兄妹の議論
1903(明治36)年10月25日日曜日、午前10時。
「そっちから来てくれるって、珍しいね」
青山御殿の私の居間。私がお茶を出したのは、紺色の着物に薄茶色の袴を付けた兄だ。今月の初めから、和歌山・徳島・高知の3県に視察に出ていた兄は、22日の木曜日に花御殿に帰ってきた。節子さまのお見舞いも兼ねて、週末には兄に会いに行こうと思っていたら、昨日の昼に、“明日の10時に青山御殿で話がしたい”と電話があったのだ。
「そうだな。最近はほとんど、お前が花御殿に来てくれていたからな」
兄はそう言ってほほ笑むと、私が出したお茶を一口飲んだ。
「だって、節子さまは大事な時期じゃない。つわりが落ち着いたらこっちにも来られるだろうけれど……節子さま、体調はどうかな?」
「少しずつ、よくなってきているようだ。お前の料理集が、大分役に立っているらしい」
「そりゃよかった」
私はほっと息をついた。そろそろ、節子さまの妊娠も5か月目になるはずだ。順調に胎児が成長すれば、子供が産まれるのは4月の中頃だろうか。
「梨花も元気そうで何よりだ。どうだ、射撃は上手くなったか?」
「少しはね。本当は射撃訓練より、糸結びや皮膚を縫う練習がしたいんだけど」
「お前らしいな」
「外科医を目指している身としては当然よ」
私は兄の向かいの椅子に座ると、「そうだ、これだけは確認しようと思ってたんだ」と身を乗り出した。
「兄上、和歌山城の大手門は修理するように言ってくれた?」
「ああ、ちゃんと和歌山の県知事に伝えたぞ。向こうはきょとんとしていたが……」
「ありがとう、本当に助かった」
私は兄に向かって、深々と頭を下げた。「“史実”だと、和歌山城の大手門、6年ぐらい後で自然に倒れちゃうのよ。その前に修理したら、もしかしたら未来に残せるかもしれないから」
「相変わらずだな」
兄が苦笑した。「城を見られぬストレスが溜まって来たのか?」
「まだ大丈夫よ。本当に辛くなったら、皇居の石垣を見に行くし、忍のエリーゼの所に行くついでに、忍城の跡に寄るよ。もちろん、兄上が今回の行啓で見学した和歌山城と高知城にも、いつか行きたいけどね。特に和歌山城だな。あそこ、第二次世界大戦の空襲で、天守閣が燃えちゃうから」
お城のことで、つい言葉に熱が入ってしまった私に、
「……戦争が起こらなければ、見たいものも見られるだろうよ」
兄は穏やかに言うと、「しかし、戦争か……」と呟いた。
「どうしたの、兄上?」
少し表情を硬くした兄に私は尋ねた。
「実は今日、俺がこちらに来たのは、お前の所に、朝鮮関係で何か新しい情報が入ってないかと思ったからだ。心配させてしまうから、節子の前ではこのような話はできないしな」
「それは構わないんだけれど……兄上、それ、児玉さんに聞けばいいんじゃないの?」
東宮大夫と東宮武官長を兼任している児玉さんは、中央情報院の本拠地である青山御殿の別館にもよく出入りしている。彼なら最新の情報は掴んでいるはずだ。
ところが、
「その東宮大夫が、こちらの別館に入り浸り過ぎていて、俺の前に姿を見せぬのだ」
不機嫌そうに兄は言った。「事態の分析に夢中になっているのだろう。だから、もしかしたらお前なら、大山大将から少しは話を聞いているのではないかと思ってな」
「まぁ、本当にちょっとしか聞いてないよ」
私はため息をつきながら答えた。「大山さんも、余り私の前に出てこなくなった。まぁ、大雑把な分析については、夕方私を出迎えた時に教えてくれるけれど」
「では、その内容を俺に説明しろ」
兄は少し鋭い視線で私を見た。「俺は新鮮な情報に飢えている」
「わかったよ」
戦争に関する話は、本当はあまりしたくない。しかし、私は軍医学生であり、将来は上医として、兄をあらゆる面で助けなければならない。そのためには軍事の知識は必要なのだ。
「間違ってる認識があるかもしれない。それは前提の上で話を聞いてね」
兄にそう告げると、私は大山さんから聞いた話を記憶から引きずり出した。
「えっと……ロシアの太平洋艦隊の司令長官が交代するっていうのは……」
今からする話は、それが大前提になる。確認すると、
「それは聞いた。後任がアレクセーエフとは、最悪ではないか」
兄は憮然とした表情で答えた。
エヴゲーニイ・イヴァーノヴィチ・アレクセーエフさん。今までは、ロシアの地中海艦隊の司令長官を務めていた。彼は常日頃、“朝鮮など簡単に攻め取れる”と放言しており、しかも好戦的な性格である。
地中海艦隊の司令長官を務める前、アレクセーエフさんは太平洋艦隊にいた。その時はロシア中枢の実権はヴィッテさんが握っていたので、アレクセーエフさんの暴走を止めることができた。けれどヴィッテさんは今、権力の中枢にはいない。ヴィッテさんに代わってロシアで実権を握っている内務大臣のプレーヴェさんは、対外的な積極策を……特に、朝鮮に対する積極策を取っている。
「ロシアは完全に朝鮮を獲りに行くつもりだな。ウラジオストックの太平洋艦隊の艦艇配備の速度も、これまで以上に上がるだろう」
去年の1月に話を聞いた段階では、ウラジオストックにいる戦艦は3隻、巡洋艦は5隻のはずだった。ところが、つい先日大山さんに確認したところによると、戦艦が4隻、巡洋艦が9隻に増えている。増えた分はすべて、ウラジオストックのドッグで建造されたものだそうだ。
「ここからウラジオストックの艦隊が増強されちゃうと、日本の艦隊だけでは対応しきれなくなっちゃうね……。日本は軍艦6隻、巡洋艦が20隻ぐらいだから」
「ああ、イタリアで建造している巡洋艦が、いつ日本に届くかだな」
「“春日”と“日進”だね」
この2隻は、アルゼンチン海軍で建造されていたものを、日本が購入したものだ。同時に、チリ海軍がイギリスで建造していた軍艦2隻を、清が購入していた。
「年末にはイタリアを出港できるだろうって大山さんが言ってた」
「そうか……しかし、艦隊のことだけではなく、考えなければいけないことが山ほどあるな」
兄は難しい顔をして両腕を組む。「まず、ロシアに狙われている朝鮮の現況か。何か聞いているか?」
「余り。朝鮮に関しては、伊藤さんと斎藤さんの話だと、“史実”と状況がかなり変わってるから、予測が立てづらいみたい」
私は軽く首を左右に振った。なんせ、“史実”ではまだ生きているはずの人物が、この時の流れではもう死んでいたり、“史実”との力関係が変わっていたりして、“史実”の知識がそのまま通用しないところが多いのだ。
まず、朝鮮の王室関係で言うと、前の国王――“史実”では“高宗”と呼ばれていた人だけど――が、1897年の6月に暗殺されている。今の国王は前国王の息子で、“史実”では“純宗”と呼ばれていた人物だけれど、とにかく愚鈍で、在朝鮮の清国公使・袁世凱の完全なる操り人形である。今の国王は袁世凱に逆らう気は毛頭なく、袁世凱のことを“実の父とも思う”と公言しているそうだ。朝鮮は清の実質的な属国になっていた。
「“史実”ではこの時期、一応独立国になっていた朝鮮が、清の完全な支配下に置かれている……」
「おまけに、袁世凱も朝鮮の官吏どもをしっかり掌握している。自分の欲が深い分、他人の欲を満たす方法をよく知っているな。そのおかげか、官吏たちが離反する気配は全くないし、民衆が反乱を起こしても、規模が大きくなる前に潰される」
「袁世凱の軍にね」
兄が眉をしかめながら言った言葉に、私はこう付け加えた。清は朝鮮と交渉し……というより、袁世凱が現国王に言い聞かせて、朝鮮国内での清軍の自由な行動と、清軍の半永久的な駐留を認めさせている。朝鮮にいる清軍は8万人余り、そのすべてが近代化されている。おまけに、遼東半島の先端の港・旅順には、清の軍港がある。朝鮮に何かあれば、そこから艦隊が進発できるのだ。
「唯一の問題は、義和君がロシアに軟禁されていることかなぁ……」
「だな」
義和君は今の国王の異母弟で、王位継承者だったけれど、一昨年の6月末、アメリカとカナダの国境にあるナイアガラの滝を遊覧している最中、行方不明になった。新しく王位継承者に選ばれた国王の遠縁の少年は、袁世凱ががっちり確保しているけれど、義和君の身柄はロシアに抑えられてしまい、現在はヨーロッパのどこかにあるロシア公使館に軟禁されている。
「ロシアが朝鮮に付け入るとすれば、義和君のことを必ず持ちだすだろう」
「“今の王位継承者は、正当な王位継承者ではない”とか?」
尋ねた私に、「それでは理由が弱い」と兄は首を横に振った。
「“今の国王は、正当な国王ではなく、自分が真の国王だ”ぐらい主張せねば。“今の国王が袁世凱と組んで前国王を退位させ、暗殺したのだ”と言い立ててしまえば……」
「一応、前国王の死因は公式には“病死”になってるけどね」
私は苦笑して、ため息をついた。暗殺から1か月以上してから、朝鮮の前国王は“病死”と公式には発表され、疑う人もいなかったけれど、義和君が“暗殺である”と言い立てる可能性もある。
「けど、兄上、その場合は、ロシアは次にどうするの?」
「義和君に、どこかでそのことを主張させるのだろうな」
「どこかって、どこ?」
「ロシア国内だと、“ロシアが朝鮮侵略の口実を作っただけ”と各国に見なされるだけで終わる。フランスだとしても、ロシアの同盟国だから結果は同じだろう。イギリスの息のかかった国だと、イギリスが妨害する。イギリスは我が国と同盟を結んでいるし、清とも立場が近いからな」
「ってことは、ドイツ・イタリア・オーストリア、あとはスペインとかアメリカとか……」
「大山大将たちのことだ、既にそれらの国でも妨害工作は始めているかもしれないが……」
ここまで言った時、兄の左の眉が急に跳ね上がった。
「そこにいるのは……児玉大夫か」
兄が障子に向かって視線を投げると、
「流石でございます、皇太子殿下」
声と同時に、障子がすっと開かれる。廊下に立っていたのは、軍服を着た児玉さんだった。やはり、兄は勘が鋭い。私は、そこに人がいることすら気が付かなかった。
「全く……どこをほっつき歩いている。話を聞きたいときに大夫がいないから、梨花のところまで来てしまった」
「仕事はちゃんとしております」
そう言いながら、児玉さんは私の居間に入り、障子を閉める。
「いつからいたんですか、児玉さん……いるんなら、入って来てくださいよ」
私がため息をつくと、
「皇太子殿下と増宮さまが、どのように考察されるかを聞かせていただこうと思いましてね」
児玉さんは笑顔で言う。どうやら、質問に答える気はないらしい。私はもう一度ため息をつくと、児玉さんに椅子を勧めた。
「いやいや、お2人とも、しっかりと考察されておいでです」
「全然終わっていないぞ」
兄が児玉さんに不機嫌そうに答えた。「考えなければならない要素が多すぎる。日本・清・ロシアの陸戦兵力と補給のこととか、実際に戦端が開かれるとすると、どこから戦が始まってしまうのかとか……」
すると、
「ほう……ではお2人は、どこから戦端が開かれると考えておいでですか?」
児玉さんが笑顔のまま、私と兄、交互に視線を向けた。
「私は陸かな」
先に答えておいた方が楽かもしれない。そう思った私はすかさずこう言った。
「豆満江で、ロシアと朝鮮は国境を接している。そこからロシアが攻めると思います」
「確かにその方法はあります」
児玉さんは頷いた。「ただし、豆満江は、清も船を航行させられます。ロシア軍の侵攻でそれが侵されたとして、清が宣戦布告できますな。ロシアが清を刺激したくない場合は、取ってはいけない方法でしょう」
(うっ……)
私は顔をしかめた。確かに児玉さんの言う通りだ。なるべくなら、他の国に干渉されることなく朝鮮を獲りたい……ロシアが普通に考えれば、清を刺激するルートでの侵攻はしないだろう。
「わたしは海路だと思っている」
兄はこう答えた。「朝鮮半島の西岸は、清の艦隊がいる。南岸は日本の艦隊の守備範囲にも重なって来るから、朝鮮半島の東岸のどこかに、艦船で攻めるのではないかと……」
「でも、そこの侵攻が成功したとして、補給が続くの?制海権が無きゃ、補給が続かないよね?それを考えると、陸からだと思うんだけど……」
「しかし、清の邪魔は余り入らないぞ。艦船で陸戦兵力を運んで、そこで朝鮮の軍と戦えば……」
兄が話せば、私が質問する。私が答えれば、兄がツッコミを入れる。兄妹で延々と続く議論を、児玉さんは笑顔で聞き続けていたのだった。
※この時期にも皇太子殿下は行啓されています。拙作中明確に言及はしていませんが、1900年の行啓では病気による中断なく全行程を終了し、香川・愛媛・岡山の3県も予定通り回ったという仮定をしているので、実際の行啓先(和歌山、香川、愛媛、岡山など)とは行き先を変更しています。ご了承ください。(参考:原武史「大正天皇」)




