閑話 1904(明治37)年夏至:自在丸事件
1904(明治37)年7月4日月曜日午前4時、日本海。
海霧深き日本海を南下する、3隻の軍艦の姿があった。ロシア太平洋艦隊に所属する巡洋艦“グロモボーイ”“ディアーナ”“アスコリド”である。母港ウラジオストックを前日夕刻に出港した3隻は、夜間航行訓練のため日本海を南下していた。途中、霧が出てきたが、“訓練にはむしろ好都合”という判断で、霧の中、訓練を続行している。
「ふん、軟弱な中央の役人どもめ」
訓練の旗艦となっている“グロモボーイ”には、ロシア太平洋艦隊のエヴゲーニイ・イヴァーノヴィチ・アレクセーエフ総司令官が座乗していた。朝鮮東岸の都市・元山で騒ぎを起こし、それに乗じて朝鮮を攻めとろうとしていた彼にとって、昨今の情勢……特に、中央からの攻撃停止命令は納得のいかないものであった。
「我がロシア太平洋艦隊の威容をもってすれば、朝鮮など3日で全土占領出来る。再三そう上奏しているのに、プレーヴェの奴め、“国際世論がロシアに批判的だ”という薄っぺらい理由で攻撃を止めおって。全くもって軟弱だ」
「おっしゃる通りで、閣下」
エベルガルツ参謀長が同意して、追従めいた笑い声を漏らす。太平洋艦隊でのアレクセーエフ総司令官の権力は絶大だ。おまけに彼には、先々代の皇帝・アレクサンドル2世の私生児……つまり、実は現在の皇帝・ニコライ2世の伯父であるという噂もある。そのこともあって、太平洋艦隊の幕僚に、総司令官に意見できる者は皆無だった。
「ヴイッテも論外だ。あいつは、あの清の山猿どもや日本と対等に付き合おうとしていた。山猿どもなど、地上から抹殺するか、我らロシア人が奴隷としてこき使うかの2つの未来しかないのだ」
「その通りです。あ奴らが艦隊を持つなど、身の程知らずもいいところですな」
参謀長はそう答えると、薄笑いを顔に浮かべた。
(唯一の問題は、日本の増宮だ。幼い頃から我らが陛下を籠絡し、陛下の判断力を狂わせている。それがために、陛下はプレーヴェの軟弱な意見に同調し、日本を叩き潰す命令をお下しにならない。一体どうしたものか……)
眉をしかめたアレクセーエフ総司令官の思考は、突然響いた「前方に国籍不明船あり!」という兵の叫びで中断された。
「距離、7ケーブル(1300m弱)!」
「無線に応答がありません!」
「発光信号にも返信を認めず!停船命令にも応じません!」
一声ごとに、司令塔内の緊張が高まっていく。「戦闘用意!」という号令が艦内各所に響く。彼我の距離が1000mを切って、漸く相手の艦が、司令塔からも視認できるようになった。動く方向と位置から察するに、ウラジオストックを目指しているようだ。
「あの艦影は、山猿どもの“平遠”に似ていますな」
参謀の一人から出た言葉に、「なるほど」「確かにそうだ」と幕僚たちが同意する。“平遠”は清の装甲巡洋艦である。それがなぜ、夜間にウラジオストックに向かっているのか。
「もう少し接近して、“平遠”かどうか確かめましょうか?」
双眼鏡を覗きながら提案した参謀に、
「“平遠”に決まっている!こんな時間にこの海を航行するとは、あの馬鹿どもめ!」
アレクセーエフ総司令官はこう断言し、
「……先制攻撃だ」
ニヤリと笑った。
「やれ」
「何を?」
一人、話の流れについていけなかった艦長が、総司令官に尋ね返す。すると、アレクセーエフ総司令官は、海図の乗った机を右の拳で激しく叩き、
「やれ!」
と叫んだ。
「“平遠”をやれ!この霧に紛れて砲撃を加えろ!この公海上に、山猿の船がいるのがおかしい!ウラジオストックの偵察に向かっているに違いない!禍根を残さないため、1隻でも多く、山猿どもの船を沈めるのだ!もし向こうに後続船がいたら、それも沈めろ!」
「は、はい!」
総司令官の命令には逆らえない。たちまち艦内には「砲撃用意」の伝令が飛ばされ、砲の照準が前方の艦に合わせられた。もちろん、後続の“ディアーナ”“アスコリド”にも、砲撃用意命令は伝えられている。
そして、午前4時9分。
「撃て!」
巡洋艦“グロモボーイ”から、最初の砲弾が放たれた。
午前4時8分、日本海。
大家商船合資会社に所属する1850トンの汽船“自在丸”は、49人の客を乗せ、敦賀港からウラジオストックに向かう航路を北上していた。この“自在丸”は、数年前から、日本海沿岸の日本の諸都市を回った後、敦賀港からウラジオストックに向かう航路を運航している。以前は朝鮮の元山港にも寄港していたが、今年の2月に元山事件が発生し、元山が“朝鮮義勇軍”に占拠された後は、元山港に寄港することは無くなった。
海上には、濃い霧が立ち込めていた。この時期の日本海では、海水温が気温より低くなり、海霧が発生することがある。ウラジオストックまであと半日、“自在丸”の船長以下、航海士たちは、羅針盤と海図を確かめながら慎重に船を進めていた。
「無線に雑音が入るような……」
操舵室の無線機に張り付いている航海士が声を上げた瞬間、右手前方に光が見えた。日の出の陽光かと思ったが、数が多い。船が航行しているのだろうか。
「近いですな」
「ああ、それに大きい船だ」
船長と航海士が会話を交わした瞬間、その光の合間から黒い煙が立ち上り、ほぼ同時に、轟音が霧を揺らした。
「は?」
「船が爆発した?」
向こうの船を救助に行かなければ、そう船長が思った時、“自在丸”の船体が大きく揺れた。ガラスが床に飛び散り、割れた窓から火が飛び込む。船員たちの叫び声が響く中、轟音と共に船体に更に衝撃が加わる。前方の船が、“自在丸”を攻撃している。彼らが状況を把握した時には、“自在丸”の船体は大きく傾いていた。
「右の船腹に穴が開いた!」
「救命艇を下ろせ!乗客を脱出させろ!」
操舵室から客室のあるエリアへと、船員たちが飛び出していく。寝静まっていた乗客たちも騒ぎに気が付き、廊下に出て来ていた。全員がパニック状態になっており、廊下に座り込んで動けなくなる者、念仏やお題目を唱える者、ケタケタと笑い出している者……中には、飛んできたもので怪我をした者や即死した者もおり、血の匂いが充満した廊下はさながら地獄絵図のようだった。
「くそっ!くそっ!」
飛んできたガラスの破片で額を切られながら、自分たちに無慈悲にも攻撃を加える船から逃れるべく、操舵輪に飛びついた船長は必死に舵を切る。一瞬、霧が晴れ、明け初める空を背景に、冷酷な加害者の姿が露わになった。
(あの国旗は……ロシア――!)
相手の船のマストに翻る国旗を視認した瞬間、操舵室を今まで一番大きな衝撃が襲う。砲弾が直撃したのだ。その直後、命中弾多数を受けた“自在丸”は、日本海の海面へと飲み込まれて行ったのだった。
午前4時15分。
「敵船、沈没していきます!」
ロシアの巡洋艦“グロモボーイ”の司令塔。「万歳!」の叫びが響く中、
「ふん、身の程知らずの山猿めが!」
アレクセーエフ司令長官は、沈みゆく船を睨み付けながら吐き捨てた。
「あの船に後続はいない模様です」
「単独で偵察するつもりだったようですな」
「ふん、衝角を使うまでもなかったか」
次々に言う幕僚たちは、あっけなく得られた戦果に浮かれている。
「乗組員の救助をしますか?」
参謀の提案を、
「放っておけ。あの山猿どもは、おぼれ死ぬのがふさわしい。我々文明人が助けるなど、反吐が出る」
アレクセーエフ総司令官は冷酷に却下した。
「しかし、これで清との開戦は避けられませんな。どのように中央に報告いたしましょうか?」
エベルガルツ参謀長がお伺いを立てると、
「決まっておろう。奴らが我々を攻撃しようとした。我々はそれに応戦して沈めた。それでいいのだ」
総司令官はニヤリと笑った。「これで開戦の大義名分が得られた。直ちにウラジオストックに引き返し、艦隊の整備をする。陸軍にも知らせろ。朝鮮に攻め込む準備をしろ、とな!」
こうして、“戦果”を得た3隻のロシア巡洋艦は、意気揚々とウラジオストックに引き上げていった。
だが、彼らは知らなかった。
彼らが引き上げた1時間後、たまたま現場海域を通りかかったアメリカ船籍の貨物船が、彼らが撃沈した船の生存者23人を救出したことを。そして、救出された者の中に、奇跡的に一命を取りとめた“自在丸”の航海士と船長がおり、“自分たちはロシアの軍艦に理由なく攻撃され、船を沈没させられた”と証言したことを――。
極東に、嵐が吹き荒れようとしていた。
※一応お断りしておきますが、「自在丸」は架空の船舶です。




