後期試験(2)
※地の文のミスを訂正しました。(2020年5月8日、2020年5月23日)
2分後。
「お願いでございます!」
威仁親王殿下のお屋敷の正門から、少し離れたところにある茂みの陰に隠れた私は、気配を殺しながら、辺りの様子を伺っていた。
「ここに、増宮殿下がいらっしゃるはずなのです!」
青山がわめいているのは、恐らく威仁親王殿下のお屋敷の正門の前だろう。「何を言っている、貴様は」と、栽仁殿下と一緒にいた職員さん2人が止めている様子も聞き取れた。
「しかし、確かにここに駆けこまれたのを……」
青山が更にわめこうとした時に、
「何の騒ぎだい?」
栽仁殿下の声がした。恐らく、“正門の騒ぎを聞きつけてやって来た”という態を装ったのだろう。
「殿下!」
「この者が、屋敷に増宮殿下がいらっしゃるなどと、訳の分からないことを!」
職員さんたちもうまく栽仁殿下に合わせ、一芝居打っているようだ。
「姉宮さまが?……何を言っているんだ。いらっしゃる訳がない」
そう言ってとぼける栽仁殿下に、
「しかし、確かに今、ここに増宮殿下が駆け込まれたのです!私は11年前に、増宮殿下にお目にかかったことがございます。間違えるはずがないのです!」
青山はなおも食いついているようだ。
すると、
「ああ……もしかして、今すれ違った彼女のことを言っているのかな?」
栽仁殿下は普段と同じ声の調子で、青山に反論を始めた。
「確かに、ついさっき、若い女性がこの屋敷に駆け込んだ。でも、それは姉宮さまではない。僕の同級生のお姉さんだよ。妹の遊び相手をしてもらっているんだ」
「そ、そんなバカな……確かにここに……」
「僕は、姉宮さまに、あなたよりたくさん会っている。それこそ、毎週のようにね」
青山が更に食い下がろうとするのに答える栽仁殿下の声が、少し硬くなる。
「だから、この僕が姉宮さまを、見間違えるはずがないんだ。……それでも、まだ疑うのかい?」
一瞬、静寂が訪れた。もしかしたら、栽仁殿下は青山を睨み付けているのかもしれない。
しばらくして、
「わ、分かりました。御無礼を、致しました……」
無念そうな響きをにじませた青山の声が聞こえて、人が遠ざかっていく気配がした。青山が立ち去ったのだろうけれど、油断は禁物だ。じっと息を押し殺していると、門が閉まる音がして、それに交じって、人がこちらに駆けてくる足音も聞こえた。
「姉宮さま」
私の前に現れたのは、笑顔の栽仁殿下だった。
「あの男、追い払いました」
「ありがとう、栽仁殿下。助かった……」
私は大きく息をついた。
「立てそうですか?」
栽仁殿下の質問に、
「何とか」
と私は答えて、ゆっくり立ち上がった。歩き出そうとしてうっかり躓き、身体が前のめりに倒れようとした瞬間、
「危ないっ」
横から栽仁殿下の腕に、しっかり身体を支えられた。
「姉宮さま、大丈夫ですか?」
そう尋ねた栽仁殿下の鼻の頭が、私の目と同じ高さにあるのに、私は初めて気が付いた。もちろん、並んで立っている地面の高さは同じである。
(そっか……大きくなったんだね、栽仁殿下)
白袴隊に襲われたのを助けたのは、今から3年前になるだろうか。その時は、栽仁殿下はまだ小さくて、私の胸に顔を埋めて泣いていた。それが、いつの間にか大きくなって、私の身長を追い越している。
(あんなに小さかったのに……男の子の成長って、やっぱり早いなぁ)
そう思っていると、
「姉宮さま?」
急に、私の目と同じ高さに、栽仁殿下の綺麗な瞳が下りてきた。
「ひゃ、ひゃい!」
慌ててした返事は、とても変な声になってしまった。青山から必死に逃げていた時と同じくらい、心拍数が急上昇して、心臓が身体の中で飛び回っているような感覚に陥る。
(お、落ち着きなさい、私っ!相手、子供……いや、私より年下なんだぞ!私の時代で言ったら、中学2年生なんだから!と、年下相手に、こんなに動揺するなんて……っ!)
私の心を知ってか知らずか、栽仁殿下は私の目から視線を逸らさず、
「本当に大丈夫ですか?顔が真っ赤ですけど……」
と、心配そうにまた訊いた。
「あ……ああ、うん、大丈夫、大丈夫だから」
必死に心を落ち着け、無理やり首を縦に振ると、「そう?」と栽仁殿下は首を傾げ、
「とにかく、家に入ってください、姉宮さま」
と言いながら、私のカバンと仕込み傘を持ち、お屋敷の方へ歩いて行った。
屋敷の職員さんにお屋敷の応接間に案内され、私が紅茶とビスケットをいただいていると、
「今、青山御殿に連絡してもらいました。すぐに迎えの馬車を寄越すそうです。姉宮さまが永楽病院に置いてきた女官さんにも連絡を付けるようにって、頼んでおきました」
そう言いながら、栽仁殿下が応接間に入ってきて、私の斜め前の椅子に座った。
「ありがとう。本当に助かった」
私は姿勢を正すと、栽仁殿下に頭を下げた。
「まさか、因縁のある相手が試験監督だなんてなぁ」
そう言って私がため息をつくと、「因縁?」と栽仁殿下が首を傾げる。
「ああ、小さいころ、あいつ……赤十字社病院の青山っていうんだけど、あいつが脚気の討論会の時に、ベルツ先生を罵倒してね。私が青山を怒ったことがあったの」
私は簡単に、青山とのことを栽仁殿下に説明した。深く説明してしまうと、あの中二病めいたセリフのことまで、栽仁殿下に告白することになってしまう。
「まぁ、私の正体が厚生省にバレていたら、間違いなく私の試験監督から青山を外すだろうから、あいつが試験監督になったってことは、私の正体が上手く隠蔽出来てたっていう証拠ではあるんだけど……」
「そうなんですね。姉宮さま、本当に真正面から、医者になろうとしてるんですね。髪型も、普段と変えているのは、変装する意味で……ってこと?」
「そう。“増宮はポニーテール”ってみんなが思ってるからね。もしかしたら、余り意味はないかもしれないけれど。人の命を預かるんだから、皇族の特権を振りかざして試験に合格するわけにはいかないもの」
私は苦笑して、自分の髪を指さした。今日は“千種薫”を演じているので、髪型はシニヨンだ。普段、ちびっ子王殿下たちと会う時は、髪型をポニーテールにしているから、栽仁殿下はこの髪型の私を初めて見たことになる。
「……でも、試験場を騒がせちゃったから、今回の試験で合格はないだろうな。あーあ、半年後に再挑戦か。早く医者になって、お父様と兄上を助けたいんだけど……」
そうボヤくと、
「……僕は、合格が半年伸びてよかったと思います、姉宮さま」
と栽仁殿下が真剣な顔をして言った。
「え?」
「だって、姉宮さまは医者になったら、森軍医大佐と結婚するんでしょ?」
栽仁殿下の言葉に、私は危うく、ビスケットの入ったお皿に顔を突っ込みそうになった。
「姉宮さま?!」
「あー、ごめんごめん、大丈夫……」
私はゆっくりテーブルから身を起こすと、
「それはない。絶対にない」
と栽仁殿下に断言した。
「え?だって、姉宮さま、森先生に、“私が決めた人以外とは結婚するな”って令旨を出したんでしょ?その“私が決めた人”っていうのは、姉宮さま自身のことじゃないかって、僕……」
「違う違う。あの令旨は、森先生が、お見合いを断る方便に使えるように出したものでね。……別に、私が森先生と結婚したいから、出したわけじゃないんだ」
心配そうな表情の栽仁殿下を、私は安心させようと、必死に口を動かした。なぜか身体が少し熱いけれど、私の可愛い弟分を安心させなければいけない。
「本当に?」
「うん、本当に。大体、森先生、私より20歳くらい年上じゃなかったかな。そんなに年上の人と結婚するのは、流石にねぇ……」
そう答えてまたため息をつくと、
「でも、源氏物語の源氏と女三宮だって、そのぐらい年が違いましたよね?それに、姉宮さまの別当の大山閣下だって、奥様より18歳年上だし……」
栽仁殿下は、なおも私にこう問いかける。
「そうだけど、……それとこれとは、話が別で……。私、森先生と結婚したいなんて、これっぽっちも思わないし……」
「じゃあ、どんな人となら結婚したいんですか?」
栽仁殿下が、真剣な表情で私の顔を覗き込んだ。澄んだ美しい瞳が、真正面から私の目を捉える。落ち着いていたはずの心が、また身体の中で飛び上がった。熱と、鼓動の音だけが五感を支配して、まるで、身体そのものが心臓になってしまったかのようだ。
「え、えっと……」
進めばいいのか、退けばいいのか。けれど、動く力も、判断する力も、私にはこれっぽっちも残されていなかった。10分後に、威仁親王殿下のお屋敷に迎えに来た大山さんが、私の右手を取って声を掛けるまで、完全に頭の回転が止まってしまった私は、頬を真っ赤に染めたまま、全く身動きが取れなかったのだった。
1902(明治35)年5月24日土曜日、午後0時30分。
私は千夏さんと一緒に、女医学校から自転車を走らせ、青山御殿の門をくぐった。
後期試験の結果は、受験の日から遅くとも20日以内には、官報に合格者の名前が広告される。だから、合格しているなら、もうそろそろ“千種薫”の名前が官報に載っていてもいいはずなのだけれど、16日の官報に合格者名が出て以降、後期試験の合格者名は広告されていなかった。
(やっぱり、試験場を騒がせちゃったから、試験妨害をしたと見なされて、不合格にされちゃったかな……。まぁ、しょうがない。この次に頑張ればいいや)
いくら前世の知識というアドバンテージがあるとは言え、私はまだ19歳。前世の日本では、医者になるのは不可能な年齢なのだ。医師免許は可能なら早く取りたいけれど、不合格なら仕方がない。気持ちを切り替えて、医学の修業をしていくしかないだろう。
「ただいま」
玄関で出迎えてくれている大山さんにあいさつを投げると、一礼した大山さんが、
「お客様がお見えです」
と教えてくれた。
「お客様?どなたなの?」
「見ればお分かりになりますよ。さ、どうぞ応接間の方へ。カバンと傘は、俺がお持ちしますゆえ」
私の質問に、大山さんはニコニコしながらこう返す。恐らく、お客様が誰なのかを、大山さんにもう一度確かめたら、“梨花さまのご修業になりますゆえ、教えません”と答えられてしまうだろう。私は質問をあきらめ、大山さんにカバンと傘を差しだした。
応接間にいたのは、叔父の千種有梁さん、そして、原さんと後藤さんだった。
「お、叔父さま、……原さんも後藤さんも、一体どうしたんですか?」
お客様たちに尋ねてみると、
「殿下、……バレました」
叔父が苦笑しながら答えた。
「バレたって……」
私が問い返すと、
「“東京府華族・千種薫”の正体ですよ、増宮殿下」
原さんも苦笑した。「我々厚生省の者は、殿下が偽名で医術開業試験を受けられるということは承知して、黙認していましたが、殿下がどんな名前を使うかまでは、試験の公平性を保つためということで、知らされていなかったのです」
「今にして思えば、華族だということと、“千種”という名字で、増宮殿下と気づくべきでしたが、我輩たちも、ご生母の君の女房名は承知していても、御本名までは承知しておりませんでしたので……」
後藤さんがそう言いながら、一枚の紙をテーブルの上に出す。その紙には、“医術開業後期試験及第之証 東京府華族 千種薫”と確かに記載されていた。
「あ、あの、原さん、後藤さん……まさかとは思いますけれど、千種薫の正体が私だと知って、合格点に達してなかったのに合格にしたんじゃないでしょうね?!」
慌てて聞くと、「違います!」と後藤さんが断言した。
「増宮殿下は、筆記試験でも、実地試験でも、合格点を取っております。もちろん、我々も、皇族というご身分に忖度せずに、公平に採点しております!」
「ええ。もし“千種薫”の正体を知っていたら、実地試験の試験官を青山にするという真似はしません」
原さんがため息をつきながら言う。「青山が女子の受験生を“増宮殿下!”と呼びながら追いかけまわした、という事件があったと報告を受けて、千種薫が増宮殿下の御変名だったと、我々もやっと気づいた次第でして」
「青山は、今回で試験官はお役御免に致します。受験生を長時間にわたって追いかけ回したがゆえに、試験の進行に支障をきたしましたからな」
「はぁ……」
憮然とする後藤さんにあいまいに頷くと、「増宮殿下、お立ちになっていただけますか」と原さんが言ったので、私は素直にその指示に従った。原さんも証書を持って立ち上がり、背筋をまっすぐに伸ばした。
「とにかく、増宮殿下は、きちんと国家資格を得られたわけです。免許の名義を千種薫のままにするか、それとも増宮殿下の名義に書き換えるか……それは今後考えなければなりませんが、医師という国家資格に値する実力をお持ちであることは、試験委員長と、試験委員長の上司であるわたしの名において証明致します」
そう言った原さんは、捧げ持った合格証書を、私の方に差し出した。
「証書を渡します。……是非、これからもお励みになられますよう」
私を見る原さんの眼の光は、異常なほど強い。まるで、“頼むぞ、主治医どの”と言っているかのようだった。
それはそうだ。私と原さんとの間には、契約がある。私が兄の健康を主治医として守ることと引き換えに、原さんが梨花会に協力すること……。その契約をきちんと守るためにも、私は医学だけではなく、色々なことを出来るようになって、兄をあらゆる苦難から守れるようにならなければならない。
(それが、上医としての務め……。今はまだ未熟だけれど、必ず上医になって、兄上を守るから……、見ててよ、原さん)
私は軽く頷くと、原さんから合格証書を受け取った。
1902(明治35)年5月24日。
私は今生でも、前世と同じ医師免許を手にした。
19歳の、春のことだった。




