お母様(おたたさま)の罠
1902(明治35)年11月8日土曜日午後6時、皇居。
「ああ、思った通り、本当に美しくて、おいとぼい……」
真紅の小礼服に身を包んだお母様が、私を見つめながら満足げに言った。
「恐れ入ります……」
私はお辞儀をすると、慎重に椅子に腰かけた。今日の私の服装は、薄いピンク色の小礼服だ。開いたネックラインは白いレースで縁取られ、スカートの前側中央部は、ウエストから裾に向かって三角に広がるように白い布で切り替えられている。ところどころビーズで装飾されたスカートの裾は、やはり通常礼服と同じく、床に引きずる長さなので、普段と勝手が違って動きにくいのだ。
「章子お姉さま、少し顔が強張っていらっしゃる……」
向かい側の席に座っている節子さまが、心配そうな表情で私を見る。彼女も藍色の小礼装を着ていて、首元には真珠の一連のネックレスが光っていた。
「大丈夫ですか?どこか、お身体の具合でも悪いんじゃ……」
「あー、大丈夫、身体は全然悪くない」
私は慌てて笑顔を作った。
「ただ、この服がねぇ……動きにくくって」
すでに人払いはされている。大山さんも今日はついてきていないから、私は正直に思いをぶちまけることにした。
「裾を引きずる服って、本当に苦手なのよ。大山さんに“慣れなきゃダメ”と言われたから、仕方なく着たけれど……」
「章姉上、今日御殿を出る前も、“制服がいい”ってずーっと言ってたよね。大山閣下に睨まれて、黙り込んじゃったけど」
「あ、こら、輝仁さま!」
余計な情報を公開した弟を軽く睨み付けると、家族たちに笑いが広がった。
昨日から、お父様は、総理大臣の伊藤さんや国軍大臣の山本さん、参謀本部長の斎藤さんなどを引き連れ、熊本で行われる国軍の大演習を親閲するために行幸に出た。そうなると、動きが活発になるのがお母様だ。
――お上が行幸で寂しいですから、皆さんで遊びにいらして!
今月に入ってすぐ、お母様からそんな連絡が入り、兄とも話し合った結果、今日は小学生以上の兄妹で揃って、皇居でお母様と夕食をいただくことにしたのだ。ちなみに、昨日の午後には、お母様のリクエストで、迪宮さまと淳宮さまが、兄夫妻に連れられて参内していた。
「だけど、章子お姉さま、すごくお綺麗です」
節子さまの隣に座っている、すぐ下の妹の昌子さまが、私にキラキラした目を向けた。
「はい、本当に。特にその戦髪……軍医学校の制服もですけれど、ドレスにも本当に合っています」
房子さまの言葉に、私は首を傾げた。
「あの、房子さま?“戦髪”って、……この髪型のこと?」
「そうですよ。今、すごく人気で……だから今日、私もその髪型にしてみました」
私の質問に答えると、房子さまは少し嬉しそうに、自分の髪を触った。確かに、私と同じシニヨンに結った髪は、彼女の着ている水色の着物にもよく合っていた。よく見ると、昌子さまと允子さまの髪型もシニヨンだ。
「私も今度、シニヨンを結ってみようかしら」
「それは……また節子に惚れ直してしまいそうだな」
お母様の隣に座った兄がこんなことを呟くと、束髪の節子さまが「そんなことを言わないでください、嘉仁さま」と兄を軽く咎める。けれど、その表情はまんざらでもなさそうだった。
(この2人、相変わらず仲がいいよなぁ……)
見ていられなくて、視線を泳がせると、
「私、この間、お友達に章子お姉さまのお写真を見せてもらいました」
輝仁さまの斜め前に座った允子さまが、こんなことを言った。
「私も見せてもらいました。戦髪で、制服をお召しになった章子お姉さまのお写真でしょう?」
「私もですわ。今、各地の女学校で大人気ですものね、章子お姉さまは」
允子さまの言葉を、昌子さまも房子さまも補強する。
「は……?!何それ?!」
私は思わず顔をしかめた。貴族院の議員たちが、ドレスだ軍服だと、意味不明な騒ぎを演じていたのは覚えているけれど、それが女学生たちにも感染しているというのだろうか。
(自由に出歩ければ、街での流行もある程度分かるけど、今、通学も警備の都合で馬車だからな……。憧れの存在、みたいな感じで人気が出ちゃったのかな?)
考え込む私に、
「俺も先日、東宮大夫と微行で街を歩いていた時に、お前の写真を買ったぞ」
兄がとんでもないセリフを投げた。
「……妹の写真を買うって、どういうことよ」
私は盛大にため息をついた。兄の言葉に、感覚が付いていけない。
「写真なんて、兄上とならいくらでも撮るのに……」
すると、
「そうか。では明日、その服で花御殿に来い。節子と3人で写真を撮るぞ」
兄はこう言って、ニヤッと笑った。
「え?!明日もこの服を着ろっての?!裾が長いから大変なんだってば!」
兄に抗議したけれど、兄は全く動じることなく、
「制服姿も凛々しいが、こんなにも美しいお前の姿、写真に残さないでどうするのだ」
と真面目な表情で言った。
「うっ……」
口を引き結んだ私に、隣に座った輝仁さまが「章姉上、顔が赤いよ?」とニヤニヤしながら言う。生意気な弟を、私は軽く睨み付けた。
「頼みますよ、明宮さん。写真が出来上がったら、私にもください。お上にも見せて、自慢します」
少しうきうきしているお母様に、兄は「かしこまりました」と恭しく頭を下げた。
出席者たちの近況を交換しながらの夕食会が終わると、私と節子さまは、「まだ聞きたい話もありますから」と、お母様に別室へと招かれた。弟妹たちは先に皇居を辞し、兄も節子さまが残ると知ると、「先に帰って裕仁と雍仁の様子を見る」と言って去っていった。
「昨日おいでいただいたけれど、迪宮さんも淳宮さんもお元気ですね。けれど、2人の子育ては大変でしょう」
女官さんが紅茶とビスケットをテーブルに置いて下がり、私と節子さまとお母様だけになると、お母様はまず、節子さまに柔らかい視線を向けた。
「確かにその通りですが、助けてくれる方が周りにたくさんいますから、本当にありがたいです。清子さまはよく相談に乗ってくださいますし、それに、梨花お姉さまも、子供たちの健康のことについて相談に乗ってくださいますから、とても心強く思っています」
節子さまは、はきはきとお母様に答える。私の前世のことを知らない弟妹たちが帰ったからか、節子さまは答え終わると、私の方を見てニコッと笑った。
「一般的な助言しかできなくて、それが申し訳ないけれど」
私は苦笑した。もし、前世で死ぬのが遅くて、小児科の専門医にでもなっていたら、節子さまにもっと的確なアドバイスができたはずだ。
「それでも十分です。それに、裕仁も雍仁も、梨花お姉さまになついていますから」
「また、迪宮さんと淳宮さんを、こちらに連れてきてくださいね。私もなるべく、そちらに行けるように予定を調整します」
お母様の言葉に、「はい、是非!」と節子さまは元気よく返答した。
「そうそう、増宮さんの新しい学校のことを、聞きそびれていましたけれど……」
「さっき、大まかには説明したと思うんですけれど……」
私は首を傾げながらお母様に言った。週3回は1日中軍事訓練をしているので、基礎体力は確実についてきている……。食卓では、そんな話で盛り上がったのだけれど。
すると、
「確かに、軍事訓練のことは聞きました」
お母様は微笑んだ。「ですが、軍医学校の授業は、軍事訓練や軍事の授業だけではないでしょう?他の授業はどうなのですか?」
「私も聞きたいです!」
節子さまが食いついた。「男子と一緒に受ける授業もあるんですよね?どんな感じなんですか?」
目をキラキラさせているお母様と節子さまを見て、
(あ、そっか……)
私はようやく思い至った。お母様は、学校教育を受けていない。節子さまも、ずっと華族女学校に通っていたから、男子と一緒に学校で勉強した経験がない。彼女たちにとって、私が軍医学校で受けている授業は、その授業内容に関わらず、非常に興味を惹かれることなのだ。
「私、前世では男子と一緒に授業を受けることが多かったから、もしかしたらお母様と節子さまが考えていることと、ずれてしまっているかもしれないけれど……」
私は考えながら口を開いた。
「今、40人の男子の中に、女子は私1人だけど、クラスメートたちは優しくしてくれますし、いじめを受けることもありません」
私の言葉を、お母様も節子さまも真剣に聞いている。
「だけど、これは私が皇族だからでしょうね。もし私が皇族じゃなかったら、いじめられていたかもしれません」
「“国軍将兵は紳士淑女たれ”……軍人勅諭も変わりましたから、紳士的でない振る舞いを学生たちがするとは思えないですけれど」
お母様が微笑む。軍人勅諭は徴兵令改正と共に改正され、略奪・強姦の禁止や自殺的な攻撃の禁止、捕虜は虐待せず国際法に則って扱うことなども盛り込まれた。国軍大臣の山本さん曰く、「増宮さまや斎藤に聞いたことを参考に致しました」とのことだ。
「休み時間に、クラスメートの方たちとしゃべることはあるんですか?あと、お昼御飯を一緒に食べることは?」
意気込んで質問してくる節子さまに、
「多少は話すけど、事務的なことだけだなぁ……」
私は今までのことを思い出しながら答えた。
「昼御飯は別館で食べるし、もちろん着替えも別館でするし……」
別館というのは、私の入学を受けて軍医学校の敷地に建てられた、平屋建ての日本家屋だ。2部屋あり、片方は私、もう片方は私に登下校の時に付き添う人たちの休憩所として使っている。基本的に着替えや食事は別館ですることになっているので、その時に他の生徒たちと接触することはないのだ。
すると、
「そうですか……」
節子さまが、とてもつまらなそうな表情になった。
「もしかしたら、梨花お姉さまに気になる方ができたのかなって期待したのに」
「そりゃあないな、残念だけど」
私は、半分呆れながら答えた。
「“明治牛若伝”の主人公も、通っている医学校の学生と恋に落ちそうなのに、梨花お姉さまは何もないんですか?」
「それ、全然関係ないでしょ、節子さま!第一、あの本、発禁にして欲しいのに!」
節子さまに思いっきりツッコミを入れると、私はわざとしかめっ面を作った。
「それに、“国軍将兵は紳士淑女たれ、劣情を抱くなかれ”だよ。私は軍医として修行して、お父様と兄上を助けられるようにならなきゃいけないのに、そんな不純異性交遊をしている暇は……」
と、
「増宮さん、劣情でなければよいのではないですか?」
お母様がクスクス笑った。
「思いを寄せる殿方と話したい、添い遂げたいという気持ちは、決して卑しむべき感情ではないと思いますよ」
「そ、そう言われても……」
戸惑う私に、
「梨花お姉さま」
節子さまが真面目な顔で言った。
「私、嘉仁さまから言われているんです。“梨花に幸せな恋と結婚をあきらめさせてはいけない。だが、梨花の苦手なことではあるから、恋の機会に恵まれても、梨花は修行を言い訳にして逃げてしまうだろう。そのようなことがないように、お前もしっかり梨花を導かなければいけない。今日は頼んだぞ”って」
「い、いや、逃げてる訳じゃ……」
節子さまに反論しようと、彼女の言葉を吟味した時、違和感を覚えた。
(“今日は頼んだぞ”って……まさか……)
「あの、節子さま?お母様もだけど……もしかして、私に恋愛話をさせることを狙って、この3人で別室に……」
私の声に、節子さまが顔を引きつらせる。更に追及しようと私が口を開いた瞬間、
「節子さん、いいものがあるんです」
お母様がバッグから何枚かの紙を取り出した。
「軍医学校の在校生名簿ですよ。大山どのが準備してくれました」
「はい?!」
目を丸くした私に向かって、
「記憶力のよい増宮さんなら、そろそろ、一緒に授業を受けていらっしゃる方々の顔と名前が一致するだろうと思いましてね。お一人ずつ、印象を聞けたらと……」
お母様はニッコリとほほ笑んだ。
「いいお考えです!」
節子さまの表情、途端に明るくなった。
(これ、兄上だけじゃなくて、大山さんも一枚噛んでるわね……)
そうでなければ、お母様の手元に、軍医学校の在校生名簿などある訳がない。兄と大山さんのニヤニヤ笑いが目の前に見えるようで、私は歯を食いしばった。これは、知らない間に策にハメられていた私の、完全な敗北である。
「さぁ、増宮さん、まずこの方ですが……」
こうして、私はお母様と節子さまにたっぷり3時間、一緒に授業を受けている学生一人一人の印象を、細部にわたって尋問されたのであった。




