希宮(まれのみや)さま(2)
後産も無事に終わったという知らせを受け、私は兄に引っ張られるようにして節子さまのいる部屋に入った。寝ている節子さまの左腕には点滴の針が入り、そして、傍らには、今生まれたばかりの女の子が寝かせられていた。
「節子、梨花が来たぞ」
「ごめんね、分娩を手伝えなくて……」
私と兄が同時に声を掛けると、節子さまはぱちりと目を開けた。
「嘉仁さま……。梨花お姉さま、ありがとうございます、実習なのに来てくださって……」
「何言ってるの、節子さま。朝に産気づいたって知らせを聞いた時から、皇孫御殿に行きたくてたまらなかったのよ。伊藤さんが命令してくれたから、ようやく実習を切り上げられたけれど……」
私はそう言いながら、節子さまのそばに膝をついた。
「でもよかった。お産が無事に済んで。節子さま、お疲れ様。おめでとう」
「ああ。本当に良かった」
兄は屈みこむと、節子さまの右手を取った。
「嘉仁さま……申し訳ありません。男子を、と願っていたのですが……」
「何を言う。生まれてくる子の性別など、天に任せるしかない。それにもう、裕仁も雍仁もいるではないか」
兄は節子さまの右手を握りしめ、節子さまの両目をじっと見つめた。
「男だろうと女だろうと、俺と節子の子には変わりがない。お前が俺たちの子を産んでくれた。そして、お前も生まれた子も元気でいてくれている……俺はそれだけで十分だ」
「嘉仁さま……」
「裕仁と雍仁と同じように、この子も大事に育てよう、節子」
「ありがとう、ございます……」
節子さまの両目から、涙が一筋流れる。それを兄が懐から出したハンカチでそっと拭った。
(あー……これ、もしかして、夫婦の会話ってやつ、かな……)
どう見ても、私は完全にお邪魔虫である。これはさっさと、この部屋から退散する方がよい。兄と節子さまを驚かせないように、部屋の出口に向かってそろりそろりと身を引いていると、
「増宮さま」
廊下から私を呼ぶ小さな声が聞こえた。伊藤さんだ。
「こちらへ……」
手招きする伊藤さんの後ろについて、皇孫御殿の廊下を歩く。伊藤さんは奥の和室に私を招き入れると、廊下に面した障子を閉めた。
「伊藤さん、聞きたいことがあるんです」
床の間を背にして正座した私は、伊藤さんににじり寄った。
「大体想像がつきますが……伺いましょう」
「私、前に、“史実”で節子さまが産んだのは、男の子が4人だって聞きました」
兄には、“史実”の兄には少なくとも3人の子がいた、ということは伝えられている。ただし、第2子以降の性別は伝えられていない。兄が知ることを望まなかったからだ。
「でも、今日生まれたのは女の子です。伊藤さん、今回の節子さまの妊娠も、“史実”の3人目の子と同じような予定を組んで進めてたんですよね?」
すると、
「いえ……」
伊藤さんは静かに首を横に振った。
「確かに、迪宮さまと淳宮さまは、“史実”と同じように事が運ぶよう、皇太子殿下と皇太子妃殿下の予定を調整いたしました。その甲斐あってか、妃殿下は、“史実”と同じ年月日、同じ時間にご出産あそばされました。しかし、わしと児玉が予定を組んだのはそこまでです」
「へ……?」
「既に迪宮さまと淳宮さまがいらっしゃる。それに、この時の流れでは満宮さまもいらっしゃる。皇太子殿下が幼かったころとは違い、陛下の直系の男子が皇統を継ぐことができないという可能性は、考えなくてもよくなりました。ですから、自然に任せることにしたのですが……」
そう言うと、伊藤さんは私を見て微笑して、
「実は、“史実”では、皇太子妃殿下は一度ご流産なさっているのです。昨年の8月下旬だったと思いますが」
と言った。
「去年の8月下旬……」
去年の8月下旬と言えば、節子さまの妊娠が発覚して、青山御殿に滞在してもらっていた頃だ。
「まさか……“史実”では流産してしまった子が、この時の流れでは順調に成長して、今日生まれた、ってことですか……」
「恐らくそうでしょう。もし、“史実”で、そのお子様がお健やかに成長していれば、内親王殿下としてお生まれになったのだろうと思います」
伊藤さんの言葉を聞くと、私は大きく息を吐いた。
「流産の原因って、私の時代でも分からないことが多いんですよね……」
もちろん、母体の感染症などの病気、胎児の先天異常など、分かっている原因もある。けれど、なぜ流産したのか分からないケースが、私の時代でもたくさん存在した。
――人体のことはすべてわかったという人がいますが、とんでもない。分かっていることは、まだほんの少しなのです。
前世の大学時代、産婦人科の教授が、講義の時にこう言っていたのを思い出す。
「だから、今日生まれた赤ちゃんが、なぜこの時の流れでは無事に成長したのか、さっぱり分かりません」
私が横に首を振ると、
「そうですか。……わしは、皇太子妃殿下を取り巻く環境が“史実”と違っているからだと思ったのですが」
伊藤さんは静かに言った。
「節子さまの環境って、……“史実”では迪宮さまと淳宮さまが、節子さまから引き離されてたってことですか?」
「ええ」
私の質問に、伊藤さんは頷いた。
「そのこともあってか、“史実”での皇太子妃殿下は、ふさぎ込まれることもあったように聞きました。しかし、この時の流れでは、迪宮さまと淳宮さまは、花御殿と渡り廊下でつながった皇孫御殿におられ、皇太子殿下も皇太子妃殿下も、渡り廊下を渡って毎日皇孫御殿にいらっしゃり、お子様方に存分に愛情を注いでおられます。それが皇太子妃殿下の心身に良い影響を及ぼしているのではないか……そのようにわしは思うのです」
「私の時代の感覚で考えると、まだ、普通の状態じゃないんですけどね……」
私はため息をついた。虐待などのトラブルがない限り、両親とその子供が一緒に暮らすのが当たり前という時代で生きた記憶のある私には、兄夫妻が花御殿で迪宮さまと淳宮さまと同居できていない今の状況も、まだまだ不十分だと思える。けれど確かに、“史実”のように節子さまがふさぎ込むようなことはない。
「それに、それで節子さまの心身の状態が安定していたから……じゃ、流産が起こらなかった理由としては、ちょっと弱いようにも思えるんですよね。別に私、流産を予防する薬を投与した訳じゃないですし。前世で産婦人科の修業をたくさんした訳じゃないから、断言できないんですけれど……あー、分からない。なんで流産が起こらなかったんだろう?」
私が両腕を組むと、
「ほう、増宮さまにも分からないことがありますか」
伊藤さんが意外そうな表情で言った。「増宮さまの時代の医学では、病に関するあらゆることが解明されていると思っていたのですが」
「そんなことありません。分からないことはたくさんありました。医学は万能じゃないんです」
私が唇を尖らせた時、
「そうか、ならばこの出産、類まれな出来事だった、という訳か」
……廊下から声がした。
「兄上?!」
「皇太子殿下?!」
私と伊藤さんが同時に驚きの声を上げる中、紺色の羽織袴姿の兄は静かに障子を開けた。
「どうも、梨花も総理大臣も、反応がおかしいと思った」
そう言いながら室内に入ってきた兄に、私は慌てて上座を譲る。兄はそこには座らず、私の前に胡坐をかくと、
「梨花、無事に節子が出産できたのは、お前のおかげだ」
と言ってニッコリ笑った。
「兄上、ちょっと待って、それは違う」
私は正座をし直した。「流産の兆候があるから、節子さまに治療薬を投与したって言う訳じゃないんだ。だから今回、私は何もしてなくて……」
けれど、
「しかし、身重の節子を世話してくれたな。青山御殿にも泊まらせてくれた」
兄の笑顔は全く崩れなかった。「それに、悪阻の時期に節子が食べられる料理集を作ってくれたし、暇を見つけては花御殿や皇孫御殿に来てくれて、節子を励ましてくれた」
「……」
それは否定できない。黙りこくった私に、
「薬を処方することや、傷を縫い合わせることだけが医術だという訳ではないだろう?」
兄はこう言った。
(!)
思わず下げた私の頭を、
「お前の時代のように進んだ技術が使えなくとも、お前はきちんと人を医しているよ、梨花」
兄はそう言いながら、優しく撫でてくれた。
「確かに、実際のところはどうなのかは分からない。しかし、俺は、お前があの子を助けてくれたと思うことにするよ」
「兄上……」
恥ずかしくて、下げた頭を上げることが出来なかった。私は、何と思いあがっていたのだろう。当たり前のはずのことが、頭の中からすっかり抜けてしまっていた。
(心も、大事だよね……)
下げたままの私の頭の上で、
「裕仁や雍仁と同じように大切に育てる。それこそ、掌中の珠のように。だから、あの子の名前は“珠子”にする」
兄の声が響く。穏やかな声だったけれど、どこか厳かな調子を伴っていて、私は更に頭を低くした。
「珠子さま……とても良き御名でございます」
伊藤さんが頷く気配がした。「ご称号はどうなさいますか?」
「希望の希と書いて、希宮とするか。類まれな出来事だからな。適当な漢籍から出典を探さねばならんが……三島先生に問い合わせる。何か探し出してくれるだろう」
「丸投げされますか」
「ああ。俺が生半可な知識を振りかざして、間違ってしまったら大変だからな。……希宮珠子。梨花が命を助けてくれた、俺と節子の大事な長女だ!」
……こうして、“史実”にはいない兄の第一皇女は、称号を希宮、名を珠子と名付けられ、4月17日の日曜日、その旨が官報の号外で発表された。
そして、この希宮さまが、後々、ある人を救うことになるのだけれど……それはまた、別の話である。
※母体の心理的要因での流産(特に、ショックな出来事が妊娠に及ぼす影響)は、あるとしている文献と無いとしている文献に分かれます。現在の研究の趨勢がどうなっているのかがはっきりしなかったので、こういう書き方をしました。ご了承ください。




