軍刀の値段(2)
1902(明治35)7月25日金曜日、午後4時。
私は青山御殿の応接間で、大山さんと一緒に、再び山川先生を迎えていた。今回は、山川先生にもう一人同行者がいる。会津から上京してきてくれた刀工・会津兼定さん本人だった。
「此度は軍刀をご注文いただき、まことにありがとうございました。……こちらが、ご注文の品でございます」
和装の兼定さんは、サーベル拵の軍刀を捧げ持つと、私に深々と一礼した。もう60歳を超しているということだけれど、がっちりした体格の持ち主だ。
「拝見させていただいてもよろしいですか?」
私が声を掛けると、山川先生が兼定さんから軍刀を受け取り、私の前に持ってきた。兼定さんも山川先生も、表情は硬く、とても緊張しているのがうかがえた。
鞘を払うと、兄の軍刀と同じような、スラッとした刀身が現れた。兄の物よりは、少し短い気もする。
「女性がお使いになるので、皇太子殿下に献上させていただいたものより、少しだけ短く、重さも軽く致しました」
刀を鞘に納めると、兼定さんがこう言った。
「お気遣い、ありがとうございます」
私は兼定さんに頭を下げると、
「ところで、山川先生」
と山川先生に身体を向け直した。
「兼定さんの軍刀とは別に、私に見せたいものというのは、一体なんでしょうか?」
「……こちらでございます」
山川先生が取り出したのは、黒い漆塗りの文箱だ。山川先生が蓋を開けると、何枚かの書きつけが入っているのが分かった。
「これは、先代が……容保侯が竹筒に入れて、御臨終の時まで肌身離さず持っていた物で……孝明天皇のご宸翰と御製でございます」
「!」
孝明天皇は、私の今生の父方の祖父だ。そして、“宸翰”というのは、天皇の直筆の文書のこと……。私の斜め前に座っている大山さんが、息を飲む気配がした。私ももちろん、姿勢を正して、山川先生に向き直った。
「文久3年……西暦に直すと1863年に起こりました、8月18日の政変の後に賜ったと思われます。ご宸翰の日付が、文久3年の10月9日なので」
「拝見致します」
私は押しいただくようにして、文箱から一番上にあった書き付けを取る。開くと、流麗だけれど読みやすい文字の列が視界に飛び込んだ。以前、お父様に何度か見せてもらった、今生の私の父方の祖父・孝明天皇の筆跡に間違いない。
“公家たちがめちゃくちゃなことを言って、不正の振る舞いも多くなって心痛が甚だしかったけれど、内々にお前に命じたら、速やかに了承してくれて、憂いを払ってくれ、私の思っていることを成し遂げてくれた”……ご宸翰には、そのような内容のことが書かれていた。この“めちゃくちゃなことを言っている公家たち”というのには、三条さんが含まれる。当時、長州藩と組んで尊皇攘夷を唱え、宮中の実権を握っていた三条さんなどの公家たちを、会津・薩摩藩が排除したのだ。結果、三条さんは京都から脱出した。
「“その方の忠誠を深く喜び、右一箱を遣わす”とありますけれど……それで、その箱の中身というのは?」
紙面から顔を上げて尋ねると、
「この中に入っている、御製のことでございます」
山川先生はこう答える。私はまた文箱から紙を取り出した。これも孝明天皇の筆跡で間違いないけれど、和歌が書き付けてあるからか、芸術的に文字を崩すことを意識しているようだ。先ほどのご宸翰より読みづらい。前世の知識のままなら、絶対に読めなかっただろうけれど、転生してから、梨花会の面々や、お父様とお母様の字を散々読まされているので、読むこと自体には苦労しなかった。ただ、だからと言って和歌が解釈できるかと言うと、それは別問題だ。
「たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこびてよめる……」
その題で詠まれた御製は2首ある。「やわらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらず栄えん」 という一首。もう一首は、「武士と 心あわして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもいで」と読める。和歌は苦手だから、深くは解釈できないけれど……。
(要するに、武士と公家で心を合わせれば、世も栄えるし、どんな困難にも打ち勝てるって意味なのかな?)
「忠誠、か……」
私はため息をついた。祖父・孝明天皇に対する容保さんの忠誠。それは、孝明天皇が亡くなって、天皇の位がお父様に受け継がれても、お父様に対する忠誠として、変わることはなかっただろう。
(やっぱり、容保さんも、お父様を思っててくれたんだ……)
「会いたかったな、容保さんに……」
思わず、言葉が口から漏れた。
すると、
「容保侯も、それが心残りだったようです」
山川先生が、思わぬことを口にした。
「え?」
「死んだ兄が申しておりました。勝内府から、皇太子殿下と増宮殿下が容保侯に会いたいとおっしゃっている、という話があったが、容保侯が“せっかくの晴れの日なのに、病に苦しんでいる見苦しい姿をお2人に見せる訳にはいかない”と断られた、と」
「そんな……」
そんなことは気にしないのに、と思ったけれど、そういう考え方もあるのかもしれない、と私は思い直した。きっと、容保さんは万全な状態で、私と兄に会って話をしたかったのだろう。
「皇太后陛下のお手紙にも、お2人のお名前があったゆえ、最期まで、容保侯はお2人のことを気にされていたようだ、と……兄はそう申しておりました」
(は?)
「皇太后陛下のお手紙、ですか」
今まで黙っていた大山さんが呟いた。「出されたことや、大まかな内容は聞いておりましたが、拝見したことはありません」
「この文箱の中にございます。これも、容保侯が肌身離さなかった竹筒の中から出て参りまして……」
「……拝見してもよろしいですか?」
確認すると、山川先生が「もちろん」と頷いてくれたので、私は文箱の中からもう1枚、書き付けを取り出した。文箱の中身は、これでおしまいのようだ。書き付けを開くと、何度も見たことのある英照皇太后陛下の筆跡が現れた。
『宰相には昔から世話になった。宰相が身体を壊していると橋本から聞いたので、牛乳を贈ろうと思ったが、宰相は牛乳の匂いが苦手だと聞いた。そこで、橋本と章子に、どうしたらよいか尋ねたら、2人とも“コーヒーを入れろ”と申したのでそうしてみる』
古い文法と仮名遣いで書かれているけれど、意訳するとこうなる。“橋本”というのは、英照皇太后陛下の侍医だった橋本先生のことだろうか。そう考えた時、脳裏に、ある光景が浮かんだ。
(もしかして、あの時の……!)
田中館先生に、戊辰の役の時の盛岡藩の話を聞いた直後だっただろうか。急に皇太后陛下に呼ばれて、
――昔世話になった者が病になったゆえ、牛乳を贈ろうと思うが、匂いが苦手らしゅうてのう……美子さんに相談したら、そなたに聞けと言うから呼んだのじゃ。何ぞ、いい知恵はないか?
そう尋ねられたのだ。それで、「コーヒーを入れたらいかがでしょうか」と私は皇太后陛下に答えた。そして、その後どうなったかを皇太后陛下に確認したら、“そなたと橋本の言う通りにしたら、宰相もちゃんと牛乳を飲んだし、わらわの手紙も読んで喜んでくれたそうな”……そう答えられた。あの当時は、“宰相”というのは、皇太后陛下に以前仕えていた女官さんの名前だろうか、と思っていたのだけれど……。
(“宰相”は、会津宰相……容保さんのことだったのか!)
「覚えておいでですか、増宮さま?」
兼定さんがいるからだろうか。私と一緒に手紙を覗き込んでいた大山さんは、私のことを珍しく“増宮さま”と呼んだ。
「皇太后陛下に、その質問をされた。“牛乳を贈った相手はどうなりましたか”と後で尋ねたら、“牛乳も飲んでくれたし、手紙も読んで喜んでくれたそうだ”と……」
答えると、私は再び、紙面に目を落とした。手紙にはまだ続きがある。孝明天皇の筆跡よりも更に崩されて書かれた文字を、私は必死に解読した。
『この孫は、全てを見通すように頭がよい。そして、嘉仁もだが、2人とも、とても心が優しい子で、どうすれば、戊辰以来の戦で生じたこの国の傷を癒せるのかと考えている。だからわらわも安心して先帝のお側に行ける。だが、そなたが先に逝ってしまってはわらわも心細い。身体を労わって元気を回復しておくれ。互いに身を養って、先帝にはゆっくりお目にかかろうではないか』
「皇太后陛下……」
私は、皇太后陛下の手紙から、少し身体を離した。うっかり、涙で大事な手紙を汚してしまったら大変だ。この手紙は、容保さんにとって、いや、会津藩に関係する人たちにとって、大事なものなのだから。
「知らなかった、こんな手紙を書いていたなんて……。私、牛乳のことを聞かれたとき、贈る相手が容保さんだとは全然気づかなくて……。でも、よかったです、本当に……」
「はい……。このお手紙、そして、葬儀への勅使のご派遣……。それで、我らはもはや朝敵ではない、その思いをようやく抱くことができました」
山川先生は、涙交じりの声で私に答えた。兼定さんも無言で涙を流していた。
「大山さん」
「はい」
「私……機会があれば、東北にも行きたい」
私は、大山さんの眼をしっかり見て言った。「西南戦争で亡くなった人たちのお墓参りもしたいけれど、戊辰の役で亡くなった人たちのお墓参りもしたい。それから、神風連の乱や秋月の乱……戊辰の役以来、この国で起こった戦いの犠牲者たちを、敵味方の区別なく弔いたい。きっとみんな、……たくさん、たくさん理不尽な理由で死んで、身体にも心にも、理不尽な理由でたくさん傷を負ったんだろうから」
「承知いたしました。陛下とも相談いたします」
大山さんは、私に深く頭を下げた。
「それはありがたい……。泉下の仲間たちも、きっと喜ぶでしょう」
山川先生も、そう言って私に最敬礼する。
「“泉下の仲間”?あの、先生、もしかして、戊辰の役に参加されていたんですか?」
「若松城に籠城しました。若年ゆえ、余り戦闘には参加できませんでしたが……おっと、失礼いたしました。大山閣下の前では、言ってはいけませんでしたな」
「構いません、健次郎どの。俺はあの戦、序盤で狙撃されて、戦線離脱いたしましたし、それに、俺も逆賊の身内……」
「もう、2人とも、何を馬鹿なことを」
山川先生と大山さんの会話を聞いていた私は、わざとらしくため息をついた。「逆賊なんて、もうこの国にはいない。みんな、同じ日本の国民なんですから」
軽く睨み付けてみると、
「ははは……」
「これは、参りましたな……」
山川先生も大山さんも、笑い声を上げた。
「ところで増宮殿下、お願いがあります」
ひとしきり笑うと、山川先生はまた真面目な表情に戻った。顔が、ここに来た時よりも更に強張っている。
「……何でしょうか?」
ただならぬ雰囲気を感じて、少し身構えながら応じると、
「この軍刀、3万円でご購入いただけませんでしょうか?」
山川先生は、とんでもないことを言った。
「?!」
軍刀の製作者の兼定さんが目を丸くする。
「健次郎どの!」
大山さんの声にも、少し硬さが混じった。「それをここでおっしゃいますか?!」
「……」
大山さんの非難の言葉に、山川先生は答えようとせず、じっと私を見つめている。
「何か、訳がありそうですね」
3万円と言えば、前世の貨幣価値に直すと、およそ6億円くらいだろうか。軍刀一振の値段としては、余りにも高い。山川先生の匕首のような視線を必死に受け止めながら、私は尋ねた。
すると、
「実は……お恥ずかしいことですが、主家の財政が、危機的な状況に陥っておりまして」
山川先生は目を伏せて、身を小さくした。
「主家の家政顧問として、財政を大分切り詰めて参りました。それこそ、女中どもに“交際が成り立たない”と罵られるぐらいに……そうですね、半分ほどは支出を削減したでしょうか。旧藩士の中にも、主家の財政を助けるために、少ない給料の中から、幾分かずつ献金をしてくれている者がたくさんおります。しかしそれでも、旧藩主の家柄ではありますから、寄付なども頼まれればしなければなりません。郷土の学生の教育も振興しなければなりません。……持っている土地はすべて売りましたが、それでも財政が火の車なのです」
「松平家の財政を一息つかせるのに必要なお金が、3万円という訳ですか……」
私は両腕を組んだ。旧藩士が献金をしなければいけない状況……それは、旧藩士たちの生活を助けるためにも、何としても是正しなければならない。けれど、私が自由にできるお金は、年に2万円ほどで、山川先生の要求額には足りない。
「大山さん」
私は、優秀な別当さんに目を向けた。「3万円の何割かは、私がお金を出せるけれど、足りない分はお父様に出させるわけにはいかない?」
「増宮さま?」
「私が、大金をはたいて買う軍刀よ。当然、お父様だって見たいに違いない。でも、無料では見せない。お父様にも、拝観料を支払って欲しいわ」
無理やりすぎる理屈だろうか。でも、通る理屈ならば、なんだっていいだろう。ニヤッと笑ってみると、
「……屁理屈でも理屈が立てばいいとは言え、それは屁理屈が過ぎますよ、増宮さま」
大山さんがそう言って、私に笑みを返した。「ただ単純に、陛下に軍刀を買い取っていただければよろしいのです。陛下がそれを増宮さまにお渡しになる。陛下のお望みも叶えられますし、松平家の旧藩士の窮乏も救うことが出来ます。それですべてが丸く収まるのでは?」
「大山さん……」
私はほっと息をついた。やはり私よりも、大山さんの方が一枚も二枚も上手だ。医師免許を取ったとはいえ、私はまだまだ未熟者。この臣下には、経験値はもちろんだけれど、能力も劣ってしまう。
「ありがたい……」
山川先生が、大山さんに最敬礼する。兼定さんも頭を深く下げた。
「増宮さま」
大山さんが私を呼んだ。「今回の一件の解決、この大山にお命じください」
「……では、主君として命じるわ、大山さん」
未熟者ではあるけれど、ここは主君らしく振舞わなければならない。それを私は、臣下に要求されている。私は改めて、背筋を伸ばした。
「お父様にこの軍刀を、3万円で買い取らせてください」
(本当に敵わないな……)
心のうちの苦笑いを隠しながら命じると、
「承知いたしました、増宮さま」
大山さんが、いつもの穏やかで暖かい瞳で私を見て、深々とお辞儀した。
※孝明天皇のご宸翰は国会図書館デジタルコレクションの「京都守護職始末」(山川浩)を参照しました。流石に読み下しはWikipediaを参照し、現代仮名遣いに改めたつもりです。
※また、1902(明治35)年ごろの、会津松平家の救済の事情については、「男爵山川先生伝」「観樹将軍回顧録」を参照しました。
※なお、山川先生が切り詰めた額については、作者の勝手な設定です。ご了承ください。




