表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第32章 1903(明治36)年春分~1903(明治36)年夏至
241/799

高峰先生の不安

 1903(明治36)年3月24日火曜日、午前7時半。

(ふみ)姉上、朝早くからどこに行ってたの?」

 大阪城のすぐ北にある国軍将官倶楽部……国軍合同の前は“偕行社(かいこうしゃ)”という、陸軍士官の親睦施設だったところだけど、その中の食堂で朝ご飯を食べていた輝仁さまが、箸を置くと私に尋ねた。

「大阪城だよ。櫓を1つ見学してきた」

 私はそう答えると、お茶を一口飲んだ。

(ふみ)姉上……毎日お城ばかり見て、飽きないの?昨日も淀城の跡を見てたよね?」

 恐る恐る尋ねた弟に、

「勘違いしないで、輝仁さま。昨日はお城の見学じゃなくて、戊辰の戦で亡くなった旧幕府軍と新政府軍の人たちのご冥福を祈るのが主目的だったんだよ」

私は背筋を正して説明し始めた。

「私たちが今あるのは、お父様(おもうさま)のことを思いながらも、主義主張が異なって争わざるを得なかった方々の犠牲のおかげ。だから、お父様(おもうさま)の子である私たちも、彼らの冥福を敵味方の区別なく祈らなければならない。そう思ったから8年前、私と兄上は、京都市内から始まって、方々の慰霊碑を訪ね回って……」

「うん、それは分かるよ、(ふみ)姉上」

 輝仁さまの顔は強張っていた。

(ふみ)姉上にも、大山閣下にも、色々説明を受けたから、すごくよく分かった。けど、淀城で戊辰の戦の経緯を説明してくれた後、(ふみ)姉上、天守台が作られた当初のことをずっと話してたよね?……明らかに、戊辰の戦のことじゃないよね?」

「あー、まぁ、それは……その、なんだ、私に対するご褒美と言うか、その……」

 可愛い弟から目を逸らしながら答えると、

「はぁ?!」

輝仁さまはあっけにとられたような表情になり、母と大山さんと金子さんは同時に吹き出した。

「仕方ないでしょ!ここ1、2年、全然城跡を回れてなかったんだから、名古屋城と二条城だけじゃ全然足りないわよ!」

 ともに食卓についている一同に、私は力説し始めた。

「本当は、前に大阪に来た時みたいに、宿だって紀州御殿にしてもらいたかったの。だけど、今回は大阪に数日間滞在するから、私たちが紀州御殿に泊まったら、第4軍管区の業務に支障が出ちゃうでしょ。だから、この将官倶楽部を宿にして、軍管区の業務に支障にならない範囲で、毎日少しずつ、大阪城を見学させてもらうことにしたの」

「……大山閣下、(ふみ)姉上って、お城の話になるとああなっちゃうんですか?」

「ええ、昔からそうでございましたよ」

 コソコソと話しかける輝仁さまに、大山さんが優しく答えている。

「俺、メリーゴーラウンドやサーカスの方が興味あるけど……」

(まぁ、子供だとそうなるのかな。しょうがないか)

 不満そうな弟のつぶやきを無視して、私はもう一口お茶を飲んだ。

 今回の内国博では、展示以外の余興も充実している。会場には、ウォーターシュートや電気仕掛けのメリーゴーラウンド、展望楼なども設置されている。また、日中にはサーカスなどの催しものもあるし、4月からは、夜間に会場がライトアップされるそうだ。

「増宮さまは、今日は医科研の関西分室を見学されるのでしたか」

 机に伏すようにしてずっと笑い続けていた金子さんが、ようやく身体を起こすと、真面目な表情に戻って私に尋ねた。

「はい、そうです。午後には、砲兵工廠を見学する予定ですけれど」

 私が医科研の関西分室に訪問してから、もう8年ほどの歳月が流れている。その間に、関西分室を拠点として、いくつか新しい研究も始まっている。この関西分室の視察と、砲兵工廠の見学に関しては、軍医学校の校外実習という位置づけになっているので、私の今日の服装は真っ白い制服だ。

「そっかぁ、(ふみ)姉上は、今日はお勉強する日なんだね」

 感心したように頷く輝仁さまに、

「輝仁さまも、明日からはお勉強でしょ?今日はお休みだけれど」

私は苦笑しながら返した。輝仁さまは、今日は内国博の会場に設けられた遊戯施設を回るそうだ。東京を出発してから、彼も新しいことをたくさん学んだのだ。少しくらい遊んで、リフレッシュしてもいいだろう。

「今日はしっかり遊んで、明日からまたお勉強できるようにしておいてね」

 姉らしいことを言ってみると、輝仁さまは素直に「はい」と返事した。


 午前9時、医科研の大阪分室。

「お久しぶりでございます、殿下」

 玄関には、久しぶりに見る人が出迎えてくれていた。医科研の大阪分室の責任者・高峰譲吉先生である。

「お久しぶりです、高峰先生」

 馬車を降り、制帽を取って一礼すると、

「制服が、よくお似合いになっておられます」

高峰先生はにっこり笑った。

「ありがとうございます。……早速ですけど、先生、研究の成果を拝見してもよろしいでしょうか?」

「もちろんです。東京も緒方先生のノーベル賞受賞で、気勢を上げていると思いますが、関西も負けてはおりませんよ」

 高峰先生は嬉しそうに頷くと、私を建物の中へと案内してくれた。

 研究室には、高峰先生と共同研究をしているアメリカの研究者たちだけではなく、エックス線の研究に従事している村岡先生と島津梅次郎さん、そして京都帝国大学医科大学のエックス線撮影チームとインスリン研究チームの主だった先生方が顔を揃えていた。京都で医科大学を視察する時間が取れなかったので、無理にお願いして大阪に来てもらったのである。10年前に設立された京都帝国大学の勢いはすさまじいものがあり、村岡先生と島津さんがノーベル物理学賞を受賞してからは、特に医科大学・理工科大学に志望者が殺到している。そのため、この3月に、福岡に京都帝国大学の第2医科大学の設置願いが提出され、許可された。ちなみに、東京帝国大学の第2医科大学も、3月に仙台に設置された。医学に従事する人材の育成が、急ピッチで進められているのだ。

「ペニシリンも、今や100人に投与できる量を1日で生産することができるようになりました。リファンピシンとシズオカマイシンも、もう少しで一日の生産量が50人分に達しそうです」

「わが合衆国にも有望な放線菌がいないか、目下捜索しているところです」

 数年の滞在で流暢になった日本語で、アメリカ人の研究者たちがまくし立てれば、

「放射線防護の研究も、着実に進めております。撮影技術の向上も図りたいところでして……」

「イギリスとドイツでも、インスリン抽出工場が本格稼働し始めました。あちらの糖尿病患者が、インスリンを求めて殺到しているようです」

村岡先生やインスリン研究チームの先生たちも、鼻息を荒くする。

「糖尿病による昏睡で亡くなる患者さんは、確実に減っている、っていうことですね」

 今の時代、糖尿病は……特に、急激に発症することの多い、私の時代で言う“1型糖尿病”は、発症すれば急激に昏睡に陥り、死に至ってしまう。私の時代の日本人に多い“2型糖尿病”の患者も、治療の手立てがないため、数年の経過で死に至るとされていた。ところが、牛や豚の膵臓からインスリンを抽出する技術が、京都帝大のチームによって確立され、それが注射で投与されるようになって、昏睡で亡くなる患者さんは明らかに減って来たのだ。

「けれど、そうなるとまた別の問題が発生しちゃうかも……」

 話したいことはたくさんある。けれど、前世の知識を使うことになるから、私の前世のことを知らないアメリカ人の研究者たちには聞かれたくない。私は考えるふりをしながら、そっと大山さんに目配せする。大山さんが静かに高峰先生の側に寄り、何事かを耳打ちすると、

「そうだ、ジョージ、アレン、増宮殿下があなたたちにと言って、東京から屏風を持ってきてくださったんだ。見るかい?」

高峰先生がアメリカ人たちに声を掛ける。歓声を上げながら、彼らは高峰先生の後について部屋を出て行った。

「……よろしゅうございます、梨花さま」

 高峰先生たちが廊下に出て行くのを見届けた大山さんが、扉を閉めながら私に言う。

「ありがとう、大山さん」

 私は笑顔で頷いた。私と一緒に医科分科会に出席することも多く、私の時代の医学の知識もある程度聞きかじった、我が臣下だからこそできる芸当だ。

「今の糖尿病は、やせた人が発症するものと、肥満した人が発症したもの、という分類の仕方がされていて、やせた人が発症するものの方が、急激に症状が進行してしまう……という風に、私も女医学校にいた時に勉強しましたけれど」

「はい、その通りです。殿下が以前、お手紙でご教示いただいたところによると、前者は恐らく、インスリンがほとんど、もしくは全く分泌できなくなった患者で、後者はある程度、インスリンが分泌出来る患者ではないか……ということでしたが」

 インスリンチームの責任者である荒木寅三郎先生が答えてくれる。この人も、私の前世が約120年後の研修医であることを知っている一人である。

「前者の患者は、インスリンを注射することで、生きながらえることが出来るようになりました。もちろん、後者の患者でも、寿命が延びることになります。けれど、糖尿病には慢性的な合併症もあります。糖尿病患者の寿命が延びることで、それが顕在化してくるでしょう」

 現に、私の時代ではそうだったのだ。糖尿病が慢性的に引き起こす動脈硬化により、たくさんの合併症が発生することが明らかにされ、それに対する治療も徐々に確立していた。けれど、私が前世で死んだころ、透析導入の原因や、中途失明の原因の上位は、糖尿病の合併症だった。

「なるほど、おっしゃる通りです。一つのことを解決すれば、それに伴う別の問題もまた現れてしまう。……ですが、新たな問題に対する解決策も、見つけていかなければなりませんな。ふふっ、ますますやる気が湧いてきました」

 荒木先生はそう言って、屈託なく笑う。他のインスリンチームのメンバーも、表情にやる気がみなぎっていた。もちろん、それはエックス線撮影チームのメンバーもだ。未来の医学の知識も使いながら、相当マニアックな懇談が続いた。

 30分ほど経ったころだろうか。ふと、首筋にチクチクしたものを感じ、私は会話の切れ目で振り向いた。アメリカ人の研究者たちを上手く追い払ってくれた高峰先生が部屋に戻って来ていて、私を心配そうに見つめている。

「高峰先生、どうされましたか?」

 人垣からそっと離れて、高峰先生に近づくと、

「殿下、伺いたいことがございます」

彼は真剣な表情で私を見つめた。

「……何でしょうか?」

 姿勢を正すと、

「以前、抗生物質の生産拠点を、我が国以外の国にも作るべきか、という話をした時、万が一、抗生物質の生産拠点を海外に移した場合、その拠点がある国が戦争状態に陥ってしまえば、そこからの抗生物質の輸入が途絶えてしまうということを話されたかと思います」

高峰先生はこう話し始めた。

「覚えています」

「実は現在、清に抗生物質の生産拠点を一つ作る、という話が出て来ています。ですが、今、ウラジオストックにいるロシア太平洋艦隊が増強されつつあると、新聞ではもっぱらの評判です。素人考えでは、ロシアの狙いは朝鮮なのだろうと思うのですが……殿下、率直に質問させていただきます。ロシアと清との間で、戦争が起こってしまうのでしょうか?」

「さぁ……としか言いようがありません」

 私は顔に苦笑いを浮かべながら答えた。「私、軍医学校に入っただけです。軍事の中枢にいる訳じゃありません」

 半分ぐらいは嘘である。チリとアルゼンチンの間で軍艦の建造停止に関する協定が昨年5月に無事に結ばれ、イギリスの斡旋で、清はチリの、日本はアルゼンチンの軍艦を2隻ずつ購入する契約も無事成立したという機密情報も、私は梨花会を通じて知っている。他の軍人と比べて、私が知っている機密情報の量は多いのだ。

「そうですか……。ご心配ではないのですか?」

 高峰先生は納得しなかったようで、更に私に尋ねた。

「もし、清とロシアが戦争になれば、地理的に近い日本がそれに巻き込まれる可能性もありましょう。殿下が出征されることも起こりえます。……私は、殿下に戦死していただきたくないのです。もし、万が一のことが起こったら、日本の、いや、世界の医学の発展はどうなるのですか」

「心配していただけるのは大変ありがたいですけど、……命令に応じて出征するのは軍人の義務、仕方ありません」

 高峰先生の縋るような視線を受け止めながら、私は言った。

「でも、私の今生でやりたいことは、お父様(おもうさま)と兄上を守ることです。だから、戦場に行っても、勝って生きて帰る。そして、可能な限り、味方の命も敵の命も救いたい。それが、私が戦場でやるべきことだと思っています」

「……大変、失礼いたしました」

 高峰先生は私に頭を下げた。

「しかし、殿下には戦死していただきたくない。それは、多くの国民の願いでもあると、私は思います」

「……ありがとうございます」

 私も高峰先生に、丁重に頭を下げ返した。

「きっと、政府の中枢の方々も、分かっていらっしゃると思いますよ」

 大山さんが高峰先生に穏やかな声を掛けると、「ええ……」と答えたきり、高峰先生は涙ぐんだ。


 午前11時。

「さっきの高峰先生の言葉、ビックリした」

 砲兵工廠に向かう馬車の中。私は隣に座った大山さんに呟くように言った。

「余り詳しく答えたらいけないと思ったから、“中枢にいる訳じゃない”と言ったけれど……、あれでよかったかな?」

「ええ、正しいご判断だと思います」

 大山さんは軽く頷いた。「高峰先生の所には、様々な国の人間が出入りしています。院でも、怪しい人間が混じっていないことは確かめておりますが、人の口に戸は立てられません。無害な彼らの口から、回りまわって悪意のある者に話がたどり着く危険を考えれば、あのお答えが一番よろしかったかと」

「そっか」

 私はホッと息をつくと、大山さんの方を振り向いた。

「私は、あなたのセリフの方がびっくりしたよ。思いっきり国の中枢にいて、おまけに世界中で暗躍しているのに、あんな、他人事みたいなセリフ……」

「さて、何のことでしょうか。(おい)はただの別当に過ぎませんが」

「もうっ」

 澄まし顔の我が臣下に、私は右手を軽く振り上げる。もちろん、ふざけて叩く真似をしようと思っただけだったけど、右手はあっさりと大山さんに掴まれてしまった。

「簡単に見切れますよ、梨花さま。まだまだ、修業が足りません」

「そんなの、分かってるわよ」

 唇を軽く尖らせながら答えると、不意に、私の右手を握る力が強くなった。

(おい)も同じです」

 大山さんは、私を真正面から見つめた。

「梨花さまに戦場で、いいえ、戦場でもどこでも、亡くなっていただきたくないのは、(おい)も同じです」

 彼の優しくて暖かい瞳の光が、身体を包み込むような……そんな感覚に私は襲われた。

「……ありがとう」

 振り返ってみれば、私は大山さんと君臣の契りを結んだ時、“死のうなどとは、二度と考えるな”と彼に言ったのだ。ならば、彼の主君である私も、死のうなどとは考えてはいけないだろう。私は大山さんに微笑みを返した。

「死なないように頑張るよ。そのために、軍医学校で軍事訓練をしてるんじゃない」

「そうでしたな。それでは、砲兵工廠も、しっかり見学していただきましょう。普段訓練で使っていらっしゃる銃の構造を知っていただくことは大事なことです」

「有坂さんの新作の機関砲も確認しないといけないしね」

「ええ、そして、課題をきちんと仕上げていただければと思います。(おい)も確認いたしますので」

 兵器の設計経験のある大山さんが確認するとなると、見学レポートの添削は、相当厳しくなりそうだ。覚悟を決めた私は、大山さんの手をしっかりと握り、黙って頷いたのだった。

※実際にも、1903(明治36)年に京都帝国大学の第2医科大学が福岡に設置されています。


※作中話している糖尿病の分類は、あくまで大雑把なものです。ご了承ください


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ