ひと月遅れのバレンタイン
1904(明治37)年3月12日土曜日午後3時半、皇居。
「増宮さま!」
新しいメンバーである農商務次官の牧野伸顕さんが加わってから初めてとなる梨花会が終わった直後、枢密院議長の山縣さんが私に声を掛けた。
「今年も贈り物と返歌をいただきまして、誠にありがとうございました」
「ああ、山縣さん。和歌、変じゃなかったですか?どうしても、言葉の感覚が上手くつかめなくて……」
一礼した山縣さんの方に向き直って尋ねると、
「とんでもない。非常に素直な歌でございました」
頭を上げた山縣さんは、そう言って微笑した。
「それって、かえって良くないんじゃないですかね?もう少し、ひねりがある方がいいのかな、とも思うんですけれど……」
「お気になさらず、増宮さま。増宮さまの場合は、技巧に走ると歌の心がかき消されてしまいます。思ったまま、感じたままを素直に言葉に出されるのがよろしいかと」
私の和歌の先生でもある山縣さんはこう言う。今でも、月に1、2回ほどは、和歌を何首か詠んで清書して、山縣さんに見てもらっているけれど、和歌を詠むこと自体にどうしても慣れない。お父様は“言葉遣いは気にせずどんどん詠め”と言うけれど、人に見られてしまう可能性もある、と思うと、どうしても筆が止まってしまうのだ。
「贈り物……ですか?」
下座から牧野さんがおずおずと私に尋ねる。
「え、ええ……」
曖昧に答える私の横から、
「バレンタインだぜ」
井上さんが間髪入れず、こう答えてしまった。
「あ、やめてくださいよ、井上さん」
「いいじゃないですか。良き習慣として定着しましたし」
「どこが“良き習慣”ですか。好きな人がこの世にいない私には苦行でしかないのに」
井上さんと言い合っていると、
「なるほど、2月14日の聖バレンタインの日ですか」
牧野さんが深く頷いた。「恋人や大切な人に贈り物をするという」
「流石は牧野、よく知ってるな」
牧野さんの答えを聞いた井上さんが、満足げに頷いた。「増宮さまの時代の日本では、女性から男性にチョコレートを贈るのが一般的なんだそうだが、そのことが分かった時、増宮さまに“バレンタインには自分から贈り物はしない”って宣言されちまった。それなら、俺たちから増宮さまに贈り物をしよう、って言って始めたんだ。もう10年になるか」
「ほうほう、そうでしたか」
「梨花会の皆がそうしたから、私も贈り物をせざるを得なくなってしまって……私もその日に、金平糖の入った菓子器をお返しに渡すことにしたんです。今年は姫路城の天守閣をモデルにしました」
すると、
「ほう、その菓子器には興味がありますね。私も増宮さまにお菓子を贈らせていただいて、その菓子器を受け取りたいものです。そうですね、明日は日曜日ですから、あさってにでも」
牧野さんがとんでもないことを言い始めた。
(?!)
「そ、それは絶対にやめて、牧野さん!」
私は慌てて牧野さんを止めた。
今日は3月12日だ。その2日後は、3月14日……私の時代で“ホワイトデー”と呼ばれている日だ。もし、その日に牧野さんにお菓子を渡されてしまったら、梨花会の面々が“この日にもプレゼントを渡してもいいのだ”と言いながら、お菓子を私に渡してしまうかもしれない。なんせ、彼らは隙あれば、何とかして私にプレゼントを渡そうとするのだから。
(そうなったら、ホワイトデーがこの時の流れでも作られてしまう!それは……それだけは絶対に阻止しないと!)
固く決意した私に向かって、
「しかし、皆さまがやっているところ、新参の私が何もしないというのは……」
牧野さんは困ったような表情で訴える。その様子を、梨花会の一同が微笑しながら見守っている。伊藤さんや山縣さんなど、一部の人たちの目が異様に輝いているのは、私の返答次第では、牧野さんに便乗して、私にプレゼントをしようと企んでいるのだろう。
(うーん……下手に断ると、伊藤さんたちが“どうして受け取らないのですか!”なんて責め立てて来そうだな……あ、そうだ)
「……牧野さん、どうしても私に贈り物がしたい、って言うなら、珍しい場所から取ってきた土を医科研に提供してください。例えば、イタリアの土とか」
私は牧野さんに微笑しながらこう言ってみた。
「土……ああ、放線菌探しですね」
牧野さんが納得したように頷く。
「察しがいいですね」
「シズオカマイシンとリファンピシンは、放線菌から見つかった我が国の宝です。放線菌にはまだまだ未知の種類があり、新たな抗生物質が見つかる可能性もあると聞いております。農商務省としても注目しているのです」
牧野さんはそう言った後、「ただし、土壌をそのまま外国からは持ち込めません。病害虫が広がる可能性がありますからね。ですので、珍しい場所の土壌というものは、残念ながら持ち合わせていないのですよ」と付け加えた。
(そう言えば、その問題があったか……)
10年前に高橋さんにヨーロッパの土壌を持ち帰ってもらった時には、防疫上いくつか問題があったけれど、特別に許可を取ってもらい、ヨーロッパ各地の土壌を少量ずつ持って帰ってもらったそうだ。私はそれを井上さんから後日聞いた。その土の中からリファンピシンを生み出す放線菌が見つかったのは、本当に幸運だったと言うしかないのだけれど……。
「仕方がありませんよ、梨花さま」
私の隣にいる大山さんが苦笑した。「ヨーロッパ各地の製薬会社も、それぞれの土地で放線菌探しをしております。そちらの進展を待ちましょう」
「わかった。ちょっと欲張っちゃったね、大山さん。……牧野さん、私に贈り物をするなら、来年のバレンタインからにしてください。この忙しい時期に、大山さんにプレゼントのお返しの準備で更に負担を掛ける訳にはいかないから」
「承知いたしました。では、来年は飛び切り素敵な贈り物をご用意いたしましょう。ドイル先生の新刊など、よいかもしれませんね」
牧野さんはニッコリ笑って頷いてくれた。どうやら、それで彼の気持ちは収まったようだ。
「ぐぬぬ……阻止されてしまったか。新たな贈り物をする機会と思って、牧野君に便乗しようと思っていたんであるが」
立憲改進党党首の大隈さんが、そう言って悔しがっている。……残念ながら、私の読みは正しかったようだ。
「毎年1度だけだからいいんじゃないですか」
私はそう言い返した。これ以上贈り物をされてしまったら、お返しを考えるのが大変になってしまう。
「ですが、三条さんの羊羹、高橋君のあんパン……毎年のバレンタインの贈り物の内容を、大体覚えてしまいましたよ」
貴族院議員の山田さんがそう言って苦笑する。
「桂が今でも名古屋から作り立ての外郎を取り寄せているのは素晴らしいな」
「お褒めにあずかり恐縮です、山縣閣下」
山縣さんに、国軍次官の桂さんが仰々しく頭を下げた。
「そう言えば、大山さんの今年の紅茶はいかがでしたか、増宮さま?」
内閣総理大臣の伊藤さんが私に尋ねる。
「今年は……あ」
「……贈り物を差し上げていません」
言葉に詰まった私の横から言ったのは、我が臣下だった。
「?!」
次の瞬間、会議室の空気が凍り付いた。
3月13日日曜日午前10時30分、皇孫御殿。
「それで、俺の所に相談しに来たのか?」
迪宮さまと淳宮さまとおもちゃで遊ぶ兄に、
「うん……」
私は頷くと、大きなため息をついた。
「昨日の件で、大山さんが傷付いちゃった気がして……」
昨日の光景を思い出すと、心に痛みが走る。
大山さんが今年のバレンタインプレゼントを私に渡さなかったことが梨花会の一同に明かされた直後、会議室は一瞬静まり返り、そして、大騒ぎのるつぼと化した。
――これは、わしが青山御殿の別当を務める可能性が……。
伊藤さんが目の色を変えれば、
――無いに決まっておろう、内閣総理大臣!別当を務めるのはこのわしじゃ!
山縣さんが伊藤さんに意味不明のツッコミを入れる。
――ここは吾輩の出番なのである!
大隈さんが息巻けば、
――勅語通り、立憲政治の成熟のため、政策の研究をしてもらわねば困りますよ、党首どの。
立憲自由党の総裁でもある陸奥さんが、ニヤニヤしながら指摘する。
――うるさいですよ、あなたたち!私は大山さん以外の人は別当にしません!
騒がしい一同に、精一杯の威厳とともにビシッと言うと、私は大山さんの手を引っ張って青山御殿に戻る馬車に乗り込んだ。大山さんは平然としていたけれど、大山さんの心がまた傷ついてしまったような気がして、私はあの後、彼に声を掛けられなかったのだ。
「そうか……」
兄はその場から立つと侍従さんを呼び、「少し込み入った話をするから、裕仁と雍仁と遊んでいてくれ」と頼んだ。迪宮さまと淳宮さまが侍従さんに抱かれて部屋を出て行くと、
「そもそも、どういう経緯で、大山大将とバレンタインの贈り物をやり取りしないということになったのだ?」
兄は私の前に座り直し、こう尋ねた。
「バレンタインの日、私、大山さんから、日本と清の諜報網の点検結果の報告を聞いたの。その時に、大山さんが、“罰を与えてください”って言いそうになってて……」
私は1か月前の、葉山の砂浜での出来事を思い出しながら答えた。
「何か罰を与えないと、大山さんは止まらなそうだった。だから、冗談で済ませられるような罰を与えればいいんだって思い付いたの。それでとっさに、“今年はバレンタインの贈り物は2人ではやり取りしない”って言ったんだけど……」
「それは……大山大将にとっては、とても重い罰だぞ」
「……言ってから気が付いた。その罰は、私もたっぷり大山さんから受けたけれど」
あの後、長時間にわたって続けられた“ご教育”を思い出すと、顔から火が出てしまうようだ。あんなに自分に甘い言葉を肯定してしまえば、私は自分を甘やかしてダメな人間になってしまう。
「だからおあいこかな、って思ってたんだけれど、昨日の大騒ぎを見ていたら、私、辛くて……」
私はまた、大きなため息をついた。
「あー、最低だよ、私……。大山さんの心は……大切な臣下の心は傷付けたくないのに、何度も傷付けてしまって。私、どうしたらいいかな、兄上……」
すると、
「いや……今、俺に言ったようなことを、素直に大山大将に言えばいいのではないか?」
兄は不思議そうな顔をした。
「どうやって?」
「“どうやって”?……普通に口で言えばいいだろう」
「あ、いや、その……」
質問の意味が、兄に上手く伝わっていなかったようだ。もう一度考え直すと、私は、
「みんなの前では、そんなことは言えないから……」
と付け加えた。
「どこかに2人で出かけて、その時に言うべきかな、とも思うの。梅の花……だと、もう遅いかな。あ、そうだ、上野公園の彼岸桜を見に行って、その時に……」
「無理に出かけなくてもいいだろう。お前の部屋で、人払いをして話せば……」
「あ、そうか、そうだね……」
少し戸惑いながらも頷いた私に、兄は、
「それとも……お前の世で言う“デート”とやらの練習でもしたかったのか?」
とニヤニヤ笑いながら質問する。
「た、馬鹿!デートするなら、その……お、夫になる人とするわよ!」
突然の質問に、私は思わず叫んでしまった。顔がやたらと熱くなってしまっている。そんな私を見ながら、
「そうかそうか。相変わらず可愛いな、お前は」
と兄は笑顔を崩さずに頷き、「で、いつ大山大将に話すのだ?明日か?」と訊いた。
「いや、今日にする」
「今日は日曜日で、大将も休みだろう」
「あ……、でも、明日は絶対ダメ」
「なぜだ?なぜ明日はダメなのだ?」
首を傾げる兄に、どうやって答えようか、言葉が見つからなかった。明日……3月14日はホワイトデーだ。そんな日に大山さんに謝ったら、……お詫びの品も渡して謝ったら、後々、大変なことになってしまう。
「……黙秘します」
これだけ言うと、
「ほう……」
兄が微笑した。その目の光が、やけに鋭い。思わず、背筋に寒気が走った。
「それは、是非とも梨花に理由を吐かせなければな……」
兄はそう言いながら、素早く私の右の手首をつかみ、逃げようとした私の動きを完全に封じた。
3月14日月曜日、午後7時。
「それで、内密なお話というのは……」
夕食が終わった後、私は大山さんを自分の居間に招き入れていた。
「あのね……」
制服から、空色の地に白い梨の花を描いた和服に着替えた私は、自分で居間の障子を閉めると、
「大山さん、人払いはちゃんとしてくれたよね?」
と、大山さんの方を振り返って尋ねた。
「はい、それはもちろん」
「本当に……本当ね?絶対に内緒にしておきたい話で、誰にも聞かれたくないから……」
すると、大山さんは目を閉じて、一瞬だけ真剣な表情になった。
「……大丈夫ですよ、梨花さま。俺と梨花さま以外に、ここには誰もおりませぬ。気配を探りなおしましたが、この部屋の周囲には誰もおりません」
「……ありがとう」
いつもの穏やかで暖かい微笑を浮かべている大山さんに軽く頭を下げると、私は自分の椅子に座った。
「いい?今から話すことは、絶対に内緒にしてね」
「かしこまりました」
大山さんは、私をじっと見つめた。その視線に励まされるようにして、私は口を開いた。
「私の時代では、2月14日のバレンタインデーは、“女性が男性に、チョコレートを贈る日”だったっていうのは知ってるわよね」
「はい」
大山さんは頷いた。……それもそのはずだ。大山さんは、私が兄に前世での情けない恋愛話を告白した時、密かにそれを聞いていたのだから。けれど、それを追及するのは本筋ではない。
「それと逆に、男性が女性に、バレンタインデーのプレゼントのお返しをする日、というのがあったの。それが今日、3月14日の“ホワイトデー”よ」
昨日、兄に吐かされてしまい、内緒にするように繰り返しお願いした話を、私はまた口にした。
「ホワイトデー、ですか。それも、ヨーロッパから伝えられた習慣なのでしょうか?」
「ううん、日本独自の習慣。お菓子業界の陰謀よ」
大山さんの質問に、私は首を横に振った。
「“ホワイト”だから白っぽい物、例えば、マシュマロとかキャンディとかを贈れって言われてたけど……それも、お菓子業界の宣伝のせいだと思うの。私もそんなに詳しくはないけれど……ただ、金平糖を贈るのには、ちょうどいいのかな、って思って」
私は、隣の椅子に置いてあった菓子器を、机の上に出した。他の梨花会のみんなには、バレンタインのお返しとして渡してある、姫路城の天守閣の形の、小さな銀の菓子器だ。
「ごめんね……」
「梨花さま?」
「先月、葉山で、あなたにとても重い罰を与えてしまったこと」
頭を下げた私に、「梨花さま、あれは……」と大山さんの声が掛けられる。何かを反論しようとしたその声を、
「私の考えが至らなかった」
と言って、私はかき消した。
「本当はもっと軽い、冗談で済む、罰にもならない罰を与えて、その場をおさめるつもりだったのに、私が読み誤って、不用意にあなたを傷つけた。やり返されたから、それでおあいこだと思っていたけれど、一昨日、あなたがバレンタインの贈り物を私に渡していないってみんなに知られた時、私、またあなたを傷つけてしまったって思って……」
「梨花さま……」
「あなたの心は……大切なあなたの心は傷付けたくないのに、何度も傷つけてしまった。本当にごめん、大山さん」
更に深く頭を下げて、そのまま上げないでいると、頭上の空気がふっと緩んだ感じがした。
「頭をお上げください、梨花さま」
声に従って、ゆっくり身体を起こすと、大山さんの微笑が……いつもの、穏やかで暖かい微笑が目に入った。
「俺をお気遣いいただき、ありがとうございます」
暖かくて優しい大山さんの瞳が、私にピタリと固定されている。
「こうやって、俺をお気遣いいただいて、俺に贈り物をなさったというだけで、俺は余人に得られぬ喜びを独り占めできております。……それで十分でございます。俺の心は、しっかりと癒されておりますよ、梨花さま」
「大山さん……」
心に圧し掛かっていた重しが、急に外れた気がする。自然と、私の顔がほころんだ。
と、
「ですから、俺も梨花さまに、お返しをしなければなりません」
突然、大山さんは、私が思いもしなかった言葉を口にした。
「へ?」
「今日は、梨花さまの時代では、男性が女性に贈り物の返礼をする日なのではないですか?」
「そ、そうだけど……」
別にそんなものはいらない、と答えようとした矢先、
「ですから、今から紅茶を淹れさせていただきたいのです。1か月前にお渡しできなかった紅茶の葉で、ですが……」
大山さんはこう言った。
「!」
「いかがでしょうか?」
「……もちろん、所望するわ。あなたの分と、2人分で」
何とか私が言えたのは、数瞬の後だった。
「かしこまりました。では、ひと月遅れのバレンタインと致しましょう。……しばしお待ちください、梨花さま」
大山さんが一礼して席を立つ。
(敵わないな、本当に……)
いつもそうだ。私は大山さんに敵わない。彼を超えようと思っていくらもがいても、結局は大山さんの手のひらの上で踊らされているに過ぎないのだ。
(ひと月遅れのバレンタイン、か……)
悔しいけれど、どこか心地いい感覚が、私の心を満たしていく。大山さんの気配が再び近づいてくるまで、私はその余韻に浸っていたのだった。




