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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第35章 1904(明治37)年雨水~1904(明治37)年小満
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希宮(まれのみや)さま(1)

 1904(明治37)年4月11日月曜日午前7時半、青山御殿の玄関。

「大山さん……ダメ?」

 私は、非常に有能で経験豊富な別当さんの顔を、下からのぞいてみた。白い詰襟のジャケットに白いズボン……軍医学校の制服で、どのくらい効果があるかどうかは分からないけれど、子供が親におねだりするように大山さんの顔を見つめる。

 けれど、

「いけません」

いつもと同じ黒いフロックコートを着た大山さんは、1ミリも表情を動かさずに答えた。

節子(さだこ)さまの出産なんだよ?」

 私はこう言いながら、縋るように大山さんの眼を見つめる。

「私の大切な兄上の奥さんの、私の大事な親友の出産なんだよ?それなのに、医者として、節子さまのそばに行ったらいけないの?」

「増宮さま」

 やはり表情を変えないまま、我が臣下は穏やかな声で私に呼びかけた。

「確かに、増宮さまは医師免許をお持ちです。それは、迪宮(みちのみや)さまと淳宮(あつのみや)さまがお生まれになった時とは異なっています」

 周りに千夏さんや東條(とうじょう)さんなど、私の前世のことを知らない人たちがいるからだろう。大山さんは珍しく私を“増宮さま”と呼びながら、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「しかし、増宮さまは今、軍医学生でもあります。ですから、上官の命に従って動かなければなりません。……近衛師団の軍医部長か、もしくは軍医学校の校長から、皇太子妃殿下のご出産に立ち会ってよいという許可はもらっておられませんね?」

「……もらってない」

 嘘をついても、どうせすぐバレてしまう。私は正直に返答した。

「ならば、軍医学生として、実習をしなければなりません。これは、歩兵大将として申し上げております」

「むー……」

 私は唇を尖らせた。

 節子さまの妊娠の経過は順調で、無事に臨月を迎えていた。

――可能な限り、分娩には立ち会うね!

 お正月を過ぎたころから、彼女にはずっとそう言っていた。つい昨日も、出産に備えて皇孫御殿に移った兄夫妻のところに遊びに行き、同じことを節子さまに言ったばかりなのに……よりによって、今日、近衛師団での実習に向かう直前に、“皇太子妃殿下が産気づいた”という連絡が青山御殿に入ったのだ。ダメもとで大山さんにおねだりしてみたけれど、やはり皇孫御殿に向かう許可は下りなかった。

「わかった。実習に行きます……」

 大きなため息をつくと、玄関を出て馬車に乗り込む。東條さんが続いて乗り込もうとしたのを制し、代わりに馬車に乗り込んだのは大山さんだった。いつも私が近衛師団に向かう時の付き添いは、東條さんか千夏さんなのに、わざわざ大山さんが出張って来たのは、あの2人の付き添いだと、私が途中で馬車から脱走して皇孫御殿に向かうと踏んだからだろう。一瞬頭を過ぎった不穏な考えを、私は慌ててかき消した。次の瞬間、扉が閉まり、滑るように馬車が動き始める。

「皇太子妃殿下には、(おい)から事情を伝えておきます」

 慰めるように言う大山さんに、

「頼んだよ」

と私はまたため息をつきながら言った。

「心はずっと、節子さまのそばにあるからって」

「かしこまりました」

 大山さんは私に向かって一礼した。彼なら間違いなく、私の言葉を節子さまに伝えてくれるだろうけれど……。

(節子さまのそばにいたいなぁ……)

 私はもう一度、ため息をついてしまったのだった。


 さて、今日の出だしはいつもと違ったけれど、実習の出だしは変わらない。この近衛師団では、午前8時半から、兵営ごとに設置されている休養室で一晩経過観察していた兵を診察する。そこから一日の仕事がスタートするのだ。師団司令部に詰めている軍医は、皇居近辺にある兵営の休養室の診察を手伝うことになっている。今日は、騎兵連隊の休養室に収容されている兵隊さんの診察のお手伝いをする日だ。けれど、体調を崩している兵隊さんは少なく、今朝の診察に現れたのは3人だった。そのうちの1人を診察させてもらう。体動時のめまいが出現したため、休養させた――引き継ぎ書類にはそう書いてあった。

 兵隊さんを問診すると、“症状はすっかり良くなり、今朝身体を起こした時もめまいは無かった”と答えた。首と身体を傾けさせて診察するけれど、眼振もめまいも起こらない。耳鳴りや聴力低下、頭痛など、他に気になる症状もないとのことだ。

「よし、念のために今日は営舎で休息を取ってください。明日からは就業して構いませんよ」

 診察結果を伝えると、兵隊さんは「ありがとうございました!」と敬礼する。けれど、彼は一歩後ろに歩みだした瞬間、足を止めた。

「どうしました?」

「あ、あの……自分、めまいがまた出てきたようでありまして、もう一度殿下とお話、いや、診察を……」

 そのとたん、私の横に立っている新島さんが、兵隊さんをギロリと睨み付けた。すると、

「だ、大丈夫であります!治りましたー!」

兵隊さんは逃げるように、診察室から去っていった。

「全く、また殿下目当てですか」

 兵隊さんを一睨みで退散させた新島さんは、両腕を組むと憮然とした表情になる。

「ですかねぇ……困るなぁ」

 カルテに所見を書き終えると、私はため息をついた。

 これでも、減って来ているのだ。実習を始めたばかりのころは、本当に大変だった。

 実習2日目、近衛歩兵第一連隊のある大隊の身体検査のお手伝いに駆り出されたときのことだ。私が、褌一丁で整列した500人ほどの兵隊さんの前に立ち、

――体調の悪い者はいますか?私が診察しますから、いたら、前に一歩進み出てください!

そう号令を掛けたところ、ほとんどの兵隊さんが一歩前に進み出たのだ。

(ちょっと待って?!こんなに大勢、体調が悪いって……インフルエンザでも蔓延してるの?!)

 私が慌てた瞬間、

――殿下、私に任せていただきましょう。

と横からスッと新島さんが出てきた。そして、

――さぁ、1人ずつ前に出ろ!私が体温を測定してやろう!

私の前に立って大きな声で呼ばわると、

――た、体調に問題はないであります!

……前に進み出た全員が、一歩足を引いて元の位置に戻った。

――ふん、軟弱な兵卒どもめ……。

 そんな兵隊さんたちを、新島さんは鼻で笑ったのだけれど、声が小さかったので、大きな問題になることはなかった。

 新島さんの噂が伝わったのか、その後の身体検査では、兵隊さんが私の診察を受けるために仮病を使うことは無くなった。それでも、私になぜか熱い視線を向ける兵隊さんは後を絶たず、彼らが新島さんに捕まって厳重注意されるということは、日に1回は発生していた。

(私の場合、新島さんが護衛についてるから何とかなっているけど、これ、他の女性が軍医として働く時、取り締まりや風紀粛清をしっかりしないといけないなぁ……)

 将来に向けての課題が一つ見えてしまった。今後、どうしていくか考えなければいけないけれど……。

 と、

「殿下」

診察室の扉が開いて、軍医部長が入ってきた。

「患者の診察は終わりましたか」

「はい、今日は営舎で休息を取って、明日から就業するように指示しました」

「よろしゅうございます。では、護衛の準備も整いましたので、歩兵第二連隊の方に参りましょう」

「承知いたしました」

 ピシッと敬礼をして、新島さんと一緒に、軍医部長の後ろに付いて歩く。今日はこれから、歩兵第二連隊に属している大隊で身体検査がある。軍隊の場合、月1回は兵隊さんの身体検査をするように決まっている。けれど、師団に属している兵隊さんの人数は、1万人を軽く超える。その人数をいっぺんに検査するわけにはいかないから、近衛師団では、大隊ごとに日替わりで身体検査が行われていた。

 この他に、軍医は新しく入営する兵隊さんの身体検査もしなければならないし、兵隊さんに包帯法や応急処置法、患者の搬送法なども教育しなければならない。もちろん、看護兵――国軍合同の前は“衛生兵”と呼んでいたのだけれど――たちの教育もしなければならない。軍医はやることが結構多いのである。

 歩いて10分ほどで、歩兵第二連隊の兵営に到着する。武道場に褌一丁で並んだ兵隊さんたちを、ひたすら診察していると、

「殿下」

軍医部長が私に声を掛けた。

「実習中、大変申し訳ないのですが、本省の高木(たかき)閣下から、殿下に火急のご命令がありまして……」

「え……?」

 高木閣下、というのは、高木兼寛(かねひろ)軍医中将、今の国軍医務局のトップに立っている人である。ちなみに、森先生が予備役に入った後は、国軍軍医学校の校長職も兼任している。

「殿下には、これより急ぎ、皇孫御殿に赴かれますように、と、電話で連絡が入りました」

「!」

 これは非常によい命令だ。大山さんが手を回してくれたのだろうか。……いや、大山さんはこんなことはしない。どこからかは分からないけれど、高木医務局長の耳に皇孫御殿の状況が届いたのだろう。

「了解いたしました。……軍医部長、大変申し訳ないですが、今日は司令部に戻れないと思います。皇太子妃殿下のご出産に立ち会うことになると思いますので」

「早くそう言ってくださればよかったのに」

 軍医部長が私の言葉を聞いて苦笑した。「聞いていれば、今日の実習は無しにしましたよ」

「申し訳ありません。命令が無い限りは、実習を優先することにしておりましたので」

「そうでしたか。それならば仕方が無い。とにかく、医務局長閣下の命令もあったことですから、堂々と妃殿下のご出産に立ち会ってください」

「ありがとうございます!」

 私は軍医部長に深々と一礼した。

 馬車と警護の準備が整うのに時間がかかってしまい、私が皇孫御殿に着いたのは、11時半ごろになってしまった。

「遅いぞ、梨花!」

 皇孫御殿の玄関には、紺色の羽織袴姿の兄が仁王立ちしていた。どうやら、私を待ち構えていたようだ。

「ごめん、兄上。上官の命令が無かったから動けなかったのよ」

「大方、そんなことだろうと思いました」

 そう言いながら、廊下から伊藤さんが現れた。

「こちらに参りましたら、増宮さまがいらっしゃらなかったので、急遽、命令を出したのですよ」

「伊藤さん、本当に助かりました」

 この時の流れでは、国軍の指揮権は内閣総理大臣――すなわち、伊藤さんにある。伊藤さんの命令があったから、高木医務局長が私に命令を下し、私は皇孫御殿に来ることができた。これなら、大山さんも文句が言えない。

「それで兄上、節子さまはどこ?」

「もう分娩所に入ったぞ」

「え……」

 やはり、分娩を2回経験しているから、節子さまの分娩の進行が速い。何分前に分娩所に入ったのかと聞こうとしたその瞬間、分娩所のある方角から赤ん坊の泣き声がした。

(ま、まさか、これ……)

 途端に廊下に足音が響き、現れたのは節子さま付きの女官・万里小路(までのこうじ)さんだ。

「申し上げます。妃殿下、内親王殿下をご出産あそばされました」

 万里小路さんが報告すると、

「ああ!」

兄が私の身体をきつく抱き締めた。

「よかった……」

(あれ……?)

 兄に抱き締められながら、私は小さいころに原さんに言われたことを思い出していた。

 節子さまが“史実”で産んだ兄の子は、男の子が4人……。女の子がいたという話を聞いたことがないのだ。

(確か迪宮さまと淳宮さまは、伊藤さんと児玉さんが、“史実”と同じ結果になるようにって、諸々のスケジュールを立てたはずだけど……一体、どういうことなんだろう?)

「無事に産まれたか……節子、よくやった……」

 涙ぐむ兄の腕の中、私は考え込んでしまっていた。

※軍医の業務は「陸軍衛生制規」(陸軍軍医学会本部)を参照にしながら、かなり想像を加えて書いています。ご了承ください。

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― 新着の感想 ―
[一言] ご無沙汰しています、hatchです。 そりゃあ、普通に女の子が生まれても不思議はないですよね。私なんて娘二人です。そう言えば、親戚筋や知り合いでは男の子が少ない気がします。 でも、だとしたら…
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