閑話 1904(明治37)年処暑:連合艦隊の事情
1904(明治37)年8月26日金曜日午後1時、朝鮮・元山港。
8月16日に行われた清軍の攻撃、そして清の艦隊・日本の艦隊の海上からの援護射撃により、朝鮮義勇軍が占領していた元山は数時間で陥落した。首謀者の義和君は朝鮮の官憲により捕縛され、朝鮮の首都・漢城に護送された。また、朝鮮義勇軍を支援するために元山港に停泊していたロシアの巡洋艦“ノーウィック”と“ワリャーグ”も、元山周辺の高台を早々に陥落させた清軍の砲撃と、日本・清の艦隊の砲撃により港内で沈没し、残っていた乗員は清軍の捕虜となったのだった。
現在、元山港には、日本の第1艦隊が停泊している。その艦隊旗艦・戦艦“三笠”の司令長官公室には、4人の人物が顔を揃えていた。
連合艦隊司令部の参謀の1人である秋山真之海兵大尉。
東朝鮮湾で行われた海戦の後、戦艦“朝日”の水雷長から司令長官付きの副官に移動になった広瀬武夫海兵少佐。
連合艦隊司令部の参謀長・島村速雄海兵大佐。
そして、連合艦隊司令長官・東郷平八郎海兵中将である。
4人が椅子に腰かけているのに、司令長官公室は誰もいないかのように静まり返っている。そこに、ドアをノックする音が響いた。広瀬少佐が「どうぞ」と声を掛けると、ドアノブが回って、ほっそりした身体つきの第2艦隊参謀長・加藤友三郎海兵大佐が姿を現す。その後ろには、堂々とした体躯の第2艦隊司令官・上村彦之丞海兵少将が立っていた。
「任務、ご苦労様でした」
互いに挨拶を交わし、加藤大佐と上村少将が椅子に掛けると、東郷司令長官が言った。
「目立った損害も無く、無事、戻って参りました」
上村少将が軽く一礼する。彼の率いる第2艦隊は、清の丁汝昌提督率いる艦隊と共に、ロシア太平洋艦隊の本拠地・ウラジオストックに出撃していたのである。
「素晴らしいです、上村閣下。ウラジオストック近辺の要所に機雷を敷設しただけではなく、たまたま警備に出てきた“ジキート”を中破に追い込んだとは……」
「“ラズボイニク”と“ザビヤーカ”も叩けそうだったが」
称賛する島村大佐に、上村司令官は固い表情を崩さずに言った。「深入りしないで帰ってきた。そこは丁汝昌提督とも意見が一致してな」
「“ラズボイニク”と“ザビヤーカ”は、港内奥深くの、陸軍の砲台の射程圏内に避難していまして」
横から、加藤参謀長が穏やかな声で付け加える。「撃沈するには、こちらも相応の出血を強いられる。それに、たとえ軍艦を撃沈し、更には陸軍の砲台を占拠できたとしても、占領地の維持に非常な努力が必要になります」
「なるほど、確かにそうです」
頷いた秋山大尉に、
「ところで、陸の方はどうなっている?」
上村司令官が、身体をずいっと近づけながら尋ねた。
「ほとんど動いておりません。黒河とブラゴベシチェンスクの両要塞でのにらみ合いも続いたままです」
「1kmも離れていない要塞、互いが互いの砲の射程圏内、自分が引き金を引けば自分もやられる……。にらみ合うしかないですね」
秋山大尉の答えに、加藤大佐が苦笑する。
「その他、清とロシア、朝鮮とロシアの国境地帯も動きがありません。清が国境地帯にあるシベリア鉄道に、たまにちょっかいを出す程度です」
「ウラジオストックと同じく、深入りは無用ですね。もし清軍が深入りすれば、ロシア軍は広大な国土を利用して、敵を自国領土の奥深くに引き入れ、補給線が伸び切ったところで大反攻を仕掛けるでしょう。ナポレオンのロシア侵攻を切り抜けたやり口です。それをやられないためにも、今のままの作戦方向がよろしいでしょうな」
秋山大尉の説明に、広瀬少佐が付け加える。ロシアへの留学経験もある広瀬少佐は、ロシアの軍隊の戦術をよく研究している。知識に裏付けられた彼の言葉には、説得力があった。
「それから、我が艦隊の、先の海戦での被害状況ですが……取りまとめられたのでしょうか?」
「何とか」
加藤大佐の問いに島村大佐が頷く。しかし、その顔がたちまち曇った。
「沈没した“初瀬”は、乗員830人中425人が亡くなりました。大破した“敷島”も戦死者が152人……。しかも、完全な修理には1年近く掛かるという見立てになりました」
「1年か」
島村大佐の答えを聞いた上村少将が、大きなため息をついた。「“春日”と“日進”を、第1戦隊に引き抜いてもらって正解だったな」
「はい。それに、増宮殿下をウラジオストックにお連れ申し上げて、万が一のことがあっては大変ですから」
加藤大佐が顔に苦笑いを浮かべる。第1艦隊では、“敷島”“初瀬”以外の艦も、ある程度の損害を受けてしまった。このため、第2艦隊が清の艦隊とともにウラジオストックに向かう前日の17日、無傷だった第2戦隊の“春日”“日進”を、急遽第1戦隊に移動させた。従って、“春日”“日進”の2隻は、ウラジオストックではなく、ずっと元山港に停泊していた。
「ところで、殿下はお元気だろうな?」
「はい、お元気です。目下、“日進”で“初瀬”の負傷者の診療に当たっておられます」
上村少将の問いに島村大佐が頷くと、
「秋山は変なちょっかいを出して、殿下を困らせておらんだろうな?」
上村少将は真剣な表情で、更にこう確認した。
「わ、私は何もしておりません、上村閣下!」
ムスッとした秋山大尉を見ながら、
「大丈夫ですよ、そのために広瀬君がいるのではないですか」
島村大佐が笑った。「もし、増宮殿下に秋山君が何かをしたら、広瀬君と2人で取り押さえることにしました」
「勘弁してください、島村参謀長……」
秋山大尉がうなだれる。広瀬少佐は嘉納治五郎の講道館で柔道の修練を積み、四段の免状も取得している猛者だった。
「開戦の真の理由も、増宮殿下には悟られていないでしょうね?」
心配そうに質問した加藤大佐に、
「手は打っております」
広瀬少佐が頷いた。「ロシア兵の捕虜……特に、将官・佐官は殿下に近づけないようにしています。参謀長のエベルガルツ大佐など、畏れ多くも殿下を“魔女”と罵っております。幸い、殿下はロシア語がお分かりにならないので、耳には届いておりませんが」
「許し難い。殿下は断じて魔女などではない。我が国の勝利の女神です!」
なぜか両こぶしを固める秋山大尉の前で、
「まぁ、我が国にとっての勝利の女神なら、裏を返せば、相手には災厄の女神に見えてしまうだろう」
上村少佐が苦笑し、ついでため息をついた。「まさか、殿下を生け捕りにせんがため、“日進のいる艦隊は撃つな”という命をアレクセーエフが下していたとはな」
「海戦が始まった当初、巡洋艦部隊は、第2艦隊を狙える絶好の位置にいました。それが、アレクセーエフの命令により、味方の戦艦越しに第1艦隊を狙わざるを得なくなり、射撃の命中率が低下しました。側にいた参謀長にしてみたら、なぜ自らの攻撃力を制限するような命令を出したのかと、疑問に思うしかない」
島村大佐がこう言えば、
「そして、“日進”が近づいてきたのを見たアレクセーエフが、“日進”を拿捕し殿下を生け捕りにしようと、自ら“ペレスウェート”の操舵輪を握り、衝角攻撃を命じた、と……。本当に、滅茶苦茶な話ですね」
加藤大佐は穏やかな声で付け加え、肩を落とした。「アレクセーエフが一体何を考えていたのか、奴が“ペレスウェート”と運命を共にしましたから、もはや聞く術はありませんが……」
「ただ、自らの艦隊の力を過信していたことは確かです」
秋山大尉が、珍しく真面目に指摘した。「元山に向かってきた太平洋艦隊は、火砲や魚雷発射管の数、そして艦隊の総トン数も、連合艦隊の3分の2程度しかありませんでした。普通なら、我々の撃破に向けて総力を挙げるべきところを、力を半減させるような命令しか出していない……というのは、我々を侮り、自らの力を過信していたからでしょう。もちろん、我々も陥る可能性がある罠です。心しなければなりません」
「確かに、連合艦隊にも課題が残ります」
島村大佐も眉をしかめながら言う。「機雷を敵艦隊の後方に敷設し、退路を断つ作戦は、敵の駆逐隊に邪魔をされて失敗し、乱戦の末に5隻の駆逐艦が沈没しました」
「1駆の“暁”、2駆の“雷”・“朧”、4駆の“速鳥”・“春雨”……1駆の“朝潮”は大破しましたし、2駆の“電”、3駆の“薄雲”も中破しています。増宮殿下を救った“迅雷”も中破しましたし、水雷艇も何隻か沈没しています。幸い、ロシア側の駆逐隊・水雷艇隊もほぼ壊滅に追い込めましたが、駆逐・水雷艇隊は再構築が必要です。場合によっては、清の駆逐隊の力を借りなければいけません」
秋山大尉もそう言って天を仰ぐ。今回の海戦に参加した日本の駆逐艦20隻のうち、損傷を受けていないのは2、3隻だけで、残りは彼が言うように何らかの損傷を受けたり、沈没したりしていた。
「それに、あの砲弾の命中率は、もう不可能だろう」
上村少将はそう言うと、憮然とした表情になった。「開戦直後、“ロシア艦隊から増宮殿下の御身を守るべし”と訓示した時から、射撃訓練での命中率が異常に上がった。士気も妙に高かったし……それが、“日進”が第1艦隊に異動すると兵たちが知った瞬間、艦隊が通夜のような雰囲気になってしまってな。命中率も開戦前並みに戻ったし、士気を保つのに苦労した」
「第1艦隊も、似たような状況です。今はこちらに殿下がいらっしゃいますから、士気が高い状態は続いていますが、殿下が実習を終えられ、“日進”を去られたときの士気の落ち込みが懸念されます。士気のことだけを考えれば、増宮殿下にずっと“日進”でご勤務いただきたいぐらいです」
こう言ってため息をついた島村大佐に、
「島村参謀長、何とかならないでしょうか。万が一、ロシアが日本海での制海権を取り返すために、バルト海や黒海にいる艦隊を日本海に回航してきたら……。士気の低下は、艦隊撃滅の確率の低下に直結します。ですから、殿下を“日進”の勤務から外さないように、高木軍医局長に依頼して……」
秋山大尉が泣きつくように頼み込む。しかし、
「秋山参謀の場合、殿下を間近で拝みたいだけだろう。殿下がお困りになるから止めておけと、何度言ったら分かるんだ?」
広瀬少佐が一睨みすると、秋山大尉は慌てて黙り込んだ。
「それに、本省からは連合艦隊に、“敷島”や今回の海戦の鹵獲艦を曳航して、出来る限り速やかに日本に帰還するように……という命令が出ている。電文にこそ記されてはいないが、その命令には、“さっさと増宮殿下を日本に戻せ”という意味が込められているはずだ。でなければ、同じ命令が毎日本省から来るはずがない」
「それはそれは……ものすごい圧力です。伊藤閣下のご心痛ぶりが察せられます」
再び両肩を落とした島村大佐に、加藤大佐が苦笑する。現在の内閣総理大臣・伊藤博文は、増宮章子内親王の輔導主任を長年務めていた。内親王本人から、“私を気にしすぎて、国家としての戦略を間違えないようにしてください”と言われていても、育ての親として、彼女のことがどうしても心配になるのだろう。
「伊藤閣下の気持ちは分かるが、そう簡単に行くものではないぞ。戦艦だけでも“敷島”の他に“セヴァストーポリ”に“レトヴィザン”、巡洋艦は“パルラーダ”“リューリク”“グロモボーイ”“アスコリド”“ボガトィーリ”の5隻……壊れた駆逐艦や水雷艇も、曳航して帰らねばならん」
上村少将が両腕を組む。今回の海戦では、戦艦“ペレスウェート”“ポルタヴァ”“ペトロパブロフスク”、巡洋艦“ロシア”“ディアーナ”を沈没に追いこんだが、沈没する前に降伏し、日本に鹵獲された艦も多かったのだ。
「これから嵐も多い時期になりますからね。どのように日本に撤収するか、慎重に考えなければなりませんな」
広瀬少佐がこう言った時、
「殿下が“日進”を御退艦されるときに、何かお言葉をいただく方がよい」
今まで黙って幕僚たちの話を聞いていた東郷中将が言った。
「は……それは令旨を、ということでしょうか」
確認した広瀬少佐に、東郷中将は「うん」と頷く。
「令旨か……出してくださるかな?頼まれて揮毫を書かれた時も、気が進まないようだったと竹内が言っておったな」
上村少将が首をひねった。
「まぁそこは、本省からの要請があったということにすれば問題ないでしょう。文章も、先日の電報のように、秋山君が添削すればよいですし」
「ただ、本省と連絡を取り合って、差し支えないという言質を取るべきでしょう。今回の海戦の結果に対し、畏れ多くも天皇陛下から勅語を賜り、皇后陛下と皇太子殿下からも令旨を賜っておりますが、内親王殿下から連合艦隊に令旨を賜ったという例はありませんから」
案を出した島村大佐に、加藤大佐はこう指摘すると、
「しかし、是非に令旨をいただきたいということは、本省に熱望するべきです」
と付け加え、力強く頷いた。
「では、どう話を本省に持って行くべきかについてですが……」
本来ならば、ウラジオストック港への攻撃の後、ロシア太平洋艦隊の残存部隊がどう出てくるか、そして、今後の戦争の大局はどうなるのかを真っ先に検討すべき時間である。しかし、連合艦隊の幕僚たちは、迫りくる士気低下の危機を回避するため、知恵を巡らせることにしたのであった。




