極東危うし
※艦隊名ミスを訂正しました。(2020年12月10日)
1902(明治35)年1月11日午後2時半、皇居。
「以上が、ロンドンから送られてきた電報の内容です」
内閣総理大臣の伊藤さんは、手にした紙を下ろすと、会議室に集まった面々を見渡した。
今日は月に一度、私と兄も参加しての“梨花会”の日で、会議室にはお父様とお母様はもちろん、現在イギリスにいる山縣さんと陸奥さん以外の梨花会の面々が集まっていた。伊藤さんが今読み上げたのは、ロンドンの陸奥さんから発信された、日英同盟が締結されたことを知らせる電報だった。
「なるほど、ウィッテの失脚が、同盟締結を後押ししたわけだな」
お父様が上座から指摘すると、
「はい、そのため、世論工作をせずとも、イギリスでのロシア脅威論が盛り上がり、“史実”以上に順調な同盟締結となりました」
伊藤さんがお父様に一礼してこう答えた。
「めでたいはめでたいけれど……手放しで喜べることではないんですよね?」
私が口を開くと、「その通りです」と児玉さんが頷いた。
「ロシア国内の政情の変化により、ロシア軍の動向がどうなるか……それは日清両国の大きな問題になってきています」
「武官長」
兄が軽く右手を挙げた。「その前に、ウィッテの身に起こったことを、詳しく説明してくれないだろうか。断片は聞きかじっているが、一連の事柄がどのように発生したか……それが知りたい。もし、わたしが頭の中で組み立てた流れが、実際の出来事と違っていたならば、話を聞く上で、後々支障が生じることもあるだろうから」
(おおっ、兄上、ナイス!)
私は心の中で、兄に喝采を送った。実は、兄と同じく、ロシア情勢については、私も断片的な情報しか聞かされていないので、一連の出来事がどう発生したのか、整理する機会が欲しかったのだ。
「ごもっともなことでございます」
私の隣で、大山さんがそう言って一礼する。「梨花さまも待ちわびていらっしゃるようですので、俺から説明させていただきます」
大山さんが、微笑を含んだ視線でちらりと私を見る。どう頑張っても、大山さんから心を隠すのは難しい。私は軽くため息をつくと、鉛筆を持ってメモを取りながら、大山さんの説明を聞いた。
今までロシア国内の政治の実権を握っていたウィッテさんには、プレーヴェさんという政敵がいた。プレーヴェさんは数年前に実権を失い、オーストリア公使を務めていた。そして、昨年の春、ニコライ陛下自らがヨーロッパ方面への外遊に出て、オーストリアに立ち寄った際に、プレーヴェさんはオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世陛下との面会をセッティングしたり、狩猟や観劇・舞踏会参加の手配をしたり、いろいろと尽力した。それが評価されて、プレーヴェさんはニコライ陛下のお気に入りになり、彼は昨年の6月、本国に呼び戻されると、ニコライ陛下の側近くに仕えるようになった。
「……中央情報院でも、マリア皇太后陛下の側にいる手の者を使って、“プレーヴェは佞言を吐くから遠ざけよ”とマリア皇太后陛下からニコライ陛下に手紙を届けさせるなど、ニコライ陛下とプレーヴェの仲を裂くことは試みましたが、失敗に終わっています。その結果、先月、ニコライ陛下はウィッテどのの内務大臣と大蔵大臣の職を解き、大臣委員会議長に任命しました」
「ロシアには内閣制度がない。“大臣委員会議長”と言う響きだけ聞けば、出世したように思われるが、ウィッテは閑職に追いやられたわけだな、大山大将」
大山さんの説明を、兄が確認すると、「その通りでございます」と大山さんは兄に向かって一礼した。
「プレーヴェは積極的な対外政策を主張しています。ニコライ陛下の側で、“憲法を制定したとはいえ、清などしょせん山猿に過ぎない”と放言しているようです」
「ふざけた物言いね」
大山さんの言葉を聞いた私は、眉をしかめた。
「たくさんの人を理不尽に殺しておいて、何をほざいているのかしら。……私には、プレーヴェが悪魔そのものに見えるよ、大山さん」
ウィッテさんの失脚で生じたロシア国内での世情不安。プレーヴェさんはそれを収めるために、民衆の怒りの矛先を、ロシア国内にいるユダヤ人に向けるように仕向けている。原さんと斎藤さんによると、プレーヴェさんは“史実”でも反ユダヤ主義者だったそうだけれど、この時の流れでも、彼はユダヤ人の迫害を行っていた。ロシア国内には、約500万人のユダヤ人が暮らしているけれど、プレーヴェさんは彼らを些細な罪をでっち上げて逮捕し、シベリアに流刑にしたり、挙句の果てに死刑にしたりしているらしい。
「ウィッテどのの盟友のラムスドルフ外務大臣は、まだ政治的な影響力を保ってはおります。しかし、その影響力は限定的なもの。ロシア国内では、“朝鮮に攻め込んで植民地を増やせ”という論が広がってしまっています」
大山さんが報告を終えて一礼すると、
「なるほど。……この状況で、黒海艦隊司令官のアレクセーエフが、太平洋艦隊の司令官になってしまったら最悪だな。あの者は、好戦的だと聞く」
兄が両腕を組んで唸った。
「それと、あと考えなきゃいけないのは、義和君がどこにいるか、か……」
私はそう言って、軽いため息をついた。昨年6月、ナイアガラの滝を遊覧中に行方不明になった、今の朝鮮国王の異母弟・義和君。遺体は見つからないけれど、アメリカ・カナダ両国の警察による捜索も打ち切られ、現在では公式には“死亡した”という扱いになっている。ただ、朝鮮に攻め入る口実を見つけたいロシアに身柄を押さえられてしまった疑惑は消えず、中央情報院が行方を密かに追っているのだけれど……。
すると、
「ヨーロッパのロシア公使館のいずれかで、義和君が軟禁されている疑惑があります」
私の横で、我が臣下が言った。
「?!」
恐らく、つい最近入って来た知らせだったのだろう。列席した一同の表情が、一様にひきつった。
「最悪やねぇ……」
三条さんが呟いた。
「ええ。これで、義和君が、“現在の国王は正当な国王ではない。真の朝鮮国王たるべきものは自分だ”と言いながら活動を始め、それにロシアが介入する形を取ってしまえば……」
黒田さんも暗い表情になった。
単に、ロシアが朝鮮に攻め込むという話になれば、これはどう見ても、ロシアによる侵略戦争である。国際社会の言論も操りやすくなり、国際社会の批判をロシアにいくらでも浴びせることが出来るし、日本も“侵略戦争を止める”という大義名分の下で、清と共にロシアと戦うことができる。この場合、現在の日本の戦力と清の戦力を合わせれば、ロシアの極東地域に配備されている戦力以上になるから、戦って勝ち目は十分にある。
ところが、朝鮮の王位請求者が出現して、それをロシアが密かに支援する、という形になってしまうと、表向きは朝鮮国王の座を巡る争いという、朝鮮国内の問題になってしまう。その場合、日本が積極的に清に協力して戦うことが難しくなり、朝鮮を実質的に保護国にしている清が、単独でロシアと戦わざるを得なくなる。もちろん、日本と清の間には秘密同盟があるから、無理やり日本と清の連合を組んでロシアと戦うという構図にすることもできるけれど、日本がロシアとの戦いに臨む大義名分としては弱くなってしまい、日本の国民の協力を得られにくくなるだろう。
「どういう形になるかは分かりません。しかし、戦争に向けて、準備はしておかなければなりません」
国軍大臣の山本さんが力強く言った。
「って言っても、山本さん、いくら準備をしないといけないと言っても、“史実”の八甲田山の行軍みたいな無謀な訓練はやめてくださいよ」
私は山本さんを軽く睨み付けた。八甲田山雪中行軍遭難事件……“史実”で今年1月下旬に発生した、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。厳寒の地で行われるであろうロシア軍との戦いに備えて行われた雪中訓練で、情報不足や装備の貧弱さなどの悪条件が重なり、訓練の参加者200名余りのうち、9割以上が亡くなるという惨事になってしまった。
「斎藤さんにも聞きましたけど、あの事故、参加者の準備が全然万全じゃないし、日程にも余裕がなさすぎる。案内人もいないだなんてありえない。雪山はなめてかかったらダメだ!……って、前世の父に言われました」
ちなみに、斎藤さんだけではなくて、前世の父にも、見た映画の解説を延々とされている中、八甲田山の雪中行軍遭難事件について少しだけ聞かされた。その映画が、断崖絶壁だらけの雪山で、マッチョな山岳救助隊員が強盗団とバトルを繰り広げるというものだったのが、アクション映画好きだった前世の父らしいけれど。
「もちろん、そのような無謀な準備や訓練はさせません、増宮殿下」
末席の方で、斎藤さんが一礼する。「“史実”の日露戦争や、それ以上の総力戦になってしまった日中戦争・太平洋戦争……その轍は踏まぬよう、中央情報院とも連携して準備を進めます」
「頼むぞ、斎藤」
お父様の声に、斎藤さんは最敬礼した。
「清の陸軍の常備兵力が50万人、我が軍の常備陸戦兵力が22万人。一方ロシアの陸軍兵力は、極東地域に約50万人か。ただ、プレーヴェも兵力の増強に走るだろう」
兄が独り言のように呟くと、
「その通りでございます」
国軍次官の桂さんが、大仰に頭を下げる。
「付け込むとしたらそこかな?兵力増強の妨害……って言っても、変に労働者階級を組織しちゃうと、共産思想がはびこりかねないから、その影響を見極めながら慎重にやらないといけないよね」
私が兄に言うと、
「ただ、シベリア鉄道の遅延工作は順調です。兵力が増強されても、ある程度、時は稼げるでしょう」
大蔵大臣の松方さんが重々しく付け加えた。
「そうか、兵士が増えても、戦場まで兵士や物資を運べなければ意味がないですもんね」
私は頷いた。“史実”では1904(明治37)年に完成したシベリア鉄道は、フランスの財界を介した梨花会の工作により工事が遅延しており、全線完成は1909(明治42)年の見込みだ。ヨーロッパ方面に約50万人の常備軍があるロシアの兵力は、シベリア鉄道が全線開通しなければ、簡単には極東に投入できない。物資の輸送も滞るだろう。
「フランスの財界は押さえてありますが、油断は禁物。いっそう連絡を密にして妨害工作に努めます」
大蔵次官の高橋さんが、つぶらな瞳に決意を漲らせながら頷いた。
「ウラジオストックの太平洋艦隊は、戦艦3隻、巡洋艦が5隻程度。一方、我が軍は戦艦6隻・巡洋艦は20隻ほどですが……」
「そこも、差を埋められてしまう可能性は高いねぇ」
三条さんが山本さんにのんびりと言いながら、眉をしかめる。「ウィッテどのが内政に力を入れていたおかげで、ロシアの艦隊整備計画は“史実”より2年ほど遅れてたけど、ウィッテどのがいなくなれば、その遅れを取り戻されてしまう……あかんなぁ」
「実際には、製造能力の問題がありますから、あと2年で“史実”のロシア太平洋艦隊と同じ、合計で戦艦7隻、巡洋艦15隻前後の規模の艦隊が出来上がるかは分かりませんが、戦艦・巡洋艦ともに数が増えてしまえば、我が方には痛手です。清の海軍と連携できれば、互角以上の戦いはできましょうが」
顔を曇らせて、ため息をついた山本さんに、
「山本君」
会議室の一角から、重々しく声が掛かった。松方さんだ。
「チリとアルゼンチンの未完成の軍艦については、放出されたら買い取りたまえ。金は何とかする」
「!」
山本さんが一瞬目を見張り、松方さんに深々と頭を下げた。
(そう言えば、青山御殿に引っ越したばかりの頃に、大山さんに言われたなぁ……)
南米大陸の最南端・パタゴニア地域の領有をめぐって、長年の間緊張状態にあるチリとアルゼンチンは、両国ともに海軍力を増強している。これは“史実”でも同じで、両国は軍艦を競うように建造していた。ただし、チリから硝酸塩を、アルゼンチンから穀物を輸入し、その両国に自国製の商品を売りつけているイギリスにとっては、この争いは余り好ましくないものだ。そこで、“史実”では、今年5月にイギリスが両国に介入して協定を結ばせ、建艦競争をストップさせていた。それに従って、売りに出されたアルゼンチンの建造中の軍艦を、日本は2隻購入して海軍力の増強に充てたのだけれど……。
「ほう、“史実”と同じ展開になりそうなのですね?」
威仁親王殿下の質問に、
「はい。“チリとアルゼンチンの間の建艦競争を止めさせ、建造中の軍艦を両国から売りに出させるから、清はチリの、日本はアルゼンチンの軍艦を購入しないか”という申し出がイギリスからあったと、陸奥君が併せて報告して参りました」
伊藤さんは答えると、恭しく一礼した。
「アルゼンチンとチリの未完成の軍艦が我が方の手に入れば、日清両国にとって喜ばしい。だが……慎重すぎる見方かもしれないが、イギリスやチリ、アルゼンチンにも、ロシアの工作の手が及ぶかもしれない」
兄が言った。眉根に皺を寄せているところを見ると、今まで得た情報を元にして、頭をフル回転させているのだろう。
「チリとアルゼンチンとの間で協定が成立しても、協定に未完成の軍艦を売却するという条件が含まれない可能性もある。そのあたりは、きっちりと盛り込ませることが肝要……油断は禁物か」
「その通りでございます、皇太子殿下」
大山さんが目を細め、嬉しそうに頷いてから兄に一礼する。まるで、生徒の成長を喜んでいる教師のようだな、と私は思った。実際、私も兄も、大山さんには昔から、散々鍛えられているのだけれど。
「戦争が起こらぬことが一番ではあるが……戦わねばならぬ時は、やむを得ない」
お父様が上座で、絞り出すように呟いた。大山さんも兄も、もちろん私も含めた他の面々も、一斉に姿勢を正して上座を向いた。
「戦争の準備も、平和的に朝鮮問題を解決する方法も、両方しっかりと模索せよ。よいな」
お父様の言葉に、私たちはいっせいに深く頭を下げたのだった。
※清、日本、ロシア極東の陸戦兵力は勝手に設定しています。ご了承ください。




