閑話 1903(明治36)年芒種:ベオグラード
1903(明治36)年6月11日未明、バルカン半島に位置するセルビア王国の首都・ベオグラードにある王宮。
今年の誕生日で27歳になるセルビア国王・アレクサンダル1世は、自らの前に広がる光景を眺めながら、呆然と立ち尽くしていた。
自室の床には、セルビア軍の将校たちが――自分の暗殺を企て、王宮に侵入した将校たちの体が、硝煙の匂いと大量の出血にまみれ、物言わぬ物体と化して転がっている。30名余りの死体と自分の間には、暗い色のまだら模様の服を着て、黒い覆面を付けた男が3人いて、手にした銃の先を、血塗れの物体に用心深く向けている。その銃は、国王が見たことの無い種類の銃だった。機関砲のようにたくさんの銃弾を連射出来るのに、銃身は歩兵銃のそれより短く、機関砲のように地面に置いて使う必要はない。最初、まだらの服の男たちが、その銃を反逆者たちに向かって撃った時には、日本に存在しているという“ニンジャ”が、手のひらから雷を放って相手を倒したのかと勘違いしたほどだった。
アレクサンダル1世から少し離れたところに、近臣のペトロヴィッチ将軍、そして、王妃のドラガが立っている。国王より12歳年上の王妃は、美貌未だ衰えず、離婚歴がありながらも国王に見初められ、あらゆるセルビア人の反対を押し切って王妃の位に収まった曰く付きの女だ。その美貌も凄惨な情景の前に色を失い、王妃は顔を青ざめさせたまま、無言で身体を細かく震わせているのみだった。
と、部屋の扉が開き、男が2人入ってきた。一人は、まだら模様の服を着て、白い仮面を付けた男。そして、もう一人は……。
「パブロヴィッチ閣下!」
ペトロヴィッチ将軍が、セルビア軍の軍服を着た、見事な口ひげとあごひげを生やした男性に敬礼する。彼の名はミロヴァン・パブロヴィッチ……セルビア王国の陸軍大臣だった。
「助けに参るのが遅くなりまして申し訳ありませんでした、国王陛下」
ミロヴァン・パブロヴィッチ陸軍大臣は、アレクサンダル国王に最敬礼した。
「国王陛下のお命を狙った連中が多すぎまして、処分に手間取りました。将校が130人ほどと、若干の文官……そ奴らが手分けして、この王宮のみならず、首相や私の家まで同時に襲撃しようとしていたのです。ですが、全員地獄に送りました。奴らの指揮下に組み入れられてしまった部隊も完全に制圧しています」
「なんと……」
アレクサンダル国王が呟いた。「かように大規模な襲撃だったのか。よくやった、パブロヴィッチ。礼を申すぞ。……しかし、この襲撃、首謀者は誰なのだ?」
「襲撃の首謀者はそこに転がっていますが……別の計画の首謀者を連れてきておりますよ」
白仮面の男が、何事かを黒覆面の男たちに命じる。“連れてこい”とでも言ったのだろうが、国王は全く知らない言葉だった。ほどなく、まだら模様の服を着た黒覆面の男たちに銃口を突き付けられながら、2人の男が寝室に入って来る。それは、ドラガ王妃の2人の兄だった。
「兄さんたち……!」
震える声で王妃は兄たちに叫んだ。「ウソでしょ?こんなはずじゃ……!」
「ほう?」
陸軍大臣の右の眉が跳ね上がった。
「こんなはず、とは、一体当初はどのような結果をお望みだったのでしょうか、妃殿下?」
「お……お前に話す必要はない!」
ドラガ王妃は陸軍大臣の質問を突っぱねた。その顔は更に青ざめ、張り上げた声は相変わらず震えていた。
「さようでございますか」
パブロヴィッチ陸軍大臣は冷静に王妃の言葉を受け流し、
「まぁ、お話にならなくとも、こちらは既に、妃殿下は国王陛下の毒殺をお望みだったと知っているわけですが」
と挑発するように言った。
「何だと……?!」
アレクサンダル国王が眼を剥く。「そんな……私が愛するドラガが、私を毒殺するなど……」
「妃殿下の兄君たちが、全て白状してくれましたよ。国王陛下に毒を盛る予定で、毒物も既に入手していました。これが、妃殿下と兄君たちの謀議が記された、証拠の往復書簡ですよ」
軍服のポケットから取り出した何枚かの紙を、陸軍大臣は国王に手渡した。確かに、自分を殺そうとする計画が、愛する王妃とその兄たちの筆跡で記されている。それを確認した国王の手が、小刻みに震えだした。そんな国王に、
「国王陛下にお子がいらっしゃらない現在、国王陛下の御身に万が一のことがあれば、王妃のご兄弟に、このセルビアの王位が回ってもおかしくない……。こやつらは、そのようなことを考えかねない連中だと思いましたから、当時の閣僚の皆さまがたが、陛下のご結婚に反対したのです」
陸軍大臣の言葉が覆いかぶさる。
「ドラガ……そんな、そんなつもりで私に近づいたのか!」
「違う、私は……!」
王妃が国王に必死に弁明しようとする声に、「ああ、そうだ」と王妃の兄の1人が答える。
「このまま国王が死ねば、王位は俺たちのもの……だから、国王に毒を盛ろうとしていたのさ!」
ニヤリと笑った王妃の兄たちに、
「貴様らぁ!」
アレクサンダル国王は怒鳴った。
「出ていけ!ドラガ、お前もだ!」
「そんな、陛下……何かの間違いです……」
「では、この者たちの処遇は、我々に任せていただきましょうかな」
王妃の弁明の声をかき消すように、陸軍大臣の言葉が室内に響く。
「ああ、お前たちに任せよう。処刑して構わん」
「承知しました。適切に処理致しましょう」
陸軍大臣の返事で、黒覆面の男たちのうちの2人が動き、王妃だった女の両腕を左右から掴む。王妃だった女とその兄たちが寝室から引っ立てられていくと、アレクサンダル1世は大きく肩を落とした。
「パブロヴィッチ……私が、間違っていた。私は一時の欲望に負けて、大きなものを見失っていたようだ。私は、どうしたらいいのだろうか、この国の国王として……」
「……まずは、国民の信頼を取り戻すところからと愚考いたします」
明らかに落ち込んでいる国王に、陸軍大臣はこう声を掛けた。
「そのためには、数年前に停止した憲法を復活させ、このセルビアを立憲君主制の国に移行すること。さすれば、陛下の御威光も輝くかと」
「陛下、私もそのように考えます。どうかご決断を!」
近臣のペトロヴィッチ将軍も、声を励ましながら進言する。年長者2人の誠意の籠った助言に、
「わかった……。ならば、お前たちの言う通りにしよう……」
アレクサンダル国王は、力無く頷いたのであった。
数分後。
「よくやった、イワン」
国王の寝室から出たパブロヴィッチ陸軍大臣は、後ろに付いている白い仮面の男に声を掛けた。
「我が軍の将校たちの国王陛下の暗殺計画のみならず、それと別に進んでいたドラガたちの暗殺計画をも探り当てるとは……犠牲は大きかったが、これで、我が国も真っ当な道を歩んでいくことが出来る。礼を申すぞ」
「それはどうも」
白い仮面の下からは、流暢なセルビア語が流れ出た。
「しかし、まだまだ困難はたくさんあるな。国民の信頼を取り戻したとしても、我が国の国家財政を再建していかねばならない。これは一筋縄ではいかないぞ」
陸軍大臣がため息をつくと、「おそれながら、閣下」と“イワン”と呼ばれた白い仮面の男が言った。
「幸いこの国では石炭を産します。地下資源もそれなりにありますし、地形は水力発電に適しております。地下資源の探索をしながら、石炭と水力発電の動力を用いて工業化を進めていき、品物をバルカン半島の諸国に売りつければよろしいでしょう。物によっては、いずれは世界をも相手にする商売ができるかもしれません」
「!」
イワンの言葉に、陸軍大臣が目を見張る。
「なるほど……それは一理ある。早速、首相にも話してみよう」
「ありがとうございます」
恭しく礼を述べながら、
(予想以上に上手く行ったな)
白い仮面の下でほくそえんだのは、日本では明石元二郎と呼ばれる男だった。
――増宮さまがおっしゃるには、この6月11日に、セルビアで将校たちが国王と王妃、首相と陸軍大臣を虐殺します。それを阻止してください。特に、ドラグーティン・ディミトリエビッチという将校は絶対に殺すように。
中央情報院という、非公式の諜報組織に属する彼は、上司の大山巌にこのような命令を受け、第一師団の特殊部隊で訓練を受けた部下たちとともに、セルビアに潜入した。もちろん、国軍で開発された新式の小型機関銃を持ち込んで、である。
そして、セルビア軍将校たちの国王暗殺計画と、ドラガ王妃とその兄たちの国王暗殺計画を掴むと、明石はパブロヴィッチ陸軍大臣に近づいた。国王に忠誠を誓ってはいるが、王妃のことは心よく思っていない陸軍大臣は、明石の誘いに乗った。更に彼は、首相やその他の閣僚も巻き込み、危険な将校たちと王妃一派を排除するべく明石と共に計画を練った。それが、今夜の一連の出来事の真相だった。
(“ドラガ王妃はセルビアの癌。排除できればなお良いが”と大山閣下はおっしゃっていたが……その排除も終わった。ドラグーティン・ディミトリエビッチも殺した。しかし、これで増宮殿下のおっしゃる世界大戦を回避できるか……はなはだ疑問だな)
危うさを感じながらも、増宮章子内親王――未来を垣間見た、美しく、そして不思議な女性に、明石はより一層の忠誠を誓ったのだった。
かくして、ベオグラードで起こった軍人たちのクーデターは、「王妃の兄たちが軍人を虐殺したため、国王が王妃とその兄たちを処刑した」という公式発表がなされて幕を閉じた。
同時に、国王は1894年に廃止された立憲君主制に近づいた憲法を復活させたので、王妃との結婚で地に落ちた国王への国民の信頼は復活し、セルビア王国はオーストリア=ハンガリー帝国と融和的な政策を取りながら、再生への道を歩み始めることとなる。
しかし、その背後に、白い仮面の男が暗躍していたという事実は、歴史の闇に葬られたのだった。
※「5月クーデター」(セルビアでは当時ユリウス暦を使っており、当時の現地の暦では5月28、29日に起こったことになるのでこう呼ばれています)が改変されてしまいました。一応、1903年にはセルビアのボルで銅山が(フランス企業により開発されていますが)操業開始されており、現在のセルビアでもそれなりに鉱物が産出されています。当時の中学の教科書「新撰外国地理 : 中学教程. 中巻」(1899年)でも鉱物の産出がある旨は記載されていましたので一応いいかなと思って書いています。あくまでフィクションなのでご了承ください。
※一応、ドラガ王妃側が国王の暗殺計画を立てていたというくだりは、作者の創作です。ご了承ください。




