閑話 1902(明治35)年寒露:乳母子の疑問
1902(明治35)年10月18日土曜日、午後4時55分。
「うん、こっちの部品は乾いてるね」
青山御殿にある、増宮章子内親王に献上された、日本各地にある城郭の模型を納めた部屋。有栖川宮家の嗣子、有栖川宮栽仁王は、部屋の中にある小さな机の上の洋書をどけ、その下にある木で出来た部品をつまみ上げ、出来栄えを観察していた。
「すげぇ、ちゃんとくっついてる」
机の横から、栽仁王の友人である北白川宮輝久王が部品を覗き込み、感嘆の声を上げる。
「模型って、こうやって作るのねぇ……」
2人の少年の間から、机の上を覗き込んでいるのは、この青山御殿の主である増宮章子内親王だ。その隣で、彼女の異母弟である満宮輝仁親王も、栽仁王の作業の様子を熱心に見つめていた。
「うん、でも、柱は、名古屋城の実物より、本数を少なくしちゃってます」
栽仁王はそう言うと、部品を机に置き直した。
「本当の建築だったら、柱を入れる穴を木材にあけるんだけれど、それは模型では無理ですから」
栽仁王は章子内親王に苦笑を向けた。「だから、模型の強度は、のりで接着するので誤魔化してます。強い衝撃が加わっちゃうとまた崩れちゃうから、それは気を付けないと」
「直っても、注意はしないといけないってことね」
章子内親王がため息をつく横で、
「これ、栽仁兄さまが描いたの?」
輝仁親王が机の隅に置いてある紙を軽く摘まむ。
「半分くらいはね」
栽仁王は紙を輝仁親王から受け取ると広げた。そこには、名古屋城大天守の模型の、最上層の設計図が描かれていた。
「寸法は先週、僕が測ったけれど、図面は父上に教わりながら描きました」
「そう言えば、先週、大兄さまがこの部屋に入ってたわね。じゃあ、栽仁殿下の計測を確かめつつ、図面の確認をしてたってことか……。はぁ、どんだけ技能を隠し持ってるのよ、大兄さまは。いつ覚えたんだろう、そんなこと」
再びため息をついた章子内親王に、「学生時代に覚えたって聞きました」と栽仁王は答える。
「海兵だからなのかな?国軍大臣の山本さんも、お裁縫が出来るって聞いたことがあるし、参謀本部長の斎藤さんも、自分で大工道具を使って家の修理をするって言うし……」
章子内親王が呟きながら首を捻った時、
「宮さま」
懐中時計を手にした章子内親王付きの女官・榎戸千夏が声を掛けた。
「5時でございます。もうおしまいです」
「ええー……」
章子内親王は軽く唇を尖らせた。もうすぐ20歳になろうとする彼女も、大好きな城郭の模型の前では子供に戻るようだ。愛くるしさの残る主人の不満げな表情に、
(な、なんとお可愛らしい……!)
千夏は思わず見とれてしまった。
「……千夏さん?千夏さん?」
ふと気が付くと、千夏の主人が、不審げに千夏を見ていた。
「返事がないけど、どうしたんですか?もしかしたら……もっとここにいていいんです?」
章子内親王は、期待するような目で千夏を見つめる。夜の闇を思わせる漆黒の瞳がキラキラと光を帯び、千夏に焦点を合わせていた。
「い、いけません!」
(ああっ!お美しいです、宮さま!)
また主人の美しさを垣間見られたという喜びに心を震わせながら、千夏はしかし、キッパリと主人に言った。
「大山閣下からも、きつく命じられております。もし従って下さらなければ、千夏が大山閣下に罰を受けることになってしまいます。ですから、どうか!」
千夏が必死に頭を下げると、「他人を罰に巻き込むのは良くないしなぁ」と章子内親王は呟き、
「わかりました。では、私はこれで部屋を出ましょう」
ため息をつきながら、部屋の入り口へと歩いていった。
「僕らも帰ろうか、輝久」
「そうだな。夕食もあるし。じゃあまた、満宮殿下」
「うん、ありがとう!俺、玄関まで送ってく!」
章子内親王に続いて、栽仁王、輝久王、輝仁親王が模型部屋から立ち去る。彼らの後を慌てて追いながら、
(よかった……)
榎戸千夏は、ほっと胸を撫で下ろしていた。
――もし増宮さまに加担するなら、尾山紅梅が千夏どのだと、増宮さまに言いつけます。
彼女の脳裏に、先々週、この青山御殿の別当である大山巌歩兵大将から囁かれた言葉が甦った。
――増宮さまは、“明治牛若伝”の存在をご存知になった時から、“発禁処分にさせたい”“作者を殴りたい”と常々俺に仰せです。その度に“作者の所在は不明”とはぐらかしておりますが……もし露見したら、千夏どのは、先ほどのような恐ろしい増宮さまに折檻されて、永久追放されるでしょうな。
耳の奥であの時の記憶を再生させると、今でも千夏は背筋が寒くなる。先々週、名古屋城の大天守の模型を壊されて、怒り狂っていた章子内親王は、美しかったけれど、本当に恐ろしかった。もし、彼女が軍医でなく、前線で戦う士官であったなら、眼前の敵を情け容赦なく打ち砕き、戦場に血の雨を降らせるだろうと思われたほどだった。そんな主人に折檻され、しかも側にいられないとなれば、折角得た最高の執筆環境が失われてしまう。それだけは避けなければならない。
(でも、誰にも言ったことは無いですし、原稿の秘匿にも注意を払っているのに……一体どこから、千夏が明治牛若伝を書いていることが露見したのでしょうか?)
主人たちの後を追いながら、千夏は疑問に思っていた。
一方、同じころ、青山御殿の別館。
「大山閣下、その雑誌は?」
青山御殿の職員が控える別館の玄関を出ようとしていた満宮親王の輔導主任・金子堅太郎は、隣を歩く青山御殿の別当が片手で雑誌を抱えているのに気が付いた。
「ああ、これですか」
金子輔導主任の声に、青山御殿の別当・大山巌歩兵大将は目を細めた。
「尾山先生の連載が載っている雑誌の最新号ですよ。娘に借りてきました」
「ああ、例の牛若伝の」
金子輔導主任は、すぐに頷いて微笑する。尾山紅梅の“明治牛若伝”が連載されている雑誌・“少女月報”は、女生徒たちの間で広く読まれていた。
「私も娘に借りて読みましたが、今月も増宮さま……ではない、晶子さまがお転婆でしたな」
金子輔導主任が言うと、
「ええ、そして、兄上を襲った犯人を見つけて、単独で犯人を討とうと走り出してしまうなど……残念ながら、頭に血が上った増宮さまを目の当たりにするようでした」
大山別当はわざとらしく眉をしかめながら答えた。
「しかし、頼もしい岩之助どのが、ちゃんと晶子さまを助けに参りましたな。流石は、晶子さまの一の家来でございます」
「……褒めても、何も出せませんぞ?」
大山別当がおどけたような口調で答えると、金子輔導主任がクスッと笑った。
「しかし、閣下が尾山先生を脅したと聞いた時は、先生の執筆に影響が出てしまうのではないかと心配しましたが、尾山先生の文章は相変わらず冴え渡っております」
金子輔導主任が表情を改めると、
「それはそうでしょう。見張りという大義名分の下、取材対象を目の前でじっくり観察する機会を得られたのですから」
大山別当はこう言って頷く。
「まぁ、その尾山先生を、最良の職場に導いたのは我々ですが」
「何をおっしゃる、金子さん。今の職場は、尾山先生の希望していた職場ではないですか」
金子輔導主任の言葉に、大山別当は澄ました表情で答えた。
彼らは、ただの輔導主任と別当ではない。その実は、政府でも存在を知る人の少ない諜報機関・中央情報院の幹部である。大山別当は中央情報院の総裁、そして金子輔導主任も副総裁として、国内外の機密情報を集め、時には世界各地に散った中央情報院の職員たちを使って、数々の世界規模の謀略を仕掛けていた。そんな彼らにとって、内親王の乳母子の身上調査をすることなど、造作ないことだった。
「おっと、それでは私は、満宮さまの所に行って参ります」
「はい、俺も増宮さまにご挨拶して、帰宅すると致しましょう」
世界を翻弄する日本人たちは、互いに会釈を交わすと、各々の主人の下へと向かったのだった。
※山本さんが使っていた裁縫道具は、現在江田島の第一術科学校教育参考館にあるはずです。また、斎藤さんの日曜大工エピソードは「子爵斎藤實伝」、威仁親王殿下の図面エピソードは「威仁親王行実」よりです。




