上医は国を医(いや)す
伊藤さんたちが、大山さんも連れて、伊香保から東京に戻って行った翌日の夕方。
「さて、伊藤さんから話を聞いたから、とりあえず来たが、なんだかすげえことになったな」
勝先生が、伊香保御用邸に、皇太子殿下のお見舞いにやって来た。
「すげえこと?」
「増宮さまのことさ」
殿下のお見舞いを終えた勝先生は、私と一緒に応接間に入ると、出されたお茶をすすった。
「医者になりたいんだって?」
「はい。陛下と殿下が病気になったとき、助けられるのは私しかいないから」
「なるほどな、宮中のしきたりの問題か」
私の答えに、勝先生は頷いた。
「そりゃあ、増宮さまがやるしかねぇな。女が医者になるのは大変だけど、例がない訳じゃねぇ。頑張んな。ベルツ先生と一緒に、この世界の医術を発展させてくれや」
「勝先生、ありがとうございます」
私は頭を下げた。
すると、
「まあ、そうなる予感がしてたんだよ」
勝先生はそう言って、腕を組んだ。
「?」
「だって、増宮さま、焦ってたろ。増宮さまの知識で、歴史が変わっちまった。それで、自分が役に立てるところが減っちまった。でも、おれたちを助けたいから、何とかしたいって思ってたろ。だから、大津事件の犯人の名前を思い出すために、高い木から飛び降りようとしたんだろ?」
「……その通りです」
私は苦笑した。流石、維新の元勲だ。こんな小娘の考えていることぐらい、お見通しなのだろう。
「そこまで心配してくれなくても、それはおれたちで何とかするさ。歴史が変わっちまってるから、別のからくりで事件が起こる可能性だってあるんだ。そこまで推し測るのは、今の増宮さまにゃ要求しねぇよ」
勝先生はお茶をまた飲んだ。
「それに今は、医者になる方が、増宮さまの知識は存分に生かせると思うぜ。政治でそのまま生かそうと思ったら、いずれ失敗する」
「そうですよね……歴史はもう変わったし」
私が答えると、「わかってねぇな」と勝先生がため息をついた。
「わかってない?」
「ああ。増宮さまが知ってる歴史ってのは、勝者の歴史さ。つまり、増宮さまの言う、第二次世界大戦で勝った側のな。だからどうしても、日本を占領したアメリカやイギリスの論理がしみついちまってる……おれは、維新で敗者の側にいたから、それがよくわかるんだ」
「!」
私は息を飲んだ。
(そうか……)
歴史が誰によって残されたか。私はそれを、余り意識したことがなかった。
けれど、争った者同士、立場が違えば、言うことは必ず違う。
それが、どちらかしか残らないとなれば……。
「勝先生、ごめんなさい……私、モノの見方が、ものすごく甘かったみたい。生徒に歴史を講義しておきながら……本当に最低です」
私はうつむいた。
「それに気が付けただけでも上出来さ。頭がいい奴でも、そこまで考えて歴史を読めねぇこともある」
勝先生は微笑した。「ハッキリ言わせてもらうけど、増宮さまは未熟だ。けど、知識や考え方のことは置いといて、増宮さまにゃ、おれたちに無いものがある」
「勝先生たちに無いもの?」
「時間さ。ありきたりな答えだけどな。……おれなんて、もうすぐ70だ。冷静に考えて、死ぬまでにそんなに時間があるとは思えねぇ。それに引き換え、増宮さまはまだ7才。たっぷり時間がある。時間があるってことは、可能性が大きいってことさ」
「はあ……」
前世で死んだのは24のときで、今は7才。時々、自分が一体何歳なのか、分からなくなる。
「だから今は、頑張って医者になりな。どんな医者になるかは、なってからでも考えたらいい。さて、と……、明日もこっちに邪魔させてもらうぜ」
「え?」
「うん、伊香保の旅館に泊まることにした」
勝先生は椅子から立ち上がった。
「明日は、山田さんと松方さんが来るからな。その翌日が大隈さんで、そんでその次が、小西郷と井上さんだ。三条さんは最後って言ってたな」
小西郷、というのは、西郷国軍大臣のことだろう。
「そんなに続々、殿下のお見舞いに?」
「それもあるが、増宮さまから、“梨花会”の連中に、医者になりたいって直接言ってもらおうと思ってさ」
「はい?」
それなら、私が東京に帰ってからでも大丈夫だと思うけれど……。
「皇太子殿下は、そのうち床上げするだろう?そうしたら、増宮さまは、皇太子殿下の相手をしなきゃならねぇ。その時に、おれたちがわざわざ伊香保まで会いに来たら、皇太子殿下が不審がられるだろう?だったら、床上げなさらないうちに、さっさと話をすましちまおうと、伊藤さんが言うんだ。両陛下と堀河さんは、東京から動けねぇからしょうがないが、おれたちは“皇太子殿下の見舞い”って名目で動けるからな」
「あ、はあ……」
私は勝先生の言葉に、あいまいに頷いた。
「それに、ベルツ先生に弟子入りするんなら、なるべく早い方がいいだろう?おれも手伝うぜ。残りの連中に、一緒に話してやるからさ」
勝先生は、そう言ってにっこりした。
(伊藤さん……勝先生……)
その気持ちが、本当にありがたい。
「勝先生、ありがとうございます」
私は、立ち上がって、勝先生に最敬礼した。
勝先生の予告通り、翌日には松方さんと山田さんがやって来た。
「ベルツ先生に師事なさって、医者になる……よろしいのではないですか?」
松方さんは私の話を聞くと、あっさりこう言った。
反対されるのではないかと身構えていた私は、少し拍子抜けした。
「ところで、外国の人に師事して医学を勉強するのは、すごくお金がかかると思うけれど、私の学費は大丈夫なんですか?」
気を取り直して、松方さんに質問すると、「それは大丈夫です」と彼は力強く頷いた。
「増宮さまがご自由に使える金額は、年に20000円ほどある、と伊藤さんから聞いています」
「20000円……東京と名古屋を、新幹線で往復がギリギリできるぐらい?」
まあ、前世で名古屋に帰省する時は、時間を犠牲にして高速バスを使って、浮かせた旅費を城郭巡りの軍資金にしていたのだけれど。
すると、
「何言ってるんだい」
「ちょっと待ってください」
「おかしいです」
勝先生も松方さんも山田さんも、私に突っ込んだ。
「恐れながら増宮さま、……未来の金銭感覚のままで、物事を考えているのでは……」
松方さんが恐る恐る、私に尋ねた。
「申し上げておきますが、国会に提出予定の国家予算が、約8000万円ほどです」
「あ」
そうだ。前世と今生で、物価がまるで違うことを、考慮に入れていなかった。
「……ってことは松方さん、私って、めちゃくちゃお金があるの?」
「その通りです」
松方さんがため息をついた。「はあ……しかしこれは、かえって鍛え甲斐がありますな。医学の勉強が一段落ついたら、経済のことをお教えせねば」
「お手柔らかにお願いいたします……」
私は消え入りそうな声でお願いした。政治経済は苦手だ。
「私は元より賛成ですよ。大日本私立衛生会の会頭としても、増宮さまが医師になっていただけるのは、非常にありがたい。ベルツ先生を師となさるのも賛成です」
山田さんはこう言って、ニコニコしている。
「医師になられた増宮さまが、我が会に加わっていただければ、大変助かります。お知恵を借りる機会も多くなりましょう」
「は、はあ……」
“大日本私立衛生会”というのは、公衆衛生を扱う学会か何かだろうか。
「ところで山田さん、法典調査会の方は……」
「ああ、伊藤さんもですが、金子、井上、伊東の3人がとても頑張ってくれていて、順調に作業が進んでいます。委員の方も、条約改正がかかっているとあって、建設的に議論を進めてくれています。法律のことも、増宮さまの医学の勉強が一段落ついたら、講義したいですね」
「あ、あはは……」
私は乾いた笑いを漏らした。法律も得意ではない。
「まあ、とりあえず、この二人は賛成ってことでいいな」
勝先生は頷いた。
翌日の夕方には、大隈外務大臣がやってきた。
「無論、我輩は大賛成ですぞ」
私から話を聞いた大隈さんは、大きく頷いた。
「増宮さまは我輩の命の恩人。そのご決意に、どうして逆らえましょうや」
“命の恩人”というのは、どうやら、“史実”での襲撃事件を回避できたことについて言っているらしい。そんな大げさな……。
「我輩、125まで生きるつもりです。その意味でも、増宮さまが医師になられるのは、我輩にとって朗報です」
「未来でも、125才まで生きる人は、全くと言っていいほどいないけれど……」
私はため息をついた。
「それに、伊藤さんから聞きましたが、どうやらベルツ先生も、我々と志を同じくするようですし」
「志?」
「美しく麗しい増宮さまをもり立てる、という気持ちは我々には劣らぬと……」
大隈さんの答えに、私は椅子からずり落ちそうになった。
何でみんな、この“呪いの市松人形”を美しいと言えるのだろうか。
(美意識が狂ってる……)
「増宮さまがすげぇ戸惑ってるけど、賛成ってことでいいんだな?」
「もちろんです」
勝先生の問いに、大隈さんは頷いたけど、私は曖昧に微笑することしか出来なかった。
その翌日には、井上さんと西郷さんがやって来た。
「うーん……」
「医師になられるのは賛成ですが」
私の話を聞くと、二人とも眉根に皺を寄せた。
「ベルツ先生はどうなんだ?師匠は日本人でいいだろう」
「俺もそう思います」
(あ……)
今までが順調過ぎたので、初めての反対意見に遭い、私の胸が微かに痛んだ。
「なるほどな……それも一理ある」
勝先生はそう呟くと、傍らの私を見て、「増宮さま、ちょっと席を外してくんな」と言った。
「どうして?」
「ちいと込み入った話を、本気でしなきゃなんねぇ。鬼のような形相のおれを、増宮さまに見られたくないのよ」
にやりと笑った勝先生の表情には、どこか凄みがあった。
「は、はぁ……。殴り合いとか、ケガが発生する状況にはしないでください」
「わかってらぁ。ほら、さっさと行った行った」
勝先生の目付きが、どこか厳しい。逆らったらまずいと感じた私は、彼の言葉に従って応接間から出た。
30分程して、井上さんと西郷さんが、揃って私の元にやって来た。
「誠に申し訳ありませんでした、増宮さま」
井上さんが私に一礼した。
「ベルツ先生を師匠に、とおっしゃったのは、国益を慮ってのことだったのですね。確かに、ドイツは医学が進んだ国。その技術も合わせて吸収して我が国の物にするとは……感服しました。経済界と力を合わせ、技術整備を頑張らせて頂きます」
「え、え?」
(こ、国益?経済界?)
戸惑う私に、
「ベルツ先生の件も、弥助どんが大丈夫と言っているのであれば、問題無いでしょう。疑って申し訳ありませんでした」
更に西郷さんがこう言った。
「勝先生、この二人に何を話したんですか?」
井上さんと西郷さんの背後に立っていた勝先生に、私は尋ねたけれど、「ん?説得しただけだぜ?」としか彼は答えてくれなかった。
「刃物とか、持ち出してないですよね?」
「それはおれの流儀じゃねぇな。ま、ざっとこんなもんよ」
勝先生は微笑した。
一番大変だったのは、三条さんだった。
「いくら前世が医者やったとは言え、何で今生でも医者にならなあきませんのや……それに、外つ国の人間を、増宮さまに近付けるやなんて……」
勝先生も説得してくれたけど、三条さんはこう言い張って、頑として首を縦に振ってくれなかった。
「予想通りだねぇ……」
勝先生は腕組みすると私を見て、一つ頷いた。
「そんな…」
勝先生の合図を受けた私は、椅子から立ち上がって、三条さんの足元に平伏した。
「ま、増宮さま?!」
「三条さん、三条さんは、私が医者として陛下と殿下を助けるのは、よくないと仰せになるのですか?」
私はこう言って、驚く三条さんを見上げた。出るかどうか不安だったけれど、私の目にはしっかり涙が溢れていた。
「増宮さま……」
三条さんは慌てて立ち上がり、私と同じように平伏すると、
「わしこそ、心得違いをしておりました。増宮さまがわしのせいで、かようにご心痛遊ばされていたやなんて……申し訳ありませんでした。どうぞ、医学の修業をベルツ先生について、存分におやりください」
と言った。
(うわ……勝先生の言った通りになった……)
泣き落としをかけたのは、勝先生の指示だ。こんな小芝居が通用するとは、思えなかったのだけれど……。
(三条さんの性格を知り抜いているから、この手段が一番効くって判断したのね。維新の元勲、半端ないって……)
「良かったですな、増宮さま」
ニコニコしている勝先生が、改めて怖くなった。
皇太子殿下は、1週間ほどで床上げされた。
その後は、私を相手に、勉強や剣道はもちろんだけれど、鬼ごっこや虫取り、川での水遊びなどなど、いつもの活発ぶりを発揮された。
そんなことをしているうちに東京に戻る日になり、殿下と帰京した翌日に、私は一人、皇居に召し出された。
「増宮さま……」
皇居で私を出迎えてくれたのは、爺だった。
「爺……」
「できることを、見つけられたのですね」
爺は微笑していた。
「多分」
私は頷いた。「この時代だと、めちゃくちゃ大変みたいだけど……でも、努力を重ねれば、可能性はあると思う。医者になれなくても、私の前世の医学の知識をベルツ先生に伝えるだけでも、多くの人を助けられる。それが、陛下と、皇太子殿下を助けることにもつながるから」
「お優しいのですね、増宮さまは」
堀河さんは、私の傍まで寄ると、私の頭を撫でてくれた。
「べ、別にそうではなくて……ただ、あんなに、人を助けたい、医者になりたいと思ったのは、前世も含めて初めてだったから」
「そのお志、爺は嬉しく思います。本当に……増宮さまを、お育て申し上げて良かった。ご立派な医師に、おなりあそばせ。爺も、陰ながら、ご協力申し上げます」
「ありがとう、爺……」
「さ、両陛下がお待ちかねです。こちらへ」
爺に手を引かれて、私は両陛下の所に向かった。
「まずは、嘉仁を助けてくれて、礼を言う」
天皇は挨拶をすますと、開口一番、こう言った。
「しかし……朕の娘が、医者になるか……」
「お上は、医者が苦手ですのにね」
「ふん」
からかうように言ったお母様に、天皇は不機嫌そうに返答した。
「私は、大賛成ですよ。お上と明宮さんを助けるだけではありません。増宮さんが医者になれば、世の女子に、希望を与えることになります」
お母様がこう言って、笑顔になる。
「覚悟はあるのだろうな?」
天皇が正面から、私を見据えた。
「……害にしかならないしきたりを、陛下と皇太子殿下のために、ぶっ壊す覚悟なら」
私は姿勢を正した。「とりあえずは、私が医者になれば解決しますけれど、いずれは非合理的なしきたりは、宮中から撤廃します。そのために陛下と皇太子殿下が治療を受けられないなんて……私には耐えられません」
「言うのう……」
天皇が、ため息交じりに吐き出して、私は我に返った。
「も、申し訳ありません。つい、頭に血が上ってしまって……」
「構わん。それだけ章子が、本気だということであろう」
慌てて頭を下げた私に、天皇が苦笑する。
「章子……“上医は国を医す”という言葉を知っておるか?」
「いえ……」
私は首を傾げた。すると、天皇は机の上にあった筆をとり、紙に何かを書きつけて、私に見せた。
「“上医は国を医す、中医は人を医す、下医は病を医す”……“千金方”という医学書の一節だ。お父様が、昔、この一節を引いて、朕に嘆いておられた。“この動乱の世、今の日本の国には、上医はおらんのか”と」
天皇の父……ということは、孝明天皇か。
ていうか、“国を医す”って、どういうことだろう?
“病気ではなくて、人を診なさい”というのは、前世で小さいころに、祖父に言われた記憶があるのだけれど……人でもなく、国を?
「章子、どうせ医師になるならば、上医を目指せ。国を医す、上医にな」
(なんか、すごい話になった……)
天皇に頭を下げながら、私は戸惑っていた。
やっとタイトル回収……!




