閑話 1904(明治37)年大暑:混乱の宮殿
1904(明治37)年8月5日金曜日午前9時、ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルク近郊にある、アレクサンドロフスキー宮殿。
「陛下、ご決断ください!」
この国の皇帝・ニコライ2世の執務室で叫んでいるのは、外務大臣のウラジーミル・ニコラエヴィッチ・ラムスドルフである。前内務大臣兼大蔵大臣のセルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテの盟友である彼は、ロシア帝国が朝鮮に手を出す危険性を熟知していた。朝鮮にロシアが侵攻すれば、朝鮮の宗主国である清が必ずロシアに戦争を挑んでくる。清の陸軍は近代化されており、ロシアが極東地域に配備している陸軍50万人と同人数の50万人が本土に、更に8万人が朝鮮に配備されている。清の海軍力はロシア太平洋艦隊に劣るが、それでも、日本の富士型戦艦とほぼ同設計の戦艦・“寧遠”を1899年に配備し、イギリスの斡旋でチリから買い入れた“安遠”・“建遠”の2隻の軍艦を、つい先日、清の艦隊本拠地である旅順港に入港させた。また、旧式ながら“定遠”・“鎮遠”の2隻の軍艦も健在であり、侮れない勢力を保持していた。
そして、忘れてはいけないのは、清は日本と同盟しているのだ。日本は、新鋭の戦艦を6隻有している。高性能な巡洋艦もそろえている。清とロシアが戦争になれば、必ず日本海軍はロシア太平洋艦隊を攻撃する。戦艦5隻・巡洋艦12隻の威容を誇る太平洋艦隊ではあるが、日本艦隊の攻撃を無傷で切り抜けられるとは思えない。
そこに、太平洋艦隊の“自在丸”撃沈事件である。……いや、太平洋艦隊のアレクセーエフ総司令官は、撃沈したのは清の巡洋艦“平遠”であるという主張を崩していないが、清に駐在しているロシア公使館の職員も、“平遠”が旅順で健在であることを確認している。また、日本の公使館員の調べでも、日本の客船“自在丸”が太平洋艦隊に撃沈されてしまったことは疑いようのない事実であることが明らかで、アレクセーエフがウソをついていることは証明されてしまっていた。
そして、非武装の客船を太平洋艦隊が撃沈したことに対する批判は、世界各国で高まっている。フランス以外の欧米各国はもちろん、ロシアと同盟を結んでいるフランスですら、ロシアに対して冷ややかな論調が主流になっている。もし、今、ロシアが対外戦争を始めたら、どこの国も……同盟国のフランスですら、ロシアを支持しないだろう。
ラムスドルフ外相の横で、
「アレクセーエフを解任なさいますよう!」
彼と同じように叫んだのは、内務大臣のヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ・プレーヴェだ。ウィッテ前内務大臣とは違い、朝鮮の王位継承者・義和君の身柄を手に入れたり、朝鮮の元山で蜂起した“朝鮮義勇軍”にアレクセーエフと共に関わったり、朝鮮に対しては積極的な姿勢を取っていた彼だが、事態の変化に、自らの政策が成り立たないことを悟った。朝鮮義勇軍を支援するため、元山に巡洋艦“ノーウィック”と“ワリャーグ”を派遣したところ、フランス以外の欧米各国の強烈な抗議を受けた。しかも、太平洋艦隊が“自在丸”を撃沈してしまったことで、ロシアに対する風当たりは更に強くなっている。この状況では、たとえ朝鮮がロシアの支配下に入ったとしても、イギリス辺りに介入されてしまい、領土の返却を求められてしまう可能性もある。
(これ以上、朝鮮に関われば、ロシアは国際的に孤立する。ここは、速やかに“自在丸”撃沈の事実を認めて日本に謝罪と補償を行い、朝鮮からはいったん手を引くべきだ)
そう考えているプレーヴェ内相だったが、太平洋艦隊のアレクセーエフ総司令官は、頑なに“自在丸”撃沈の事実はないと主張するばかりだ。艦隊の幕僚の1人によれば、濃霧の中、ろくに相手の艦を確認せずに“自在丸”への攻撃を命じたのは、他ならぬアレクセーエフ自身だったということだ。プライドの高いアレクセーエフのことだ、“自在丸”を撃沈したと認めることは、己の矜持が許さないのであろう。
(ならば、アレクセーエフを解任するしかない!そして、新しい太平洋艦隊の総司令官が、前任者の非を認めて謝罪すればいい。そうすれば、謝罪と補償の話も前に進められる!)
そう考えたプレーヴェ内相は、珍しくラムスドルフ外相と共同戦線を張り、皇帝にアレクセーエフを解任するよう、連日求めていたのだった。
しかし、
「解任しなければならないほどの罪を、アレクセーエフは犯したのか?」
内相と外相が口を極めて説明しても、皇帝の反応は薄かった。
「もちろんでございます」
先月から何十回も繰り返しているセリフを、ラムスドルフ外相はまた口にした。
「プレーヴェよ、お前は以前、“朝鮮はロシアの支配下に入れなければならない”と言っていたではないか。そのために、太平洋艦隊の総司令官には、アレクセーエフを就けるのが適任であると」
「確かに申しましたが、あの時とは状況が変わっております、陛下」
プレーヴェ内相も、何度も行った説明を繰り返した。「現時点での諸外国からの非難の強さ……このままでは我が国は国際的に孤立します。例え朝鮮が奪取できても、今の状況では、他国、特にイギリスの介入を招きます。折角取った朝鮮を、イギリス領にされてしまう可能性もあるのですぞ」
「内務大臣の言う通りです」
ラムスドルフ外相も語気を強める。「我が国が血を流した挙句、奪い取った朝鮮を取り上げられてしまうなど、我が国の損にしかなりません。日本・清・イギリスを刺激しないよう、“自在丸”撃沈に関する我が国の非を認め、日本に相応の補償を行い、朝鮮からも手を引くべきです。しかし、アレクセーエフが既に明らかになっている非を認めない……イギリスは厄介です。ここぞとばかりに他のヨーロッパ諸国にも呼びかけ、我がロシアの領土を分割するようなこともやりかねません。このままでは、アレクセーエフ1人のために、このロシアを滅ぼすことになります!」
「外務大臣の言は正しい。ですから陛下、ご決断を!」
プレーヴェ内相が叫んだ時、執務室の扉がノックされ、皇帝の侍従が入ってきた。手に何枚かの紙を持っている。
「太平洋艦隊の、アレクセーエフ総司令官からの電信です」
そう伝えた侍従から紙を受け取ると、皇帝は文面に目を通し始めた。
すると、
「ほう……」
電文を読み進めていく皇帝の頬に赤みが差した。両の瞳が、異様に輝き始める。非常に喜んでいるのは明らかだった。
(ついに、アレクセーエフが辞意を伝えたか?!)
(アレクセーエフがやめたか……これで、補償の話が前に進められる。だから陛下もお喜びになっているのだ)
安堵した外相と内相に、
「見てみよ」
皇帝は電文を渡す。読み進めていく外相と内相の顔は、今度は驚愕にゆがめられた。
「これを機に、朝鮮ではなく、日本に攻撃の矛先を変えるべきです」
アレクセーエフ総司令官からの電文には、“自在丸”を撃沈したことへの謝罪の言葉も、もちろん、自らの辞意を表明する文章もなかった。これだけでも呆れるしかなかったが、電文には更に驚くべき言葉が記されていた。
「今、朝鮮南岸の鎮海湾に停泊する日本艦隊の中に、陛下が愛する増宮が乗った巡洋艦・“日進”がいます。日本と開戦した暁には、我が太平洋艦隊の総力をもって“日進”を拿捕し、増宮の身柄を陛下に献上したく存じます」
「何を考えているんだ、アレクセーエフは!」
皇帝の前であることは承知していたが、ラムスドルフ外相はこう叫ばずにはいられなかった。「女目当てで戦争を起こして、納得する人間がいるか!」
「そうだ!しかも今、あの姫の側には、新島八重という、大山よりも危険な女がいるのだぞ!」
「誰だ、それは?」
プレーヴェ内相が言った“新島八重”という人名に、ラムスドルフ外相は聞き覚えが無かった。確認すると、内相の顔がたちまち青ざめた。
「知らないのか?!日本の古都・京都で英学校を開いた者の未亡人だが……その女、あの大山に戦場で狙撃を成功させ、負傷させたことがあるのだ」
日本最後の陸軍大臣・大山巌は、ロシアの中枢部では“日本最強の人間”として認識されている。ロシア軍50万を投入しても、彼ひとりには勝てないだろうとまで囁かれていた。そんな人間に、狙撃を成功させた者がいたとは……。
「それは……それは、全ロシア軍100万人を対峙させても、その女に勝てないではないか!」
内相の言葉を聞いたラムスドルフ外相が、恐怖の叫びを上げた。「それでは、わが軍の負けは確実……アレクセーエフ、我が国を滅ぼす気か?!」
と、
「しかし、その女とて、海上では無力であろう?」
なぜか指摘したのは、彼らの皇帝であった。
「陛下?」
プレーヴェ内相が首を傾げると、皇帝は更に、
「そして、“日進”を拿捕すれば、私の可愛い姫が手に入るのだろう?」
明らかに浮かれた調子で付け加えた。
「陛下、落ち着いてください!」
ラムスドルフ外相が、目を怒らせながら言った。「陛下が増宮殿下を気に入っておられるのは存じておりますが、女性目当てで戦争を起こすなど、野蛮人の所業ですぞ!」
「そうです!しかもあの姫は軍医、日本の法律で、外国人との婚姻を禁じられています!あのような進んだ女、しかも異教徒を娶れば、皇太后陛下も絶対反対なさいますし、他の皇族や貴族、他国の王室からも抗議が殺到するのは、火を見るよりも明らか……」
「しかしプレーヴェ、日本を打ち負かし、講和条約で可愛い姫を私に嫁がせると決めてしまえば、法律などすべて打ち壊せる。もし日本が反対するなら、圧力をかけてその法律を改正させればいいのだ」
口を極めて抗議するお気に入りの内相に向かって、皇帝はなぜか、理路整然と説明し始めた。「私は寛大だから、日本に勝利しても、賠償金など請求せず、可愛い姫だけで済ませてやる。講和条約の条件として、姫が私の元に嫁ぐのなら、ママも反対はしない」
「正気ですか、陛下……」
プレーヴェが思わず発してしまった問いに、
「もちろん!」
皇帝は上機嫌で答えると、こう命じた。
「ラムスドルフよ、日本との交渉を打ち切って、国交を断絶しろ。日本と闘う!」
△△△
この当時、大臣委員会議長という閑職に追いやられていたロシアの前内務大臣兼大蔵大臣・セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテは、後に1904年8月初旬のことを振り返り、回想録にこう記した。
「私はラムスドルフからその恐るべき報を聞き、手にしたティーカップを取り落としてしまった。我が国は、朝鮮の宗主国である清を仮想敵国にしていた――そのはずだった。しかし今日、勅令で下されたのは、日本との開戦であるという。私は耳を疑った。そして、海戦が決定された理由が、今鎮海湾にいる増宮殿下の身柄を押さえたいというものであると聞かされ、開いた口がふさがらなかった。
確かに、日本の増宮殿下は美しく、当代きっての才女であることは疑いようがない。しかし、それを妻にしたいから戦を仕掛けるというのは、ラムスドルフやプレーヴェが言うように、完全に野蛮人の所業である。例え日本が異教徒の国であるにしても、だ。
何とかしなければならない。我が祖国を滅亡させないために。その思いが、私を強く突き動かした……」
※安遠・建遠は実際のイギリス・スウィフトシュア級戦艦2隻に相当します。




