コホート研究と降圧薬
1902(明治35)年5月31日土曜日、午後1時半。
「驚いたわ。まさか本当に、章子が医者になるなんてね」
青山御殿の応接間。私の前で皮肉めいた口調で呟いて、紅茶を一口飲んだのは、埼玉県の忍で血圧に関するコホート研究に従事しているエリーゼ・シュナイダーこと、ロシア皇帝暗殺犯のヴェーラ・フィグネルだ。今日は、研究の進捗を報告しに、青山御殿にやってきた。
「ええ、今週から、女医学校で働き始めましたよ」
私は苦笑しながらヴェーラに答えた。「でも、仕事は講義の代講が主ですね。本当は、診察もしたいけれど、私がでしゃばると、後期試験受験組の人たちが実習できなくなってしまうから、診察は土曜日の午前中だけお手伝いすることになりました。それで、9月からは東京帝大の外科に勤める方向で、話を進めてもらっているところです」
これぐらいはヴェーラに話していいと、私の隣に座っている大山さんにも、事前に確認している。今まで、女医学校の校内で“半井梨花”と名乗っていた件については、女医学校の生徒たちにもきちんと説明して謝罪した所、受け入れてもらえた。ただ、新しく名乗った“千種薫”も偽名で、本当は私が皇族であるとは、弥生先生も荒太先生も、もちろん生徒たちも知らない。
「でも、官報には、章子の名前は載ってなかったわよ?本当に合格したの?」
「ああ、偽名で受験しましたから」
こう答えると、ヴェーラが「は?!」と目を丸くした。
「ど、どういうことよ、章子……皇族なら、無試験で合格扱いになるんじゃないの?」
「それが嫌だったんです」
驚きの表情を隠さないヴェーラに、私は少し唇を尖らせた。「医者は人の命を預かる職業ですもの。だから、その資格があるって、きちんと国に証明してもらいたかったんです」
すると、
「へぇ……根性あるわね」
ヴェーラは感心したように頷いた。
「流石サムライ」
「だから、サムライじゃないですってば」
私はヴェーラにツッコミ返したけれど、ヴェーラは気にする様子もなく、
「全く、何で皇帝は、サムライを皇后にしたいのかしらね」
と肩を竦めた。
「訂正したい箇所はありますけれど、大体のところは私もあなたに賛成です」
私はため息をつきながら答えた。大津事件の時に初めて会ってから、ニコライ陛下はよく分からない人、という印象しかない。握手した手は離してくれようとしないし、カメラマンのカメラを奪って私の写真を撮るし……。
(15歳も年が離れているのに、結婚相手になれとか言うし、頼んでもない誕生日プレゼントも贈って来るし、本当に迷惑だよ。何年かかけて食器を一揃い贈ってきて……一体どうするつもりなのかな?)
私が心の中でニコライ陛下に対する文句を並べ立てていると、
「そうね。……それに、今のロシアに行くのはお勧めしないわ」
ヴェーラがいつもの仏頂面に戻った。「まさか、プレーヴェの奴が中央に出てくるなんて、思ってもなかった」
「私もあいつは嫌いです」
私は即座に返答した。「ユダヤ人の命を理不尽に奪って……絶対に許さない」
「そうね、私もあなたに賛成よ」
ヴェーラはそう言って、遠くを見やるような目をした。
「単純なのよ、あいつの考えること。政権への批判の矛先を、新たな別の敵を作り出すことによってかわす、というやり方がありきたり過ぎてね。昔は、人民の意志がその“敵”にされた。今はユダヤ人。この次はきっと、朝鮮、そして清と日本を、その“敵”にするわね。……愚かだわ。本当に愚か」
「……全面的に賛成します」
吐き捨てるように呟いたヴェーラに、私は言った。
「珍しいわね。章子と私が、学術以外のことで意見が一致するなんて」
ヴェーラはこう感想を述べた後、
「ところで、偽名で医術開業試験を受けた、ということは、……この新聞に載ってるの、章子のこと?」
と言いながら、カバンから新聞を取り出した。ヴェーラが指さした紙面には、“東京女医学校から医術開業試験初めての合格者 千種子爵の妹”という見出しが躍っていた。
「前にあなたに会った時、実のお母さんの苗字が“千種”だって聞いた気がしたから、章子にこんな親戚がいるのかしら、と思いながら読んだんだけど」
「うわー……こんな記事が出ちゃったんだ」
私は大きなため息をついた。「やめて欲しいなぁ。目立ちたくないんだけど」
「諦めなさいな、章子。“姪の増宮殿下とよく似た美女”って書かれてるから、見物人が来る可能性があるわよ。私だって、忍に初めて行った時には、物珍しいからか見物人がやって来たし」
「ご忠告ありがとうございます」
私はとりあえず、ヴェーラに頭を下げた。
「何とか致します」
頭を上げると、私の耳に、大山さんがそっと囁く。少し凄みを帯びたその声に、背筋が震え上がりそうになるのを、私は必死に堪えた。
(流血沙汰にしないように、ヴェーラが帰ったら大山さんに言っておこう……)
私は心の中で誓った。
「ところで、本題に入りたいんですけど、コホート研究の方はどうなってるんですか?」
私が尋ねると、
「のんびりやらせてもらってるわ」
とヴェーラは答えた。
「今、結果をまとめる作業に入っているのは、塩分の摂取量が多いことが、血圧が高いことに関わっていそうだ、という論文ね。坊やが東京で働き始めたから、結果をまとめる作業が遅れがちなんだけど」
坊やというのは、レーニンこと、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフさんのことだ。彼は去年から、中学卒業後の学生が進学できる専門学校の一つ・東京外国語学校に、ロシア語の講師として勤務している。もちろん、危険思想を生徒や同僚に広めている気配はない。大山さんが以前、そう教えてくれた。
「ウリヤノフさん、ヴェーラの研究をまだ手伝ってるんですか?」
「当然じゃない。あれは私の下僕よ。死んで骸骨になるまでこき使うわ」
素っ気ない表情で私の質問に即答したヴェーラを見て、私は思わずウリヤノフさんに同情してしまった。
「それから、インドジャボクだっけ?あの抽出物質の臨床試験を始めたわ」
ヴェーラは更にこう付け加える。これは、牧野富太郎さんたちが行っている、世界中の薬用植物を探すプロジェクトで見出されたものだ。牧野さんは、インドで精神病に対する民間療法に使われていたインドジャボクという植物を、日本に持ち帰ってきた。農商務省から東京帝大に転属した長井先生がそれを分析したところ、有望な物質がいくつか見出され、そのうちの一つで、高血圧の患者さんたちへの臨床試験を行うことにしたのだ。
「血圧に対する効果はどうですか?」
「血圧は下がるわね」
ヴェーラは答えて、「でも、薬を飲むと気分が滅入る、って言う人も被験者の中にはいるわ」と付け加えた。
「鎮静作用が強く出る人がいるのよ。やっぱり、インドで精神病の民間療法に使われていただけあるわね。この薬、章子に飲ませてみてもいいのかもしれないわ」
「あの、私、血圧は高くないですよ。収縮期血圧、100mmHgあるかないかですから」
ヴェーラに反論すると、
「好きな男に会う時にでも飲みなさいな。どうせ、そいつの姿を見かけただけで逆上せ上がるんでしょ、奥手娘さん。精神を保つのに、ちょうどいいんじゃない?」
彼女は仏頂面のまま、こんなことを言う。
「残念ですけど、好きな男なんていません」
私は冷たい声を作ってヴェーラに言い返した。
「こっちが仲良くしようと思っても、私の身近にいる年の近い男で、私に怯えない人なんていないですから。同い年の北白川宮の恒久殿下は、私が小さい時にやっつけてやったら、完全に私に怯えちゃってるし、伏見宮の邦芳殿下なんて、私より3歳上なのに私を怖がってます」
観察していると、男性は、だいたい10歳以上は年上でないと、私と普通に接してくれない。もちろん例外もあって、陸奥廣吉さんは、私より13か14歳年上だけれど、私に怯えてしまっている。ちなみに、医科研の野口先生は、私より7歳年上であるにも関わらず、私に怯えないという稀有な人なのだけれど、あんなセクハラ野郎は、こちらから願い下げである。
男性でも、年齢が4歳以上下だと、私に怯えることはないようだけれど、年下の少年たちが私に向ける目は、私に好意を抱いている、というより、“強いお姉さんに憧れている”というような類のものだと思う。そうでなければ、あんなにキラキラした目はしないと……。
「確かに、サムライ相手じゃそうなるわよね」
ヴェーラの呆れたような声で、思い出そうとしたことが、私の手からするっと抜けた。
「じゃあ、章子がサムライだって知らない人を探したらいいじゃない。ほら、来週の外務大臣の息子さんの結婚披露宴なんかで」
(だから、サムライじゃないってば……)
そう言い返そうと思ったけれど、ヴェーラが黙殺するのが目に見えていたので、
「何で私が、廣吉さんの結婚披露宴に出ないといけないんですか」
私はこう言って、ため息をつくだけにした。あのヘタレイケメンは、自分の父親と山縣さんのイギリス行きに、山縣さんの随行員としてくっついていき、自分の長年の恋人であるエセル・パッシガムさんを、自分の父親に面会させることに成功した。そして、帰国する陸奥さん親子と別の船便で日本にやってきたエセルさんは、日本に帰化して、つい数日前、廣吉さんと入籍したのである。新聞紙上では“日英同盟婚”としてもてはやされ、来週外務大臣官邸で行われる結婚披露宴には、大勢の客が招待されているそうだけれど……。
「だって、結婚の許しを父親から得るようにって、章子が花婿を奮起させたんでしょう?三浦先生にそう聞いたわよ。だから、章子がこの国で言う“仲人”みたいな役割をしたんじゃないの?」
「……確かにそうかもしれません」
本当は、細部まではよく覚えてはいないのだけれど、私はヴェーラにこう言うにとどめた。
「だったら出ればいいのに。外務大臣からも、お誘いがあったんじゃないの?」
「まぁ、あったような、無かったような……」
少し言葉を濁すと、
「あの披露宴には、ロシア公使とイギリス公使も出席する予定になっているのですよ」
と我が臣下が隣から付け加えた。
「増宮さまは、公式には医師免許を取得していないことになっています。先日、ロシア公使から、“医師免許を取得しているのならば、ニコライ陛下へのお輿入れを検討していただきたい”という申し出がありましてね」
「うわ……皇帝、まだあきらめてなかったのね」
大山さんの言葉に、ヴェーラが眉をしかめる。
「イギリスからも、似たような申し出がありました。流石に相手は国王陛下ではありませんが……ですから、増宮さまが披露宴に出席してしまうと、ロシア公使とイギリス公使に付きまとわれて、望まない結婚を迫られるのではないかという心配がありましてね。折角の機会ですが、今回は披露宴の出席を見送っていただくことにしたのですよ」
「せっかくの機会って何よ、大山さん。ロシア公使とイギリス公使の件がなくても、私はそんなもの、出るつもりはないわよ」
私が大山さんのセリフを咎めると、
「いえ、同年代の男性とお話しされて、男を見る目を磨いていただく機会ですよ」
大山さんは落ち着き払ってこう答えた。
「……男を見る目より、患者を診る目を磨きたいけどな」
「そちらも大事ですが、男性を見る目も大事ですよ」
唇を尖らせた私の頭を、大山さんがそっと撫でる。
「全くもう、相変わらずね、章子は。忍に来るときも、“城跡が見たい”って言って騒ぐし。着飾ったり化粧をしたり……少しは女性らしいことも楽しみなさいな」
ヴェーラがそう言ってため息をつく。
「ご心配なく。成人したら、嫌でも大礼服だの中礼服だのを着て、お化粧しないといけませんから」
私もヴェーラに言い返すとため息をついた。成人したら、公的な行事に、それらの衣装をまとって、内親王として出席しなければならない機会も出て来てしまう。長い裾を引きずるドレスは動きづらくて、私の性にはどうも合わないのだけれど、着なければいけないということは分かっている。なるべく模様はシンプルに、国産の材料を可能な限り使って仕上げるように大山さんには頼んだけれど、どう仕上がって来るか、今から恐ろしい。
「ヴェーラはそう思うかもしれませんが、これでも、改善されてきましたよ」
大山さんが優しい声で言う。彼の暖かい眼差しが、頭の上から注がれるのを私は感じた。
「以前のままでしたら、断髪の上、男装して帝国大学で学ぶ、とおっしゃっていたでしょうから」
「もう……大丈夫だよ、大山さん。そんな心配しなくても」
私は大山さんのいる方向から、視線を少しずらした。
「女であることは捨てません。私はまだまだ半人前だけど、大山さんの主君に相応しい淑女にならなきゃいけないんだから、ね」
「……よくおっしゃいました」
私の頭をまた撫でる大山さんを見やって、
「章子を甘やかしたいのは、相変わらずなのねぇ、大山サンは」
ヴェーラが盛大にため息をついた――。
※ヴェーラが言っているインドジャボクから抽出された成分はレセルピンです。高血圧や統合失調症などに使われてきました。この時代の技術レベルで抽出できるかは検討していません。ご了承ください。
なお、インドジャボクからは、レセルピンのほかにアジマリンという抗不整脈薬が抽出されています。




