閑話 1904(明治37年)立秋:それぞれの出航
1904(明治37)年8月12日金曜日午後5時、ロシア・ウラジオストック港。
「フハハハハ……全て、わしの計画通りだ!」
つい先日竣工したばかりの戦艦“ペレスウェート”の司令塔。ロシア太平洋艦隊の総司令官であるエヴゲーニイ・イヴァーノヴィチ・アレクセーエフは、腕を組み、司令塔の小さな窓からウラジオストック港内を見渡していた。夏の傾いた陽射しの落ちる海面には、ロシア太平洋艦隊の誇る軍艦――“ポルタヴァ”“ペトロパブロフスク”“セヴァストーポリ”“レトヴィザン”が、長い影を映している。その他にも、“ジキート”“ラズボイニク”“ザビヤーカ”“リューリク”“ロシア”“パルラーダ”“ディアーナ”“グロモボーイ”“アスコリド”“ボガトィーリ”……朝鮮の元山港に停泊中の“ワリャーグ”“ノーウィック”以外の10隻の巡洋艦が並び、その間に駆逐艦や水雷艇が整然と停泊している。ロシア太平洋艦隊のほぼ全戦力が、煙突から煙を吐きながら、総司令官の出航命令を、今や遅しと待ち受けていた。
朝鮮におけるロシアの勢力圏は、朝鮮に駐留している清軍の反攻により、次第に狭くなっている。一つ、また一つと拠点が潰され、現在では、ロシアが支援する朝鮮義勇軍の支配領域は、元山港を中心とする、半径5kmほどの地域だけだ。軍艦や兵員を増派したくても、中央から命令が下らないため出来ない。このままでは、せっかく朝鮮に築いたロシアの橋頭保が陥落してしまう。
そこに、日本の増宮章子内親王が、巡洋艦“日進”に乗って、日本の艦隊と共に鎮海湾にいるという情報が入った。それを聞いたアレクセーエフ総司令官は、あることを思いついた。皇帝・ニコライ2世は、なぜか章子内親王に非常に執着している。章子内親王が鎮海湾にいることを皇帝に伝え、“章子内親王の身柄を確保する”という理由を付ければ、太平洋艦隊を自由に動かせるのではないだろうか。もちろん、日本とは開戦することになるが、どうせ、ロシア帝国が朝鮮を領有するにあたり、日本海の制海権を脅かす日本艦隊は邪魔なのだ。この機会に、清と一緒に撃破する方がよいだろう。そう思って上奏した結果、皇帝はアレクセーエフの思い通りに動いたのだった。
(さっさと艦隊を動かして、元山を支援しなければならないが……)
朝鮮に潜り込ませている諜報員からは、清軍が16日の早朝に、元山の総攻撃を計画しており、それを日本と清の艦隊が援護する、という情報がもたらされていた。日本と清の艦隊は太平洋艦隊で撃滅すればいいが、陸路やって来る清軍に対応するために、念のため、陸軍の将兵を輸送しなければならないだろう。しかも、早ければ早いほどいい。そう思って、アレクセーエフ総司令官は、ウラジオストックの陸軍の責任者・フォーク中将にわざわざ声を掛けたが、陸軍はのらりくらりと、返事を伸ばしている。総司令官が忍耐強く艦隊出航を遅らせているのは、陸軍の返答を待っているからだった。
と、“ペレスウェート”の司令塔に現れた人物がいた。エベルガルツ参謀長である。
「閣下、フォーク中将から連絡が入りました。鉄道の事故で物資運搬に時がかかり、やはりあと1週間は出撃できない、と……」
その言葉を聞いたアレクセーエフ総司令官は、
「フォークの野郎っ!」
そばの机を殴りつけた。
「せっかく、我々が元山まで輸送してやろうと言っているのに!1週間も掛かるのでは、山猿たちの攻撃日時に間に合わないではないか!もういい、陸軍の連中に声を掛けたのが間違いだった。我々だけで元山に向かうぞ。海軍にも陸戦隊はあるのだ!」
「かしこまりました。直ちに出港と、全艦隊に伝達致します」
控えていた参謀に、エベルガルツ参謀長が声を掛ける。命令を受けると、参謀は司令塔を出て行った。命令伝達の準備に取り掛かるのだろう。
「ところで、駆逐艦と水雷艇に、日本艦隊の襲撃を命じないでよろしかったのですか?」
2人きりになった司令塔で、エベルガルツ参謀長が尋ねると、
「構わん」
アレクセーエフ総司令官はこう答えた。「奴らのせいで、夜中に“日進”に沈まれてみろ。増宮を拘束できない可能性が高くなる」
「は……」
エベルガルツ参謀長は軽く頭を下げた。そんな参謀長に、
「日中、“日進”がしっかり視認できる状態で、日本の艦隊を沈める。そして“日進”を拿捕する。何、我々太平洋艦隊は無敵だよ、参謀長。今こそ、この力を世界に示すときだ」
「確かにそうですな。増宮の身柄の確保と日本艦隊の壊滅。この二つを成し遂げれば、朝鮮に固執する清の山猿どもも追い払えましょう」
ニヤリと笑った参謀長の言葉に満足そうに頷くと、アレクセーエフ総司令官は、ひときわ大きな声を上げた。
「よーし、錨を上げろ!元山に向けて出航だ!」
8月12日午後5時35分。速力のない“ジキート”“ラズボイニク”“ザビヤーカ”と数隻の駆逐艦・水雷艇を留守居に残し、5隻の戦艦・7隻の巡洋艦・12隻の駆逐艦・10隻の水雷艇からなる艦隊が、ウラジオストック港から、朝鮮・元山港に向かって出航した。
8月12日午後7時、朝鮮・鬱陵島近海。
「やはり早かったな、熊が動くのが」
連合艦隊・第2艦隊の旗艦“出雲”。その艦橋で、第2艦隊司令官の上村彦之丞海兵少将は呟くように言った。
「は」
参謀長の加藤友三郎大佐が、軽く相槌を打った。
「これでは、清の艦隊は戦場に間に合わないか。鎮海湾を発して、鬱陵島に明日の午後着く予定だったからな。丁汝昌提督と、ともに戦いたかったんじゃが」
丁汝昌……清の洋式艦隊を育て上げた人物である。当年とって67歳であるが、気力・体力・頭脳ともにまだまだ衰えておらず、今回の元山への出動でも、配備されたばかりの旗艦“安遠”に座乗して、自ら出撃する予定と聞いた。年に1、2回ある日本と清の艦隊合同演習でも、彼は的確な指揮で相手軍を苦しめている。清の艦隊は、日本の艦隊に陣容こそ劣るが、単縦陣主体の艦隊運動を身につけ、日本に負けない訓練ぶりで、射撃の精度も上げてきていた。
「致し方ありませんな。恐らく、道中での夜襲も難しいでしょうから、太平洋艦隊と、正面から殴り合うことになります」
加藤参謀長の答えに、
「望むところよ」
上村司令官は静かに笑った。「畏れ多くも、増宮殿下の御身をさらおうとする不届き者……その軍艦、権兵衛に代わって、全て沈めてくれるわ」
そう言った上村司令官は、「ところで」と加藤参謀長の方を振り向いた。
「殿下には、開戦の真の理由、悟られてはおらんだろうな?」
「はい。“敵方が夜襲を仕掛けるのではないか”とご懸念されておられましたが、敵方が夜襲を仕掛けない可能性については、全く考えておられないようでした」
「そりゃあそうじゃろ」
加藤参謀長の言葉を聞いた上村司令官は、軽いため息をついた。
「まさか、ご自分の身柄を確実に拘束したいがため、敵は目標が視認しづらい夜戦や機雷戦を仕掛けてこない可能性が高い、などとは、常人には想像もできんぞ」
「ええ」
加藤参謀長も穏やかな顔に苦笑を浮かべる。ロシア太平洋艦隊の総司令官・アレクセーエフが、“日進”を拿捕し、章子内親王の身柄を献上する、と皇帝に電報を打った件は、既に艦隊の上層部に伝えられていた。
「しかし加藤、……やはり殿下に、“日進”ではない軍艦に移っていただく方がよいのではないか?」
上村司令官は、加藤参謀長に身体を近づけると、少し声量を落として言った。「明らかに敵が“日進”を狙っているこの状況、“日進”に攻撃が集中する可能性も……」
「司令官、“日進”と同じ第2戦隊に、“春日”もいるではないですか。“春日”と“日進”は、見分けがつきにくいです」
加藤参謀長は冷静に、そして穏やかな声で答え始めた。「それに、“日進”から移れ、と聞いた瞬間、その命令の裏にあるものを、殿下が探られる可能性があります。殿下は歯車がかみ合いさえすれば、常人以上の洞察力を発揮されると桂閣下から聞いております。万が一、その歯車がかみ合ってしまえば、開戦理由を察してしまわれるやも……」
「それもそうだ」
上村司令官は苦虫を噛み潰したような表情になった。「日本に戻るまで、真の開戦理由は、くれぐれも殿下に悟られぬよう……本省からも、中央情報院からも要請があった。もし殿下が理由を察してしまわれたら、俺は権兵衛に殴られてしまう」
「西郷閣下と大山閣下も、そこに加わりましょうな。私も無事では済まないでしょう。……胃のあたりが、少し痛くなってきました」
「“日進”に行って、殿下に診察してもらうか?」
「やめておきます。新島殿に追い払われましょうから」
真面目に回答した加藤参謀長に、「それもそうだな」と上村司令官は笑いかけ、視線を艦の外に向けた。沈みゆく夕陽がキラキラと反射する海面では、連合艦隊の軍艦たちが威容を誇っている。あと1日半もすれば、この軍艦たちの中にも、傷つくものが出るだろう。沈むものもあるかもしれない。それぞれの軍艦に、どのような運命が降りかかるかは、誰にも分からない。だから、全員が全力を尽くすしかない。
「やるしかない、な」
出航準備が着々と進んでいく各艦を眺めながら、上村司令官は低く呟いた。
8月12日午後9時、朝鮮・鬱陵島。
「あ、軍艦が動きましたね」
連合艦隊第2艦隊・第2戦隊に所属する巡洋艦“日進”の貴賓室。既に入浴を終え、紺色の線で白地に梨の花を描いた単衣の着物に着替えていた今上の第4皇女・増宮章子内親王は、医学書のページをめくる手を止めた。既に解いた長い黒髪の間に見える彼女の顔は、連日降り注ぐ夏の陽射しで少し日に灼け、彼女の美しい顔に精悍さを与えていた。
「いよいよですね、殿下」
白い軍装を着たままの国軍看護学生・新島八重がこう声を掛けると、
「そうですね……」
章子内親王は、形のいい眉を少ししかめる。首を傾げた時に、伸ばした黒い前髪がはらりと目の前に動き、内親王は髪を右耳に掛け直した。
「きっと、たくさん血が流れますよね……」
少し浮かない声で呟くように言った内親王に、
「ええ」
と答えながら、
(確か、25年前に、チリとペルーの間で起こったイキケの海戦とやらでは、衝角攻撃を仕掛けた相手の軍艦に、決死隊が乗り移って戦ったとか……)
新島八重は、国軍看護学校の座学の授業で教わった事項を復習していた。
(我が国では、衝角戦は廃されたと聞いた。しかし、それはあくまで我が国でのこと。ロシア側が衝角をぶつけ、こちらの軍艦に乗り移って来る可能性もありうる。それに、戊辰の戦では、宮古湾で“回天”が甲鉄艦に移乗攻撃をしたではないか)
新島八重は、自分が腰に差している軍刀に目をやる。章子内親王の軍刀を打った、11代会津兼定の作である。残念ながら、会津兼定自身は、昨年の春に亡くなっていた。
「勝って帰れるように、全力を尽くさないといけませんね。でも、私の手の届く限り、敵味方問わず、命を助けないと。それが軍医学生の本分ですから」
そう言いながら章子内親王は立ち上がり、貴賓室の窓際に歩み寄る。彼女の見やる窓の外はすっかり闇に包まれ、空に流れる天の川が、海面に向かって光を静かに零していた。
(もし、この艦が移乗攻撃を受ければ……、殿下の御身に危機が迫れば、私が大山どのの代わりに、殿下の盾となり剣となって、殿下の御身をお守りせねばならない)
新島八重が決意を新たにしている前で、
「新島さん、よろしくお願いしますね」
眩いばかりの星空を背にして、章子内親王は微笑した。
「承知」
新島八重は、重要な……現時点で日本一重要な護衛対象に、力強く頷いた。
※ロシア側の駆逐艦・水雷艇の隻数については適当に設定しました。ご了承ください。
※正確に言うと、“日進”と“春日”は武装が少し違う(春日にある25.4cm単装砲が、日進では20.3cm連装砲になっている)ので、頑張れば見分けはつくのかもしれませんが……。




