作戦会議
1902(明治35)年6月29日、日曜日。
帝国憲法に依って、8月8日の金曜日に帝国議会を招集するという詔勅が発布された、という内容の官報の号外が発行された。
日曜日に官報の号外が出ることは滅多にないのだけれど、これは、“議院法”という法律のせいである。この第1条に、“帝国議会召集の勅諭は、開会40日前までに発布すること”と規定されている。帝国議会の開会が遅れてしまうと、徴兵令の改正が、9月頭の私の軍医学校入学に間に合わない。1か月以上後の議会開会は、未来に生きた私の感覚だと遅すぎる気もするのだけれど、この時代ではトップスピードである。
もちろん、徴兵令の改正案が無事に議会を通過した後は、それに関連する勅令を出さなければならない。当然、議会を通過してから原案を作成するのでは、私の入学に間に合わないので、原案作成作業は、議会招集の詔勅が出た翌日から始まった。……青山御殿で。
「女子の徴兵に関する条文は、徴兵令の第1条の後に、第2条として、“日本帝国臣民にして志願して既定の条件を満たす女子は兵役に服するの義務あるものとす”……と致しますか」
6月30日月曜日、午後3時。
お茶を飲みながら、青山御殿の食堂の一角で鉛筆を走らせているのは、東宮大夫兼東宮武官長の児玉さんだ。伊藤さんが内閣総理大臣になったのに伴い、去年の9月から、東宮武官長とともに、東宮大夫も兼ねている。その業務の傍ら、花御殿と同じ敷地内にあるこの青山御殿の別館にもしきりに出入りしていて、国家の諜報活動にも深く関わっていた。そんなに業務が多くて、身体は大丈夫なのかと心配になってしまうけれど、“史実”で台湾総督、内務大臣、文部大臣を兼任していた彼には朝飯前のようだ。……ベルツ先生も定期的に往診しているけれど、後で血圧を測って、食事療法と運動療法が守れているか確認しておこう。
「源太郎、そうではなくて、枝番号を使って条に追加する方が簡単だ。第1条の“日本帝国臣民にして満17歳より満40歳迄の男子は総て兵役に服するの義務あるものとす”を第1条第1項にして、今、源太郎が言った文章を第1条第2項とすればよい」
児玉さんの隣から、赤鉛筆を持った国軍大臣の山本さんが身を乗り出して、紙に何事かを書き付ける。山本さんも“史実”で海軍の改革を行い、2度も総理大臣を務めている一流の人材だ。中央に長くいるからか、書類仕事にはかなり慣れているようだけれど、“計算はあまり得意ではない”と本人は言っている。
「むむ……ややこしいのう」
「何、これも一種の技術だよ、源太郎」
児玉さんの左側から、国軍次官の桂さんがニコニコ笑いながら肩を叩く。“史実”なら、そろそろ西園寺さんと交代で総理大臣を務め、“桂園時代”を築き始める頃だ。改革を押し進める山本さんを助けて、桂さんは国軍内部や他省庁との調整役として動いているそうだけれど、梨花会の場などで見聞きしていると、桂さんはもっと大きな仕事が出来る力量を持っているのではないかと思う。“桂も児玉も斎藤も、今の力量で大臣が務められる”と、以前西郷さんが言っていたけれど、本当にその通りだ。
(国軍大臣が山本さんなのは動かせないとして……内務大臣なんかが向いてるのかなぁ。色々な調整が大変な仕事だって、黒田さんに聞いたことがあるし……)
ふとそんなことを考えていると、
「ところで、女子の志願兵の“既定の条件”はどうする?権兵衛の話を聞いて、徴兵令を見直してみると、徴兵令に無理に条文を入れるより、“女子志願兵法”という法律を新しく作って、それに条件を記載した方がよいような気がするが」
児玉さんが鉛筆を走らせる手を止めて言った。
「その方がよいかもしれません。医師・歯科医師・薬剤師・看護師の免許を持ち、なおかつ武道の段位か級位を持つ者……最初はそのような要件になりましょうが、次第に女子が活躍する分野も増えるでしょうから、幾度も改正することになるでしょうね」
参謀本部長の斎藤さんがそれに頷く。彼は“史実”の記憶も持っているから、それを上手く自分の経験にできれば、国務大臣、いや、総理大臣も務められるだろう。本当に、今の国軍は人材が豊富である。
「増宮さまが、警視庁剣道の級位を持っていらっしゃることが、まさかこんなところで役に立つとは……」
そう言った山本さんが、自分の湯呑に手を伸ばし、「む、空になってしまったか」と呟いた。
「あ……ごめんなさい!お代わり、淹れてきますね!」
私は慌てて椅子から立って、台所に向かった。「増宮さまの意見を聞くこともあるでしょうから」と梨花会の皆に言われ、食堂の椅子に座っているのだけれど、質問される機会はほとんど無く、正直言って暇だった。やることと言えば、お茶くみぐらいしかない。まぁ、医師免許を取ったとはいえ、私はまだまだ未熟者。お茶くみをするのは当然の役回りだろう。
いくつかの湯呑にお茶を淹れて戻り、山本さんにお茶のお代わりを出す。彼や児玉さんたちが集まっているところからちょっと離れたところには、予備役の軍人たちが集まっている。私はそちらの面々の湯呑をチェックすることにした。
「増宮さまのお話を初めて聞いた直後……憲法制定の前にも手を加えたが、軍人勅諭はまた見直さねばなるまい」
予備役の軍人たちが集まっている一角の中心にいる山縣さんが、そう言って顎を撫でると、
「ええ、女子が国軍に入ることにより、軍の風紀が乱れる可能性はあります。女子を狙って乱暴や強姦が起こるかもしれません。もしそのような事態が発生した場合は、罪を犯した者を即刻罰することも必要ですが、やはり精神の根本から、帝国軍人は外に対しても内に対しても紳士淑女たるべしと叩き込まなければなりません」
大山さんもうっすら笑って山縣さんの言葉に応じた。
「法を守ることも順守させねば。斎藤君も言っていたが、戦争に勝てばその軍は驕りやすくなります。戦に勝っても驕るべからず。これもしっかり定着させねばなりません。軍事力が増して、軍人の発言力が強くなってしまえば、兵は凶器に変わりますから」
山田さんも大山さんの言葉にこう付け加える。法のことが出てくるあたりは、流石は前司法大臣だ。
「あとは、制服ですなぁ。正装はスカートでしょうが、礼装と通常礼装はどうするか……」
「宴会や儀式の出席の時にはスカートでもよいでしょうが、観兵式や観艦式ではズボンの方がよいかもしれませんな」
迪宮さまと淳宮さまの輔導主任を務める西郷さんと、内務大臣の黒田さんが頷き合っている。
(私、全部ズボンでもいいんだけどなぁ……)
2人の話を聞きながら、ふとそう思った時に、
「いけませんよ、梨花さま」
我が臣下が横から微笑みかけた。
「軍服の正装や礼装は、女子の礼装と同等の物であると言っても、全てをズボンで押し通すわけにも参りますまい」
「そうですね。舞踏会の際に、女性がズボンですと、舞踏の相手の男性が戸惑ってしまうでしょう」
大山さんに、さらに威仁親王殿下も加勢する。
(相変わらず、大山さんに隠し事はできないなぁ……)
こっそり舌を巻いたけれど、
「スカート、余り華美なデザインにしないようにお願いしますね」
とは、一応お願いしておいた。
「それはもちろんですが……西郷さんと黒田さんの意見を考慮すると、礼装と通常礼装は、ズボンもスカートも両方制定するということにする方がよさそうですな」
「そうなると、一度増宮さまに試着を……」
山縣さんと西郷さんが、私の方を見ながら頻りに頷いている。このままだと、私は梨花会の面々の着せ替え人形にされてしまいそうだ。私は先手を打ち、「お茶のお代わりを淹れてきますね」とニッコリ笑ってその場を立ち去った。その言葉通りにお茶を淹れて戻ってくると、軍人さんたちの集まるエリアではなく、今度は文官さんたちが集まる一角にお茶を運んでみた。
「さて、この日程で法律が無事に成立するかどうかだが……陸奥君、どうかね?」
内閣総理大臣の伊藤さんが、与党・立憲自由党の総裁でもある陸奥さんに尋ねた。
「議決自体は、根回しを怠らなければ、関連法案すべて合わせても2日はかからないでしょう。8月8日、9日で成立させる、これで行けばよいのでは?」
陸奥さんはそう言いながら、野党・立憲改進党党首の大隈さんに視線を飛ばした。
「無論、我が党もその予定で大丈夫じゃよ、陸奥どの。我が東京専門学校でも、昨年から女子生徒を受け入れている。尾崎君と犬養君にも、今回の件のあらましを話したが、法案に賛成する方向で党内をまとめると断言してくれたよ」
大隈さんは満足げに頷きながら目を細める。
「松田どの、岡崎どの、星どのにも昨日話をして、直ちに党論を賛成でまとめるということで意見が一致しました」
立憲自由党所属の衆議院議員でもある厚生大臣の原さんも、総裁の陸奥さんに向かって小さく頷いた。
「すると、衆議院はほぼ全会一致で可決するな。ということは、問題になるのは我が貴族院か……」
前農商務大臣、立憲改進党所属の伯爵議員の井上さんが渋い表情になると、
「貴族院は、所属議員の3分の1が無所属、しかも頭が固いお方が多い……」
立憲自由党の侯爵議員でもある文部大臣の西園寺さんも、ため息をついた。西園寺さんの言う通り、今、貴族院の約3分の1ずつの議席を、立憲自由党と立憲改進党が持っていて、残りの議席は無所属である。無所属議員の大半は、旧公家・旧大名家の議員たちだ。この無所属の議員たちの動向が、貴族院で法案が可決されるかどうかを左右しているといっても過言ではない。
「女子の権利拡大に否定的なお方も多いと思われます。そちらに引きずられて、政党所属の議員たちが反対票を投じる可能性もある。法案が否決される可能性もあるかもしれませんな」
大蔵大臣の松方さんも、重々しい声で付け加える。
「わしも一応公爵やから、議席は持ってるけど、わしだけで貴族院の無所属議員、まとめられるかいな……」
三条さんが眉をしかめた時、食堂の扉が開いて、
「宮さま、お客様がいらしています」
と千夏さんが伝えに来てくれた。
「よし、じゃあ私、出迎えますね」
私は嬉々として伊藤さんたちから離れ、廊下に出た。大事な話が続いているのは分かるけれど、お昼過ぎからほとんど食堂にいるので、ちょっと気分転換したかったのだ。
応接間に入ると、そこには、思ってもいなかった人がいた。
「お、叔父さま?!」
私は母方の叔父、千種有梁さんの顔を見て、大きな声を上げてしまった。叔父には、昨日も弥生先生の所に行った後に会った。けれど、その時に比べて、叔父の目は虚ろで、頬まで少しこけてしまっている。
「叔父さま、体調が悪いんですか?!お熱は?!」
慌てて駆け寄る私に、
「あー、違います、具合が悪い訳じゃなくて、殿下」
叔父はそう言って苦笑すると、大きなため息をついた。
「白石さんと河村さん……だったっけ、殿下の女医学校の同級生に散々……」
「え?白石さんと河村さんが?何で叔父さまの所に?」
なぜ彼女たちが、叔父に会ったのだろうか。首を傾げた私に、叔父は事情を説明し始めた。
女医学校入学に協力してくれた叔父にも、事情は説明しなければならないと思ったので、昨日、叔父には一連のことを説明した。そして、「ロシアからの求婚のことや、軍医になることは、まだ内密にしておいてください」とお願いした。それは、叔父の家族や友人に漏れないようにという意味で言ったのだけれど……。
「女医学校の生徒たちが、他の先生方に、殿下は結婚が決まって退職した……って事情を説明されて、激怒したらしいんです。それで、白石さんと河村さんが、俺の住所を調べて押し掛けてきて……いや、大変でした。“千種さんの活躍の場を奪うとはどういうことですか!”とか、散々責められて……まさか殿下がロシアに嫁ぐかもしれないからって言うわけにもいかなくて、言い訳に困りましたよ。何とか、彼女たちにはお引き取りいただきましたけどね」
(あちゃぁ……)
私はうなだれた頭を左手で支えた。“結婚が決まった”というのは、華族女学校ではよくある退学理由だったので、弥生先生とも話し合って、“退職の理由はこれにしましょう”と口裏を合わせたのだけれど……まさか、そんな騒動を引き起こすとは、考えてもいなかった。
(大山さんに全く相談しないで決めた口裏合わせだけど、大山さんに“詰めが甘い”って怒られちゃいそうだな……)
ため息をついていると、
「そういえばあの子達、“千種さんの婚約者の松平に文句を言いに行く”って言ってたけど、殿下、婚約者の松平って誰ですか?」
叔父は更に、私に追い打ちをかけた。
(うわああああ……)
まさか、“松平”が兄の偽名であるとは言えない。焦りを必死に隠しながら、曖昧な微笑を浮かべる私の背後から、
「ああ、ちょうどええ方がおった」
のんびりした声が掛かった。いつの間にか、応接間の扉の前に、三条さんが立っている。
「こ、これは三条閣下……」
叔父が慌てて椅子から立ち上がり、三条さんに最敬礼すると、三条さんは叔父に椅子を勧め、
「千種どの、増宮さまが至誠医院を退職された件については、もうお聞きになっておられますか?」
と、自分も椅子に座りながら尋ねた。
「ええ、殿下から昨日。事情も大体は伺いました」
叔父が姿勢を正して答えると、
「事情を聞いて、どう思われました?」
三条さんは更に叔父に聞き返した。
「そりゃあ、最初はビックリしましたよ。このダイナマイトみたいな姪っ子が、またとんでもないことを言い出したと。ですが、俺だって、ロシアに殿下を嫁がせたくないし、ロシアに嫁がなきゃいけないならいっそ軍隊に……って殿下の気持ちも分かります」
(ダイナマイトって……千夏さんの方が、ダイナマイトな気がするんだけど……)
乳母子の身体の、私より明らかに大きいとある部分を脳裏に思い描くと、
「つまり、増宮さまが国軍に入られるのに賛成する……と」
三条さんは叔父に確認した。
「そうですね、つまりはそう言うことになります」
叔父が頷くと、
「よし、その言葉、いただきや」
三条さんが微笑した。
「「へ?」」
事情が飲み込めない私と叔父に、「つまりですね」と三条さんはとても楽しそうに説明し始めた。
「ご本人はあんまり熱心やないみたいやけど、千種どのも子爵議員や。それに、何と言っても増宮さまの叔父君。その意向は、今回の法律成立に関して重要になるやろ?」
「え?今回の法律成立……?ま、まさか三条閣下、昨日、官報の号外で、議会招集の詔勅が出たのは……」
「もちろん、増宮さまが国軍に入れるように、徴兵令を改正するために招集される議会やで?」
三条さんの答えを聞いた叔父は、「な、何だって……早すぎるだろ……」と目を丸くした。
「何を寝ぼけたことを言うてるのや。国軍の軍医学校の9月入学に間に合わせようと思ったら、これでもギリギリの日程やで」
「た、確かに、言われてみればそうですけど、俺、来年のことじゃないかと思ってて……」
三条さんと叔父の会話に、
「なるほど、最強の味方が加わってくれましたね」
後ろから割って入って来る人がいた。陸奥さんだ。
「元昭さまは、俺が説得してみましょう。それに、有栖川宮殿下は旧大名家に顔が広い。旧大名家の議員の説得をお願いしましょうか」
陸奥さんの隣に、いつの間にか井上さんもいて、私たちの方を見てニヤニヤ笑っていた。元昭さま、というのは、毛利家の現在のご当主で、貴族院の公爵議員だ。西園寺家に養子に入った八郎さんのお兄さんでもある。
「ふうん、何とか貴族院も、押さえられそうな気がしてきたねぇ。そしたら、わしも頑張って、千種どのと一緒に公家衆の説得に回りましょうか」
ニッコリ笑った三条さんは、「よっこいしょ」と立ち上がると、叔父を不思議そうに見つめた。
「ほら、何をしてますのや、千種どの。一緒に行きましょ」
「え゛」
「何を驚いてますのや。増宮さまの叔父君なんやから、完全に今回の一件の当事者やないか」
「そ、そんなぁ……」
悲鳴のような声を上げた叔父は、三条さんに手を掴まれて立ち上がらされると、三条さんに引きずられるようにして応接間から去って行ったのだった。
※作中出てくる法律の条文は、適宜読みやすくしたり、大まかに言い換えたりしています。ご了承ください。
※なお、星亨さんが、何気に寿命延長しています。暗殺が起こりようがない……。




