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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第30章 1902(明治35)年小満~1902(明治35)年処暑
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恩師(2)

 そして、午前10時、麹町区飯田町の東京至誠医院。

「……それで、話とは一体何ですか?」

 元々教室として使っていた6畳間で、私は1人、弥生先生と向き合っていた。

 大山さんは私に付き添う、と言ったけれど、門の外で待っていてもらうことにした。大山さんは歩兵大将で、市民たちにもそれなりに顔が知られている。もし、私が大山さんと一緒に医院に入ったら、弥生先生はそれだけで、私の正体を察してしまうだろう。けれど……私の本当の名前は、そういう方法ではなくて、私の口からきちんと弥生先生に伝えたかった。

「あの、昨日、ロシアの公使だって名乗る外国の方が、医院にいらっしゃいましたけれど……」

 恐る恐る、私は上座に正座した弥生先生に話し始めた。博人くんは別室で眠っていて、今は荒太先生が側に付き添っている。

「ああ、看護師さんに聞きました」

 弥生先生はそう言うと、苦笑いを顔に浮かべた。「あなたのことを増宮殿下だと言っていたと、彼女がびっくりしていましたけれど」

「はい……」

 チクリと心が痛んだ。自分の口で今までの事情を伝えて、1年半余りも騙していたことを、弥生先生に謝らなければならない。弥生先生が受ける衝撃の大きさを思うと、どうしても躊躇してしまう。だけど、このまま私がここで働いてしまえば、ロシア公使が何度も至誠医院に押し掛けてしまう。公使が弥生先生を問い詰めて、診療に差し障ることもあるかもしれない。私は意を決して、口を開いた。

「あの……実はそれ、本当のことなんです」

 弥生先生は、私の言葉に反応しなかった。

(あ……そっか)

 説明を余りにも端折り過ぎている。私はもう一度、口を開いた。

「私は皇族で、本当の名前は章子と言います。称号は増宮。“兄”と言っていた千種有梁さんも、本当は私の母方の叔父で、私が頼んで、腹違いの兄のフリをしてもらっていて……」

 すると、

「ふふっ」

弥生先生が笑い声をあげた。本当に、おかしくてたまらない……そんな気持ちが感じられる笑い声だ。

「あ、あの、冗談じゃないんです、弥生先生」

 私は思わず気色ばんだ。

「なんなら、今から叔父さまを呼び出して、詳しい事情を説明しましょうか?あ、それか、うちの別当さん……大山さんをここに呼んだらいいでしょうか。今、門の外で待っていてもらってますけれど、10人もいない国軍の大将のうちの1人ですから、それなりに顔も売れているはず……」

 何とかして弥生先生に信じてもらおうと、必死にまくし立てていると、

「……気づいておりました」

弥生先生は、私が思いもしなかった言葉を返した。

「へ……?」

「あなたが本当は、増宮殿下だということに」

「え?!」

 私は目を丸くした。

 至誠医院にも女医学校にも、青山御殿の人間は、千夏さん以外ほとんど近づけていない。しかも、千夏さんのことも、“千種家の女中”と皆には説明していた。

(私の正体がバレそうな話をベルツ先生とするときは、荒太先生がいない時を狙ってドイツ語でしてたから、バレる要素なんてどこにもなかったはずなのに……どうして?!)

 ここ2年近くの記憶をたどろうとした私の耳に、

「そうね……ベルツ先生と、ドイツ語で色々とお話していたでしょ?」

弥生先生の微笑みを含んだ声が届いた。

「ええ……確かにそうですけれど……」

 不審の色がありありと浮かんでいたのだろう。私の顔を見ると、弥生先生はクスッと笑った。

「私、ドイツ語は分かるんです」

「え……?!」

「私、独身だったころ、ドイツに留学したくて、荒太さんが開いていたドイツ語の塾に通っていたんです。その時にドイツ語も、ある程度理解できるようになりました。だから、ベルツ先生があなたのことを、ドイツ語で話すときはずっと“殿下”と呼んでいたのも分かりました。あなたが増宮殿下だと確信したのは、女医学校を市谷仲之町に移したときだったかしら」

 弥生先生は、本当に楽しそうに私に言った。

「けれど、あなたはあくまで、自分は皇族ではなく、普通の生徒なのだという態度を崩しませんでした。勉強も実習も、手を抜かずに一生懸命やっていたし。だから私も、ドイツ語は分からないふりをして、あくまで教師と生徒であるという立場を貫くことにしたんです。……畏れ多くて、冷や冷やしていましたけれど」

「……本当に申し訳ありませんでした」

 私は上座に座る弥生先生に、深々と頭を下げた。

「医術開業試験に、真っ向から勝負したかったんです。国軍の士官学校や幼年学校に入る皇族は、試験が免除されることもあるけれど、医者は命を預かる職業なのに、皇族だからって同じように試験を免除されてしまうのはおかしいと思ったんです。普通の生徒と同じように勉強して、実習して、試験を受けて、それで医師免許を取りたかったから……」

「そうだろうと思っていました」

 弥生先生が頷く気配がした。「皇族であることを考慮に入れなくても、あなたは私が誇れる、優秀な教え子です。だって、帝大病院の外科の先輩も、返り討ちにしたんでしょう?」

「や、弥生先生、それは内密にしていただきたいんですけれど……」

 私が慌てて頭を上げてお願いすると、弥生先生は、「どうして?」と言って首を傾げた。

「あ、あのですね、うちの別当は、その……心配性でして、そんな話を聞いたら、滅茶苦茶心配して倒れちゃうかもしれないので……」

 流石に、“話を聞いたら、うちの別当が滅茶苦茶心配して、イジメの加害者が危害を加えられて倒れちゃうかもしれないので”と言うことはできない。とりあえず、話をとっさに作り上げると、

「そうそう、これも伝えなければいけなかったのです。大山閣下にも、閣下の奥様にも、我が東京女医学校に一方ならぬご支援をいただいて……感謝のしようもありません」

弥生先生が私に頭を下げた。

「先生、生徒に頭を下げないでください。その、大山さんたち、寄付のことも、私に相談なしに、勝手にやったみたいなので……」

 私は慌てて弥生先生に言った。一体、大山さんはどのくらい、東京女医学校に寄付をしたのだろうか。もちろん、青山御殿の別当と私の輔導主任としての給与、更には中央情報院総裁としての給与ももらっているはずだから、お金に困ることはないはずだけれど……。後で、寄付金額を確かめておかなければならないだろう。

「あ、そうだ。その別当にも言われたんですが、先生にお願いしなければならないことがあります」

 私は姿勢を正し、頭を上げた弥生先生に向かって、また口を開いた。

「実は、ロシア公使から、医師免許を取ったら、ロシアのニコライ陛下に嫁いでもらいたい……という申し出があったんです。それがいやだから、医師免許を取ったことも公表しなかったし、ここでは、私が皇族であるということも隠し続けていました。けれど、昨日の一件で、医師免許を取ったことがロシア公使にバレてしまったので、私がここで働き続けると、弥生先生にご迷惑を掛けてしまいます。ロシア公使が押し掛けて、診療に差しさわりが出る可能性もありますし……。弥生先生が大変な時期なのに、こんなことを言うのは大変申し訳ないんですが、ここを、退職させていただきたいんです。代わりの人員は、何とか手配するので」

「確かに、あなたの言う通り、またロシア公使が押し掛けて来たら迷惑ですからね。……けれど、帝大の外科はどうするんですか?」

「そちらも、私が働いてしまうと、先方の迷惑になってしまうので、就職はしないことにしました。……その代わり、法律を改正してもらって、軍医になろうと思っています」

「軍医?!」

 私の答えを聞いて驚いた弥生先生だったけれど、

「はい。軍のことも学ぶ方が、私の大切な人をこの手で守れますから」

こう付け加えると、「なるほど」と頷いてくれた。

「あなたの大切な人……婚約者の方、ではないわね、あの方は。お兄様かしら」

 弥生先生の言葉に、私は黙って頷いた。兄を、あらゆる苦難から守りたい。それが、私が今生でやりたいことだ。

「前にも言ったけれど、あなたなら、どんな進路を選んでも、きっと道を切り開いていけます。だから、あなたの信念のまま、進んで行ってください」

「はい……弥生先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました」

 私は弥生先生に――私の正体を知りながらも、特別扱いすることなく教育してくれた今生の2人目の恩師に、心からの感謝を込めて、深く頭を下げた。

 そして、約1年半に及んだ私の医術修業の生活は、幕を閉じたのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] やはり、察していましたか、弥生先生。まあ、明治時代に医学を志す人がドイツ語に無知ってのは、有り得ない話しだし。しかし、そうと分かっていて受け入れている辺り、肝が太いと言うか何と言うか。梨花様…
[一言] 更新お疲れ様です。 ネタばらし・・・・ 弥生先生の懐の深さに感服(TT) 次回も楽しみにしています。
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