恩師(1)
1902(明治35)年6月29日日曜日午前9時、皇居。
「大山と伊藤から、話は聞いた」
宮殿の一室で、空色の地に梨の花を描いた着物と、群青色の女袴を身につけた私は、お父様とお母様に向き合っていた。私の斜め前には、紺色のフロックコートを着た兄がいて、難しい顔で私を見つめていた。
「しかし章子……そなた、本当に軍人になりたいのか?」
お父様が、真正面から私を見据える。黒いフロックコート姿のお父様の身体からは、犯し難い威厳が静かに放たれていた。強い眼の光が、私の心を見定めるかのように、じっと私に突きつけられている。
「心から……と言ったら、嘘になると思います」
隠し事は出来ない。ここは、正直な思いを伝えるべきだろう。私は心を決め、口を開いた。
「今まで、軍人になるなんて、考えたことはありませんでした。だから、思い付いたのはいいけれど、正直、戸惑っています。……でも、もし私が男だったら、進んで軍医になっていました。私が一番得意な分野は医学ですから。そして、軍に属すれば、嫌でも軍事を学ぶことになります。そうしたら、上医として、医学的な面でも、軍事的な面でも、お父様と兄上を助けることができます。……女でも軍医になれるのであれば、軍医になるのは、上医となるために必要なことだと思います」
「そうか……上医たるために、必要なことであるということか」
「はい」
私はお父様に頷いてから、「でも、女であることは捨てません」と断言した。
「私は、大山さんの主君に相応しい淑女にならなければいけません。だから、女であることは捨てません。世の女子に、一つの生き方を示せるよう努めます」
「増宮さん……」
桃色のデイドレスを着たお母様が、ほっとしたような表情になった。「それを聞いて、少し安心しました」
「お母様、俺は安心できません」
兄がお母様の言葉に頭を振った。「本当なら、俺がお前の側で、お前を守りたいのだ。軍医とて、前線に赴かなければいけないこともあるだろう。お前が死んでしまったら、俺は……」
「兄上、そこは、絶対生きて帰ってくるようにする」
私は苦笑しながら答えた。「私も、昨日寝ないで色々考えたんだ。戦争になったらどうしようって。……でも、軍人になる以上、命令には従わないといけない。だから、戦争には勝って、私の手の届く限り、できるだけ多くの人を、敵も味方も関係なく助けて帰って来る。もちろん、私も生きて帰って来る」
「それは……その考えは非常にお前らしいし、絶対にそうして欲しいのだが……」
兄を安心させるべく言ったセリフだったけれど、兄は両腕を組んで、苦虫を噛み潰したような表情になっている。
「あの、兄上?どうしたの?私、何かまずいこと言った?」
心配になって尋ねると、
「そうではない……そうではなくてなぁ!」
珍しく、兄がいら立ちを私にぶつけてきた。
「あのな、お前が生きて帰って来るように、最大限努力するというのは納得した。だが、俺が心配しているのは、お前が軍医になるのにかこつけて、恋愛と結婚をあきらめてしまったのではないかということでな!」
「あ……」
(そ、そっちか……)
昨日は、私が軍医になるということについて、夜遅くまで梨花会の面々と話し合い、その後も寝ないで自分の考えを整理していた。けれど、恋愛と結婚という観点が、私の頭の中からすっぽり抜け落ちていた。
「えっと……ごめん、兄上。愛とか恋とかどうするか、全然考えてなかったんだけど……」
小声で兄に返すと、
「ならば考えろ!」
間髪入れず、兄は私に怒鳴った。
「あー……恋愛は、お仕事に差しさわりの無い程度にする方向で、よろしいでしょうか……」
恐る恐る、兄にこう答える。恋愛にかまけて、任務がおろそかになってしまっては大変だ。
「それでいい!それでいいから、とにかく幸せな恋と結婚は諦めるな!もし諦めたら、ただではおかないぞ!」
目を怒らせている兄に、私は「……はい、わかりました」と一応頷いておいた。
「明宮さん、落ち着いて」
お母様が苦笑しながら兄に声を掛ける。「増宮さんが、完全に拒否しなかっただけでも、大進歩ですよ」
「それはそうですが、お母様……」
そう言うと、兄はなぜかムスッとした。
「よしよし、それならばよいか」
お父様が私に笑いかける。「ならば、朕も準備をせねばならん」
「準備……ですか?」
私が首を傾げると、
「決まっておろう、そなたが軍服を着る時に差す刀だ!」
お父様は断言した。
「あの、お父様?準備していただかなくても、官給の品で十分です」
私は両手を振ってお断りを入れる。皇族だからと言って、余りに華美な軍装になってしまっては、軍の規律が保たれないだろう。
けれど、
「ならん!朕の娘の刀が、官給品でよい訳があるかっ!」
お父様はそう言って、私を睨んだ。
「朕の集めた刀の中から、いや、全国から名刀を募って……」
「それは、絶対やめてください!」
私は冷たい声で言い放った。「そんないい刀、戦場で折れて、二度と見られなくなったらどうするんですか!貴重な文化財の損失ですよ!」
「しかし、刀は使ってこそのもので……」
「ダメです!大山さんにも後で伝えて、止めてもらいますから。いいですね!」
私はなおも反論する日本一危険な刀剣マニアを睨み返すと、「伊藤さんの所に行かないといけないので、これで失礼します!」と勢いよく頭を下げ、部屋を出て行った。
「騒がしかったですが、お話は終わりましたか?」
次の間に控えていた大山さんが、廊下に出てきた私を見ると、そう言ってほほ笑んだ。
「……あなたに手伝ってもらうことが出来てしまったから、後で話を聞いてもらっていいかな?」
「かしこまりました。何なりとお申し付けください」
我が臣下の返答に、私は頷いた。恐らく大山さんなら、お父様の文化財破壊行為を止められるだろう。
「さて、総理官邸に行こうか、大山さん。私の出番がないといいけれど」
「恐れながら……最後の一押しに、梨花さまが必要かと思われますので、お覚悟なさいますよう」
「やっぱり会わないとダメ?……ちょっと苦手なのよ、巳代治さん」
「これもご修業でございます」
ため息をついた私に、大山さんの手が差し伸べられる。私は黙ってその手を取って、エスコートされるままに宮殿の玄関へと歩いた。
永田町の総理大臣官邸に入ると、奥にある応接間の方から、何人かの聞き覚えのある男性の声が聞こえた。
「私は、納得できません」
きっぱりと言い切るこの鋭い声は、農商務相の伊東巳代治さんだ。長年、枢密院秘書官長として、枢密院議長だった伊藤さんを助けていた彼は、清にもたびたび出向き、憲法の作成を指導していた。私が彼に初めて会ったのは昨年、伊藤さんが総理大臣になってからだけれど、細長い目から放たれる眼光に、思わずひるんでしまった記憶がある。この巳代治さんだけが、閣僚の中で、帝国議会の臨時招集に反対しており、徴兵令の改正にも反対している……朝食の後、大山さんからそう教えられた。
――今日も朝から、総理官邸に巳代治さんを呼んで、伊藤・山縣・陸奥・大隈で説得するとのこと。ですが、この4人がまとめてかかっても、巳代治さんは収まらないでしょう。巳代治さんを説得するには、梨花さまの御出馬が必要かと。
大山さんにこう進言されたので、他に行かなければいけない所もあるのだけれど、皇居を出た後、総理官邸に寄ったのである。
「うぬぬ……」
枢密院議長を務める山縣さんのうめき声に、
「何が“うぬぬ”ですか」
巳代治さんはピシャリとツッコミを入れた。
「巳代治……。ダメなのか?どうしてもダメなのか?!」
内閣総理大臣の伊藤さんの懇願も、
「決まっているでしょう」
巳代治さんは一言でシャットアウトした。
「吾輩と、陸奥どのが頼んでもか?」
野党・立憲改進党党首の大隈さんが、大きな声で問いただすのにも、
「当たり前です」
巳代治さんは容赦なく冷たい声を浴びせた。
「やはり手強いですね」
与党・立憲自由党総裁で外務大臣を務める陸奥さんの、ため息交じりの声も聞こえる。私は大山さんを連れて、音を立てないように応接間へと近づいていき、応接間の扉の前に立った。
「一体、どういうことなのですか。増宮殿下とニコライ陛下の結婚を阻止するために、憲法解釈を変えるとは……前代未聞です」
内閣総理大臣と枢密院議長。与党総裁と野党党首。この国の中枢を担っている人たちに一歩も退かない巳代治さんの口調は、出来の悪い生徒たちへのお説教、そのものだった。
「ほう……と言うことは、巳代治殿は、増宮殿下がロシアに嫁がれてしまってもよいとおっしゃるのですね?この僕が、ロシア公使に対して、“あなたがお会いになった、至誠医院で働いている増宮殿下の叔母上は、増宮殿下によく似ているから、周りに殿下というあだ名で呼ばれているのですよ”と言い張って、殿下の輿入れを阻止したというのに?」
陸奥さんの反撃に対して、
「そうは言っていません」
巳代治さんは冷静に返している。
「ならば、よいではないか!我が国の臣民には兵役の義務がある。それは、男子だけに負わせて良いものではない。女子も必要があれば、負ってよいものであるんである!」
「だからそれがダメだと申し上げているのです!」
大隈さんの大声に張り合うかのように、巳代治さんも大きな声で大隈さんに答えた。
「全く、金子どのや山田どの、それに清浦君まで、伊藤さんの論に賛成してしまうとは、どうかしている。憲法を作り上げた者の1人として、その解釈変更は頑として許しませんぞ!」
「巳代治……わしが手塩にかけてお育て申し上げた増宮さまは、優秀ではないというのか?」
「伊藤閣下、そうは申し上げておりません!増宮殿下が優秀であらせられるのは、この私もよく分かっております」
伊藤さんに反論する巳代治さんに、
「ならば、巳代治は増宮さまの軍服姿を見たくはないと言うのか!」
山縣さんは、ややピントがずれたセリフを投げてしまっている。
「そういう問題ではありません!」
案の定、山縣さんはバッサリ巳代治さんに切り捨てられた。
「大体、あなたがたの増宮殿下に対する態度はおかしいのです。閣議の席ですら、隙さえあれば、増宮殿下増宮殿下とやかましい。優秀でお美しい方であらせられるのは、私も分かっておりますが、この可愛がりようは、些か度を越しているのではありませんか?!」
「……それは、巳代治さんの言う通りだなぁ」
思わずため息とともに吐き出すと、応接間からしていた物音が一瞬消えた。慌ただしい足音と共に開かれた扉の向こうには、伊藤さんと山縣さん、陸奥さんと大隈さん、そしてこの4人にお説教をしていた巳代治さんがいて、私をあっけにとられたような表情で眺めていた。
「これは増宮殿下。お久しぶりでございます」
5人の中で一番最初に反応して、丁寧に私に頭を下げたのは巳代治さんだった。
「お見苦しいところをお目に掛けてしまい、申し訳ありません。伊藤閣下も他の方も、余りにも不甲斐ないものですから。……ところで殿下、一体、どのあたりから、我々の話をお聞きになっておられましたか?」
「ええと、……山縣さんが“うぬぬ”ってうめいたあたりです」
正直に巳代治さんに回答すると、
「ならば、さっさとこの部屋に入って来てくださればよろしいのに」
伊藤さんが恨めし気に言った。
「みんなの議論の邪魔をしたくなかったんですよ。内親王が軍隊に入るために憲法の解釈を変えるって、前代未聞のことですからね」
伊藤さんにそう答えると、巳代治さんが鋭い視線を私に飛ばした。やっぱり、巳代治さんは少し苦手だ。けれど、ここで退くわけにはいかないので、私はまた口を開いた。
「ただ、時が移り変われば、法もまたそれに応じて移り変わらなければいけないと思います。……私は、男であれば軍医になりたいと思っていました。そして、医師免許を取った今、上医を目指すためにも、軍人になって、お父様と兄上を守りたいと願います。けれどもちろん、この国は立憲国家ですから、私一人の一存で法を変える訳にはいきません。法律を改正するのなら、きちんと定められた手続きにのっとってほしいと思います」
すると、巳代治さんの視線が、私の顔から外れた。
「ま、まぁ……増宮殿下が分かっていらっしゃればよろしいのです。伊藤閣下が女性への権利解放を急ぐあまり、増宮殿下をたぶらかしたのかと邪推しておりましたが、どうもそうではないようだ。……よろしいでしょう、議会招集の詔勅に署名致しますし、徴兵令の改正にも賛成致します」
私を見ずに、少しぶっきらぼうに喋る巳代治さんの頬は、気が付くと真っ赤になっていた。
「そうか……!」
「巳代治、かたじけない!わしは巳代治を信じていたぞ!」
山縣さんと伊藤さんが立ち上がり、感激の面持ちで叫んでいる。それを無視して、私は巳代治さんに歩み寄った。巳代治さんは少し苦手だけれど、これは医者として、確認しておかなければならない。
「あの、巳代治さん。体調は大丈夫ですか?」
私が尋ねると、巳代治さんは目を丸くした。
「あの……顔が真っ赤ですから、心配になってしまって。風邪、引いてませんか?」
「い、いえ!風邪などは……そんな……」
重ねて確認したけれど、巳代治さんは、なんだかはっきりしない喋り方をする。もしかしたら、本当は体調を崩していたのに、無理をしていたのだろうか。
(だったら、休んでもらわないと……!)
「熱は無いですよね?」
許可を取ろうとすれば、巳代治さんは頑なに拒否するだろう。私はこう確認しながら、巳代治さんの額に断りなしに右手を当てた。
「うん……おでこはそんなに熱くないけど、ちゃんと腋窩で体温を測る方がいいですね。……伊藤さん、体温計ってありますか?」
と、
「増宮さま」
……私の後ろから、大山さんの声が飛んだ。なぜか、少し口調が硬い。
「そろそろここを出なければ、次のお約束の時間に間に合わなくなります」
「え、でも、巳代治さんの体調を……」
振り返って、非常に有能な別当さんに抗議する私に、
「それは絶対に大丈夫であるんである!」
なぜか大隈さんが力強く断言した。
「いや、そんな根拠もなく、人の健康状態を断言するのは……」
「根拠ならありますよ。巳代治殿も、我々と同病であるという根拠がね」
大隈さんに反論しようとした私に、陸奥さんがニヤリと笑いかける。当の巳代治さんは、
「あ、あなた方と一緒にしないでいただきたい」
と言って、陸奥さんから顔を背けた。
「私は、ただ増宮殿下を甘やかすだけのあなた方とは違うのです」
「そういうことにしておこうか。くっ、しかし、羨ましいぞ、巳代治……」
巳代治さんのセリフに、伊藤さんが不満げな表情を見せながらツッコミを入れる。
(全く、こいつら……)
ため息を盛大につきたかったけれど、大山さんが再度「増宮さま」と私を呼ぶので、私は室内の一同に向かって優雅にお辞儀をすると、官邸の玄関へと急いだ。




