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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第33章 1903(明治36)年小暑~1903(明治36)年寒露
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節子さまの決意(2)

 1903(明治36)年8月7日金曜日、午後8時。

 白地に紫の水玉を散らした和服を着た私は、聴診器と血圧計を持って、節子(さだこ)さまのいる客殿に向かっていた。明治時代でも、8月の東京の夜は蒸す。本当は、浴衣一枚だけ着て夕涼み……なんてこともしてみたいけれど、微行(おしのび)ならともかく、皇太子妃でもある節子さまにそんな恰好で会うのは、この時代ではちょっとラフすぎる。まぁ、節子さまの部屋には、大きな氷の柱も立ててあるし、扇風機もあるから、多少は涼しく過ごせるだろう。

 節子さまの部屋の前に控えている女官さんに、下がっているようにお願いしてから、

「節子さま」

と部屋の中に声を掛けると、

「ああ、梨花お姉さま」

節子さまの声がして、廊下に面した障子が少し開いた。廊下に顔を出した節子さまは、いつもと違って黒髪を解いている。廊下の電灯に照らされた顔は、少し青白いような気がした。

「どうかな、具合は」

「多少はいいかなって感じです」

 私の質問に、布団の上に座った節子さまは、力無く微笑んだ。

「やっぱり、慣れませんね、悪阻は」

「そういうもんなんだろうね。体験したことがないから、断言出来ないのが申し訳ないけど」

 2日にこの客殿に入った節子さまは、吐き気を訴える回数が多くなり、食事量も減っている。その他の兆候から考えても、花御殿の侍医さんたちが懸念したように、妊娠しているのは間違いなかった。ただ、青山御殿には、私が監修した節子さまの悪阻を乗り切るためのレシピ集が備えてある。経口補水液もすぐ作れるし、万が一、吐き気が強すぎて水分も取れなくなってしまったら、私が節子さまに点滴をすればいい。その点では、この青山御殿の備えは万全なのだ。

「心配しないで。花御殿の医者(せんせい)たちの指示も仰ぎながらやっていくから、また一緒に乗り切りましょ、節子さま」

 心配を取り除くべく、微笑みながらこう言ってみたけれど、

「ありがとう、梨花お姉さま……」

お礼を言った節子さまの眉は曇ったままだった。

「節子さま……何か、心配事があるの?」

 私は思い切って、節子さまに尋ねてみた。

「もし心配事があるなら、よかったら話してみて。余り悩んじゃうと、お腹の赤ちゃんにも悪影響が出ちゃうからさ」

 節子さまは何か考えていたようだけど、やがて、私に視線を向けて、

「あの……梨花お姉さま?」

と口を開いた。

「梨花お姉さまは、古いものは、全て無くすべきだと思います?」

「んー……すべて、って言うのは、ちょっと違うなぁ」

 質問の内容に戸惑いながらも、私はこう答えた。

「例えば、文化財は極力残すべきだと思ってる。古い城郭もそうだけど、神社仏閣、書画に陶磁器、刀に鎧……優れた文化財を守ることは、人類の歴史を守ることにつながる。今は残っている文化財が、私の時代だと壊されてることもあるから、出来ることなら今ある文化財は守っておきたいよね」

 日本では太平洋戦争の空襲で、名古屋城の天守閣をはじめ、多くの文化財が失われている。私としては、それは何としてでも避けたい。

「じゃあ、形に残らない古いものは?」

「って言うと、お祭りとか音楽とか……無形文化財とか民俗文化財とかって言われるようなものかな。そうね、可能な限り残すべきかな」

「可能な限り?」

「うん。例えば、人間を生贄として捧げないといけないお祭り、っていうのがあったとしたら、人間を生贄にすることだけはやめさせないといけないよね。人間に害になるような風習はやめさせたい。それは強く思うよ」

 すると、

「じゃあ、しきたりは?」

節子さまはこう尋ねた。「しきたりも、全部無くさないといけないの?」

「ええと……」

 突然の質問に、答えをまとめようとした瞬間、首筋に微かな違和感を覚えた。

(誰か……いる?)

 人払いはお願いしてある。では、不審者だろうか。集中して、気配を読もうとした時、風も無いのに、茂みが揺れたような音が庭からした。

「梨花お姉さま?」

 私の異変を察した節子さまに、“静かにして”とジェスチャーで伝えると、私はそこにあった急須を掴んだ。他に武器になるようなものが見当たらなかったのだ。不審者の顔面に投げ付ければ、目くらましぐらいは出来るだろう。

「誰か……」

 来て、と叫ぼうとした時、激しい殺気が生じて、私は一瞬固まった。どこに潜んでいたのだろう。全く気が付かなかったけれど……。

「大山さん!」

 私は障子を開け放った。「なるべく殺さないで!黒幕の正体を吐かせなきゃ!」

 私の叫びに答える声は無く、何かがぶつかる音が真っ暗な庭から流れてくる。すぐにその音も収まり、暗闇の中から、大山さんが姿を現した。

「侵入者は、こ奴ひとりだけでした」

 大山さんが拘束しているのは、私と同じ年頃の女性だ。その顔に見覚えがあった。花御殿に配属されている職員の一人だ。

(どうして?!)

 なぜ彼女が、青山御殿の庭に潜んでいるのだろうか。考えようとした矢先、

(ふみ)姉上!(さだ)義姉上(あねうえ)!」

廊下に軽い足音が響き、輝仁(てるひと)さまが姿を現した。右手に竹刀を握り締めている。

「無事?!」

「ありがとう、私も節子さまも大丈夫。……偉いね、輝仁さまは」

 そばまでやって来た輝仁さまの頭を、私はそっと撫でる。まだ10歳にもなっていないのに、この小さな紳士は、姉たちを守りにやって来てくれた。私に怯える恒久(つねひさ)王殿下や邦芳(くにか)王殿下とは大違いである。

「こ奴は、これから取り調べます」

 大山さんの声に、「殺さないようにしてね」と返し、私は自分の部屋に戻った。

「……あの職員は、青山御殿の様子を窺うために潜んでいた、と供述しています」

 翌朝、拝礼を終えた私に、大山さんはこう報告した。

「正面から訪ねれば、梨花さまに追い返されると考えて、庭から回った……そう申しておりますが」

「黒幕がいるようなことは話してない?」

「ええ、今のところは」

 大山さんの目が、危険な光を帯びる。侵入者がどこの手の者なのか……彼なら、時間は掛かっても明らかにしてくれるだろう。

「殺さないようにだけは注意してね。だけど、どこの手の者かしらねぇ……」

 ため息をついたその時、廊下から輝仁さまの声がした。どうやら、朝の挨拶に来てくれたらしい。大山さんが頷いたので、私は「入っていいよ」と声を掛けた。

「大山閣下がいらっしゃるなら、ちょうど良かった」

 私に朝の挨拶を終えると、輝仁さまはこう言ってニッコリ笑った。

「何でしょうか?」

 首を傾げた大山さんに、

「庭に、罠を仕掛けてもいいですか?」

輝仁さまはこう尋ねた。

「俺、(ふみ)姉上と(さだ)義姉上(あねうえ)を、悪い奴らから守りたいんです。でも、俺、まだ身体が小さいから、敵と戦っても、力の差で負けちゃう。だから、考えたんです。庭に罠を仕掛けて、敵をやっつけたらいいって」

「確かにそれ、戦術としては、とても筋が通ってるけど……」

 罠というのは、前世の父が見ていたゲリラ戦がテーマの映画によく出てきた、扉を開けると毒ガスが吹き出すとか、落ちているタバコの箱を拾ったら爆発するとか、そういう類いのものだろうか。庭から侵入する敵には効くだろうけど、設置する時に事故が起こったら非常に危険だ。

 すると、

「いいお考えです」

大山さんが思わぬ答えを返した。

「では、満宮(みつのみや)さまの夏の課題は、罠作りに決定ですね」

「ちょ、ちょっと待って、大山さん!」

 ニコニコ笑っている臣下に、私は思わず怒鳴った。

「事故が起こったらどうするのよ!仮にも、輝仁さまはお父様(おもうさま)の子供なんだよ?!万が一、爆発事故に巻き込まれたら……」

「ご安心を、そのような本格的な罠は、まだ必要ありません。落とし穴程度で十分でしょう。ああ、成久(なるひさ)王殿下たちにお手伝いしてもらうのもよいかもしれません」

「そんなに話を大きくしていいのかな……」

「正確に言えば、お手伝い兼監督役です。幼年学校でも、初歩的な陣地構築のやり方は教えているはず。実際に罠を作成するのも、王殿下がたのご修業になりましょう」

「まぁ、今はみんな、毎日来てくれてるからねぇ……」

 今は、どの学校も夏休みに入っている。だから、名古屋城の模型を組み立てに、成久殿下を筆頭とした王殿下たちが、毎日青山御殿に来ていた。ちなみに、模型の当番に当たっていない王殿下たちも、輝仁さまの相手をしに青山御殿にやって来ているから、日中の青山御殿は少年たちの歓声で溢れているのだ。

「じゃ、罠の件は、大山さんに任せた。輝仁さま、大山さんや成久殿下たちの指示に従って、しっかり課題を完成させるんだよ」

 眼を見つめながら言うと、弟は「はい、分かりました」と元気に返事をしてくれた。


 1903(明治36)年8月13日木曜日、午後3時。

「よし、穴の深さはこのくらいでいいぞ!」

 青山御殿の庭には、今日も元気な少年たちの声が響いている。

「えー、これ、深さ60㎝もないのに……」

「それでいいんだよ、稔彦(なるひこ)。敵を足止めするのが目的なんだから」

「つまんねーな。底に爆薬でも仕掛けてやりたいのに」

 なんだか物騒なセリフも聞こえてくるけれど、それは聞かなかったことにして、私は廊下で庭に向かって叫んだ。

「みんなー!スイカを切ったから、休憩を命じるよ!」

 すると、一斉に喜びの声が上がり、少年たちがこちらに向かって走って来る。輝仁さまを先頭に、北白川宮(きたしらかわみや)成久(なるひさ)王殿下、輝久(てるひさ)王殿下、芳之(よしゆき)王殿下、正雄(まさお)王殿下。久邇宮(くにのみや)鳩彦(やすひこ)王殿下に稔彦王殿下、そして有栖川宮(ありすがわのみや)栽仁(たねひと)王殿下だ。

「ちゃんと手を洗ってよ。スイカと麦湯、食堂に準備してあるからね!」

 少年たちは元気よく返事して、次々と廊下に上がる。彼らが洗面所を経由して食堂に向かうと、食堂では途端に大騒ぎが始まった。

(暑いのに元気だなぁ……)

 少年たちのスイカと麦湯のお代わりの要求に応じて、食堂と台所を往復していると、

「梨花さま」

大山さんが、私の後ろから囁いた。

「客殿の方でお話をよろしいですか?」

「……花御殿の職員さんの話?」

「ええ」

「それ、節子さまに聞かせても大丈夫なの?」

 私は大山さんの方を振り返った。自分の御殿に勤める職員が、青山御殿の庭に潜んでいたなど、穏やかな話ではない。眉をしかめると、大山さんが微笑した。

「問題ないでしょう」

「でも、その話で節子さまがストレスを受けちゃったら……」

 すると、大山さんが私の頭を、あやすように優しく撫でた。

「皇太子妃殿下は、梨花さまが思っていらっしゃるより、ずっと強いお方です。……梨花さまは、少し心配し過ぎですよ」

(必要な心配をしてるまでなんだけどな……)

 大山さんの言葉にちょっと納得できなかったけれど、私は彼の後ろについて、客殿に向かった。

「……一番懸念しておりました、彼の職員が皇室の敵対勢力とつながっているのではないかという点は、完全に否定されました」

 客殿の節子さまの部屋。人払いをすると、大山さんは私と節子さまに報告を始めた。

「そうか……。じゃあ、あの職員は、純粋に、青山御殿の様子を探るために庭に潜んでたってこと?でも、何で?」

 私の質問に、「おそれながら」と、大山さんは難しい表情を節子さまに向けた。

早蕨(さわらび)どのの落ち度を掴んで、万里小路(までのこうじ)どのに報告するためだったと」

「……!」

「はぁ?!」

 驚く節子さまと私に、

「そうすれば万里小路どのが早蕨どのを花御殿から追い出し、万里小路どのが花御殿の女官筆頭になるのではないか。その暁には、重要な情報をもたらした自分が、万里小路どのに重用され、出世するだろう……。それを狙っていたと申しております」

大山さんは淡々と説明した。

(うっわー……)

 私は思わず、右手を額に当てた。早蕨さんと万里小路さんの対立は、そこまで激化していたらしい。

「その職員、万里小路さんの命令で動いた可能性はある?」

「ご安心を、梨花さま。万里小路どのや早蕨どのをはじめ、花御殿の女官たちは全員徹底的に取り調べましたが、その可能性は完全に否定されました。早蕨どのも万里小路どのも、反りは合わなくとも、お互いを花御殿に必要な人間だと認識され、決定的な対立を、お2人とも意図して避けておられます。ただ、自分に味方しようとする女官たちが、勝手に忖度して動いているのが、自分の力だけでは抑えられない……お2人とも、そうおっしゃっておられました。(おい)が女官を捕まえたことで、手柄を得るために青山御殿を探ろうとする過激な動きは無くなったそうですが」

「なるほどね……」

 そうなると、輝仁さまの夏の課題は無駄だったのかもしれない。後で大山さんに、罠をいつ撤去するかを相談しよう。けれど……。

「でも、その、女官の動きが抑えられないって本当なの?特に、万里小路さんの方……」

 私が大山さんに尋ねた時、

「本当だと思います」

横からしっかりした声が聞こえた。節子さまだ。

「節子さま?!」

 私は節子さまににじり寄った。

「いや、それは違うと思うよ?!万里小路さん、私だけじゃなくて節子さまにまで、お小言ばかり言って来る。庇おうとする早蕨さんにもキツイことを言うことがあるし……やっぱり、万里小路さん、心の中では対立を望んでいて……」

「あのね、梨花お姉さま」

 節子さまは私を見つめた。「確かに、万里小路さまの言葉はとても激しくて、泣いたことも何度もあります。でも、万里小路さま、私にこう言ったことがあるんです。“余りにもしきたりがないがしろにされてしまえば、皇太子妃殿下が他の皇族方や他国の王族に侮られてしまうことになる。私は元々言葉がきついので、誤解を与えてしまうかもしれませんが、皇太子妃殿下の立場をお守りするためにあえて厳しく申し上げています”って」

「節子さま……」

「けれど、早蕨さまも、私のためを思って、私に本当によくしてくださるの。そして、こうおっしゃるの。“新しいこともどんどん取り入れて、増宮さまのように、しきたりもどんどん壊していくべきだ”って。だから私……私、嘉仁(よしひと)さまの妃として、一体どうしたらいいのか、分からない!」

 叫んだ節子さまの目には、小さいころから付き合ってきた私もほとんど見たことのない、大粒の涙が光っていた。

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