相談事一つ
1890(明治23)年9月6日、土曜日。
「では、よろしくお願いします、ベルツ先生」
午後2時、花御殿の私の居間で、私はベルツ先生と相対していた。
「こちらこそ、増宮殿下」
ベルツ先生は一礼して、微笑した。
テーブルを挟んで向かい合った私たちの横手には、大山さんがいる。ベルツ先生は日本語の読み書きもできるし、会話にも不自由しないけれど、万が一、話が通じなくなった時に備えて、ドイツ語の分かる大山さんが側に控えてくれることになった。
ベルツ先生が大山さんの姿を見て、怯えるような表情を見せたのだけれど、大山さんには“ベルツ先生を脅さないで欲しい”とお願いしたので、多分大丈夫だと思う。多分。
ベルツ先生や大山さんの都合も考えて、ベルツ先生の医学の講義は、毎週土曜日の午後2時から2時間、ということになった。この時間帯なら、皇太子殿下は、近衛師団に射撃と馬術の訓練に行かれるので、ベルツ先生と話し込んでも大丈夫だろう。
まあ、これを機会に、ベルツ先生には花御殿の侍医団の顧問になってもらったので、花御殿への出入りも怪しまれずにできるのだけれど。
「最初の授業から、遅刻寸前になってしまってごめんなさい、ベルツ先生。華族女学校のお友達に、遊ぼうと強く誘われてしまって……」
お友達、というのは、さだこちゃん……いや、九条節子さまのことだ。
始業式に出たら、新入生の列にさだこちゃんがいて、とてもびっくりした。そして、彼女が“五摂家”の姫さまだと聞いて、またまたびっくりしたのだ。向こうも、私が内親王だと知ってびっくりしたようだけれど、休み時間になると、私の所にやってきて、遠慮もしないで遊んでいく。たちまち、節子さまとは仲良しになった。
「いえ、間に合ったから、大丈夫でしょう」
ベルツ先生が言う。「貴女さまが、同年代のお友達と遊ぶとは……驚きましたが」
「外で一緒に駆け回っています。部屋にこもっているより、いいでしょう?」
「確かに。しかし、まさか、タイムスリップ、ということが本当に起こるなんて……」
ベルツ先生は、こう言って嘆息した。
私のことを、改めてベルツ先生に説明したとき、キリスト教圏の文化で育った彼には、“転生”という概念が、あまりピンと来なかったようだった。なので、ダメもとで「未来から、意識だけがタイムスリップした」と言ったところ、「そういえば、そんな小説を読んだことがあります」と言って、ある程度理解してくれたのだ。本当は、転生とタイムスリップって、概念が違うんだろうけれど、そこは理解してくれる方を優先するしかない。
「私も、びっくりしています」
鉛筆を右手に持った私は、苦笑した。
「でしょうね。常識ではありえないことですから」
ベルツ先生はそう言って、一冊の本を取り出した。
「これは?」
「私が日本語で書いた、内科の教科書です。殿下が、内科学の本をお持ちでないと聞いたので、進呈させていただこうかと」
「それはありがたいです」
私はベルツ先生に一礼した。
「その本を最初から読みながら、二人で話し合う、というのがよろしいかと思いまして」
「先生にお任せします」
私は“内科病論”とタイトルをつけられた本のページをめくった。
「最初のページが、感染症からなんですね……」
やはり、それだけ感染症がこの時代は重要だ、ということだろう。
「えっと……伝染病の種類は……直接伝染性と、瘴気伝染性?」
瘴気って……ファンタジー小説かな?
「どうされましたか?」
「あの……感染症の考え方というか、分類の仕方が、私の時代と違うみたいで……」
確か、前世では、病原微生物の種類で分類したり、感染経路で分類したりしていたけれど……。
「あの……確認しますけれど、ウイルスって概念、あります?一般的には、細菌よりも小さな病原体のことを呼ぶ言葉ですけれど……」
病原微生物のことを話さないといけないので、念のためベルツ先生に聞いてみたところ、首を傾げられた。
(そこから話さないといけないのかー?!)
私は頭を抱えた。
「細菌よりも小さな病原体、ですか……?」
「多分、電子顕微鏡を使わないと見えないと思います」
「電子顕微鏡……?」
更に不思議そうな表情になるベルツ先生に、
「ごめんなさい、電子顕微鏡のことはとりあえず忘れてください。とにかく、病原体の種類での分類方法を説明しますけれど……」
私は前世で分かっている、病原体の種類のことを説明した。ついでに、感染症の感染経路についても、説明を付け加える。
「なるほど……分析機器の発展によって、今の時点では判明していない病原体の種類が分かり、感染症の感染経路も判明する、ということですね」
私の説明を聞いたベルツ先生が、ため息をついた。どうやら、私の説明を理解してくれたらしい。
「はい。だから、言葉の定義も変わっているのだと思います。それから、ベルツ先生が“感染症”として挙げた病気の中にも、感染症じゃないものや、私が知らない病気、私の時代には無くなった病気も含まれています。まず、脚気は感染症じゃないし……」
「な、なんですと」
ベルツ先生のみならず、横で私たちの話を聞いていた大山さんも驚きの表情になった。
「脚気は、ビタミンB1の不足で生じる病気です。感染症ではありません」
「ビタミンとはなんですか、殿下?」
「……それ、本筋とは離れるから、また今度でもいいですか?それから、この“潰瘍性心内膜炎”という言葉の意味も、ちょっとよく分からなくて……それに、急性関節……リウマチ、と読むのかしら……自己免疫疾患のリウマチなら、感染症ではないし……」
「ええと……申し訳ありません、殿下。おっしゃっている言葉の意味が全く……」
「うわー……ちょっと、どうしよう……」
私はため息をついた。明治の医学と平成の医学、こんなに差があるものなのか。
「私とベルツ先生が同じ単語をしゃべっても、それぞれの指す病気が、全く違う場合がありうるし、しかも、互いの知識にない言葉も、たくさんあるみたいですね……」
「そのようですね、殿下……」
「しかも、分析機器や医療技術もまるで違うから、私の知識を、そのままこの時代に還元するのも難しいってことか……」
更に言えば、分析機器や医療技術を出現させるには、それに関連する別の科学技術も発展させる必要がある。例えば、前世では、医療材料に数多く使われているプラスチック。その合成の技術が、医療技術発展には欠かせないだろう。また、さっき言った電子顕微鏡だって、光の代わりに電子を当ててモノを観察するから、物理学の進歩がなければ作れない。それから、遺伝子工学、コンピュータ、画像診断の技術などなど……。
「気を取り直して、できるところから始めましょう、殿下。いずれ、技術の発展も促さなければなりませんが、殿下の知識がそのまま生かせる箇所や、少し工夫すれば生かせる箇所もあるはずです。粘り強く、見つけていきましょう」
ベルツ先生はこう言って、力強く頷いてくれた。
「そうですね。……先日の、マラリアがハマダラカで媒介される、という知識なら、蚊を駆除すれば、マラリアが駆逐できますからね」
私も頷いた。
「けど、その説も、説得力を持たせないと駄目だから……マラリアの流行地に医学者を派遣して、ハマダラカの体内にマラリア原虫を見つけてもらって、その結果をペーパーに、いや、論文にする方がいいですか?」
「おっしゃる通りです。それならば、派遣する人材には心当たりがありますから、今度話しておきましょう」
ベルツ先生が微笑した。
「はあ……それはお任せします」
この時代の医学者については、あまり知識がない。流石に、北里柴三郎や志賀潔、野口英世あたりは知っているけれど。
「それから、私の時代には無くなっている病気ですね……。天然痘、さっさと撲滅させたいです」
すると、ベルツ先生が目を見開いた。
「なんと……天然痘が、地上から消え去るのですか……」
そう言って、ベルツ先生は、両手の指を組み合わせた。
「おそらく、種痘が進んだ成果だと思いますけれど……あ!私って、種痘、受けていますよね?!」
話していて、急に思い出した私は、椅子から立ち上がった。
「?」
ベルツ先生が、キョトンとする。
(ああ、知り合ったばかりのベルツ先生に聞いても、分からないに決まってるじゃないか!)
天然痘は、前世では、地上から消え去っているけれど、流行していたころは、かなり致死率が高い病気だったはずだ。それが予防できるようになったのは、種痘により、人が天然痘ウイルスに対する免疫を、あらかじめ獲得できるようになったからだけど……。
「やばい、急いで調べないと……ええと……種痘を受けた記憶がないから、受けたとしたら、爺の所にいたときか……今すぐ、爺の所に問い合わせて……」
「殿下、ちょっと失礼します」
私の右手首を、ベルツ先生が掴んだ。そして、私の着物の袖を、ぐいっと肩先までたくし上げた。
「?!」
(ま、まさか着物を脱がせて、ついでにあんなことやこんなことを……いや、7歳の幼女にそんなことしてどうする、おっさん!)
私は完全にパニックに陥った。
「先生?!増宮さまに、一体何をなさるおつもりか!」
大山さんも椅子から立ち上がる。表情がすごく怖い。
「ふむ……種痘の跡が、ありますね」
「え?」
「ほら、ここです」
ベルツ先生が示したのは、私の右上腕にある、直径2cmくらいの、皮膚の色が少しおかしくなっているところだった。
「これ……種痘の跡、なんですか?」
「周りの皮膚より、色が薄くなっている箇所がありますね。その周囲は、少し陥没していて、周りより皮膚の色が濃くなっている。……典型的な、種痘の痕です」
「そ、そうなんですか……これ、なんだろうって思ってたんだけれど、種痘の痕……じゃあ、爺の所にいたころに、受けてたのかな……よ、よかった……」
力が抜けて、私は椅子に上半身を預けた。
(ですよね……)
ベルツ先生は、日本の文化にもかなり通じていると聞いた。時には、和服を着ることもあるそうだ。
そんな彼が、もし変なことを考えていたのだとしたら、着物の袖をたくし上げるのではなく、袴の紐を解くことから始めるはずだ。……って、私は一体何を考えているんだ。
「ごめんなさい、取り乱してしまって。私の時代は天然痘が根絶されて、種痘なんてやっていなかったから、種痘の痕を、ちゃんと見たことがなくて……」
「そうですか……未来は、そのような時代に……」
ベルツ先生が、感慨深げに言ったとき、
「申し訳ありません、増宮さま、いらっしゃいますか?」
居間の入口で、山田さんの声がした。
「どうしたの、山田さん?」
入ってきた山田さんに、私とベルツ先生の横、大山さんの隣の椅子を勧めると、
「やはり、ベルツ先生もご一緒でしたか。ちょうどよい」
と彼は言った。
「ベルツ先生が一緒だと、都合がいいんですか?」
「はい、とても」
山田さんはこう言うと、椅子に座った。
「実は、増宮さまに、相談したいことがあるのです。……北里柴三郎という者をご存知でしょうか?」
「知ってますよ!」
私は興奮して立ち上がった。
「そうか、今の時代、リアルタイムで彼の活躍が見られるんですね!」
「りあるたいむ、というのはよくわかりませんが……そこまでのご反応ということは、やはり、“史実”に大きな足跡を残す人物ですか……」
「はい」
北里柴三郎。破傷風菌を発見し、破傷風に対する抗血清療法を開発、後進を数多く育てた、明治時代を代表する医学者だ。
「で、彼がどうしたんですか?」
「実は、今はドイツで、破傷風菌の研究をしているのですが、留学期間がもうすぐ切れてしまうので、留学期間を伸ばしてくれないか、という手紙が、長与先生の元に届きまして……ただ、留学延長というのは、予算不足のこともあって、あまりないことですから、どうしたものかと……」
「長与先生?」
「内務省の衛生局長ですね」
ベルツ先生が教えてくれた。
「あれ?そのことを、なぜ山田さんが知っているんですか?」
「大日本私立衛生会の方で付き合いがありましてね、それで相談を受けたのですよ」
「はあ……」
(内務省に勤めている人だったら、山縣さんに相談したらよさそうだけれど……仲が悪いのかな?)
「確かに北里君は、コッホ先生の元で、目覚ましい業績を挙げていると聞いています。コッホ先生も、彼を手離したくないのかもしれません」
ベルツ先生が言った。
「ええと……」
私は戸惑った。“史実”では、確か破傷風菌の発見や、抗血清療法の開発は、北里先生がドイツでやったことだったけれど……。
「ベルツ先生、北里先生って、破傷風菌の坑血清療法についての論文を出してます?」
「論文ですか?いや、それは聞いたことがありませんね。そもそも……一体それはどういうものですか」
「そうですか……、この時代の留学費用って、どのくらい必要ですか?」
「一般的には、年に800円から1000円ほどの費用が支給されますが……」
ベルツ先生の答えに、私は頷いた。
「じゃあ、私が負担できますね」
「殿下?」
「年に1000円なら、私が自由にできるお金より、少ない額のはず。私が北里先生の留学費用を負担します。それから、実験に必要な道具や書籍があるなら、その購入費用も全部出します」
「なんと……ありがたいことです」
私の言葉に、山田さんが最敬礼した。
「当然です。優秀な人には、たくさん投資しないと。そうすれば、技術を“史実”より進められる可能性も出てくると思います」
「確かにそうですね」
大山さんが呟いた。
「しかし、あとは大義名分が必要です。留学延長は、なかなかないことですし、北里氏は既に一度、留学期間を延長しているので、更にもう一度留学延長となると……」
山田さんが腕を組んだ。
「私が命令した、ということであれば、大義名分にはなりませんか?確か、源平合戦のころとか鎌倉時代の末期って、皇族の命令書って、たくさん出てたと思ったけれど……」
「りょ……令旨を出されると……!」
山田さんが青ざめた。
「もしかして、法律的にまずいでしょうか?」
「その可能性はあります」
「そうですか……だったら、陛下に命令してもらえばよいのでは?」
「!」
山田さんも大山さんも、目を見開いた。
「だってそうでしょ?私以上の大義名分で、法律的にも問題がないという条件なら、陛下が留学延長の命令を下す以外にないですよね?」
「確かにそうですが……それは、考え付いても言えないことですよ」
山田さんがため息をついた。
「でも、その根回しぐらい、あなたたちならできるでしょ?場合によっては、私が陛下に、留学延長命令を北里先生に出すように談判する」
「そのお覚悟ならば……、伊藤さんとも相談して、我々から、陛下に頼んでみましょう」
大山さんが頷いた。
「あ、それと、北里さんが帰国した後の役職を用意してくださいね。お金が足りないということであれば、私が自由に使えるお金を、全額つぎ込んでもいいから」
国家予算の約4000分の1を使えば、北里さん専用の研究所ぐらいは建てられるだろうか?
「なるほど……確かに陛下の仰せの通り、増宮さまは、病と城のことになると、本当に人が変わりますな」
山田さんが微笑した。
こうして、北里先生の留学延長の願いは聞き届けられ、9月9日には、天皇からの留学延長命令が出た。また、年に1000円の留学費用も下賜されることになった。
また、これと別に、「北里先生の実験に必要な道具や書籍があれば、ドイツの日本公使館が費用を出すように」と、ドイツ駐在の日本公使に伊藤さんから伝えてもらった。もちろん、その費用は最終的に私で負担する。北里先生には思う存分研究してもらって、ぜひ“史実”以上の成果を出してほしいところだ。
そして、北里先生が帰国する時に備え、日本国内では準備が始まったのだけれど……、それはまた別の話である。
ついに登場するチート!(ただし、チート本人はまだ未出演)
そして、章子さまの決断により、一万円札、出番終了のお知らせ、か……?




