閑話 1904(明治37)年大暑:別館の十人
1904(明治37)年7月30日土曜日午後5時、東京・赤坂御料地。
赤坂御料地には、皇太子夫妻の住居である花御殿、花御殿と廊下でつながった皇孫御殿、そしてその2つの御殿から歩いて10分ほど離れた距離にある青山御殿、合計3つの屋敷が建っている。青山御殿の居住者は、今上の第4皇女・満21歳になる増宮章子内親王と、第5皇子で満10歳の満宮輝仁親王の2人で、姉の章子内親王は、現在軍医実習生として、朝鮮・鎮海湾に停泊している巡洋艦“日進”に乗り組んでいた。
その青山御殿には、本館とは別に、2階建ての洋館が建てられている。表向きは青山御殿の職員が詰める“別館”という扱いになっているその建物は、その実は、日本の非公式の諜報機関である中央情報院の本部である。今月に入ってから、その建物の中での動きは、非常に活発になっていた。
今、その中央情報院の会議室に、10人の人間が顔を揃えている。
青山御殿の別当を務め、中央情報院の総裁でもある大山巌歩兵大将。
青山御殿の同じ敷地内にある皇孫御殿で、迪宮裕仁親王・淳宮雍仁親王・希宮珠子内親王の輔導主任を務めている西郷従道前国軍大臣。
東宮大夫と東宮武官長を兼任している、児玉源太郎歩兵中将。
現在の国軍大臣である、山本権兵衛海兵中将と、国軍次官である桂太郎歩兵中将。そして、参謀本部長の斎藤實海兵少将。
更には、内閣総理大臣の伊藤博文、前内閣総理大臣で枢密院議長の山縣有朋、与党・立憲自由党総裁で外務大臣の陸奥宗光……。座を占めているのは、実力もあり、経験も豊富な、日本国内で、いや、世界でも一流の部類に入る人物ばかりだった。
「さて、……いかがですかの、陸奥さん、交渉の具合は」
のんびりと尋ねたのは、西郷前国軍大臣だった。今は皇孫たちの輔導主任を務めているが、この別館にはしょっちゅう出入りしており、最新の国内外の情勢は把握している。
「なかなか難しいですね」
陸奥外務大臣はそう答えると、整った顔をわずかにゆがめた。
西郷前国軍大臣が“交渉”と言ったのは、今月の4日、日本海を航行中、ロシアの巡洋艦に砲撃を受け沈没した大家商船合資会社の所属の客船・“自在丸”に関係する補償の交渉のことだ。幸い、現場海域を1時間後に通りかかったアメリカ船籍の貨物船に、生存者23人が救助された。
ところが、小樽の役所からの一報で、国軍省と外務省の担当者が入院中の生存者から事情聴取を行おうとした矢先の7月7日、
――我々は、さる4日の午前4時ごろ、ウラジオストック南方の海上で、清の巡洋艦“平遠”を撃沈した。“平遠”はウラジオストックの偵察を行っており、我々に攻撃を仕掛けたため撃沈した。
と、ロシア太平洋艦隊が発表したという情報がもたらされた。
驚いたのは日本の外務省……いや、閣僚・省庁全てである。ロシア太平洋艦隊の発表した敵船撃沈位置・そして時刻とも、“自在丸”の沈没位置と時刻に一致する。
――貴国の太平洋艦隊が公海上で撃沈したのは、清の巡洋艦ではなく、我が国の非武装の客船である。アメリカ船籍の貨物船に生存者が救助され、小樽の病院に入院している。我が国は貴国に対し、謝罪と、客船の船主、そして死亡者・生存者に対する補償を要求する。
陸奥外務大臣は、直ちに駐日ロシア公使に厳重に抗議し、駐ロシアの日本公使もロシア外務省に同じ要求を行った。
また、このロシア太平洋艦隊の発表を聞いた清も、
――我が国の“平遠”は、旅順で健在である。貴国は我が国を敵対国として認定するのか。しかも、公海上で日本の非武装の客船を攻撃し撃沈するとはいかなる訳か。
と、ロシアに厳重な抗議を行った。
もちろん、日本でも清でもこの事実は報道され、この両国の国民の対露感情は最悪になっている。更に、日本に派遣されているスペインの新聞記者が、小樽で入院している“自在丸”の生存者に、沈没当時の状況を取材することに成功し、その記事が電信で世界中に配信されると、フランスを除く欧米各国でも、ロシアを非難する声が高まった。このため、太平洋艦隊の報告を受け、清との開戦準備に本格的に入っていたロシア中枢部は、慌ててその動きを止め、ラムスドルフ外務大臣が事態収拾に乗り出したのだが……。
「ロシアの中枢部は、この事件を何とか解決しようと躍起になっています」
陸奥外務大臣は、冷静な声で状況を説明し始めた。「“自在丸”の船主や乗客・乗務員への補償も、具体的な額を検討し始めています。しかし、下手人の太平洋艦隊が、自分たちの間違いを頑として認めず、“我々が沈めたのは、敵対行動を取った清の軍艦だ”という主張を崩しません。ラムスドルフ外相も困り果てているようだ……とロシア公使の栗野君が報告してきました」
「実際のところ、太平洋艦隊は、自分たちが撃沈した船が何者なのか、ろくに把握していなかったようです」
横から静かに言ったのは、中央情報院総裁であり、青山御殿の主・増宮章子内親王が心から信頼する臣下でもある、大山巌歩兵大将だった。「当時、現場海域に深い霧が出ていたのは、皆さまも御承知おきのことかと思いますが、参謀の1人が、更なる確認を提案したのを、訓練艦隊の指揮を執っていたアレクセーエフ自らが却下し、“自在丸”を“平遠”と決めつけて攻撃を始めたようです」
1889(明治22)年の憲法改正とほぼ同時に創立された中央情報院は、莫大な額の皇室財産をバックにして、世界各地に様々な形で諜報員を送り込んでいる。諜報活動の質と量は、現時点で、間違いなく日本が世界のトップになっており、大山総裁には、世界各国の機密情報が毎日のように送られてくる。彼の主君である章子内親王について、“天眼”を持っているという噂が囁かれているが、本当の所、“天眼”を持っているのは大山ではないか、とも思えるほど、大山総裁は世界のあらゆる情報に精通していた。もちろん、ロシア太平洋艦隊のこのような内部情報も、苦も無く彼の手に入っていた。
と、
「俺のせいです……」
うつむいた山本国軍大臣が、机を右こぶしで叩いた。「俺のせいで、増宮さまが危地に……」
「落ち着け、山本」
上座の方から、伊藤内閣総理大臣が声を掛けた。「責めを負うべきはこのわしだ。増宮さまに対して、わしは何と申し訳ないことを……ああ、やはり責任を取って、直ちに辞表を陛下に……」
「俊輔も山本も落ち着け」
伊藤総理の隣で呆れたようにたしなめたのは、山縣枢密院議長だった。
「増宮さまも、送別会の時におっしゃっていただろう。“万が一戦争になっても、戦場から逃げ出すような真似はしたくない。自分以外の命を出来る限り救って絶対に生きて帰るから、総理としての決断は間違うな”と」
山縣枢密院議長は、今でこそ文官のような顔をしているが、元々は戊辰戦争などで活躍した、日本の陸軍の創成期を代表する軍人である。そんな古馴染みの友人の落ち着いた言葉に、
「分かっている!“汝、我が身を案ずる余り、国家の大略を誤るなかれ”と、増宮さまからも9日に電文をいただいたのだ!だから、この伊藤とて覚悟はしている!」
伊藤総理は両こぶしをぎゅっと握りしめた。「だが辛いのだ!元輔導主任として、増宮さまを戦場になる可能性がある場所に追いやってしまったということが……。分かるか、狂介よ……」
「増宮殿下が生きていらした未来の日本には、兵役が存在しなかった、ということでしたが……増宮殿下がそう覚悟なさったのは、この時代でご修業を積まれたゆえ、でしょうな」
章子内親王と同じく、“史実”で生きた記憶を持つ斎藤参謀本部長がこう呟いた。「俺が理解できないことは、まだまだたくさんありますが……増宮殿下もご努力を積み重ねてこられた、ということは分かりました」
すると、
「それは斎藤君、この伊藤が、御年6歳のころから、手塩に掛けてお育て申し上げたのだ。どう辛く点を付けても、人並み以上の器量はお持ちのはずじゃよ」
伊藤総理はそう言って頷いた。章子内親王が花御殿に転居した6歳の時から18歳の時まで、彼女の輔導主任を務めていたのは、伊藤総理自身だった。
「何を言う、俊輔」
同郷の友人に、山縣枢密院議長が反論する。「幼き頃よりお相手申し上げたのは、このわしとて同じだ。あの素直だが繊細な表現の増宮さまの和歌は、このわしがご教導申し上げたゆえ成り立ったもので……」
と、
「それを言うなら、俺も幼いころの増宮さまは何度も抱っこ致しましたし、増宮さまのご教育のために、東京帝大の手術台に……」
「僕を忘れてもらっては困りますね。殿下に議論のイロハを叩き込んだのはこの僕ですよ」
西郷前国軍大臣と陸奥外務大臣が口々に言う。会議室に緊迫した空気が満ちた次の瞬間、大山中央情報院総裁が、殺気の籠った視線で場をなめ回すように眺める。言い争う態勢になっていた4人が、途端に口をつぐんだ。章子内親王の成長に、家族以外で最も貢献している人物は、誰あろう、この青山御殿の別当であることは、列席の誰もが認める事実だった。
「あの、ところで、大山閣下」
桂国軍次官は、教室で勢いよく挙手する生徒のように、右手を高々と挙げた。何らかの方法で、この場の話題を変えなければならない。そのためには、自分が道化役になっても、会議を進めなければならない。そこまで計算しての、芝居がかった動作の挙手だった。
「もちろん、ロシア中枢への工作も、進んでいることと存じますが……」
「ええ、桂さん。順調に進んでおりますよ」
大山総裁が、まるで出来の良い生徒を見るような目で桂国軍次官を見つめた。「この期に及んでは、対朝鮮政策を積極的に進めていたプレーヴェ内相も、アレクセーエフを太平洋艦隊から追い出そうと考えています。ロシアと同盟を結んでいるフランス以外の欧米各国が、ロシアを最大級に非難しておりますから」
「そこを突いて、アレクセーエフを太平洋艦隊から追い出す。新しい太平洋艦隊の総司令官は、前任者のアレクセーエフに全ての罪をかぶせ、太平洋艦隊が“自在丸”を沈めた事実を認めるでしょう。そうすれば、ロシアから我が国に謝罪と補償がなされ、“自在丸”の一件は収まります。その交渉の間に、元山の反乱軍も、清が片付けられるでしょう。局面がそこまで進めば、増宮さまが日本に戻ることができます」
児玉東宮大夫兼東宮武官長が言う。彼も敷地伝いに青山御殿の別館に出入りし、最新の情報を得るとともに、国際的な謀略にも手を染めている。赤坂御料地は、世界を翻弄する曲者たちが集まる中心地になっていた。
「その意味では、“自在丸”の乗客に、日本人しかいなかったのが惜しかったですね。もし欧米人の1人でも乗り込んでいたら、その客の出身国とともに、強い圧力をロシアに掛けられましたから」
陸奥外務大臣がニヤリと笑う。最近は、昨年生まれた孫を溺愛していることを、新聞や雑誌に取り上げられている彼だけれども、一枚皮をめくれば、豊富な知識と情報を元に事象を様々に分析し、変幻自在な策を立てる謀略家である。今も彼の頭の中には、様々な外交方策が構築されている最中なのだろう。
「ただ、圧力を強められたとしても、アレクセーエフがどう出るか分からんぞ、陸奥どの」
山縣枢密院議長が眉をしかめて言った。「幸い、蔚山で朝鮮の漁船が消息を絶った件は、ロシア側は一切関わっていないということが大山どのの調べで分かったが、本当にロシア側が日本海を航行する船舶に更に攻撃を加える可能性もゼロではないからな」
と、
「卿ら……頼むぞ」
会議室の一番上座、今まで黙っていた人物が口を開いた。列席者が一斉に頭を下げる中、
「梨花も覚悟はしている。……だが、わたしは梨花を、危険な目に遭わせたくないのだ!」
花御殿の主……皇太子の明宮嘉仁親王は、絞り出すような声で叫んだ。
「……わたしも、覚悟はしている」
おりしも、別館のすぐそばにある大木から、アブラセミの鳴き声が聞こえ始める。そのジリジリという鳴き声は、会議室に居並ぶ面々の焦りを煽るかのように、大きくなっていったのだった。




