相談事二つ
1890(明治23)年、9月16日。
オスマン帝国から、天皇に勲章を奉呈するために日本に派遣され、帰国の途上にあった軍艦・エルトゥールル号が、和歌山沖で、台風による暴風にあおられて沈没した。600人以上の乗組員がいたのだけれど、その大半が、海に投げ出されて亡くなってしまった。ただ、和歌山の人たちが、自分たちも台風で大変な中、精いっぱいの救援をしてくれて、70人近くは救出された。
東京にその報が届けられたのは、19日の未明だったのだけれど、天皇は、可能な限りの援助をするように指示した。そして、侍医さんの一人を、生存者の治療に当たらせるために派遣した。お母様も、十数人の看護師を派遣した。
そして、生存者たちを、どうやってオスマン帝国まで送り届けるかについてが、“梨花会”で、ちょっとした問題になった。
手段としては、日本の軍艦で送り届けるしかないというところでは、一致したのだけれど、どの軍艦を使うかというので意見が割れたのだ。
「納得できません」
9月下旬のある日、皇太子殿下が不在の時に私を訪ねてきた、有栖川宮威仁親王殿下はこう言った。
「大兄さま、いきなりそう私に言われても……何のことなのですか?」
私は困惑していた。
伊香保で、私の秘密を知ってしまった彼の処遇をどうするか。
“梨花会”の中で大問題になるのではないか、と思ったのだけれど、それはあっさりと解決した。
――いずれ、威仁を“梨花会”に入れようと思っていた。時が来たというだけのことだ。
事情を伊藤さんから聞いた天皇が、即座にこう裁定を下したので、親王殿下は“梨花会”に迎え入れられることになったのだ。
そして、9月から親王殿下は“東宮賓友”という役職に任じられた。“賓友”という言葉に、全く馴染みがなかったので、天皇に尋ねると、
――敬って遇すべき友、という意味になろうか。漢籍には、ごくたまに現れる。
と言われた。
――本当は、“兄”としたい。嘉仁と、そなたのな。威仁は、嘉仁とそなたを、次代の皇族として育てるにあたって、手本となる人間だからな。……ただ、公文書に残ることを考えると、“兄”という字は使えぬ。それゆえ、賓友とした。これから威仁を、兄と思って遇するように。
天皇は私に、そう命じたのだけれど……。
「あの、増宮さま。やはり、その大兄さま、というのは、やめていただく方が……」
親王殿下が、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「だって、皇太子殿下の義兄でしょう?私、前世では兄が二人いて、上の兄を“大兄”、下の兄を“小兄”と呼んでいました。二人いる兄のうち、上の兄になりますから、“大兄さま”です」
私が反論すると、
「ですから、その“前世”のことが、厄介なのですよ……」
フロックコートを完璧に着こなした親王殿下は、深いため息をついた。
(そりゃあ、そうですけれどね……)
満7歳だと思っていた親戚の娘さんが、実は24歳で死んだ前世の記憶があって、それを考慮に入れてしまうと、自分とほぼ同年代という事実に、戸惑わない方がどうかしている。
実際、親王殿下が私の前世についての話を聞いた時、一番困惑していたのが、私が前世で死んだ年齢のことだった。前世の史実のことだとか、私の前世が研修医だったことだとか、困惑するポイントは、もっと他にもあると思うのだけれど……。
「まさか、私より年上とは……」
「ちょっと待ってください。大兄さまは、確か今年で満28歳って聞きましたけれど」
「はい、ですから、前世の分の年齢を足せば、増宮さまは今年で満31歳、私より年上……ですよね?」
「水増ししないでください!」
私は頬を膨らませた。「私は7歳ですよ。そんなことを言われてしまうと、自分が何歳なのか、本当に分からなくなります」
「皇太子殿下と遊んでいるところや、そんな風に頬を膨らませているところをみると、本当に、今生のご年齢相応に見えるのですが……、こうやって話していると、考え方のほとんどが大人のそれ、しかも時折閃く智謀、その美貌……。本当に、戸惑ってしまうのですよ」
「勝手に戸惑ってください。とにかく、私はあなたのことを“大兄さま”と呼びます。そうしないと、皇太子殿下にも不審がられますから。……で、私に相談があるのですよね?」
「敵いませんね、増宮さまには……」
親王殿下は両肩を竦めた。イケメンなだけに、その仕草が、恐ろしく絵になる。
「エルトゥールル号のことですよ」
「エルトゥールル号?和歌山で沈没した、トルコの軍艦のことですか」
「そうです。生存者を、トルコに送り届けなければなりません。それで、私が艦長をしている“葛城”で、この私が送り届けたい、と上層部に志願したのですが……」
親王殿下の本業は、海兵大佐である。若いころには、イギリスの海軍大学校に留学もしたらしい。これが前世だったら、大問題になっていそうだけれど、この時代は、男性皇族が軍人になることは、当たり前なのだそうだ。
「“比叡”と“金剛”が送り届けることに、決まってしまいそうになっておりまして……」
(“金剛”って……聞いたことがあるような……)
多分、前世で流行っていた、軍艦擬人化ゲームのせいだろう。
「で、まさかとは思いますけれど、生存者を送り届ける役を、“葛城”に最終決定させるには、どうしたらいいかを聞きに来た……という訳ではないですよね?」
私が尋ねると、「どうしてわかるのですか」と親王殿下は目を丸くした。
「どうしてって……いや、それよりも、そんな相談には乗れません」
私は断言した。
「何故でしょうか?」
「私にそんな経験がないからです」
すると、親王殿下は、
「ならば、これから積めばよろしいではないですか」
と、事も無げに言った。
「大兄さま、私がこれから積みたいのは、医者としての勉学と経験です。軍人でもない私が、政治や軍事に口を出すなんて」
「手伝っていただければ、今度一緒に、八王子城跡の見学に付き合ってもよろしいですが……」
何?
「八王子城、ですって……?」
私の理性が揺らいだ。
転生してから、前世で趣味としていた城郭めぐりは、殆どしていない。流石に、皇居、すなわち江戸城は、櫓や石垣を少しずつ見学しているけれど、それだけではまだ足りない。
(八王子城跡……前世でも見て回ったことはあるけれど……石垣や堀切の跡もよく残ってて、……でも今は9月だからなあ……ん?)
私は一つ咳ばらいをすると、姿勢を正した。
「そうなると最低10日ぐらいは、東京を空けることになりますけれど、それでもよろしいですか?」
「え?」
親王殿下が、私の言葉に戸惑った。
「八王子城は広大です。前世ではある程度、遺構が整備されていましたが、今の時代では、まだ遺構の整備はされていないでしょう。ですから、堀切や曲輪、石垣の跡も、自分で探さなければなりません。その位置もきちんと地図に記録して、縄張りの様子も確認したいですし。それから、八王子城の周辺にも、出城がいくつかあったはず。その状況も確認しなくては。……そう考えると、10日間で見学が済むかしら?」
「……すみません、甘く見ておりました」
こう言って、親王殿下が頭を下げた。
「素人は黙っとれ……」
「は?」
「大体、下草が生い茂っている今の時期に、整備されていない山城を見て回るのはすごく大変だし、お勧めできないわ。……“梨花会”のみんなから、私の城好きのことを聞いて、上手く使えば私を操縦できると思ったんでしょうが、そうはいきませんよ」
私は胸を張った。八王子城の現況には、ものすごく興味があるけれど、だからと言って、それと引き換えに、政治や軍事が関わる相談に乗るわけにはいかないのだ。
「ならば、……仕方がありませんね」
親王殿下は椅子から立ち上がった。どうやら、私に相談することは諦めて、今日は帰宅されるらしい。玄関まで送って行こうか、と思い、私も立った。
と、
「御免……!」
親王殿下が、突然私に近寄り、私を抱き上げた。
「ちょ……ちょっと、何するの!」
「ふむ、やはり身体の大きさは年相応ですね。息子よりは重いが」
威仁親王殿下は、私の身体を抱っこしたまま、廊下に出た。
「お、大兄さま、どこにいくの?!」
抱きかかえられたままの私が尋ねると、親王殿下は、
「皇居です」
と返答した。
「は?!」
「相談に乗っていただけないのであれば、このまま皇居で、一緒に陛下に会っていただきます。“増宮さまに御口添えをいただいた”とね」
「それなら、何も、抱きかかえて行かなくてもいいじゃない!下ろしてください!」
私はジタバタしながら、親王殿下に抗議した。
「これでも私は、いっぱしの軍人です。今は海兵大佐ですが、陸のことも少しは心得ております。それを素人扱い……馬鹿にしないでいただきたいものですね」
さすが現役の軍人だけあって、私がいくら暴れようとしても、親王殿下の腕の力は少しも緩まなかった。
「あ、あのね!そういう意味で言ったんじゃなくて、城郭マニアとしての作法が……」
「だまらっしゃい。とにかく、このまま皇居に行きます」
親王殿下は、私から視線を逸らして、廊下を速足で歩き始めた。
「だから、下ろしてよ!」
「嫌がっていらっしゃるので、下ろしません。これは罰です。軍人をバカにしたらどうなるか、身をもって味わっていただかなければ。言ってみれば、兄としての教育的指導、というものでしょうか」
親王殿下はこう言って、私を抱っこしたまま、どんどん玄関に向かって進んでいく。
「ふざけないで!このまま皇居まで行ってごらんなさい、未成年者略取誘拐の現行犯よ!」
「おや、お子様を、ご両親の所にお連れするだけなのに、そのような罪状がつくのですか?」
(こ、この野郎……)
親王殿下の顔を、思いっきり平手打ちしてやろうか、と思った瞬間、
「増宮さま?」
ちょうど大山武官長と鉢合わせした。
「お、大山さん!ちょっと、ヘルプっ!」
私はありったけの声で叫んだ。
「な……若宮殿下?!増宮さまを抱え上げるとは、うらやましい……」
(違うだろーーー!)
大山さんのセリフに、私は思わず脱力した。
「これは、大山閣下。これから、エルトゥールル号の乗組員の送還につき、参内して、陛下にお願いをしようかと……」
「だから、陛下にお願いをするというのは、大丈夫なのかしら?軍艦を動かすのだったら、軍隊の指揮権を持つ黒田さんや、国軍の上層部に、まずお願いをするのが筋ではないのですか?」
私は、深いため息をつきながら、親王殿下に聞いた。
「それならとっくにしましたよ。黒田閣下にも、西郷閣下にも、山本閣下にも、児玉閣下にも。全員、私の申し出に賛成していただいたのです」
「え……?」
総理大臣も、国軍大臣も、国軍次官も参謀本部長も、親王殿下が“葛城”でエルトゥールル号の生存者をトルコまで送還することに賛成しているのに、別の軍艦での送還が決まりそうだ、ということは……。
「つまり、総理大臣の上……陛下が反対している、ということなの?」
「流石増宮さま、察しがいいですね」
親王殿下が苦笑した。
「ですから、この上は、陛下に直接理由を伺う他ない、そう思ったわけですよ」
すると、
「なるほど……それならば、俺も協力いたしましょう」
大山さんがこう言った。
「へ?」
「若宮殿下のお志、非常に素晴らしいと思います。俺も一緒に参れば、多少陛下のご心象も変わりましょう」
「なんと……前陸軍大臣の閣下にも、お力添えをいただけるのですか。かたじけない」
親王殿下は、大山さんに軽く頭を下げた。
「そうと決まれば、このまま3人で参内しましょうか」
「ですな」
「私も行くのは、決定事項なのね……」
私は親王殿下に抱っこされたまま、馬車に乗り込んだ。大山さんも馬車に同乗し、3人で皇居に向かう。
そして、皇居に入り、控室で待つこと20分、
「章子まで、一体どうした……」
怪訝な表情の天皇が、私たちを出迎えた。その隣には、西郷国軍大臣もいた。
「あの……まあ色々あって……」
ようやく、親王殿下の腕から解放された私は、こう天皇に答えるのがやっとだった。
政治を行う“表御座所”で、天皇と会うのは初めてだ。机の前に立つ、黒いフロックコート姿の天皇に、私は非常な威圧感を覚えた。
「ふむ……丁度良い。この機会に、申し渡しておこう」
天皇は、側に控えている侍従さんに、退出するよう命じた。
「威仁よ、朕の元にやってきたのは、エルトゥールル号の乗組員の送還の件であろう」
天皇の言葉に、
「はっ……全く、その通りでございます」
親王殿下が頭を垂れた。
「なぜ、そなたが送還するのではいけないか……それは、そなたに、他にやってもらいたい仕事があるからだ」
「ほかに、仕事、ですか……?」
親王殿下の問いかけに、「そうだ」と天皇は頷いた。
「章子」
「は、はい」
急に名前を呼ばれ、私はびっくりして、姿勢を正した。
「来年の、ロシア皇太子の接待責任者だが、威仁に任せることに決めた」
「!」
私だけではなく、西郷さんも、大山さんも、そして親王殿下も、とっさに答えられなかった。
「威仁は、英語のみならず、フランス語にも通じている。昨年、ロシアにも行っておるから、ニコライ皇太子とも顔見知りだ。大過なく、役目をこなすだろう」
「陛下……その、“大過なく”って……大津事件はどうするんですか?!」
私は、思わず天皇に聞いてしまった。
「威仁……危険な任務にはなるが、ニコライ皇太子の馬車に同乗して、皇太子を守ってもらえるか?」
「ちょ……?!」
私は、隣に立っている親王殿下を見上げた。
“大津事件”のことは心配するなと、黒田さんにも勝先生にも言われているけれど、私が犯人の名前を思い出せないばかりに、“梨花会”のみんなに負担を掛けてしまっているのだ。
「おや、増宮さまに、この身を案じていただけるのですか。ありがたいことです」
親王殿下は微笑した。「ですが、私も国軍の一将官。それなりに、武芸に通じております。“大津事件”など起こさせはしませんよ、増宮さま」
「お待ちください、陛下!」
大山さんが声をあげた。「いくら、ロシアの皇太子を守るためとはいえ、若宮殿下を危険にさらすことは、見過ごせませぬ。せめて、その役目は、この大山にお命じいただきとうございます」
大山さんが、天皇に最敬礼した。
「大山。そなたの言葉は嬉しい。フランス語も英語も達者なそなたならば、ロシアの皇太子の相手も務められよう。しかし、身分の差を理由に、陪乗を断られる可能性もある。そのことを考えると、威仁が最適だ」
天皇が重々しく告げた。
「陛下!若宮殿下は、血筋もさることながら、将来有望な軍人でございます。この大山を失うより、国家の損失になるかと……」
なおも、大山さんは天皇に食い下がる。
「ならん!……そなたを失うのは、我が師を失うに等しいぞ……」
「陛下、しかし……」
(ああもう、じれったい!)
「……じゃあ、二人ですればいいじゃない!」
叫んでしまった私に、一同の視線が集中した。
「章子、今、なんと……」
天皇の言葉で、私は我に返った。
「あ、い、いや、その……ごめんなさい、陛下!今の言葉は、子供の戯言として、聞き流してください!」
私は、天皇に最敬礼した。
「いや、聞き流せぬ。章子、二人、というのは、威仁と大山、ということか?」
「あ、は、はい、そうです……」
頭を上げずに、私は答えた。
まずい。とてもまずい。
今の雰囲気だと、大山さんのこと、天皇はとても気に入っているようだ。しかも“我が師”とまで言っているし……。
天皇と大山さんで、押し問答になってしまっていたから、つい、ああ言ってしまったけれど、二人で接待責任者って、そんなことできるのかな?
「あの……よろしいですか、陛下」
今まで黙っていた西郷さんが口を開いた。
「若宮殿下を、皇太子接待の正委員長、弥助ど……大山を副委員長、ということにしたらいかがでしょうか」
すると、天皇は、少し考え込んで、
「なるほど。その手はある。考えておこう」
と言った。
「なにとぞ、なにとぞ、それでお願いいたします!」
大山さんが天皇に、深く礼をする。
「私も、大山閣下が側についていただけるのであれば、百人力です。なにとぞ、西郷閣下のご提案を、容れていただきますよう……」
親王殿下も、天皇に最敬礼した。
(た、助かったのかな……西郷さん、ありがとう!)
私は心の中で、西郷さんを拝んだ。
「しかし……章子は、ちと落ち着きが足らんな」
天皇がジロリと私を見やった。
「ご安心を。軍人の兄をバカにしたらどうなるか、先ほどたっぷりと教えて差し上げました」
親王殿下が一礼して答える。
「馬鹿にしたつもりは、なかったんだけどなあ……それに、夏の山城を、なめてかかっていたのは大兄さまですよ」
「だから、その呼び方は、やめていただけませんか……」
すると、私と親王殿下のやり取りを見ていた大山さんと西郷さんが、同時に吹き出した。
「まあ、これはこれで……」
「面白いですな」
更に何か言おうとした二人だったけれど、天皇が私たち一同を睥睨したので、慌てて頭を下げた。私と親王殿下もこれに倣う。
「まあ、よい。章子、……そなたはこの時代の理をよく知らぬゆえ、威仁から学ぶところも多かろう。兄としてよく、威仁に師事するように」
「はい……」
言いたいことは色々あったのだけれど、それは胸の中にしまっておいて、私は天皇に、再び最敬礼した。
10月5日、国軍の軍艦“比叡”と“金剛”が、神戸にいるエルトゥールル号の生存者を収容するために、品川を出港した。この2隻は、生存者を収容すると、そのままオスマン帝国まで航海することになる。
そして、あの日の表御座所での出来事を境に、ニコライ皇太子来日に向けての準備が、本格的に始まったのだった。




