ばした人差し指で、私のくちびるを塞いだ。
「だけどっ……」
私は激しく首を横に振った。「開戦理由に、私のことが使われてしまったのは事実です。大悪人とか逆賊とかって罵られても、全然かまいませんけれど、私のせいで、敵味方合わせて2000人以上の人が、あんなにむごたらしく死んで……」
「お気持ちは、よくわかります」
お母様は寂しげにほほ笑んだ。
「増宮さんは、人が理不尽に亡くなったり傷ついたりすることが何よりも嫌いな方です。それなのに、増宮さんのお名前が開戦の理由に使われてしまったのですから……本当にお辛いと思います」
「……」
「でもね、増宮さん。増宮さんの名前を使った方たちは、増宮さんや他の方々の幸せを願って、増宮さんの名前を使った訳ではありません。増宮さんがロシアの皇帝陛下とご結婚なさって、本当に幸せを掴めるかどうか……そんな基本的なことですら、少しも考えていらっしゃらない。増宮さんを不幸にすることを考えていらっしゃるのです」
お母様の優しい声が、じわじわと私の心に溶けていく。……確かにその通りだ。アレクセーエフやニコライは、私の幸せのことなど、全く考えていない。
「増宮さん。増宮さんを不幸にしようとする方々の論理に、巻き込まれてはいけませんよ」
「……はい」
私は素直に首を縦に振った。
「もう一度言います。増宮さんは医師なのです。医師であれば、傷を癒さなければならないのです。それが他人の傷であっても、ご自分の傷であっても」
「はい。……ご心配をおかけして、申し訳ありません」
お母様の右手は私のくちびるを離れ、今度は軽く下げた私の頭をそっと撫でる。その手つきは、まるで傷を癒すかのようだった。
「言っておくがな、章子」
お父様の厳めしい声が、本当にすぐそばで聞こえた。
「理由が何であれ、この戦争は、朕の名で宣戦布告をした戦争だ。だから戦死者に対する責めは、朕とこの国が負う。そなたがこの戦争の全ての責を負うなど、思い上がった考えと知れ」
「はい」
私は顔をお父様に向けた。
「出過ぎた真似を致しました」
頭は深々と下げた。お前のせいではない。痴れ者の言うことなど気にするな。もし、お前が責任を感じているのならば、その責任は全て自分が引き受ける。お父様はそう言ってくれているのだろう。……ただ、不器用だから、言葉が厳しくなってしまっただけで。
「お父様、戦死者の冥福を……敵味方問わず戦死者の冥福を祈ってもよろしいでしょうか」
頭を下げたままお父様に尋ねると、
「それは構わん。それは、朕ら皇族の務めであるから」
お父様はそう言って、私から離れて椅子に戻っていった。
「ありがとうございます」
「梨花」
私の後ろから、兄の声がした。
「慰霊をしに行くなら俺にも言え。俺もお前と共に、戦死者の冥福を祈りたいから」
「わかった、兄上」
私は真っ直ぐに私を見つめている兄に向かって頷いた。
私たちが全員所定の席に座ると、
「では、梨花会を始めましょうか」
伊藤さんが明るい調子で言った。
「……と言っても、今日は増宮さまを出迎えるのが主な目的で、増宮さまにこれからの予定をお伝えするだけですが」
「はぁ」
満面の笑顔を浮かべた伊藤さんに、私は曖昧に頷いた。
「まず、増宮さまには11月から、横須賀の国軍病院に勤務していただきます」
「横須賀、ですか」
伊藤さんに聞き返した私に、
「はい」
と答えたのは山縣さんだった。「ロシア側には講和の交渉を呼びかけてはいるのですが、実は今、ロシア国内では、バルト海や黒海にいる艦隊を日本海に回航し、連合艦隊と戦わせて日本海の制海権を取り戻すのがよいのではないか、という議論が出てきてしまっております」
「うわぁ……」
(来るのかよ、バルチック艦隊……)
いい加減にして欲しい。私一人の身柄を得るために、ニコライはどれほどの犠牲を積み重ねたいのだろうか。
「誰ですか、そんなことを言い出した馬鹿は……」
呆れながら尋ねると、
「皇帝の侍従武官をしているロジェストヴェンスキー少将です。“史実”でもバルチック艦隊を率いていました」
斎藤さんがため息をついた。「どうやら、増宮殿下の身柄を押さえるためではなく、提督としての自らの力を顕示したいがために言い出したようです。閣僚たちは必死に反対していますが、ニコライが乗り気でして」
「最低な奴ですね、ニコライもロジェストヴェンスキーも」
眉をしかめながら私はこう吐き捨てた。
「ええ、己の薄汚い欲望を叶えるために、他人の幸せを犠牲にしようとするなど言語道断。もし回航して来るなら、罰しなければなりませんなぁ」
西郷さんがのんびりした口調で言うと、桂さんと山本さんと児玉さんと斎藤さんが、声を出さずにニヤリと笑った。我が臣下も野獣のような笑いを見せている。……もし日本海に回航して来たとしても、バルチック艦隊は散々な目に遭ってしまいそうだ。そんな未来を回避するためにも、ロシアにはさっさと講和条約を結んで欲しいのだけれど。
「話を元に戻しますが……そんなことがありますので、増宮さまは厳重にお守りしなければなりません。しかし、東京では理想とする警備が出来ませんので、情勢が落ち着くまでは横須賀で勤務していただくことにしました。横須賀の国軍病院は、規模も大きいですし、要塞地帯にありますから」
伊藤さんは西郷さんたちの方を見て笑みをこぼすと、すぐに真面目な表情に戻って私に言った。
(なるほどね)
東京の国軍病院はいくつかあるけれど、敷地のすぐそばまで、住宅や商店が建てられている。万が一、その住宅や商店を敵に抑えられてしまったら、国軍病院が攻撃されてしまうだろう。その点、横須賀の国軍病院は、要塞地帯の中にあるから警備は万全だ。
「じゃあ伊藤さん、10月の末までは、出来る限りの警備をしてもらいながら、東京の国軍病院に勤務することになるんでしょうか?」
そう尋ねると、
「いいえ」
内閣総理大臣は首を横に振った。
「勤務の必要はありません……と言うより、勤務が出来ません」
「は?!」
私は思わず椅子から立ち上がった。「どういうことですか?!だって、東京に戻ったらすぐに勤務を始める予定だって、実習の前に聞いてたんですけど……」
「ご不審に思うのもごもっともです」
横から山本さんが話に入ってきた。「実は、ロシアと開戦したため、軍医学校の成績の確定作業が遅れているのです。増宮さまの場合、実習の評価に“日進”の艦長と軍医長の講評が必要なのですが、“日進”の日本到着が予定の8月下旬より遅れたため、講評の到着が遅れています。“日進”以外の軍艦で実習していた他の学生も同様です」
「え……」
「ですから、今回の卒業生に限り、軍医学校卒業は1か月遅らせ、9月末に致します」
「高木軍医局長は“教育の完全を期すため、全員1年留年させるべきだ”なんて言ってましたが、それは流石にないだろうって梨花会一同で文句を言って、なんとかこの形にさせました」
山本さんの答えに続けて、井上さんがムスッとしながら言う。確かに、成績を付けるのが遅れたから卒業も1年遅らせる、というのは、筋が通らないように思うけれど……。
「だけど、9月末に卒業なら、10月頭から横須賀で勤務ですよね?なんで11月からなんですか?」
私が首を傾げた時、
「そなたに勲章を授けねばならん。その儀式を、10月初めにする」
上座からお父様が言った。
「はぁ」
既に勲一等宝冠章は20歳の誕生日の時に授けられているから、来月もらう勲章は、勲一等旭日桐花大綬章だ。私が軍医学校を卒業して軍医少尉に任じられた段階で、授けられることになっていた。
(でも、そんなの1日で終わるから、10月からの勤務に支障はないはずだよなぁ……?)
不審に思っていると、
「それに、来月の半ばに日本に来るカール・アントン殿下の接待を、そなたに手伝ってもらわなければならないからな」
お父様の声が飛んできた。
「カール・アントン殿下?」
聞いたことがない。外国の王族か皇族なのは分かるけれど……。
すると、
「ドイツのヴィルヘルム2世陛下の遠縁に当たる方です」
児玉さんがニコニコしながら教えてくれた。
「安心してください、増宮さま。既に結婚しておられます」
「いや、それ、ちっとも安心できる材料じゃないですよ!」
私は児玉さんにツッコんだ。
「あの皇帝の遠縁ってだけで、危険な匂いがプンプンしますって!」
ヴィルヘルム2世。この人もニコライと同じく、よく分からない人だ。自分の息子と私の結婚を考えたり、私とフリードリヒ殿下のことを聞いて涙したり……天照大神が世界各国を象徴する女神様たちの輪の中に迎え入れられているという、訳の分からない絵を私の所に送りつけてきたこともあった。
「大丈夫でしょう。“史実”では、観戦武官として来日され、半年ほど我が国の軍とともに満州にいらっしゃいましたが、特に人格的に問題のある方ではありませんでした」
“史実”の記憶を持つ斎藤さんが苦笑しながら補足する。「今回は観戦ではなく、単にドイツから友好使節として派遣されただけのようです」
「しかし、外債を完売するためにも、カール・アントン殿下に我が国への良い印象を持ってもらい、我が国の評判を上げておかねばなりません。そのためには、殿下にもご協力いただかなければ」
陸奥さんが微笑を私に向ける。……目の奥に妖しい光がちらついているのは気のせいだろうか。
「であるから、世界各国の軍事事情や政治事情、社交界の最新の流行に至るまで、カール・アントン殿下が来日されるまで、我々梨花会の手で、しっかり増宮さまにご教授申し上げるんである!」
東京専門学校の創立者でもある大隈さんが、大きな声で言いながらその場に立ち上がった。
「はい?!」
「毎日誰かしらが青山御殿に参上することになりますので、よろしくお願いいたします」
厚生大臣の原さんが、そう言いながら恭しく頭を下げる。けれど、頭を上げ始めた刹那、私に彼が見せたのは不敵な笑みだった。間違いなく、将棋か議論で私を散々に痛めつけるつもりだろう。……将棋の方がありがたいけれど。
「と言う訳で、勤務がないと言っても、そなたを遊ばせる気は全くないから安心しろ」
お父様がニヤリと笑う。
(そんなぁ……)
呆然とする私に、
「梨花さま、これもご修業でございますよ」
我が臣下の優しい声が、無情にも突き刺さった――。




