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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第28章 1901(明治34)年立夏~1901(明治34)年大雪
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閑話 1901(明治34)年大雪:別館にて

 1901(明治34)年12月10日火曜日、午後5時。

 今上の第4皇女・増宮章子内親王が住まう赤坂御料地内の青山御殿。その本館の隣には、2階建ての洋館が建っている。公には、青山御殿の職員が詰める“別館”という扱いになっているが、その実は、非公式の諜報機関である中央情報院の本部である。ここは、限られた人間しか出入りすることが出来ない、国家の中枢機関の一つだった。

 その中にある会議室に、4人の人間が顔を揃えている。

 国軍内で急速に頭角を現し、“国軍の麒麟児”の異名を持つ参謀本部長・斎藤実。

 前内閣から厚生大臣を務める、立憲自由党所属の衆議院議員・原敬。

 前枢密院議長であり、現在2期目の内閣総理大臣を務めている伊藤博文。

 そして、この中央情報院総裁であり、青山御殿の別当と増宮内親王の輔導主任も兼務している大山巌。

 大山以外の3人は、別の時の流れ……“史実”で生きた記憶を持っている。そして、大山が仕える増宮章子内親王も、約120年後の“史実”で医者として生きていた、という前世の記憶を持っており、彼女は自身が信頼する別当の大山に、その内容を詳しく伝えていた。

「増宮さまが、また運命を変えられたか……」

 煌々と輝く電灯の下で、伊藤総理が口を開いた。

「範子妃殿下……“史実”では、胎盤離脱困難を起こした後、産褥熱に罹られてお亡くなりになったが……」

「治療陣に、今の日本で考えられ得る最高の布陣を敷いたのが、効いたのでしょうな」

 伊藤総理に答える斎藤参謀本部長に、

「それだけではありませんよ、斎藤さん」

大山中央情報院総裁が言った。「医学の進歩もさることながら、梨花さまが、担当した医師たちに、“治療の責任は、全て直宮の私が持つ”と請け負い、医師たちの背中を押したこと……最終的には、それが決め手になったのでしょう」

 すると、

「ほら、主治医どのに範子妃殿下のことを告げなくて正解だったでしょう、伊藤さん」

原厚生相が苦笑した。普段、忠実に総理大臣の伊藤に仕える彼だが、今は素を現し、上司に対しても、ややぞんざいな口調でしゃべっていた。

「三条公に山田どの、陸奥先生に黒田どの……。勝内府も、主治医どのが血圧管理をしたおかげか、“史実”より2年余り寿命が延びた。主治医どのに“史実”での寿命を伝えるのは、無意味なことですよ。どうせ、主治医どのの医学で、寿命が延びてしまうのだから」

「しかし、その医学も万能ではないと、梨花さま自身が仰せになっておられます」

 原厚生相の言葉に、大山総裁が注釈を加えた。「例えば、細菌による肺炎に罹っていた場合、その細菌にペニシリンが効かなければ、肺炎の劇的な治癒は望めない。英照皇太后陛下がそうでしたな」

「確かにそうだった。ご発病からご崩御までは、“史実”とほぼ同じ経過だった」

 伊藤総理が少し眉をしかめた。

「そして、抗生物質……ペニシリンのように、微生物の発育を阻害する物質のことだそうですが、それも、ペニシリンだけでは不十分。正しい投与の仕方を医者たちに叩き込んでも、将来抗生物質が効かなくなる微生物が出現するので、それに打ち勝つため、数多くの種類の抗生物質を揃えなければならない。そしてその抗生物質が効かない生物がまた出現し、それに打ち勝つ抗生物質をまた探し出し……という繰り返しが、未来永劫続いていく。梨花さまはそうおっしゃっておられました」

「薬剤の値段についても、おっしゃっておられましたね」

 斎藤参謀本部長が言う。「ペニシリンの大量生産の技術は確立された。それを応用して、シズオカマイシンやリファンピシンの大量生産も試みられている。それでも、薬剤の市中での値段はまだまだ高い、と」

「9月のことでしたか、実習で診た肺炎の患者が、薬剤費が払えなかった、と。そのため、十分な投薬ができず、亡くなってしまったとおっしゃって、梨花さまはふさぎ込んでおられました。国民に医療を行き届かせるにはどうしたらよいか、そのための制度をどう構築すればよいか、梨花さまは色々とお悩みのようです」

 大山総裁の言葉に、

「なるほど、それで(とおる)のことを細かく聞いていたのか」

と原厚生相は深く頷いた。

「達どのというと……」

「ああ、わたしの甥です、大山閣下。“史実”では、結核で死んでしまったのだが、この時の流れでは治療が出来るので、半年ほど前から、帝大病院で薬剤を投与してもらっているのですよ。しかし、治療費が馬鹿にならなくて……ひと月に5、60円はかかるのです。陸奥先生が結核の治療を受けられた時よりは安くなっていますが、高級官吏の初任給以上の値段だ。先日、そのことを、細かく主治医どのに聞かれました」

「確かにそうでしたね。原どのが請求された額を聞いて、梨花さまが目を丸くしておられた」

 大山総裁がそう答えると、

「国民に医療を行き届かせる制度、か……。主治医どのの目は、達のことを通じて、そちらに向けられるのですな」

原厚生相は答えて、苦笑いを顔に浮かべた。「そして、わたしと先生との討論を通じて、政治・行政のことを学び、政治家としての素養を次第に身につけていく……。変わった小娘だ。本当に変わった小娘だ!」

「“小娘”という呼び方には納得できないがね、原君。不思議なお方なのは確かだよ」

 伊藤総理はこう言うと、口元を緩めた。その視線は、遠くに投げられている。もしかすると、今話題に上っている美しい内親王の姿を、思い浮かべているのかもしれない。

「御身に秘めた医学の知識を含めて、他国には絶対に渡せぬ存在だよ、増宮さまは。しかも、ご聡明でお美しく……黙って立っておられれば、我が国が世界に誇るプリンセスなのは間違いない。皇族が身につけておくべき伝統的な教養については、不安な点は残るがな」

「すべて完璧であることを求めても、よろしくないのかもしれません。人ひとりが出来ることには、限りがありますから」

 大山総裁が、伊藤総理に向かって微笑む。

「とはおっしゃるが、大山閣下も、増宮殿下に大きな期待をかけていらっしゃる」

 斎藤参謀本部長が苦笑すると、

(おい)のご主君でございますから、ついつい、鍛えたくなってしまうのですよ」

大山総裁は目を細めて答えた。

「おや、範子妃殿下の手術の際に、主治医どのが“供血者になりたい”と言ったのを押しとどめたのは、どなたでしたかな?主治医どのと範子妃殿下の血液型が、結局は違っていたからよかったものの、もし適合していたら……」

 原厚生相が指摘すると、

「さて、何のことやら。(おい)は、検査に必要な人員が欠けてしまうのを防いだだけ。梨花さまの御身に傷を付けたくないとは、露ほども思っておりませんでしたが?」

大山総裁はそう言って、原厚生相から目を逸らす。

 と、

「ただ……唯一心配なのは、思し召しのことだが……」

いつもは陽気な伊藤総理の顔色が、少しだけ暗くなった。

「伊藤さん、あのことを、陛下に申し上げたのですか?」

 原厚生相が尋ねると、

「一応な」

伊藤総理は頷いた。「ただ、“その時に起こるとは限らぬし、もし起こったとしても、章子なら何とかするであろう”と仰せになっただけで……。心配される様子が見えなかった」

「確かに、“史実”と同じことが、この時の流れで繰り返されるとは限りませんが……万が一、“史実”通りに起こってしまった時のことも考えると、増宮殿下には、陛下の思し召しのことも含めて、このことは絶対に伝えてはなりませんな」

 斎藤参謀本部長が、緊張の面持ちで伊藤総理に進言する。

「もちろん。もし、事が破れれば、梨花さまはまた、心に深い痛手を負うことになってしまいます」

 そう言った大山総裁の表情にも、沈痛の色が漂っていた。

「確かに、あの時のようなことが、また起こってしまえば……」

 伊藤総理が更に言葉を続けようとしたその時、会議室の扉がノックされた。斎藤参謀本部長・原厚生相・伊藤総理が不審げに扉を見やる中、大山総裁は立ち上がり、扉を薄く開けた。

「どうしましたか」

 扉の向こうに静かに立っていたのは、中央情報院の幹部の1人である明石元二郎だった。

「密談中なのは存じておりましたが、知らせておく方がよろしいかと思いまして……」

 そう前置きすると、明石は大山総裁の耳に、ある情報を囁く。見る間に、大山総裁の表情に、緊張が走った。

「明石君、このまま部屋に入りなさい」

 大山総裁は小声で告げると、明石の身体を押し込むように会議室内に入れる。

「明石君。(おい)に言ったことを、もう一度この面々に、ありのまま告げてください」

「かしこまりました」

 会議室内の一同に向かい、明石は深々と頭を下げると、口を開いた。

 そして、

「ロシアで……ウィッテどのが失脚しました」

……その言葉が耳に届いた瞬間、伊藤総理も、原厚生相も、斎藤参謀本部長も、表情を強張らせたのだった。

※原さんの甥・原達さんは俳号を「抱琴」といい、俳人として知られています。この頃から正岡子規の門で句作をしていたようです。実際にも、この年に入院しています。没年は1912(明治45)年ですが、この世界線では寿命が大分延びそうです。

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[一言] >ウィッテ失脚。 この時間線でも、日露戦争は回避出来ないのか?
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