第2助手
1903(明治36)年5月16日土曜日午前11時45分、本郷区本富士町にある東京帝国大学医科大学付属病院の手術室。
「成り行きで助手をさせてもらうことになりましたけど……本当によろしいんですね?」
小声で確認した私は、軍医学校の制服から、半そでのVネックの白い上着――私の時代では、“スクラブ”と呼ばれている医療用のユニフォームに着替えていた。このユニフォームは、私が小さいころに、“私の時代の医療関係者は手術の時にこれを着てることが多いの”と、井上さんやベルツ先生に見せた絵が基になっていて、導入から10年以上経った今では、ほとんどの病院で採用されているそうだ。その上着に同色のズボンをはき、上から滅菌ガウンも付け、手術用の帽子もマスクも滅菌手袋も装着している。もちろん、手洗いもばっちりだ。
「ええ、よろしいですよ」
私と同じ格好をした東京帝大外科教授の近藤先生が、マスクの下でほほ笑んだ気配がした。
「マリー妃殿下のご指名でしたしね」
その妃殿下は、エーテルで全身麻酔をかけられて、手術台の上に横たわっている。腕にはもちろん、点滴の針が刺さっていた。
……マリー妃殿下が手術を希望したため、医科大学付属病院に電話で連絡を取ったところ、緊急に手術できるということだったので、私と森先生はマリー妃殿下を馬車に乗せ、医科大学付属病院に搬送した。たまたま今日は近藤先生の勤務日で、手術の執刀医も彼が引き受けてくれることになった。それを知らされたマリー妃殿下は、熱と腹痛で辛いはずなのに、子供のようにはしゃいで喜んだ。
――じゃあ、助手は増宮殿下かしら?
――あー、それは流石にちょっと無理です。私、この病院に勤めているわけではないので……。
はしゃぎながら尋ねるマリー妃殿下の勢いに、私がたじろぎながらも返答すると、
――殿下は第2助手です。
と、近藤先生がドイツ語で言った。
――あの、近藤先生?いいんですか?帝大の他の先生方を差し置いて、私が手術に入らせてもらって……。
日本語で尋ねた私は、とても戸惑っていた。虫垂炎の手術は、前世の医学生時代に、一度見学させてもらっただけで、あとは今生で、教科書で術式を勉強したぐらいなのだ。
(手術の成功に万全を期したいなら、未熟な私を助手にするのは、危ないんじゃないかな……)
心配していると、
――殿下には、外科医として修練を積んでいただかなければなりません。
近藤先生が日本語で私に話しかけた。
――軍医学校に入られてから、軍事訓練と座学ばかりしていると、おっしゃっていたではないですか。
――それはそうですし、許されるなら助手をやりたいですけれど……。
――ご心配がおありなのは分かりますし、気遣っていただけるのは非常にありがたいですが、殿下。
近藤先生は、うつむいた私に微笑みを向けた。
――それでもなお、将来を考えれば、殿下には第2助手として妃殿下の手術に入っていただければと思います。第1助手には、練熟した先生に入ってもらいますから、殿下のお手を煩わせることはほとんどないでしょう。
(あ……そっか……)
――分かりました、近藤先生。先生たちのそばで、しっかり勉強させてください。よろしくお願いします。
私が近藤先生に最敬礼すると、
――妃殿下、増宮殿下が、妃殿下の手術に参加してくださるそうです。
近藤先生がマリー妃殿下にドイツ語で告げた。
――ああ、嬉しいわ!よろしくお願いします、増宮殿下。殿下が助手なら、私、心強いわ。
(とは妃殿下に言われたものの……虫垂炎の手術の第2助手って、やることがほとんど無いんだよね……)
術者の近藤先生の隣に立たせてもらって、始まった手術の様子を見させてもらいながら、私はこっそりため息をつきそうになった。近藤先生の向かい側には、“前立ち”と俗に呼ばれる第1助手の先生が立っていて、近藤先生の動きを的確にサポートしている。大きく開腹する手術なら、第2助手が筋鈎を引っ張って、術者の視野を確保することもあるけれど、虫垂炎の手術で付ける創の長さは10センチもない。だから、第2助手がやることは、第1助手が術者をサポートしやすいように、次に使うと思われる手術器具やガーゼを、適切なタイミングで第1助手の近くに準備することで……あとは、手術の様子を観察することしかやることがない。正直、いてもいなくても、手術の進行にはほとんど変わりはない、という立場なのだ。
(しょうがない。手術を見て、ちゃんと手術の進行を覚えて、いずれは第1助手や術者もやれるようにならなくちゃ。だから、近藤先生も機会をくれたんだろうし)
近藤先生と第1助手の先生の、息の合った手術進行を見学しながら、私は心の中で誓った。
手術が始まってから、腫れた虫垂が摘出され、妃殿下の皮膚が無事縫い合わされるまでには30分もかからなかった。妃殿下の身体が手術室から搬送されるのを見送って、軍医学校の制服に着替えて手術室から出ると、同じく着替えた近藤先生と第1助手の先生が待っていてくれていた。
「今日は、ありがとうございました」
先生方に深く頭を下げると、
「いえ、こちらこそ……殿下に的確に助けていただけたので、手術に集中できました」
第1助手を務めた先生が私に頭を下げ返した。
「それはよかったです」
邪魔にならないようにと心がけて、その時必要そうな物品を準備していたけれど、どうやら上手く行ったらしい。ホッとすると、少し口元が緩んだ。
「本で読むのと、実際に見るのとでは、理解の具合が全然違います。私も軍医学校を卒業したら、可能な限り外科の修練を積みたいです」
「期待しておりますよ、殿下」
近藤先生が微笑した。「ロシア公使のせいでダメになってしまいましたが、増宮殿下のメスさばきを、私も見たいのです」
「全く、ロシアさえ横槍を入れてこなければ、殿下を外科医として鍛えるという栄誉は、今頃我々の手にあったのに……」
助手の先生が残念そうにつぶやく。確かに、ロシア公使に“千種薫”の正体がバレなければ、今頃私は、偽名を名乗って、帝大病院の外科で働かせてもらっていたのだ。
(そう言えば、就職の面接の時に私に絡んできた先輩方、全員姿を見かけなかったけれど……勤務日じゃないのかなぁ?)
ちらっと疑問に思ったけれど、それを確かめるのは本筋ではない。私は姿勢を正して、先生方に向かってもう一度頭を下げた。
「先生方、妃殿下のこと、よろしくお願い申し上げます。私、一人前の外科医になれるように頑張ります」
「はい、是非。私たちも可能な限り、殿下の力となりましょう」
近藤先生は力強く頷いてくれた。
手術の翌々日、5月18日月曜日午後5時半、東京帝国大学医科大学付属病院。
『ああ、いらしてくれたのね、増宮殿下!』
軍医学校からの帰り、お見舞いに寄った私を、マリー妃殿下は立ち上がって出迎えてくれた。土曜日に初めて会った時にはうつろだった表情には完全に生気が戻り、ブラウンの美しい髪もしっかり整えられている。
『今日は主人もゲオルクも帰ってしまったから、退屈でしょうがなかったの。さ、お座りになって。増宮殿下に色々な話を聞かなくっちゃ』
『それは構わないですけれど、余り時間は無いんです』
上機嫌の妃殿下に、私は椅子に座りながら答えた。
『軍医学校の帰りに、微行という扱いで寄らせてもらっているだけなので、30分しか時間が無いんです。警備の都合上、今は軍医学校に馬車で通学しているから、時間の融通が余り効かなくて……』
『学生さんは大変ね。でも、増宮殿下はもう医者の免状をお持ちなのよね?軍医学校で、一体どんなことを学んでいるの?』
『今日は勉強じゃなくて、射撃ばかりしていましたけれど……って、そんなことを話している場合じゃないんです』
微笑むマリー妃殿下の質問につられそうになったけれど、私は本題に立ち返った。
『妃殿下、体調はいかがですか?発熱はもうありませんか?何か召し上がることはできたんですか?』
『ああ、そうねぇ……』
妃殿下は少し考え込むそぶりを見せると、
『点滴の針が面倒なくらいね。熱も下がって、すこぶる快調よ。ドクトル近藤も、経過は順調だって言ってくださったわ』
そう言ってニッコリ笑う。
(ああ、それならよかった……)
ほっとした瞬間、
『ねぇ、そんなことより、増宮殿下のお話を聞かせて!軍医学校で、どんなことを勉強しているの?医師免許はどうやって取ったの?なぜ医者になろうと思ったの?ねぇねぇねぇ!』
マリー妃殿下が、まるで子犬のようにはしゃぎながら、私に立て続けに質問を浴びせる。
『落ち着いてください、妃殿下』
私は妃殿下に気圧されてしまっていた。『そんなに次々質問されたら、答えられなくなってしまいます』
『でも、時間がないのでしょう?』
『ええ、それは。弟が私の帰りを待っているし、時間に遅れるようだと、私、別当に叱られちゃいます。必ず時間通りに病院を出ると言ったけれど、別当は心配性だから、もしかしたらその辺に潜んでいるかも……私、いつも彼の気配に気づくのが遅れてしまって……』
すると、
『潜む?!』
妃殿下の目が異様に輝いた。
『もしかして、その別当ってニンジャなの?!』
『はい?!』
私は思わず、口をあんぐり開けた。そんな私の様子に構わず、
『すごいわ!やっぱりニンジャはいるのね!ねぇ、その彼ってどんな人なの?!教えて、教えて!』
マリー妃殿下は明らかに興奮しながら、質問を連発している。
(大山さんのことを、詳しく話すわけにはいかないしなぁ……)
彼は中央情報院の総裁だから、その意味では忍者のような存在なのかもしれない。だけど、中央情報院そのものが非公式の諜報機関だから、それに関わることを外国人のマリー妃殿下に詳しく話すわけにはいかない。
(どうやって話そうかなぁ……)
悩んでいると、
『やっぱりその彼って、音も無く潜入して、見つかっても煙を足元から出して、その場から消えることができるの?それとも、手のひらから雷を放って、街を丸ごと焼き尽くすことが出来るの?』
……マリー妃殿下が真顔で、とんでもないことを口にした。私は思わず、座っていた椅子からずり落ちた。
『増宮殿下、大丈夫?!ケガは無い?!』
『あー、大丈夫です、はい』
私は立ち上がって、制服のスカートに付いたゴミを払うと、『いいですか、妃殿下』と言いながら、椅子に座り直した。
『残念ですが、おっしゃっていることが完全に間違っています。忍者はそのようなことはできません』
その場から消失したり、雷を放って街を焼き尽くしたりできるなど、どこの妖怪変化か怪獣なのか、という話である。私の知っている忍者は、絶対そんな摩訶不思議な存在ではないはずだ。
『ウソでしょ……』
私の言葉を聞いたマリー妃殿下は、明らかに落胆したようだった。
『で、でも、サムライはいるのよね?私の読んでいる本には、“KATANA”を持ったサムライが、一振りで100人を殺す場面があったし、そのサムライが、炎をまき散らすKATANAを振るって、雷を操るニンジャと対決する場面が……』
『そんな侍も忍者も、いてたまるかぁ!』
私は全力で妃殿下にツッコミを入れた。一体、この妃殿下は、日本文化をどのように理解しているのだろうか。私も城郭マニアだから、忍者や侍についても、多少は知識がある。妃殿下の勘違いの激しさは、ちょっと看過できないレベルだ。
(前世のアクションゲームじゃないんだぞ!そんな侍も忍者もいる訳ないだろうが!どんな本を読んでるか知らないけど、日本文化に対する誤解をまき散らすような図書だったら、大山さんに頼んで発禁にしてもらわないと……)
『あのですね、妃殿下』
『マリーって呼んでいいですよ。その方が呼びやすいでしょ?』
『では、私のことも章子って呼んでいいですけれど……マリーの忍者や侍に対する認識、全然違います』
眉をしかめた私に、マリーは『そうなの、章子?』と優雅に首を傾げる。私はそこから、私が知る限りの忍者と侍の実像についてレクチャーを始めた。けれど、マリーがそれに一々質問を返すので、話が大変盛り上がってしまい、
「やはり、お話が終わりませんでしたか。さ、お暇致しましょう、増宮さま」
午後6時5分に病室に現れた大山さんに、手を引っ張られて病室から引きずり出されるまで、私はマリーとずっと話し続けていたのだった。
※今回参考にしたのは「虫垂炎」(茂木蔵之助著、南山堂、1940年)です。時代が拙作の現時点から下っていますが、雰囲気的にはこの頃と変わらないだろうと思って参考にしています。開腹での虫垂切除ですと、脊椎麻酔でもできるのですが、まだ安全な技術として確立されていなさそうな感じがしたので(「脊椎麻酔のup to date」横山和子著、日本麻酔科学会誌、1992年12巻3号、p308-319も参照しました)、今回は全身麻酔での手術にしています。ご了承ください。




