後期試験(1)
※年号ミスがあり訂正しました。(2020年5月4日)
1902(明治35)年4月29日火曜日、午後6時。
「忙しいだろうに……、こちらに来て大丈夫なのか?」
兄夫婦の住んでいる花御殿に隣接する皇孫御殿の和室。今日で満1歳になった迪宮さまをあやす私に、兄が声を掛けた。
「ん?」
迪宮さまの笑顔から目を離さずに私が返事すると、
「お前の試験のことだよ」
兄が苦笑する気配がした。「あさってからだろう?」
「そう、だからこそ、今日はここに来たの」
私は顔を上げて、兄に力強く頷いた。「試験前に、迪宮さまで癒されて、心身ともに万全の状態で開業試験に臨もうと思って」
「なるほど、叔母馬鹿というやつですなぁ」
私の隣に座っている、迪宮さまの輔導主任である西郷さんが、ニヤニヤしながらこんなことを言う。
「叔母馬鹿って、そんな言い方はないでしょ、西郷さん。私は迪宮さまを可愛がって、心身の健康を保とうとしているだけですよ」
言い返すと、「そういうことにしておきましょう」と西郷さんは笑顔を崩さずに言った。西郷さんの後ろで、正妻の清子さんも、クスクス笑っている。何人も子供を育てた西郷さん夫妻は、“お前たちの孫と思って、裕仁を育ててくれ。遠慮は無用だ”と兄に頼まれ、その願いに応えるべく、皇孫御殿に住み込んでいる。迪宮さまもすくすくと成長し、今では兄夫妻や西郷さん夫妻、それに私のことが何となくわかるようになってきていた。私が声を掛けると、とても嬉しそうな笑顔を見せてくれる迪宮さまは、産まれた時から変わらず、私にとっての天使である。
「妃殿下は、体調はどうですか?」
清子さんがいるので、兄の横に座っている節子さまに丁寧な口調で呼びかけると、
「おかげさまで、とっても元気です!」
節子さまは笑顔を見せた。節子さまは着帯を終えた1月下旬には、つわりも無くなっていた。妊娠の経過も順調だ。
「ならよかったです。私も安心して試験に臨めます」
私は頷いた。節子さまの出産は、恐らく6月下旬になるだろう。そう言えば、弥生先生の出産時期も同じころになりそうなのだ。2人が出産する頃に、私は医師免許を無事に取得できているだろうか。
「頑張れよ。受けるからには、一発で合格を決めるつもりで行け」
そう言って、兄が強い視線で私を見る。
「もちろん、兄上。全力を尽くすよ」
頷いた私の側で、私を励ましてくれるかのように、迪宮さまが私に天使のような笑顔を向けてくれた。
前期試験の時もそうだったけれど、東京での医術開業試験は、麹町区永楽町の永楽病院で行われる。ここの入院患者が、後期試験の際に行われる実地試験の時に、受験生の診察を受け、試験に協力してくれることになっているのだ。なので、試験への協力報酬も兼ね、入院患者さんや外来患者さんの治療費は、他の病院よりも格安に設定されていた。
医術開業試験の後期試験では、1日目に外科と薬物の、2日目に内科と眼科の、3日目に産科の筆記試験が行われる。そして、3日目の午後に実地試験が行われ、受験生が永楽病院の患者さんを診察させてもらい、所見と診断を試験官に答えるのだ。試験官は東京帝国大学医科大学の先生方や、市中の病院の先生方、そして国軍の軍医の先生方が手分けして担当している。
5月1日と2日の筆記試験は、上々の手ごたえで終了した。3日の午前中に行われた産科の試験の出来もばっちりだった。
(さて、あとは午後の実地試験か……)
お昼休み、試験場内の指定された席で、青山御殿の料理人さんに作ってもらったお弁当を食べながら、私は気分転換を図っていた。前世でもそうだったのだけれど、私の場合、試験の間の休み時間にしっかりエネルギーを補給して、気持ちをリフレッシュさせる方が、緊張している時より試験中の頭の働きが良くなるのだ。ただ、どうも首筋がチクチクする。理由は分かっている。男子の受験生たちが、私の方をチラチラ見ているからだ。今回の試験には、200人の受験生が臨んでいるけれど、その中に、女子の受験生は私を含め、2人しかいない。だから目立ってしまっているのだろう。
(全く……ジロジロ見てんじゃないわよ)
殺気を飛ばしながら、仕込み傘を抜いてやろうかという考えも一瞬頭を過ぎったけれど、そんなことをやらかせば、流石に試験場から一発退場を食らうだろう。私は無視を決め込み、お弁当を味わうことに意識を集中させた。
午後1時になると、受験生たちが番号順に呼ばれ、学科試験が行われていた大講堂から実地試験が行われる部屋へと移動していく。実地試験が行われる部屋は何部屋かあるらしく、受験生たちが次々と呼ばれ、大講堂から出て行った。30分ぐらい経った頃、私の受験番号が呼ばれ、私は荷物を持って指定の部屋に向かった。
「千種薫と申します。よろしくお願いいたします」
試験用の偽名を名乗った私は部屋の入り口で深々と一礼すると、試験場の中に素早く視線を走らせた。真ん中の寝台に、初老の男性患者が寝かされている。その枕元にある机に、診察道具と患者さんの病歴が書かれた紙が載せてあった。寝台の横には長机があり、3人の試験監督が椅子に掛けていた。一番私から離れたところにいる試験監督の顔に、見覚えがあるような気がしたけれど、誰なのか、いつ会ったのか、とっさに思い出すことが出来なかった。その試験監督は、眼を見開いたまま、私の顔にじっと視線を注いでいる。
(まぁ、いいか。とにかく、試験に集中しよう)
私は荷物の中から、小さいころから使っている聴診器を取り出して、首に掛けた。
病歴を確認し、置かれていた血圧計と、持ってきていた聴診器を使って血圧を測る。それから、頭からつま先まで、一通り患者さんの身体所見を取った。“血便がある”という病歴を補強するかのように、眼瞼結膜は若干蒼白だった。最後に、置かれていた診察用のゴム手袋をはめ、直腸診をすると、肛門から5㎝ほど入った直腸の壁が硬くなっているのが分かった。
(やっぱり、直腸がんか……)
頭の中で結論を出すと、私は試験の規定通り、患者さんに部屋から退出をお願いする。患者さんが廊下に出て行ったのを確認すると、試験監督たちに向き直り、今得られた所見と病歴から、直腸がんと診断した旨を説明した。
すると、
「うむ、素晴らしい」
診察中も私の顔をずっと見つめていた、一番奥の試験監督が、顔に満面の笑みを浮かべた。
そして、
「流石は増宮殿下です」
……彼は、とんでもない言葉を口にした。
「あの、先生、申し訳ありませんが、私はそのような高貴な方ではありません。畏れ多いことに、“似ている”と人には言われるのですけれど」
動揺を隠しながら、頭を下げ、ひたすら低姿勢を貫いて返答する。
ところが、
「おや、私のことを覚えていらっしゃいませんか。……確かに、10年以上前のことだ。あの時はあなた様もお小さかったですし」
試験監督はなおも、こんなことを言った。
(10年以上前?)
内心、疑問に思った私の頭の上に、
「私は、東京帝国大学に勤めていた青山です。今は、赤十字社病院の内科部長を拝命しておりますが」
試験監督は、衝撃的なセリフを浴びせた。
(なっ?!)
思い出した。東京帝国大学医科大学の元教授・青山胤通。もう11年も前のことになるけれど、その当時、国軍の医務部のトップだった石黒軍医中将と共に、東京専門学校で行われた脚気討論会で、“脚気は細菌感染で発生する”という立場から、森先生とベルツ先生と論戦を演じた人だ。論戦が自分に不利に展開していると悟るやいなや、公衆の面前でベルツ先生を罵倒するという卑劣な手段に打って出たので、私はブチ切れてしまって、完全に中二病な言葉を彼に投げつけたのだけれど……。
「……御高名な先生に初めてお目にかかれて、光栄に存じます」
私は湧き上がる感情を押し殺し、あくまで低姿勢を貫くことにした。偽名で試験を受けていることが発覚したら、大変なことになる。ここは、私が千種薫であると押し通すしかないのだ。
「なぜそんな水臭いことをおっしゃるのですか、増宮殿下」
青山の嬉しそうな声は、全く止まる気配がない。
「増宮殿下の筆記試験のご成績ならば、後期試験の合格も間違いございません。ああ、あの時、威厳あふれるあなた様に、直接お叱りを受けてから早11年。私はこの日を待ち望んでおりました。合格の暁には、是非小松宮殿下の跡を継がれて、我が赤十字社の総裁になっていただき、我々赤十字社一同に、厳しいご指導ご鞭撻を……」
「あ、あの、青山先生、私、先生が思っていらっしゃる方と絶対に違います」
他の試験監督たちは、青山を止めてくれないのだろうか。抗議したい気持ちを押し殺しながら、なぜか目を輝かせている青山に対して、私はあくまで低姿勢を装い続ける。
「確かに、増宮殿下は、畏れ多いことですが、私の腹違いの姉がご生母になりますので、私の姪ということになります。ですから、似ているとよく言われるのですけれど、私は華族で、皇族ではありません」
「そんなことはないでしょう、増宮殿下。隠されていても、その立ち上る気品、そして威厳……この青山の目は誤魔化されませんぞ。なにとぞ、なにとぞ、その威厳をもって、我々赤十字社に厳しい大号令をお下しあそばされ、日本赤十字社を、世界に冠たる医療組織に……」
青山は、意味不明なことを言いながら、なおも私に食い下がる。
そこに都合よく、
「あの、先生方」
と、試験の事務を務めている厚生省の職員が、廊下から室内に声を掛けた。
「大分進行が遅れているようなので、可能であれば次の受験生を……」
「あ、ああ」
青山以外の試験監督が頷いたと同時に、
「失礼いたしました」
私はもう一度試験監督たちに頭を下げ、さっと部屋から出て行く。
すると、
「あ、お待ちください、増宮殿下!」
背後で青山が席を立ち、私の背中を追って来た。
「だから、違います!」
私は廊下を必死に走り、建物の玄関へと向かった。
今の東京市内には、上野から南下して品川に向かう路線、そして、新宿から、赤坂御料地と皇居の南側を通って、日比谷まで伸びる路線、この2路線の路面電車が走っている。“史実”では、路面電車の敷設に当たって色々ごたごたがあったらしいけれど、“史実”の記憶を持っている伊藤さんが関係省庁と協力して、東京市内の路面電車の敷設と運営は、始めから東京市営に一本化された。路面電車は“市電”と呼ばれ、東京市民に親しまれている。
それはさておき、今回、青山御殿から永楽病院に通うのに、私は自転車ではなく、市電を移動手段として選んだ。2年前に前期試験を受けた時は、まだ新宿―日比谷間の路線が開業していなかったので、自転車で往復したのだけど、自転車を使っている受験生が私の他に数人しかおらず、とても目立ってしまったのだ。だから今回は、千夏さんと一緒に市電を乗り継いで、永楽病院に通うことにしたのだけれど……。
試験場のある建物の玄関を出た時、私を待っているはずの千夏さんの姿は無かった。たまたま、用を足しているところだったのかもしれない。何もなければ、彼女を待つ以外の選択肢はないのだけれど、後ろから、青山はなおも私を追ってきている。逃げるよりほかに、私には手段は残されていなかった。
市電が南北に通っている堀端の大通りに出る。すぐそばに皇居があるから、普段ならそこに逃げ込むのだけれど、もしそこに入る姿を青山に見られたら、“千種薫”の正体が増宮であることが完全にバレてしまう。そうしたら、偽名で受験したことを試験官の青山に咎められて、医術開業試験に合格できないかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。残念なことに、路面電車の姿も、流しの人力車の姿も路上になかったので、私は南に向かって全力で走った。
日比谷堀の角を右に曲がり、新宿に向かう市電の敷設された道路に出る。幸いなことに、後ろから私を呼ぶ青山の声は、だんだん小さくなっていた。電停に停まっている新宿行きの市電の車両は、まだ発車する気配はない。体力はかなり消耗していたけれど、私は更に青山と差をつけるべく、必死に足を動かした。
ところが、府立第一中学校の前あたりまで来た時、青山の声が大きくなったような気がした。
「増宮殿下―!我々に、厳しいご指導を、どうか!」
振り返ると、こちらに走って来る市電の車両に乗り込んだ青山が、窓から身を乗り出しながら、私に向かって手を振って叫んでいるのが見えた。
(うそっ!すぐに発車する感じじゃ無かったのに?!)
自分の判断ミスを思い切り呪いたかったけれど、そんなことをしていたら青山に追いつかれてしまう。私は角を左に曲がって、市電の通りから離れた。
貴族院がある角を右に曲がり、西に向かって走る。長い上り坂が、私の心肺能力に過大な負荷を掛け、体力を奪っていく。
(休みたい……)
永楽病院を出てから、10分ぐらいは走っていると思う。小さいころから、兄に鬼ごっこで鍛えられたので、前世より走るのは速いし、持久力も付いているけれど、聴診器や筆記用具などが入った帆布のカバンを背負っている上に、仕込み傘も持っているので、身軽に走ることが出来ないのだ。体力はだんだん、限界に近づいていた。
(どこかで、人力車が拾えればいいんだけど……)
「増宮殿下ーっ!お願いでございますー!」
青山が私を呼ぶ声は、なおも背後から小さく響いている。人力車を探しながら、西へ西へと走ると、霞が関の威仁親王殿下のお屋敷の正門が見えた。門番さんに開門を願い出てもいいけれど、門を開けてもらっている間に、青山に捕まってしまうかもしれない。
(門が閉まってる……これじゃ、入れないな……)
そう思った瞬間、威仁親王殿下のお屋敷の門が、外側に向かってゆっくりと開いていく。開いた門の内側には、3人の男性が立っている。そのうちの1人の顔に、見覚えがあった。
「栽仁殿下!」
小さく叫ぶと、学習院の制服を着た栽仁殿下が私を見て、目を丸くした。
「姉宮さま……?今日は開業試験ですよね?こんなところで会うなんて、どうなさったんですか?」
嬉しそうな顔をして、私の方に歩み寄って来る栽仁殿下に、
「ごめん、追われてるの、かくまって!」
私はこれだけ言って、栽仁殿下の返事も聞かずに、最後の力を振り絞り、お屋敷の門の中に走り込んだ。
※実際は、永楽病院の患者さん、入院費は無料、外来の場合、薬剤費以外は無料だったようです。(『医術開業試験附属永楽病院一覧』より)
※実際に起こった東京市内の路面電車敷設を巡るゴタゴタを描き切るのは、流石に無理だと思ったので、伊藤さんにチートさせちゃいました。なお、路面電車の路線や建物の位置については、「古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩」(人文社)を見ながら適当に設定しています。ご了承ください。




