進路相談会
1902(明治35)年5月25日日曜日、午前10時。
「そう……おめでとう、千種さん」
日曜日だけれど、医術開業試験の合格を弥生先生に報告するため、私は青山御殿から自転車を飛ばして、麹町区飯田町にある東京至誠医院にやって来ていた。
「あなたなら、実力でやってくれると信じていました」
診察室の椅子に座って、弥生先生は私に柔らかい微笑みを向けた。そろそろ臨月を迎えようとする弥生先生のお腹は、かなり大きくなっている。
「すごいね。弥生さん以上の天才だ。弥生さんが免許を取ったのは、21歳の時だからね」
弥生先生の側に立つ荒太先生は、私の合格証書を見ながら、興奮気味に言う。私はそれに曖昧な笑顔を返しておいた。私の場合、前世で勉強した医学の知識を、この時代の知識レベルに合わせて試験に活用できるというアドバンテージがあるから、“天才”というのは、少し違う気もする。けれど、荒太先生も弥生先生も、私の前世のことを知らないから、思ったことは黙っておくことにした。
「私が臨月でなかったら、千種さんの卒業式を盛大にするのだけれど……」
弥生先生の言葉に、
「いや、そんな、卒業式は、やらなくて大丈夫です、はい」
私は両手を振って、慌てて答えた。
「あら、お兄様や婚約者の方に、晴れ姿を見せなくてもいいんですか?」
「それは大丈夫です、先生。その、余り、目立ちたくないので……」
首を少し傾げた弥生先生に、私は必死に訴える。卒業式なんてされてしまったら、来賓席にどんな人間が来るか、分かったものではない。大山さんはしょうがないけれど、それ以外の梨花会の面々も押し掛けそうだ。下手をすると、兄夫婦、そしてお父様とお母様まで……。
(それ、どう考えても、私が皇族だってバレる確率が上がる……絶対に避けないと!)
「それもそうかしらね」
弥生先生は苦笑すると、「それで、これからどうするのですか?」と私に尋ねた。
「ええと、どう、っていうのは、就職先とか、専門科とかをどうするか、ってことでしょうか……」
「そうですね」
私の質問に、弥生先生は軽く頷いた。
(うーん……)
私は弥生先生に何と答えればいいか、迷ってしまった。実は、医師免許を取ってからの進路について、余り考えたことが無かったのだ。昨日、北里先生やベルツ先生に会っていたら相談していたのだろうけれど、残念ながら、昨日は医科分科会がある日ではなかった。
「……では、兄とも相談してみます」
何とか、こんな答えをひねり出すと、
「それがいいですね」
と弥生先生が苦笑いを見せた。「あなたのご進路については、お兄様もきっと、色々思うところがあるでしょう。それに、あなたなら、どんな進路を選んでも、道を切り開いていけると思いますから」
「はい。……では、なるべく早めに決めて、先生に報告に参ります」
一礼すると、弥生先生はにっこり笑ってくれた。
午前11時。
「ただいま」
日曜日の今日、千夏さんは休みなので、中央情報院の仕事も兼務している職員さんと一緒に至誠医院から青山御殿に戻ってくると、玄関には誰の姿もなかった。そう言えば、青山御殿を出る時に職員さんたちに伝えていた帰宅見込みの時間より、30分ほど早い。
(ま、こういう時もあるよね)
今回は、時間の予測を誤った私が悪い。それに、すべての業務において、職員さんたちに完璧を求める訳にはいかないのだ。私を出迎える人がいないことくらい、大したことではない。他の大事なところで、業務を間違えなければそれでいい。
(さてと、お昼ごはんまで時間があるから、いったん部屋に戻ろうかな)
靴を脱いで揃え、大きく伸びをした時、後ろから、慣れ親しんでいる気配が近づいてきた。
「お、大山さん?」
驚いて振り返った私に、
「お早いお戻りでしたね」
黒いフロックコートを着た大山さんは微笑んだ。
「大山さん、なんで出勤してるの?!」
私は我が臣下を睨み付けた。この青山御殿を、ブラックな職場にはしたくない。今日、大山さんは休みの日なのに、なぜ青山御殿にいるのだろうか。
(不必要な出勤だったら、絶対に帰ってもらう!トップがきちんと休まないと、部下が休み辛くなるじゃない!)
「申し訳ございません。緊急で出勤しなければならない事態が発生いたしまして」
睨み続ける私に、大山さんはさっと頭を下げた。
「……ちゃんと代休は取ってね。あなたの身体は、あなただけのものじゃないんだから、無理は禁物よ」
「承知しております。……それより、食堂にお出まし願いたいのですが」
「食堂に?すぐの方がいい?」
「はい、今すぐ」
大山さんはそう答えると、「お荷物をお預かりしましょう」とほほ笑む。私は素直に、カバンと仕込み傘を彼に手渡した。
食堂には、北里先生以下の医科分科会のメンバーの他、梨花会の面々もいた。兄の甲信越地方への長期行啓に付き添っている児玉さん以外は、梨花会の面々も全員顔を揃えているようだ。
「ちょっと……皆さん、どうしたんですか?」
一同に尋ねると、
「無事に医師免許を獲得されたお祝いもありますが、増宮さまと、今後のことを相談したいと思いまして」
総理大臣の伊藤さんが、満面の笑顔で答えた。
「今まで、“医師免許を獲得する”という目標を立て、臨床実習にも励んでいただいておりましたが、その目標が達成されました」
嬉しそうにこう言ったのは、ベルツ先生だ。
「ですから、今後、増宮さまがどうなさるか……それを考えなければなりません」
「それは、確かにそうなんですよね……」
3月の頭にイギリスから帰国した山縣さんの言葉に、私はため息をついた。
「でも、それなら、ベルツ先生たちと私だけで相談すればいいはずです。なんで、梨花会のみんなまでいるんですか?」
流石に、医師免許を取ったからと言って、すぐに上医になれるわけではないことは分かっている。医学そのものの修業もまだまだ足りない。もちろん、行政のことについても経験を積まないといけないけれど、私は女だから、梨花会の皆のように、官僚になったり政治家になったり軍人になったりすることはできないのだ。だから、まずは医学の修業のことを考えなければいけないと思うのだけれど……。
すると、
「確かに、梨花さまのお考えの通りではあります」
私の顔を覗き込んだ大山さんが微笑んだ。「しかし、梨花さまは畏れ多くも、天皇陛下の実質的なご長女であらせられます。ですから、梨花さまが医師として、どのような進路にお進みになるか、それを考えることは、今後の日本の医学界にとって重要なことになります」
「医師免許の名義を、どうするかという問題も残っています」
末席の方から、厚生大臣の原さんも指摘する。「進路次第で、名義も変わる可能性もあります。厚生大臣としては、それも最終確認しておきたいと考えています」
「確かに、増宮さま担当大臣としては、重大な問題ですなぁ」
文部大臣の西園寺さんがニヤニヤ笑いながら言うと、
「西園寺さん、厚生大臣だからと言って、別に増宮殿下ばかりを担当しているわけではありません。それに、もしわたしがそう名乗れば、西園寺さんを含めて、ご列席の方々が黙っていないでしょう」
原さんは大きなため息をつきながらこう返した。
「それは、原閣下の言う通りですね」
威仁親王殿下が苦笑する。「開業試験の際、我が家に駆け込んだ件も含めて、もっと増宮さまをいじりたいのですが、相談事がたくさんあります。医科研の総裁職を、これを機会に増宮さまに譲るかどうか、それも考えたいのです」
そう言えば、医科研の創立の頃、威仁親王殿下に、「増宮さまが成長したら総裁職を譲る」と言われた記憶がある。
「もちろん医科研の総裁はやりたいです、大兄さま。でも、私、まだ成人してないから、そこは問題になりますよね?」
皇室典範の規定上、皇太子である兄は満18歳で成人になったけれど、私は満20歳で成人扱いになる。だから、来年の1月26日までは未成年なのだ。
「それも少し問題になりますが、僕は別のことを懸念しておりまして」
山縣さんと共に3月末に帰国した外務大臣の陸奥さんが、そう言って眉をひそめた。
「別のこと?」
私が尋ねると、陸奥さんは、
「未成年で医科研の総裁になられる、となれば、それ相応の理由が必要です。殿下が医師免許を取得した、と公式に発表してしまえば、殿下が現時点で医科研の総裁になる理由には十分なのですが……発表していいのか、という問題が生じます」
と言って、難しい表情になった。
「……どういうことでしょうか?」
変に推量を投げてしまうと、間違っていた時のお説教が長くなりそうだ。質問だけ投げておくと、
「実は、殿下には内密にしていたのですが、つい先日、ロシア公使から、“増宮殿下が医師免許を取得されたのなら、ニコライ陛下へのお輿入れを検討していただきたい”という申し出がありまして」
陸奥さんがとんでもないことを口にした。
「はい?」
思いっきり顔をしかめた私に、
「それから、アーサー・フレデリック・パトリック・アルバート殿下……イギリスのエドワード7世陛下の甥にあたる方ですが、“日英同盟も結んだことだし、増宮殿下が医師免許を取った暁には、同盟の象徴として彼に嫁いでくれないか”と、イギリス滞在中にエドワード7世陛下から言われました。これも試験の合否が出るまでは、と殿下には内密にしていたのですが」
陸奥さんは更に衝撃的な事実を告げる。
「どういう趣味してるのよ……」
私は小さく呟くと、盛大にため息をついた。女性でありながら医師免許を取る。この時代の基準ならば、“進んだ女”と嫌われる経歴だ。それなのになぜ、ニコライ陛下もエドワード7世陛下も、こんなことを言うのだろうか。
「申し訳ないですけれど、陸奥さん。外国に嫁ぐという選択肢は私にはありません。兄上とお父様を、そばで守れなくなります」
私がこう答えると、
「ええ、我々も非常に困ります!」
第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞し、男爵に列せられた北里先生が、血相を変えて叫んだ。
「増宮さまのおかげをもちまして、日本の医学は長足の進歩を遂げております。その方が外国に去ってしまわれたら、我々はどうしたらいいのですか!」
森先生の言葉に、三浦先生、近藤先生、ベルツ先生も深く頷く。
「陸奥閣下、増宮殿下が医科研の総裁職に就かなければ、医師免許を取ったことを公表しなくてもよいのでしょう?」
「ええ、それならば、公表の必要はないと僕は思います」
目を怒らせている北里先生に、陸奥さんがゆったりと首を縦に振る。それを見るや否や、北里先生は視線を私に向けた。
「ならば増宮殿下、総裁職は是非にご辞退いただきますようお願いいたします。今のお立場のままでも、我々、増宮殿下に様々に教えを乞うことは出来ておりますから!」
「私は総裁をやりたくてたまらないんですけれど、……今は諦めるしかないですね」
非常に硬い表情をした北里先生に、私はこう答えるしかなかった。
「我々もそのように考えます。陛下の御前でも協議を致しましたが、同じ結論に達しました。今は医師免許を取得したことは、公表しないでおくべきだ、と」
伊藤さんの言葉に、梨花会の面々も頷いた。
「了解しました、伊藤さん。……ということは、私、医者として働く時は、“千種薫”の名前を使う、ということになりますね。でも、どう働いたらいいかなぁ……」
私は両腕を組んだ。医科研の総裁職ができないのならば、私はこれからどうするべきなのだろうか。
「……弥生先生を助けたい、という気持ちはあるんです。弥生先生、6月の下旬には出産になるから、そろそろ身体を休ませてあげたいんです。私がいきなり至誠医院の代診を全部するのは難しいと思いますけれど、女医学校の代講ぐらいならできるかな、って……」
「ちなみに、どの科目を代講されるおつもりですか?」
三浦先生が穏やかに私に尋ねる。
「……実はまだ、全然考えてないんです」
私は俯いた。
「では、質問を少し変えましょう。前世では、どの科目を専攻なさるおつもりだったのでしょうか?」
「……ごめんなさい、近藤先生。医者になること自体を迷っていたから、どの科目を専門にするか、深く考えたことがなかったんです」
私が近藤先生に小さくなって頭を下げると、
「それならば、是非外科をご専門に」
近藤先生が私に頭を下げ返した。
「へ?」
「山階宮妃殿下の手術の際、供血候補者たちに検査をなさるところを拝見しておりましたが、針を血管に刺すのがお上手でした。手先も器用なように思われましたし、外科が向いているのではと……」
(あー……)
前世で死ぬ直前に働いていた時は、採血の針や点滴の針を刺すことばかりしていた。どうやら、その経験が生きてしまったらしい。
「そうですね。それに、内科的なことや研究の課題などは、文章で伝えられることも多いですが、外科ですと、なかなか言葉だけでは伝えられないものが多い」
ベルツ先生が私に微笑みかけた。前世での手術のことは、本当に概要だけしか覚えていないけれど、手術道具のことなど、確かに、文章で伝えにくいものもある。
「そう言えば、電気メスも作らないといけないんだよね。あ、でも、そうしたら、麻酔に使うガスを、引火しないものに変えないと、電気メスの火花で引火するから、私、麻酔科に進んで、麻酔ガスの研究をする方がいいかもしれない。前世の母も麻酔科医だったし……」
ぶつぶつ呟いていると、
「いいえ、外科がよろしいと思います」
伊藤さんが、医者同士の話に急に割り込んできた。
「伊藤さん?」
「増宮さま、お忘れになりましたか?最初、増宮さまが医師になりたいとおっしゃったときのことを」
首を傾げた私に、伊藤さんは静かに言った。いつもと違う彼の真面目な表情に、私は思わず姿勢を正した。
「“今の時点で、侵襲的な検査や治療を、天皇陛下と皇太子殿下に直接できるのは、この私しかいない”……増宮さまはあの時、こうおっしゃいました。山階宮妃殿下の手術の一件で、皇族が侵襲的な検査や治療を受けてよいのだという雰囲気は醸成され始めましたが、天皇陛下と皇太子殿下に関しては、まだまだ超えるべき壁が多い。天皇陛下と皇太子殿下には、皇族である増宮さましか侵襲的な検査や治療ができないということに、変わりはありませんぞ」
「!」
伊藤さんの言葉で、私は12年前の夏、医者になりたいと、今生で初めて皆に告げた時のことを思い出した。
――このしきたりだらけの状況で、陛下と、皇太子殿下が病気になったら、……私しか、助けられる人間がいない。いずれ、非合理的なしきたりは壊さないといけない。けれど、今の時点で、侵襲的な検査や治療を、陛下と殿下に直接できるのは、この私しか……何の因果か、皇族に生まれついた私しかいないんだ。
高熱を発して、体調を崩した兄。その兄の指頭血採血をしなければ、病気の診断がつかないのに、皇太子である兄の身体に、臣下が傷を付けてはいけないというしきたりに阻まれ、三浦先生もベルツ先生も手出しができないでいた。“それなら、皇族である私が、侵襲的な検査や治療をすればいい”……私が今生でも医者になりたいと思った最初の動機は、そうだった。
(それなら、私が外科的な手技を、一通りこなせるようになるのが一番だよね……)
「わかりました。伊藤さんの今の言葉で決めました。私、外科の修業をします」
私は伊藤さんに身体を向けると、しっかりと頷いた。
「じゃあ、どこで外科の修業をしたらいいかな……」
「我が東京帝大でお迎えいたしますよ」
私の言葉に、近藤先生が微笑みながら頷いた。「ただ、採用は大学や高等学校の新卒者と同じ、9月になります」
「了解しました、近藤先生。ということは、8月末までどうするかを考えないと……」
私は考え込んだけれど、すぐに大まかな方針は定まり、それに伴う細かい打ち合わせをみんなと終えたころには、ちょうどお昼時になっていた。そのまま引き続いて、大山さんがセッティングした私の後期試験合格を祝う昼食会が行われ、私たちは青山御殿の料理人さんたちの料理を堪能したのだった。
翌日、5月26日月曜日、午前9時。
「ベルツ先生と相談して、東京帝国大学の外科で働くことが出来るか、お願いしてみることにしました」
東京至誠医院の診療開始時刻前。私は弥生先生に時間を作ってもらって、昨日決まったことを報告していた。
「なるほど」
報告を受けた弥生先生は微笑んだ。「女性で外科を専攻する人は少ないから、いいかもしれませんね。あなた、手先が器用そうですし」
「けれど、帝国大学病院の採用時期は9月なので、それまでは、ここで働きたいです」
それは、医科分科会の皆にも、梨花会の皆にも話して了承を取った。今から8月末までなら、ちょうど弥生先生が出産して、多少は育児が落ち着くまでの時期に相当するだろう。
「お給金は、帝国大学ほどには出せませんよ」
「それは承知の上です」
私は頷いた。「弥生先生が元気な赤ちゃんを産めるように、精一杯頑張ります」
「私が元気な赤ちゃんを産めるように、ね……」
弥生先生はそう言って、軽くため息をついた。「本当は、代診や代講を頼むつもりなんてなかったんですけれど」
「先生、それはダメです」
私は弥生先生を軽く睨み付けた。「先生の身体に、すごく負担が掛かるし、それに、……人を助けようと思ったら、自分自身も元気じゃないといけないと思います」
「言うわね」
弥生先生は、微かに苦笑を見せた。
「……ここで働くのなら、偽名のことを皆に言わないといけませんよ」
「はい、もちろんそうします」
私は弥生先生の言葉に頷いた。結局、医師免許の名義は“増宮章子”にすることにしたけれど、私が医師免許を取ったことは公表せず、働く時は“千種薫”の通称で働くことにしたのだ。本当は、千種薫の名義で免許を発行してもらってもよかったのだけれど、医者嫌いのお父様が、私の診察を受ける時に、免許の名義が“増宮章子”ではないことを盾にして、屁理屈をこねて診察を拒否する可能性もあるということで、結局、「本名での免許発行、“千種薫”の通称で勤務」というスタイルに落ち着いた。万が一、弥生先生に「医師免許を見せて欲しい」と言われたときは、中央情報院が作った偽物の医師免許を見せることにしている。もちろん、大山さんにも相談済みだ。
「官報の広告には、“半井梨花”って載ってないですから、本名を隠していたことは、ちゃんと皆に説明して謝ります」
「そうして頂戴」
頭を下げた私に、
「じゃあ、あなたの初仕事。私がやるはずだった午後の産婦人科の講義、代講を頼んでいいかしら?」
弥生先生はそう言って微笑みを向けた。
「今日の授業でどこまでやる予定だったか、知っていますよね。ある程度まとめて、お昼休みに私に簡単に授業内容を説明してください」
「了解です!」
最初から、なかなか大変な仕事を割り振られてしまった。でも、やるしかない。私は恩師、いや、新しい上司の言葉に、笑顔で頷いた。




