閑話 1904(明治37)年大暑:2人の決意
※誤字を修正しました。(2023年9月11日)
1904(明治37)年8月5日金曜日、午後8時30分。
皇居内の会議室には、梨花会の面々が召集されていた。
もちろん、会議室の上座には、天皇皇后が並んで座っている。その両脇に並んだ席の一番上座には、皇太子の嘉仁親王と、有栖川宮家の当主である威仁親王が向かい合って座を占めている。以下、伊藤博文内閣総理大臣、山縣有朋枢密院議長など、国家の要職を占める者たちが顔を揃えていた。百戦錬磨、経験豊富な出席者たちも、伝えられた驚くべき情報に、流石に顔を青ざめさせていた。青山御殿の別当で、中央情報院の総裁でもある大山巌など、うつむいたまま一言も発しない。その手は小刻みに震えていた。
「えらいことになってしもた……」
上座の方で、手だけでなく、身体をカタカタと震えさせているのは、三条実美公爵だ。
「わし……わし、増宮さまが華燭の典を挙げられるのを楽しみにして生きとったのに、なんでこんなことになるんや……」
「それは私も同じです、三条さん」
前司法大臣で、貴族院議員でもある山田顕義が、沈鬱な表情で頷いた。「大津事件の時、あんなに愛らしい寝顔を見せておられた増宮さまを、ニコライが奪うなど……絶対に、絶対にあってはならないことです」
「その通りだ、市之允。しかしニコライめ、まさかアレクセーエフの誘いに乗ってしまうとは……とんだ暗君だな」
山縣枢密院議長はそう言うと、鋭い目で虚空を睨みつけた。
“これを機に、朝鮮ではなく、日本に攻撃の矛先を変えるべきだ。日本と開戦した暁には、増宮が乗った“日進”を拿捕し、増宮の身柄を陛下に献上したい”――アレクセーエフが露都に発した電信の内容は、発信とほぼ同時に、中央情報院でも掴んでいた。この幼稚な誘いに、一国の皇帝が乗ることはまさか無いだろうと思いながらも、日本政府は念のためにロシア駐在の栗野公使に注意を呼びかけ、万が一国交断絶をロシア側に言い渡されたら、公使館員とともにベルリンに退去するよう指示した。また、国交断絶になった場合、ロシアに滞在している日本人を保護するよう、オランダとスイスに依頼し、両国とも快く引き受けてくれた。しかし、国交断絶など、現実にはならないだろう。日本政府の誰しもがそう考えていた。ところが、……その予想が、斜め上の方向に裏切られてしまったのである。
ちなみに、東京のロシア公使館は、一連の動きはまるで掴んでおらず、本国から国交を断絶するように指示が来て、大騒ぎになってしまったらしい。19時に外務省にやってきたロシア公使は、青ざめた顔で陸奥宗光外務大臣に国交断絶を通告したのだった。
「本当になぁ、狂介よ」
前農商務大臣で貴族院議員でもある井上馨が、昔からの同志の言葉にため息をついた。「しかも、奴らの攻撃目標が“日進”だぁ?!……ふざけるのも大概にしやがれっ!」
「それには全面的に賛成ですが、いかにして増宮殿下を救い出すか、ですな。身代金を払うなどは下策ですし、相手が約束を履行するかどうかも怪しい……」
雷のような井上の怒鳴り声に、重々しく応えたのは松方正義大蔵大臣だ。資金の動きに絡む様々な計略で、ロシアを翻弄し、その軍事力を低下させていた彼も、余りの事態の急な動きに、顔を強張らせていた。
「鎮海湾にいる艦隊には、連合艦隊編成を組むように昨日命じたが、もし、敵方の水雷艇や駆逐艦が、鎮海湾を夜襲したら……」
伊藤総理大臣が頭を抱えた時、
「……総理大臣、頼みがある」
嘉仁親王は、隣に座った伊藤総理大臣に真剣な表情で言った。
「俺を……俺を出征させて欲しい!」
「そ、それは……」
伊藤総理大臣のみならず、列席の臣下一同、驚愕に顔を引きつらせる。
「明宮さん……」
上座の皇后が立ち上がる。驚きで見開かれたその目から、一粒涙がこぼれ落ちた。
「頼む、総理大臣!」
嘉仁親王は椅子から立ち上がると、伊藤総理大臣に向かって深く頭を下げる。「梨花は俺を、自分の全てを使ってでも守ると言った。……だから俺も梨花に誓ったのだ!愛しい妹は、この手で守り抜くと!」
「皇太子殿下……」
座ったままでいる訳にはいかない。伊藤総理大臣も立ち、嘉仁親王に向き直った。
「頭を上げてください」
「断る。総理大臣が俺を戦に出すと言うまで、この頭など、いくらでも下げ続けて……」
「ならん!」
突如、上座から大音声が轟く。天皇である。憤然として立ち上がった天皇は、長男のそばに足音高く歩み寄り、下から左手で長男の襟首を掴み、無理やり上体を起こさせた。
「お父様?!」
「絶対に許さんぞ、嘉仁」
「どうかお許しを、お父様!たとえ俺が死んでも、天皇の位は裕仁が継げます。雍仁も輝仁もいる。だから……」
俺に出征の許しを、という嘉仁親王の叫びは、ピシッ、と響いた高い音に中断された。自分の襟首を掴んだ天皇に、頬を平手で打たれたのだ。思わぬ衝撃に、少しよろめいた嘉仁親王の身体を、
「馬鹿者!」
天皇はきつく抱きしめた。
「朕と美子に、2人も子を喪えと言うのか?!かけがえのない我が子を、2人も……」
「お父様……」
「これ以上、朕と美子を困らせるな、嘉仁……」
父親の声が涙に濡れていることに気が付いた嘉仁親王は、口を噤まざるを得なかった。逆上せていた頭を冷やして考えてみると、自分が戦場へと動いてしまえば、警備が大変なことになってしまう。まして、自分が愛しい妹と同じ軍艦に乗ってしまえば、更に、万が一自分が命を落としてしまえば、その影響は、計り知れないほど巨大なものになるだろう。
(くっ……梨花、すまぬ……)
嘉仁親王が歯を食いしばった時、
「伊藤閣下」
会議室で声を上げた人物がいた。国軍大臣の山本権兵衛である。
「天皇陛下の御宸襟、そして皇后陛下と皇太子殿下の御心を、斯様に悩ませたる責は、増宮さまの“日進”での実習を許可した私にあります。その責任を取り、大臣の職を退かせていただきたいと……」
「待て、山本大臣!」
父親に抱き締められたままの嘉仁親王が、山本国軍大臣の方を振り向いた。「わたしのことは気にするな!それに、山本大臣が今辞職をすれば、国軍はどうなるのだ!」
「皇太子殿下のおっしゃる通りです!」
末席の方で立ち上がったのは、厚生次官の後藤新平だ。「ロシアとの開戦が予想される局面での大臣辞任は、国軍将兵への影響も大きいかと愚考します!」
「私も、後藤閣下のおっしゃることに賛成致します。“史実”通り、国債を発行して戦争資金を調達せざるを得ないことになれば、軍の上層部の人事交代は悪影響です。“戦争が上手く行っていない”と投資家たちに見なされ、国債の売れ行きが落ちる要因になります」
高橋是清大蔵次官も、声を励ましながらこう言った。“史実”の日露戦争では、およそ18億円の戦費が掛かった。国家予算の5、6倍もの戦費は、税収入だけでは当然賄いきれず、国債を発行して調達した……“史実”の記憶を持つ伊藤総理大臣や斎藤実参謀本部長からはそう聞いている。金が調達できなければ、戦争は出来ないのだ。
「影響を受けるのは、国軍の将兵や、海外投資家だけではありません。やはり、我が国の国民にも悪影響が出る可能性を考慮しておかなければ……」
そう言い始めた農商務次官の牧野伸顕を、横から右手を伸ばして制した人間がいた。原敬厚生大臣だ。
「原閣下?」
怪訝な表情をする牧野農商務次官に、原は黙って顎をしゃくる。彼が示した先には、揃って獣めいた笑みを見せる桂太郎国軍次官、斎藤参謀本部長、児玉源太郎東宮大夫兼東宮武官長がいる。そして、辞職を申し出た本人である山本国軍大臣も、顔に微笑を浮かべていた。見渡せば、内務大臣の黒田清隆、外務大臣の陸奥宗光、文部大臣の西園寺公望、立憲改進党党首の大隈重信など……後藤・高橋・牧野の3人以外の全員が、微かに頷いている。
「伊藤さん、……この虎どもに翼を付けて、野に放ってしまいますか?」
中央情報院の大山総裁が、伊藤総理大臣の方を向いてニヤリと笑う。
「そうするより仕方が無いでしょうな……」
伊藤総理大臣は、唇の両端を一瞬上げると、
「西郷さん、頼んだ」
“机の上に置いてあるしょうゆの小瓶を取ってくれ”とでも言うような、非常に気軽な調子で依頼した。
「かしこまりました」
前国軍大臣、今は皇孫たちの輔導主任を務めている海兵大将の西郷従道は、伊藤総理大臣に一礼すると、
「権兵衛!桂!児玉!斎藤!」
自分の後輩たちを呼んだ。
「「「「はっ!」」」」
呼ばれた4人が頭を下げると、西郷大将はにっこり微笑んで、
「頼んだぞ」
と言う。
「「「「はいっ!」」」」
4人が嬉々として返事をすると、
「え、ええと……?」
切れ者として知られる後藤も、戸惑わざるを得なかった。
「つまり、どういうことでしょうか……?」
つぶらな瞳を更に丸くしている高橋大蔵次官に、
「西郷さんが国軍大臣、山本君が国軍次官、桂君が大臣官房長兼軍務局長」
歌うような調子で教えたのは、三条実美公爵だった。「児玉君と斎藤君は……どっちが参謀本部長や?」
「私が次長になりましょう。この戦、我が国の主戦場は海ですから、斎藤の方が参謀本部長に適しています」
三条公爵の質問に答えたのは、児玉東宮大夫兼東宮武官長だ。「次長の方が、中央情報院にも首を突っ込みやすい。無礼なニコライを、思い切り後悔させてやりましょう」
「こ、これは……国軍大臣の山本閣下が次官に、次官の桂閣下が大臣官房長兼軍務局長ということは……お2人とも、降格するということになるではないですか?!」
牧野農商務次官が眼を剥くと、
「ほう、流石の牧野君でも、柔軟に対応出来なかったようだね」
陸奥外相がニヤニヤ笑いながら、実に嬉しそうに言った。「この局面では、これが最適解だよ。各人が、その実力を十二分に発揮できる……もちろん僕は賛成ですよ、立憲自由党の総裁として」
「無論、吾輩の立憲改進党も、無礼者のロシアに天誅を加えるため、政府に協力するんである!」
陸奥外相の横から、立憲改進党党首の大隈重信も、力強く断言する。それに合わせて、立憲改進党に属している山田前司法大臣と井上前農商務相が頷いた。
「陛下」
嘉仁親王の隣に立ったままの天皇に、伊藤総理大臣が恭しく一礼した。「国軍大臣に、山本に代わって西郷を任命したいと考えます」
「よろしい、承認しよう」
天皇は首を縦に振り、「しかし、代わりの東宮大夫と東宮武官長、それから迪宮たちの輔導主任を決めなければならないな」と言った。
「私の後任は、奥歩兵中将がよろしいかと」
新しく参謀本部次長になることが決定した児玉が進言する。奥保鞏。指揮統帥に優れていると評判が高く、現在は参謀本部付きの中将の1人になっている。
「なるほど、ではそうするか。あとは輔導主任だが……」
天皇は数瞬考えこむと、
「乃木にするか」
と頷いた。
「乃木……歩兵中将の、ですか?」
嘉仁親王は首を傾げた。「今、休職しておりませんでしたか?病を養いながら、那須で田畑を耕していたような……」
乃木希典。奥と同じく歩兵中将で、非常に実直な人柄だ。確かに、子を託すのであれば間違いないと思うが、嘉仁親王が心配するのは、彼の病気のことである。万が一、輔導主任の勤務で体調を悪化させてしまったら……そう思うと、彼に輔導主任を依頼するのをためらってしまう。
しかし、
「心配するな。乃木は呼べばきっと来る」
天皇は気にするそぶりを一向に見せなかった。
「しかし、それで乃木中将が体調を崩したらどうします?」
嘉仁親王の質問に、
「章子がいるであろうが」
天皇は不思議そうな顔で答えた。「乃木の具合が悪くなったら、青山御殿から章子を呼んで、治療させればよい」
「確かにそうですが……」
「それにな」
眉をしかめる息子に、天皇は少し得意げに口を開いた。
「あれの名前は希典だ。珠子の称号は希宮……ちょうどよかろう」
「はぁ……」
(まさか、駄洒落で決めてしまったのか、お父様?)
嘉仁親王は、父親の顔を見つめた。父親は得意げな顔を崩してはいない。
(それはないと信じたいが……。まぁ、確かに、体調の心配さえなければ、よい人選だ。申し訳ないが、梨花が戦場から戻って来たら、診察のことを相談してみようか)
そう考えた嘉仁親王は、父親の出した人事案を推すことにしたのだった。
その後、いくつかの事項について打ち合わせを行った梨花会の閣僚たちは、総理大臣官邸に移動して臨時閣議に臨んだ。閣僚ではない者たちは、各々の目的地に去った。有栖川宮家当主で、第3艦隊の前司令官でもある威仁親王もその一人で、午後10時過ぎに霞が関にある自宅に戻った。時間も遅いので、家族は誰も出迎えないだろうと思っていたのだが、彼の予想に反して、長男の栽仁王が、玄関で父の帰りを出迎えた。
「父上、お願いがあります」
この9月で学習院中等科の5年生になる栽仁王は、学習院の夏用の制服を着ていた。その表情は、妙に強張っている。
「どうした?」
尋ねた父親に、栽仁王は、
「父上は、今度のロシアとの戦争に出征されるのですか?」
と驚くべき質問をぶつけた。
(もう情報が洩れているのか?!)
そう威仁親王が考えたのも無理はない。ロシア側が日本に国交断絶を通告したのは、今から約3時間ほど前だ。もちろん、その事実は、まだ公式には発表されていない。威仁親王は、付いて来るように自分の息子に命じると、書斎に入った。長男を来客用の椅子に掛けさせ、職員に人払いを命じると、書斎の扉を閉める。
「栽仁……その話、どこから聞いた?」
怯えさせないように、なるべく口調を穏やかにして、威仁親王は息子に尋ねた。息子の返答次第では、“話を聞いた相手”をたどって、中央情報院に引き渡さなければならない。そう考えた時、
「ロシア公使館が、すごい騒ぎになっていて」
栽仁王はこう答えた。「夕方ごろだったでしょうか。満宮さまのお相手をして、青山御殿から戻って来たら、ロシア公使館からたくさん荷物を運び出しているのが見えたんです。何があったのか、職員さんに見に行ってもらったら、“日本と国交を断絶することになったから本国に戻る”って公使館の職員に言われたそうで……」
(なるほど……)
それで疑問は解けた。この屋敷の敷地の斜め向かいには、ロシア公使館がある。そこでの騒ぎを息子は目撃したらしい。しかし、訪ねてきた日本人に、“国交を断絶したから本国に戻る”と答えてしまうあたり、ロシア公使館の職員の教育は……特に、情報管理に関する教育は、行き届いているとは言えないようだ。
(仕方は無いか。東京のロシア公使たちも、寝耳に水だったと、陸奥閣下がおっしゃっていた)
威仁親王が一人で納得していると、
「だから、僕、出征したいんです!」
栽仁王は驚くべきことを言った。
「栽仁?!」
目を見開いた威仁親王に、
「僕、来月で17歳になります。徴兵されてもいい年齢です。だから僕……今“日進”に乗っていらっしゃる姉宮さまを守りたいんです!士官になれなくたっていい!一兵卒でもいいから、姉宮さまを、おそばで守りたいんです!」
栽仁王は叫ぶように言った。
「ならんっ!」
威仁親王が怒鳴った。「お前は、この有栖川の家の嫡子なのだぞ!お前が死ねば、この家が絶えてしまう。それがわかっているのか?!」
「でも、僕は誓ったんです!一人前の海兵になって、姉宮さまをおそばで守るって!」
栽仁王は、父親を真っ直ぐに見つめてこう叫ぶ。その、澄んだ瞳の光を見て、
(ああ、そうか……)
威仁親王は、数年前の出来事を思い出した。
(確かに、そう言っていたな……)
「父上にお許しいただけないのであれば、山本閣下に、出征を直訴致します!」
御前での光景を頭の中に蘇らせていた父親に、栽仁王は相変わらずの強い語気でこう言う。山本国軍大臣……いや、今頃、山本国軍次官になっているけれど、彼は、この有栖川宮家の教育顧問でもあるのだ。
「……皇太子殿下が先ほど、お前と同じようなことをおっしゃって、陛下に止められていた」
威仁親王が厳しい口調で告げると、栽仁王の口の動きが止まった。
「この父もお前を止める。それに、山本閣下もお前を止めるぞ。もちろん、全力でな」
「なら、押し通るまでです!」
栽仁王は、右手を固く握りしめた。
「……知らんぞ」
威仁親王は、鋭い視線で我が子を見やった。
……そして、栽仁王は父親の教育的指導とともに、急を知って閣議後に駆け付けた山本教育顧問の猛烈な説教を食らい、出征をあきらめざるを得なかったのだった。
※実際には、ロシアに在留している日本人の保護を求めた国はアメリカなのですが、拙作の世界線のアメリカがあの辺に興味を示しているかよく分からなかったので、このようにしてみました。




