国軍軍医学校
1902(明治35)年9月6日土曜日、午後2時。
「さて、いかがですか、軍医学校は?」
青山御殿の私の居間で始まった、いつもの医科分科会。始まるや否や、私に微笑みながら尋ねたのはベルツ先生だ。
「大変ですよ。本当に大変ですよ……」
ため息をついて答えると、私の全身を襲う鈍い筋肉痛が、勢いを増したような気がした。
今月の1日に、私は築地にある国軍軍医学校に入学した。陸軍と海軍が合同した直後は、医務部内の対立により、旧陸軍由来の軍医学校と旧海軍由来の軍医学校が別々にあったのだけれど、1891(明治24)年の脚気討論会の後、合併を妨げていた石黒医務局長が辞職したこともあり、2つの軍医学校は1892(明治25)年9月に合併し、「国軍軍医学校」となった。入学条件は「医師免許を持っていること」なのだけれど、今は医者そのものが少ない世の中、医師免許を取りたての医者でも簡単に実入りの良い仕事にありつくことができるし、軍医学校のカリキュラムの中には、軍事訓練がしっかり入っているし……という訳で、免許を取った後、軍医学校に入ろうとする医者はごくごく僅かだった。
そこで数年前から、軍医学校に入学する医者を確保するため、国軍省は高等学校・帝国大学に在学中の医学部学生に対して、“軍医委託生制度”というものを始めた。医学部卒業後に軍医学校に入学して軍医になること、そして夏休みなどの長期休暇の期間中には、必要な軍事訓練を受けることを条件にして、医学部の授業料を学生の代わりに支払い、なおかつ、学生に月10円を支給する制度を作ったのだ。授業料がタダになる上に生活費までもらえ、おまけに委託生になっておけば、卒業に2年掛かる軍医学校が1年で卒業できるので、軍医委託生の選抜試験には、苦学している高等学校や帝国大学の学生が殺到することになった。
ところが、医術開業試験で医師免許を得た人に対して、そのような委託生制度はない。そして、委託生たちと違って、軍医学校に入学してから軍事訓練をやるので、軍医学校の卒業に2年掛かってしまう。だから、医術開業試験で医師免許を得た人で、軍医学校に入学する人は1年に1人いるかどうかだ。そして、今年は私1人だけだったのである。
「軍事訓練や軍事の科目、完全にマンツーマン指導ですからね……。逃げ場所が全然なくて辛いです」
おまけに、私の訓練教官は、私の剣の師匠でもある東宮武官の橘歩兵少佐なのだ。彼が剣道の稽古の時、私に対して容赦がないのは小さいころからだ。もちろん、それは科目が変わっても同じで、訓練が終わる度、私はいつもへとへとになってしまうのだった。
「あとは、気疲れも激しくて……」
大山さんが私の隣に座っているけれど、構うものか、と思い、私は新しい学校生活の愚痴を、ここぞとばかりに吐き出し始めた。
軍事訓練に関しては、まずは基礎体力をつける所から、ということで、軍医学校の校庭でトレーニングを始めている。けれど、1日の入学式の後、早速軍装の迷彩服に着替えてトレーニングを始めたら、“国軍初の女子志願兵なので、体力を把握しておかなければならない”という理由で、山本さんと桂さんと児玉さん……“国軍三羽烏”が、なぜか揃って現れた。
――山本さんも桂さんも児玉さんも、私を見に来て、仕事は大丈夫なんですか?
そう尋ねたら、
――斎藤がやってくれています。
と山本さんと桂さんは同時に答え、児玉さんは黙ってニヤニヤしていた。
その3人の他にも、梨花会の面々が、次々と軍医学校の校庭に現れ、
――三条さんは、なんで築地にいるんですか?
――あさってから、陛下を葉山に行幸させますからなぁ。移動の汽車の中でお慰みに、増宮さまのことを申し上げようと思いまして。
――陸奥さんは、外務省のお仕事をサボって、何でここに来たんですか?
――いえ、僕は仕事中ですよ。明日、清の王子が参内されて、宮中で昼食会が開かれますから、その折の話題に、我が国初の女性志願兵のことを出そうかと思いまして。いわば新聞記者よろしく、取材と言うやつをしているのですよ。
――兄上はなんで軍医学校にいるの?!制服は昨日見せたでしょ?!
――何、公務だよ。軍医学校の視察に来た。
持久走をしながら、梨花会の面々に一々ツッコミを入れなければならなかった。
けれど、
――いやぁ、迷彩服姿の美女。眼福ですなぁ。
――その通りですなぁ、西郷さん。
両腕を組んだ西郷さんと伊藤さんが、並んで私を眺めているのに気づいた時、抑えていた私の怒りは頂点に達してしまった。
――帰りなさい!帰りなさい!
持久走のコースを外れ、頼んでもいない付き添いたちを追い払いにかかったら、
――殿下!平常心を保たねばなりませんぞ!
橘さんにこっぴどく怒られてしまったのだけれど……。
「訓練に集中できないし、気疲れもするし……本当に大変です。一昨日から、お父様が葉山に行幸されて、みんなそっちについて行ってくれたからよかったですけれど……」
私が大きなため息をつくと、列席している一同が大笑いする。
「いや、笑い事じゃないです。何とかなりませんか、校長先生」
「とおっしゃられましても……」
そう言いながら頭を掻いたのは森先生だ。私の軍医学校入学と同時に、森先生は国軍軍医学校の校長に就任した。そちらの事務仕事をしなければならないので、ビタミンの研究の責任者は、森先生から医科研の秦先生に移った。ちなみに、存在を示唆出来ていたビタミンB……“史実”でいうビタミンCが先月抽出でき、秦先生はその論文の執筆中である。
「これは前任者から聞いた話ですが、増宮さま」
森先生は苦笑しながら私に言った。「土曜日の軍事関係の座学も、誰が担当するかで相当もめたようでして」
「今日の講師は児玉さんでしたけど……」
私は首を傾げた。こちらも軍事訓練と同じく、マンツーマンレッスンになってしまっている。午前中いっぱい、児玉さんに戦術の歴史について、とても嬉しそうに語られてしまった。
すると、
「まず、委託生だった学生と一緒の授業を受けていただくかどうか、そこで大激論となったようです」
と森先生は私に言う。
「へ?」
「通常は、土曜日の軍事関係の座学の授業は、委託生だった学生もそうでない者も、一緒に授業を受けることになっています。ところが、軍の中枢部から、“それはよろしくない”という意見が続出し、今年度の委託生でない学生が増宮さま1人だけだったのもありまして、増宮さまに限り、軍事関係の座学の授業は、他の生徒とは別に受けていただくということになりまして……」
「はぁ?」
私は眉をしかめた。勅令の改正の方は、伊藤さんの側で作業を見守っていたからある程度は把握していたけれど、軍医学校で自分が受けることになる授業については、細部までは承知していなかった。一応、“授業は可能な限り、委託生だった学生と一緒に受ける”とは聞いていたし、現に、火曜日と木曜日の衛生学などの授業は、委託生だった学生と一緒に受けているのだけれど……。
不審に思っていると、
「上医となられるためには、当然の処置ですよ」
横から我が臣下が微笑みかけた。「医学的な分野はもちろんですが、梨花さまには、これから様々な分野で陛下と皇太子殿下を助けていただかなければなりません。“天皇は国軍を統帥す”と憲法にもあります。当然、上医ならば、軍事にも通じていなければ」
そう言うと、大山さんはいつもの暖かく、優しい瞳で私を見つめる。その視線は、「反論したら承知しませんよ?」と私に語りかけていた。どうやら、軍事関係の座学がマンツーマン指導になってしまった件には、この非常に有能で経験豊富な別当さんも一枚噛んでいたようだ。
(師匠以上に、大山さんは私に容赦しないよなぁ……)
そう思った瞬間、
「梨花さま、考えていらっしゃることが表情に出てしまっておりますよ」
大山さんがニッコリ笑った。
「“俺は梨花さまに容赦しない”……そう思われたでしょう。どうも最近、考えていらっしゃることが、表情やお言葉に必要以上に出やすくなってしまっております。医科分科会が終わりましたら、訓練いたしましょう」
(本当に容赦がないなぁ……)
ここでまた、考えていることが顔に出てしまったら、医科分科会が終わった後の訓練が更に大変になってしまう。頑張って愛想笑いをしていると、廊下から「大山閣下」と千夏さんの声がした。
「満宮さまのお部屋の家具の配置はこれで問題ないかと、満宮さまのお付きの方が聞いておられるのですが……」
「分かりました、見に行きましょう。千夏どの、一緒に来てください」
乳母子の呼びかけに大山さんは立ち上がり、私の居間から退出した。大山さんの気配が遠ざかったのを確認して、私は大きく息を吐いた。
「満宮さまと言うと……林閣下が体調を崩されている件に絡んで、ですか?」
私に問いかけた三浦先生に、
「ああ、はい、そうなんです。輝仁さま、この御殿に引っ越すことになったので、今はその準備をしてるんです」
と私は答えた。
満宮輝仁さま……私より10歳年下の異母弟で、母親は昌子さまたちと同じ、小菊権典侍である。今度の9月で、学習院初等科の3年生になった。同じく私の異母妹である允子さまと一緒に、輔導主任を務めている林友幸子爵の家で育てられていた。
その林子爵が、今年の春ごろから体調を崩している。今、ベルツ先生が時々往診しているけれど、回復の兆しがなく、時々寝込むようにもなっていた。頼りになる家族がいればよいのだけれど、林子爵の奥様は2、3年前に亡くなっていて、息子さんも亡くなっていた。その息子さんの息子……つまり、お孫さんは何人かいるけれど、頼りになる一番上のお孫さんは留学中だ。
――この状況では、輔導主任の大役を果たすことができません。
……という理由で、林子爵から輔導主任の退任願いが出されたのが、先月の半ばのことだ。それから宮内省で調整して、允子さまの輔導主任は、昌子さまと房子さまの輔導主任を務めている佐々木伯爵に変わることが決まり、允子さまは、昌子さまと房子さまが住んでいる高輪御殿に引っ越しすることになった。そして、輝仁さまは、
――青山御殿に、まだ空いている場所があっただろう。青山御殿なら輝仁の相手をする男どももおる。やんちゃをするにはちょうどよいのではないか?
というお父様の鶴の一声で、私の住んでいる青山御殿に引っ越すことになったのだ。ちなみに、彼の輔導主任は、中央情報院に所属している金子堅太郎さんが務めることになった。
「満宮殿下が引っ越して来られると、一段と賑やかになりそうですな」
北里先生が微笑しながら言う。「確か、増宮殿下は前世では弟君はいらっしゃらなかったと聞いていますが、大丈夫ですか?」
「そう言われてみると、確かにちょっと心配かも……輝仁さまと私、10歳も年が離れてますし……」
私が少しだけ眉をしかめると、
「満宮さまのお相手として、輝久王殿下と栽仁王殿下をお呼びすることになっておりますよ」
廊下から我が臣下の声が聞こえた。
「大山さん、もう戻ったの?」
「ええ、すぐ解決できる問題でしたから」
そう言いながら、大山さんは廊下に面した障子を開け、部屋の中に入ると再び私の隣の椅子に腰かけた。
「他に、芳之王殿下と正雄王殿下もおいでになることになっておりますし、幼年学校の休みの日には、成久王殿下、鳩彦王殿下、稔彦王殿下もいらっしゃいます」
すると、お正月にやってくる7人のちびっ子王殿下たちが、この青山御殿に顔を揃える機会が多くなるわけだ。
「……それはまた、とんでもなく賑やかになりそうね」
彼らの顔を思い浮かべながら、私は苦笑した。お正月の挨拶で彼らが滞在する1時間余りの時間でも、全員の話を聞き分けるので大変で、結構疲れてしまうのだ。彼らがやって来る機会が多くなったら、私の疲労度がどうなるか……。
(でも皆、模型の部屋に連れ込んだら熱心に模型を見てたから……余りにも騒がしくなったら、そこに全員連れて行くか。そのついでに私も“監督する”って言い訳してあの部屋に入れれば、私の気分転換にもなるしね)
事態の収拾がつかなくなった時の解決策を立てた私は、心の中でニンマリと笑った。
だけど、その模型の部屋で、あんな事件が起ころうとは……その時の私は、全く予想もしていなかったのだった。
※軍医学校の生徒入学事情については、作者が設定した架空のものなので、実際に(特に1890年代前半)志望者がどのような推移を示していたかは不明です。ご了承ください。
※また、林友幸さんの体調経過についても架空のものです。彼の息子さんについても、明治36年の人事興信録では亡くなっていることを確認していますが、明治35年時点の実際のところは不明でした。




