閑話 1904(明治37)年大暑:ドイツの事情
1904(明治37)年8月6日土曜日午後1時、ドイツにあるバイエルン王国の首都・ミュンヘン。
「さて……今日の仕事はここまでにしよう」
ミュンヘン市内にある“森ビタミン研究所”の所長・日本国軍の元軍医少将である森林太郎医学博士は、所長室の机で実験の結果をまとめ終えると、ほっと息をついた。
1903(明治36)年12月10日、森博士は、ビタミンの発見により第3回ノーベル生理学・医学賞を受賞した。授賞式が行われたスウェーデンのストックホルムの会場には、彼のドイツ留学時代の恩師の1人、ハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホが駆けつけた。
――素晴らしいよ、森君!さぁ、早速ベルリンに来てくれたまえ!講演会の会場は押さえてある!
恩師は森博士を手放しで褒めたたえると、有無を言わさずベルリンへと連れて行った。妙に上機嫌な恩師とともにベルリンへと向かうと、降り立った停車場には、かつての恋人、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトがいた。1、2年前に日本に送ってくれた写真の通り、初めて出会った若いころより、だいぶふくよかになっていたけれど、あの青みがかったグレーの瞳は全く変わっていなかった。
ベルリンでの森博士の講演は、数日の間を置きながら何度か行われた。その間に、森博士はエリーゼとの真剣な話し合いを重ねた。エリーゼを守れなかった自分を、エリーゼは許してくれるのだろうか。不甲斐ない、情けない自分は、今度こそ、彼女を守り通せるのだろうか。考え抜いた末、森博士はこんな結論にたどり着いた。日本にいる家族たちには申し訳ないが、今度こそ、森林太郎という一人の男として、日本での栄誉の全てを捨て、エリーゼを守って生きていこう。日本に残っている家族たちには、一生かけて償いをしよう、と。そう率直に打ち明けると、何日か熟考の後、エリーゼは森博士の思いを受け入れてくれたのだった。
日本にいる家族たちに詫び状を書き、ドイツの日本公使館で、国軍の退役手続きとドイツへの帰化に必要な手続きを始めると、知らせを受け取って仰天した弟の篤次郎と潤三郎、妹・喜美子の夫で、東京帝国大学医科大学の解剖学教授でもある小金井良清、親友で元軍医でもある賀古鶴所が急遽ベルリンに駆け付けた。もちろん、彼らには散々説得されたけれど、ちょうど届いた“森林太郎はエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトと結婚するべし”という、今上の第4皇女・増宮章子内親王の令旨と、森博士自身の弁舌とで、彼らと日本に残っていた母はとうとう折れた。母と長男に月に100円送金することで、森博士のドイツへの帰化、そして森博士とエリーゼの結婚が認められたのは、6月末のことだった。
月に100円、となると、かなりの大金である。講演料とノーベル賞の副賞の賞金はあるけれど、ずっと送金を続けていれば、もちろん無くなってしまう。就職先を探さなければ、と考えていたころに、バイエルン王国摂政の嫡孫・ループレヒト王子の妃であるマリー・ガブリエーレが森博士に会いにやってきた。昨年の5月、医師の資格も持つ章子内親王と一緒に往診した相手である。
――ミュンヘンにいらっしゃらない、ドクトル森?
ベルリンで行われた森博士の講演を聴講したマリー妃は、目を輝かせながら森博士に提案した。
――実は、我がバイエルン王国でも、日本のような医学の研究所を作ることになって、つい先日、建物が完成したの!ドイツの製薬会社もいくつか出資してくれたわ!ノーベル賞を取ったあなたに、その研究所の所長になってもらえれば、とても嬉しいのだけれど……どう?
マリー妃の非常にありがたい申し出を受け入れることにした森博士は、新妻のエリーゼと共にミュンヘンに移住した。ミュンヘン大学の医学部で、非常勤講師として週に1、2度の講義をしながら、新しい研究所でビタミンの研究を再開させている。
ミュンヘンに移住して1か月余り、何かと賑やかな生活の中で、ふと心配になるのは、日本の章子内親王のことである。2月に朝鮮で発生した元山事件、そして7月初めに発生した自在丸事件……朝鮮を巡る情勢は緊迫の度を増している。森博士が日本を発つ前の予定通りなら、章子内親王は今頃、軍医学生として軍艦で実習をしているはずなのだ。心の中に不安は過ぎるが、
(だが、大丈夫だろう)
森博士がそう確信できるのは、章子内親王の周りに、日本を代表する人物たちが多数いるからである。内閣総理大臣の伊藤博文と歩兵大将の大山巌は、章子内親王の養育に長年携わっていた。また、枢密院議長の山縣有朋、前国軍大臣の西郷従道、現国軍大臣の山本権兵衛……彼らならきっと、章子内親王を危険から遠ざけてくれている。そう思うので、森博士の心の中では、章子内親王が戦乱に巻き込まれているかもしれないという不安はすぐに消えるのだった。
(さて、そろそろ家に帰ろうか。エリーゼも仕事をしながら待ちくたびれているかもしれない)
今も帽子職人として活動している妻の笑顔を思い浮かべた瞬間、研究所で働いている日本人の職員が、扉をノックして所長室に入ってきた。
「所長、大変です!マリー妃殿下がいらっしゃいました!」
「何だって?!」
今どこにいらっしゃるのだ、と、八の字髭が立派な職員に聞く暇も与えられないまま、廊下に靴音が高く響いて、マリー・ガブリエーレが姿を現した。その顔は真っ青になっていた。
『大変よ、ドクトル森!』
挨拶もせず、マリー妃は森博士に向かって叫んだ。
『これは妃殿下。出迎えもせず、大変失礼いたしました。いかがなさったのですか?』
完璧なドイツ語で質問した森博士に、
『ロシアが……ロシアが昨日、日本と国交を断絶したの!』
マリー妃は驚くべき情報を告げた。
『は……?!ロシアと日本?!清ではなく、日本と、ですか?!』
森博士は心の底から驚いた。ロシアは2月の元山事件で、元山に巡洋艦2隻を派遣したために、朝鮮の実質的な宗主国である清と対立している。一方、日本とは、“自在丸”撃沈の件で関係が険悪になってはいるものの、戦争を考えるほどの状況にはなっていない。森博士はそう思っていた。それがいきなり、ロシアが清ではなく、日本と戦おうとするとは……。
『そうよ、私も何度も聞き直したわ!でも、ロシアと日本なんですって!』
マリー妃も叫ぶように言った。彼女にとっても、これは意外な情報だったようだ。
『信じられないわ!自分たちが沈没させた船の補償もしないなんて!一体、ロシアはどれだけ傲慢なのかしら!』
マリー妃はこう言うと、
『ああ、どうしよう、章子が……』
と両手で頭を抱えた。
『増宮さまがどうかしたのですか?』
森博士が尋ねると、
『知らないの、ドクトル?!』
マリー妃は彼に食って掛かった。
『だって章子、5月の末に日本から私に出してくれた手紙で、“実習で、来月から軍艦に乗る”って書いてたのよ!』
『な、なんですって?!』
森博士は目を丸くするしかなかった。そんなバカな。伊藤総理大臣たちなら、絶対に章子内親王を守ろうとするはずなのに。
『どうしよう。ロシアと日本が戦うとしたら、絶対軍艦同士の戦いになるわ。それなのに、章子が軍艦に乗ってるなんて……。ねぇ、ドクトル森?ドクトルって、章子の通っている学校の校長先生だったんでしょ?何か知らない?章子は、どの軍艦に乗っているの?章子はどこにいるの?ねぇねぇねぇ!』
『と、おっしゃられましても……』
騒がしい子犬のように質問を連発するマリー妃にタジタジとなりながら、森博士は返答した。
『私が軍医学校を退職した時は、増宮さまの実習先がまだ決まっていなかったのですよ』
『そうなのね……』
更に何か言おうとしたマリー妃の後ろから、『妃殿下、その辺で。次のご予定に間に合いません』と言いながら、侍従が現れた。どうやら、知らせを聞いた彼女は、章子内親王の旧知である森博士の所に、取る物もとりあえず駆け付けたようだ。
『ごめんなさいね、ドクトル。もう帰らなくちゃ。もし何か、日本から章子のことについて知らせて来たら、私に教えてちょうだい』
『かしこまりました。必ず』
森博士が恭しく返答すると、マリー妃は名残惜しそうに所長室を去っていった。
「何ということだ……増宮さまが軍艦に乗っておられる最中に、ロシアが日本に戦いを挑むとは……」
日本語で呆然と呟く森博士に、
「……まぁ、何とかなるでしょう」
マリー妃を案内してきた日本人の研究所職員がこう返す。
「本当ですか……」
松川大佐、と本名を呼ぼうとした森博士を、
「種田です、所長」
中央情報院の機関員の1人である松川敏胤歩兵大佐はこう言って制した。
「き、君の所には、既に情報が?」
「ええ、まぁ」
種田、こと松川大佐はそう言ったきり、口を閉ざした。どうやらこの研究所は、松川大佐や彼と一緒にこの研究所に勤める職員たちの手により、日本の非公式の諜報機関・中央情報院のヨーロッパ方面の拠点の一つとしての機能を持たされたようなのだけれど、松川大佐たちは、中央情報院の活動については、全くと言っていいほど語らない。それは、諜報機関に携わる者として当然の態度なのだろう。現に、10年以上、梨花会の医科分科会で、大山巌歩兵大将と親しく接していながら、彼が中央情報院の総裁であることも、いや、中央情報院というものが存在していることも、森博士は知らなかったのだから。
(そういうものなのだろうな、諜報機関というものは……)
一人で納得する森博士に、
「所長が心配なさっている結果にはならないよう、手は打っています。ですから、所長は存分に、ビタミンの研究に励んでください」
種田職員は、微笑しながら頷いたのである。
一方そのころ、ドイツにあるプロイセン王国の首都・ベルリン。
「何っ?!ロシアが日本と国交を断絶しただと?!」
ベルリン中心部にある王宮。その中にある執務室で、報告を受けたドイツ帝国皇帝・ヴィルヘルム2世は片方の眉を跳ね上げた。
「はっ」
報告しているのは、帝国宰相のベルンハルト・フォン・ビューローである。外交での実績を積み重ねている彼は、いわゆる極東地域――特に、朝鮮を中心とする情勢に注意を払い、各種の情報を集めていた。
「“自在丸”の補償交渉を、昨日、ロシアが一方的に打ち切り、日本側に国交断絶を通告したようです。ロシアの日本公使館の職員たちは、このベルリンに向かっているそうで……」
「彼らに便宜を図ってやれ。無論、日本側でもやるだろうが」
「それはもちろん」
ビューロー宰相は皇帝に冷静に返答すると、
「ロシアが日本との国交断絶を通告した1時間後、いや、数十分後に、ロシアがウラジオストック港で、日本の貨物船2隻を撃沈しました」
と更に報告を続けた。
「何と……信じられん。ロシアの仮想敵国は清だろう?それなのに、日本を攻撃するとは……ニコライは気が狂ったのか?」
右の手のひらを額に当てた皇帝に、
「更に、容易ならざる、……特に陛下にとっては容易ならざる情報が入っておりまして」
ビューロー宰相は声を潜めて告げた。
「何だ?」
皇帝は不機嫌そうに応答する。ロシアが朝鮮を領有しようとしているのは気に入らない。その上、ロシアが日本を攻撃するのは、皇帝にとっては許し難いことだ。苛立ちを隠せない皇帝に、ビューロー宰相はこう告げた。
「ロシアの太平洋艦隊の総司令官・アレクセーエフが、“攻撃の矛先を清から日本に変え、日本の増宮殿下が乗った軍艦を拿捕し、増宮殿下の身柄を献上する”と、サンクトペテルブルクに打電したそうです。それを見て、ニコライ陛下が日本との開戦を決断したとか」
「なっ?!」
「今、増宮殿下は軍医学校の実習で、“日進”という巡洋艦に乗り、朝鮮の鎮海湾に滞在しているそうで……」
握りしめたヴィルヘルム2世の拳と、漢字の八の字型の立派な口ひげが、小刻みに震えている。と、皇帝の拳が、急に肩の上に上がり、
「おのれ、ニコライ!」
すぐに勢いよく執務机に叩きつけられた。
「あの美しく聡明で、繊細な心を持った、女神のような高貴な姫を、凌辱しようとするとは!」
キッと見上げた皇帝の視線の先には、一枚の絵がある。“世界の諸国民よ、美しい日本の女神を守れ!”という題のその絵の中では、日本を代表する女神・天照大神が、ドイツのゲルマニア、アメリカの自由の女神、フランスのマリアンヌ、イギリスのブリタニア、そして、中国の西王母、ハワイのペレなど……世界各国を擬人化した女神や、その国を代表する女神たちの輪に迎え入れられている。日本の天皇陛下の第4皇女・増宮章子内親王と、メクレンブルク・シュヴェリーン大公国の公子であるフリードリヒ・ヴィルヘルムの哀しくも美しい恋の結末を知り、居ても立っても居られなくなった皇帝自身が原画を描いたこの絵の中の天照大神は、もちろん章子内親王をモデルとして描かれていた。
「ニコライ、朕は絶対にお前を許さんぞ!絶対にな!」
再び右手を握りしめた皇帝は、「宰相!」と叫んだ。
「はい」
「先日、ポーランドで、ロシアからの独立を企てている一団がいると言っていたな?」
「仰せの通りです」
事務的に答えた宰相に、
「支援しろ。軍を動かしても構わん」
皇帝は力強く命じた。
「それから、オーストリアと、イタリアにも連絡しろ。艦隊を黒海と地中海に出させるのだ。ああ、あとオスマン帝国にも声を掛けろ。ロシアとの国境地帯から、ロシアに陸軍を……」
「お言葉ですが、陛下」
ビューロー宰相が軽くため息をついた。「オスマン帝国には、ロシアに攻め込めるだけの財力がありません。せいぜい、ロシアとの国境地帯で軍の演習をさせるのが関の山でしょう」
「む……それもそうか。ならば、我が軍をポーランドに攻め込ませるか?」
「おそれながら、やめる方がよろしいかと」
アフリカとは違い、ヨーロッパの領土を奪取するのは、人手も金もかかってしまう。得る物よりも失う物の方が多いのだ。それを考えれば、ポーランドに直接手を出すのは避けるべきである。その考えの下での発言だったが、
「なぜだ、なぜだ宰相!」
やはり何かと好戦的な皇帝は、宰相に食って掛かった。
「あの美しい女神の危機なのだぞ!騎士として、助けなければいけないではないか!」
皇帝の発言は、何かがおかしかったが、しかしビューロー宰相は、冷静にこう返した。
「陛下のお気持ちは重々承知しておりますが、ロシアは兵隊の数が多い。このヨーロッパに50万いるロシアの兵、我が国とオーストリアが協力して当たっても、すぐに消滅させられる人数ではございません。もたもたしているうちに、冬将軍に逆襲されてしまうでしょう。それに……」
ここが肝心だ。ビューロー宰相は、可能な限り真面目な表情を作ると、皇帝に進言した。
「増宮殿下は、お優しいお人柄と聞き及びます。もし陛下がポーランドに兵を動かし、ロシア兵を殺戮したと知れば、その繊細なお心を痛められるでしょう。よろしいのですか?ニコライのように、陛下が増宮殿下に嫌われても」
すると、
「くっ……確かに、お前の言う通りだ、宰相」
皇帝・ヴィルヘルム2世は両肩を落とした。「いくらニコライの手下どもでも、朕の手によって血が流れれば、あの姫君は涙されるであろう。それではこの朕が、ニコライと同類の悪魔となり果ててしまう」
「はい、その通りです」
頷きながら、これで無駄な出費は抑えられるとビューロー宰相は胸をなでおろした。あのイギリスは、2億ポンド以上もの莫大な戦費を、先年のボーア戦争で費やしたらしい。この偉大なドイツ帝国が、イギリスと同じような轍を踏んではならないのだ。もちろん、ロシアと同じ側に立つのも、昨今の国際情勢を考えると下策である。ここは素知らぬ顔をしつつ、ロシアの戦争を邪魔してやるのが最上だろう。
「だが、直接に血を流すこと以外のことはやるのだぞ、宰相よ。ドイツ・オーストリア・イタリア・オスマン帝国……この4国で、ロシア兵50万をポーランドに釘づけにするのだ」
「承知いたしました、陛下」
皇帝の命令が自分の思う所と一致したのを確認したビューロー宰相は、恭しく皇帝に返答したのだった。
もうやだ、この欧州……。




