助言
1904(明治37)年5月29日日曜日午前11時半、花御殿。
「いとぼいのう……」
4月に生まれたばかりの希宮さまを抱っこした、黒いフロックコート姿のお父様は、顔に満面の笑みを浮かべていた。
今日は、この花御殿で、兄主催の私の送別会が行われる。参加者は私の近しい家族だけ……と言っても、節子さまは産褥から回復しきっていないので欠席する。そこで、花御殿に早めにやってきたお父様とお母様、そして私の弟や妹たちは、まず節子さまをお見舞いし、続いて兄の長女・希宮さまに対面したのだけれど……。
「お上、私にも希宮さんを抱っこさせてください」
亜麻色の通常礼装を着たお母様が、横からお父様に声を掛ける。
「朕が抱き終わったらな」
「……お父様、このやり取りは、これで今日3回目です」
鉄紺のフロックコートをまとった兄が指摘すると、
「よいではないか、嘉仁」
お父様は少し不機嫌そうに答えた。
「朕の初めての……初めての孫娘なのだぞ!少しくらい抱っこさせてくれても、罰は当たらないだろう!」
「あっ、はい」
気圧された兄が思わず身を引く。そんな様子を、私以下、お父様の子供一同は、ニヤニヤしながら見守っていた。
と、部屋の入口に、かわいらしい人影が2つ現れた。お揃いの水兵服を着た、兄夫妻の長男の迪宮さまと、次男の淳宮さまだ。迪宮さまが右手に何本か握りしめているのは、花御殿の庭で咲いていたシロツメクサだろう。弟と2人、お母様の側まで歩いてきた迪宮さまは、
「おばば様、これ、差し上げます」
と、抱えた花束の中から、1本の花を差し出した。
「さしあげます!」
お兄さんの後ろに付いて、淳宮さまも可愛らしい声を張り上げる。
「あらまぁ、綺麗なお花ですね。ありがとうございます、迪宮さん、淳宮さん」
お母様は腰を低くして、迪宮さまからシロツメクサを受け取る。
(ああ、希宮さまも天使だけど、迪宮さまも淳宮さまも本当に天使だなぁ……)
お父様に抱っこされた、生後1か月の希宮さま。お母様に頭を撫でられている、3歳1か月の迪宮さまと1歳11か月の淳宮さま。21歳の叔母にとっては、この3人のいる所、世の中全て天国なのである。
「おじじ様も、差し上げます」
迪宮さまは、今度はお父様にシロツメクサの花を差し出す。淳宮さまが「さしあげます!」と声を張り上げるのも先ほどと一緒だ。
「あ、そうか……美子、すまないが珠子を抱いていてくれないか」
「かしこまりました、お上」
お母様が微笑んで、お父様から希宮さまを受け取る。お父様は手を伸ばして、迪宮さまから花を受け取ると、
「賢いのう、裕仁と雍仁は」
そう言いながら屈んで、迪宮さまの頭を、続いて淳宮さまの頭を優しく撫でた。
「流石、嘉仁の子だ」
「恐れ入ります」
頭を下げる兄に、迪宮さまが「お父様」と言いながら寄って来る。やはり花を渡したいらしい。もちろん、迪宮さまの後ろから、淳宮さまも付いてきていた。
「ねぇ、章子お姉さま」
私の隣に立っていた、私のすぐ下の妹の昌子さまが私に言う。
「迪宮さま、もしかしたら、希宮さまをお母様に抱っこさせるために、わざとお花をお父様にあげたのかしら?」
「まさか!」
驚きの声を上げた2番目の妹の房子さまに、
「その可能性はあるよ。迪宮さまは賢いから」
私は小さい声で答えた。「皇孫御殿に遊びに行くとね、お花や虫や、軍艦の絵を描いて、私に説明してくれるの。先週も、巡洋艦の絵を描いてね。“今度、これに乗るんでしょ?”って私に聞いたわ」
「すごいわ。流石、お兄さまと節子お義姉さまの子ね」
3番目の妹の允子さまが話の輪に加わった時、
「昌子おば様、房子おば様、允子おば様」
その噂の迪宮さまが、淳宮さまを連れて私たちの前に立っていた。
「差し上げます」
そう言ってシロツメクサの花を差し出すと、淳宮さまがお兄さんの真似をして「さしあげます!」と繰り返すのも、先ほどと一緒だ。
「ありがとう存じます」
「綺麗なお花をありがとう」
「大事に持って帰りますね」
允子さま、房子さま、昌子さまの順に花を受け取って、小さな甥っ子たちにお礼を言う。
「でも、章子お姉さまには?」
允子さまが迪宮さまに尋ねると、
「これ全部、差し上げます。しばらくお別れだから」
迪宮さまはそう言って、持っている花を私に向かって全部差し出す。10本ぐらいあるだろうか。
「こんなにくれるの?」
輝仁さまたちには渡したのだろうか、と思って弟たちの方を見ると、輝仁さまも聡子さまも多喜子さまも、既にシロツメクサを持っていた。
「ありがとう」
私は屈みこんで、可愛い甥っ子から花束を受け取った。
「それから、これも差し上げます」
迪宮さまは左手を私に突き出した。その手にはしっかりと、四つ葉のクローバーが握られている。
「おおっ、四つ葉のクローバーだ。前に私が“西洋では縁起ものだ”って教えたの、覚えててくれたのね」
「はいっ」
迪宮さまは得意げに頷く。その隣で、
「もどってくるのー?」
淳宮さまが無邪気に私に尋ねた。
「もちろん」
四つ葉のクローバーとシロツメクサの花束を一緒に持つと、私は迪宮さまと淳宮さまの頭を撫でた。
「君らのおじじ様とお父様を助けなきゃいけないからね。おば様も君らと別れるのは辛いけれど、ちゃんと修業してくるよ」
可愛くて仕方が無い甥っ子たちに言い聞かせていると、
「皆様方、食事会の準備が整いました」
東宮大夫兼東宮武官長の児玉さんが部屋にやってきた。
「このクローバーは、押し花にするね。新聞紙に挟んで“日進”に持って行く。君らが、せっかく見つけてくれた縁起物だからね。……じゃあ、迪宮さま、淳宮さま、おば様が実習から戻るまでに、いっぱい遊んで、いっぱい勉強するんだよ」
私は甥っ子たちの頭をもう一度撫でてから立ち上がった。
食事会のお料理は、申し分のない味付けだった。
ただ、昨日の夜も、陸奥さん主催の送別会でフルコースを食べているので、少し胃もたれしている。今朝はたっぷり剣道の稽古をしてお腹を減らしたし、児玉さんが、私の分の料理を少なめに盛り付けるように前もって指示してくれているので、何とか残さず食べられてはいる。けれど、どうしても、食べるペースは遅くなってしまう。ようやくメインディッシュを食べ終わった時、
「……口に合わなかったか?」
兄が私を心配そうに見つめているのに気が付いた。
「大丈夫、大丈夫。食べ慣れてないお料理を昨日も食べたから、胃が疲れてるだけ」
私は兄に微笑んで見せた。「朝から師匠と一緒に剣道をして、お腹は減らしてきたの。それがなかったら、せっかくの美味しいお料理を残したかもしれないけれど」
「おや、相手は東條ではないのか」
「怯えて動いてくれないから、相手にならないのよ」
兄の質問に、ため息をつきながら私は答える。「マシにはなったわ。前は、私と一緒に武道場に入ることすらいやがったから」
私の答えを聞いたお父様が、クスクス笑っている。兄やお母様、弟や妹たちにも、さざ波のように笑いが広がっていった。……かわいそうだから、東條さんにはこの反応を伝えないでおこう。
食事が終わると、昨日の晩餐会と同じように、別室に移ってお茶になる。とはいえ、学習院初等科4年の輝仁さま、華族女学校初等小学科第2級……私の時代風に言えば小学2年生の聡子さま、そして同じく初等小学科第3級、小学1年生の多喜子さまには、大人たちも混じっての談話は退屈だったらしい。3人で遊び始めたのを、昌子さまと房子さま、允子さまが相手して、やがて6人そろって部屋を出て行った。残された家族は成人に達している人間だけになり、
「人払いしておきます」
児玉さんが侍従さんたちと一緒に出て行くと、部屋には両親と兄、そして私だけになった。
「昌子も房子も允子も、大きくなったな」
お父様が満足げに頷いた。「そろそろ、どこに誰を嫁に出すか、考えなければならん」
「満宮さんの進路もですよ、お上」
お母様がお父様の横から、心配そうに付け加える。
「む……そうだな。金子から報告は受けてはいるが……」
お父様が眉をしかめたのを見て、
「お父様、輝仁の成績に、何か問題でも?」
兄が深刻な表情になった。
「朕は問題ないと思うのだがな……章子」
「はい?」
「そなた、きょうだいの中では輝仁のそばに一番おるだろう。そなたの目から見て、輝仁はどうだ?」
突然名前を呼ばれたので、何のことか分からなかったけれど、その質問を聞けば、なるほど、と納得する。
「頭が悪いって訳じゃないと思うんですよね」
私は普段の弟の様子を思い返しながら、お父様の質問に答え始めた。
「いや、頭はいいんだと思います。イタズラの腕は冴えてるし、私に言い返すことも多いし。でも、机で勉強することには、いまいち気乗りがしないみたいです。教えると、理解は早いですけれど」
「ふむ」
お父様もお母様も兄も、私の話をきちんと聞いてくれている。3人の優しい視線が、自然と私の口を開かせた。
「……もしかしたら、輝仁さま、将来の夢や目標が、まだ見つけられていないんじゃないかな、と思います」
「将来の夢や目標……?」
「うん。皇族の男子は軍人にならないといけないけれど、自分が将来、軍人としてどの兵科に進むか。それがまだ、輝仁さまも分かってないみたい」
私は兄の方に身体を向けた。「でも兄上、小学4年生でそれが分かるっていうのは、早い方だと思うよ。私は小学生のころから医者を目指していたけど、それは前世のことがあったからだし」
「確かにな」
頷く兄の横から、
「けれど、幼年学校に入学するとしたら、そろそろ準備を始めないといけませんよ」
お母様が心配そうに言った。確かに、幼年学校に入るとしたら、中学1年の時に入学試験を受けるのが一般的だから、気の早いご家庭だと、輝仁さまと同じ年の子供に受験勉強を始めさせる時期ではある。教育熱心なお母様が心配するのは、元受験生の私としてはとてもよく分かる。
「でも、お母様」
私は、今度はお母様に顔を向けた。「私、輝仁さまには、きちんと自分の意志で進路を選んで欲しいです。そうしたら、私が前世で死んだ時みたいに、“何のために自分は生きてきたのか分からない”って後悔しなくて済むから」
「増宮さん……」
「あのまま転生していなかったら、って思うと、ゾッとします」
前世で病院の階段から落ちたあの時……どうしようもない悲しみと絶望と、激しい後悔が、私の心の中に渦巻いた。それでおしまいだったはずなのに、気が付いたら、私は爺に抱かれていたのだ。
「少なくとも、今生は……やれないこともあるけれど、私の意志で出来ることはやってる、そう思えるんです」
私はお母様に微笑んだ。「だから、私、前世より幸せだなって思います。それで、こう思うんです。前世の私みたいに後悔しないように、輝仁さまには、本当にやりたいことや出来ることを見つけて欲しいって」
「それは……増宮さんだからこそ出来る助言ですね」
お母様が私をじっと見つめた。「すべての理由を言う訳にはいきませんが、明日、葉山に発つ前までに、増宮さんから満宮さんに伝えたらいかがでしょうか」
「では、仰せの通りにします」
お母様に一礼した時、妙に首筋がチクチクするのに気が付いた。兄だ。なぜか鋭い視線で私を見つめる兄は、
「梨花」
少し硬い声で私を呼んだ。
「念のために言っておくが……お前は、もっと幸せにならなければいけないのだぞ。お前の夫君と一緒にな」
「あー……」
(そっちの話か……)
流石にこの時期に恋愛沙汰は、ご勘弁願いたい。“日進”での実習が終われば、私は晴れて軍医としてのキャリアを積み始めるのだから。
「……少なくとも、軍医学校の卒業までは、恋愛は無しだよ?」
私は兄の様子を窺いながら、恐る恐る口を開いた。
「それにね、私の希望としては、出来れば一人前の外科医になってから結婚したいから……結婚までには、もうしばらく時間がかかるかなぁ」
「ほう。……で、一人前になるまでには、どれほどの時が必要なのだ?」
「私の時代だと、医師免許を取って、初期研修が終わって、そこから更に研修をして専門医の資格を取って……医者になってから少なくとも数年はかかるのかしら。あ、でも、分野によっては10年かかるし、専門医の資格を取ってもそれで一人前って訳じゃ決してないし、“一生修行だ”って言う先生もいたから……一生?」
「おい!」
兄の声が怒鳴り声に変わる。すると、
「ははははは……!」
お父様が大声で笑い始めた。
「お父様!お父様も梨花に何とか言ってください!これでは梨花が、一生結婚から遠ざかってしまいます!」
抗議する兄に、
「心配するな、嘉仁」
お父様は笑いをおさめると言った。
「何とかなる」
「そうでしょうか……」
(そうかなぁ……)
兄は口に出して、私は心の中で、お父様に同じ反論をしたその時、
「章子」
そのお父様が、私の名前を呼んだ。
「はい」
「昨日、伊藤に、“万が一戦争になっても、戦場からは逃げ出したくない。軍医学生として命を出来る限り救い、絶対に生きて帰って来る”……と申したそうだな」
お父様の言葉に黙って頷くと、
「その通りにせよ」
今生の私の父はそう言った。
「そなた、今生が幸せだと言っても、まだやりたいことが出来ていないではないか。それでは、輝仁に説教は出来んぞ」
自然に頭が下がった。そうだ。私が今生でやりたいことは、上医として、お父様を、そして兄を助けること……。
(死んじゃったら、絶対にできないことだ……)
「これが、朕からそなたへの助言だ」
お父様が、ニヤリと笑ったような気がした。
「かしこまりました」
私は下げた頭を上げて、お父様の目をしっかり見つめた。
「上医としてお父様と兄上を助けるため、誓って、お父様の仰せの通りに致します!」
そう言うと、お父様が私の目を見つめ返し、深く頷いた。
1904(明治37)年6月1日水曜日、午前11時。
前々日に東京を出立し、葉山に入った私は、この日、新島さんとともに巡洋艦“日進”に乗り込み、大山さんと母の見送りを受けながら、3か月の実習のため、横須賀から出港した。
この“日進”が、予想外の航路をたどることになるとは……この時はまだ、誰も予想していなかったのである。




