ドクトル・ベルツ
「ええと……これは、一体……」
有栖川宮威仁親王殿下は、明らかに、場の状況を把握できていないようだった。
多分、皇太子殿下のお見舞いに来てくれたのだろうけれど……。
(高官がわらわらいるし、侍医じゃないベルツ先生もいるし、おまけに、見舞おうした皇太子殿下は、妹と一緒に、元気に顕微鏡を覗いているし……混乱するなと言うのが、無理ゲ―だよね……)
ここで素早く動いたのは、伊藤さんだった。
「三浦どの、威仁親王殿下にご説明を頼む。わしらは、これで失礼する。さ、増宮さま、参りましょう」
伊藤さんは、言うが早いか、私の側に素早く寄り、手を掴んで無理やり立たせ、
「さ、参りますぞ」
お姫様抱っこで私を抱え上げ、皇太子殿下の部屋から出ていく。
「ちょ、ちょっと!」
抗議する私を、イケメン宮さまが、呆然と見送っている。
(なんてこった……)
私は、伊藤さんにお姫様抱っこされながら、激しいショックを受けていた。
女子が一度はあこがれるという、お姫様抱っこ。
前世では、こんなことをされたことはない。もちろん、今生でも初めてだ。
けれど……その“初お姫様抱っこ”をされた相手が、よりによって、いい年をした、女好きの輔導主任だなんて……。
(こんなことを……、こんなことをされるなら、相手は威仁親王殿下が良かった!)
「俊輔、俺に代われ!増宮さまが、辛そうにしていらっしゃるではないか!」
私の表情を見て取ったのだろう、山縣さんが伊藤さんにつかみかかろうとする。
「山縣さん、そういうことじゃないの!もうっ……」
何か勘違いしている山縣さんにも抗議していると、
「はいはい、狂介や黒田さんや大山さんに殴られたくないので、ここらで下ろします」
廊下を少し歩いたところで、伊藤さんが立ち止まり、私を慎重に床に下ろした。
そして、
「増宮さま……威仁親王殿下に、一目惚れなさいましたな?」
と言った。
私は、答えることができなかった。
(こ、この輔導主任……勘が鋭すぎる……!)
「な、なに?!」
「そ、そんな馬鹿な……」
伊藤さんについてきた、山縣さん、黒田さん、大山さんが、顔色を変えた。
「あの……増宮さま、痛手が大きくならぬうちに、言っておきますが……」
伊藤さんが、私の目をじっと見て、噛んで含めるように話し始めた。
「威仁親王殿下は、増宮さまより、確か20は年上で、妃殿下がいらっしゃいます」
(あ……)
「妃殿下との間に、お子様が一人いらっしゃって……更に、妃殿下は今、ご懐妊中です」
(私より20歳上、しかも既婚者で子持ち……)
「伊藤さん、初恋を3分で壊さないでください……」
私は、深いため息をついた。
……だめだ、例え今生で初めての恋とは言え、不倫はよくない、不倫は。
「ああ……私がもっと大きかったら……、威仁殿下と結婚とか、できたのかなあ……」
私が呟くと、
「いや、増宮さまはこのままでよいのです。その愛らしく、美しい姿を、我々にずっと見せていただければ……」
伊藤さんが、大真面目に答えた。
「ええ、増宮さまが結婚されるなどと想像すると、この山縣、胸が張り裂けそうです……」
山縣さんは、今にも泣きそうになっている。
「増宮さま、未来の医術には、不老不死の術はないのですか?もしあれば、今の御身に使っていただければ、我々は、ずっと、美しく可愛らしい増宮さまを……」
「よい考えかもしれません……」
黒田さんのセリフに、なぜか大山さんが賛同する。
(このロリコンどもめ……)
私は頭が痛くなった。
と、
「あの、伊藤さま」
高官たちの後ろから、女性の声がした。ベルツ先生の、御付きの女性だ。
「おお、花どの。ベルツ先生には、避暑中のところ、申し訳ありませんでしたな」
伊藤さんが振り向いて、女性に頭を下げた。
「伊藤さん、この女の方とは、お知り合いですか?」
「ええ、ベルツ先生の奥さまです」
「ベルツ花と申します、内親王殿下。以後お見知りおきを」
束髪の女性は、私にあいさつした。
「……章子と申します」
私も、ベルツ先生の奥さまに、礼を返した。
(ベルツ先生の奥さんか……この明治って、国際結婚ってやってOKなのかな?)
全くわからないけれど、あってもおかしくはない話ではある。
いつの間にか、ベルツ先生も、花さんの隣に立っていた。
「あの、伊藤さま、主人が、内親王殿下とお話ししたいと申しているのですが……」
すると、大山さんの表情が硬くなった。
「……それならば、俺が代わりに聞きます。増宮さまは、お疲れでしょうから、お部屋に御戻りを」
「ちょっと待って、大山さま!どうして?」
私は大山さんに抗議した。「私、ベルツ先生に、往診に来ていただいたお礼を言わないと!」
「増宮さま、ベルツ先生はドイツの方ですよ。ドイツ語は、増宮さまはお話になれないでしょう?」
平生の表情に戻った大山さんは、私に優しく言った。
「あ、そうね……」
確かに、大山さんの言う通りだ。誰かに通訳をしてもらわないと、ベルツ先生と話すことはできない。
「じゃあ、部屋に戻ろうかしら……」
私がそう言った瞬間、
「日本語は、大丈夫ですがね……」
大山さんでも、伊藤さんでも、山縣さんでも黒田さんでもない、男性の言葉が響いた。
……ベルツ先生だった。
「?!」
私は、思わず目を見開いた。
「え、だって……さっき、三浦先生には、ドイツ語で……」
「三浦君には、いずれ、ドイツに留学して、医学を更に研究してもらいたいのです。彼は、今の医学を更に発展させる力を持った人材ですから。留学の時に、言葉の違いで困るようなことがあってはならないと思って、彼の練習になるように、彼とはドイツ語で話すことにしているのです」
「は、はあ……」
私は、ベルツ先生の流暢な日本語と、その内容に気圧されていた。確かに、理にかなっている。
「なるほど、先生とは、普段日本語で喋っておりますから、先ほどから、どうもおかしいと思っていましたが、そういう理由でしたか」
伊藤さんが、ニコニコしながら頷いている。
「だったら、お礼が直接言えますね」
「増宮さま、なりません!」
大山さんが私に鋭く叫んだ。
「弥助どん、先ほどからどうしたのだ……」
黒田さんが不思議そうな顔をする。
「増宮さまが、お礼をおっしゃりたいというのは、至極当然のことだと思うが……」
「そういう問題ではないのです、了介どん」
「大山さん、まるで、ベルツ先生から、増宮さまを遠ざけようとしているように思えるが……」
山縣さんが尋ねたけれど、大山さんは、「それは……」と言葉を濁した。
「なるほど……」
私たちの様子をじっと見ていたベルツ先生は、一人頷いて、傍らの花夫人に、「ちょっと込み入った話をするので、外してください」と命じた。
花さんが廊下の角を曲がって、姿を消したのを確認すると、
「私も、うっかりしていたようです」
と、ベルツ先生は言った。
「あまりにも信じられないことばかり起こるので、大山閣下がドイツ語を解されることを、失念しておりました」
「はい?」
(大山さんって、ドイツ語がわかるの?)
私は大山さんを見上げた。唇を結んだまま、彼はベルツ先生を睨んでいる。
「大山さん?一体どういうことなのだ?ベルツ先生が、一体何をおっしゃったというのだ?」
伊藤さんの質問に答えたのは、大山さんではなく、ベルツ先生だった。
「私はこう言ったのですよ。“この美しくも愛らしい、天使のような幼い内親王殿下が、どこで医術を修行したのだ”と……」
私たちに、緊張が走った。
「それならば、俺が答えます、ベルツ先生」
大山さんが言った。
「先ほど、増宮さまがおっしゃられた通り、増宮さまは、皇居の書庫にある医学の本を、お読みになられております。ですから、医学の知識も多少おありです」
(え、ええと……)
私は、内心、冷や汗をかいていた。確かに、爺の家にいるときは、医学の本も読んでいたのだけれど……。こんな嘘、ついて大丈夫かな?
けれど、大山さんはとても堂々としていて、嘘をついているとは一目思えなかった。
「天皇陛下の所、ですか……」
腕組みをしたベルツ先生は、「それはおかしいですね」と言った。
「失礼ながら、天皇陛下は、医者を苦手としていらっしゃる。時々、私の本国にもそういう人はいらっしゃいますが……そのような方の所に、西洋医学の書籍があるとは、到底思えないのです」
(ちょっと待てよ……)
確かに、天皇は、「医者は苦手」と言っていたけれど、他の人にも話が伝わるレベルで苦手だとは思っていなかった。まあ、今の問題はそこではなくて、ベルツ先生が、私の医学知識の源泉が、どこにあるかを疑っているらしい、ということなのだけれど……。
「しかし、時々、そう言ったものを、献上される方がいらっしゃると聞いています。増宮さまがお読みになるのも、おそらくそのような本かと……」
横から、黒田さんが言った。素晴らしい援護射撃だ。
「まあ、そういうことにしておきます」
ベルツ先生は不承不承、頷いた。
「では、殿下にお伺いしますが、間欠熱……マラリアが、蚊で媒介されるということも、その本で読まれたのですか?」
「先生、俺が答えると、先ほど……」
「私は殿下に、医学的な事項をお伺いしている!いくら閣下とは言え、医学のことまではご存じあるまい!」
ベルツ先生がぴしゃりと言った。大山さんが一瞬たじろぐ。
「……そうです」
私は肯定した。
「ほう……どの種類の蚊で媒介されるかは、ご存知ですか?」
ベルツ先生が、更に私に聞いた。
「確か……ハマダラカ、という種類のものだったかと……うろ覚えですが……」
「そうですか……」
ベルツ先生の目が、すうっと細くなった。
「殿下……貴女さまは一体、何者なのですか?」
「え?」
「マラリアは、確かに何らかのバクテリア、ないし細菌により、発生しているだろうということは確実です。フランスのラベランという者が、今から10年前に、マラリア患者の血液の中に、病原生物が認められることを見つけています。ですが、その病原生物がどこからやってくるのか、証明した研究は未だありません。確かに、蚊が媒介する、という説はありますが、まだ仮説の段階です」
高官たちの表情が、一様に強張った。
(マラリアの媒介経路……この時代、まだ証明されてなかったのか……)
私は目をつぶった。相手は、帝国大学の元教授だから、その知識は、この時代として最新のものに違いない。もう誤魔化しは、効かないだろう。
「我々が手指の消毒に用いるフェノールで、皮膚炎が生じることもご存知でした。指頭血採血の手際も、三浦君が介助したとはいえ、明らかに良かった。それに、顕微鏡の使い方もご存知でしたね。三浦君は、操作方法を教えていないのに、貴女さまは、ご自身でレンズのピントを合わせていらした。確か貴女さまは、昨年小学校に入学したばかりと聞いています。さすがにそのご年齢で、学校で顕微鏡を扱う機会があるとは思えません」
ベルツ先生は、一つ一つ根拠を挙げ、私と高官たちに突き付けていく。
「ただ、不思議なのは、一人前の医者と思えるような言動をお取りになりながらも、マラリアが日本で発生することをご存じなかったり、値の張る注射針を、消毒に回さずに“廃棄する”とおっしゃったり……。殿下、本当に、貴女さまは、一体何者なのですか?」
(ここまで、かな……)
「ベルツ先生」
私は目を開いた。
「増宮さま!」
大山さんが首を横に振った。何も喋るな、そう言いたいのだろう。
「大山さん……もう無理です。これ以上の言い訳は、ベルツ先生には効かないでしょう」
「しかし、増宮さま……これ以上、お話になるならば、皆の了承を取らねば……」
山縣さんが、厳しい声で言う。
「はい、山縣さん、分かっています。……私のミス、いえ、落ち度で起こったことですから、東京に帰ってから、陛下や皆を説得します。けれど、山縣さん……私、ベルツ先生を、仲間に入れたいのです」
高官たちが、息を飲んだ。
「ベルツ先生……私は、ベルツ先生に、すべてをお話ししたいのですが、それには勅許が必要です」
私は、ベルツ先生に向き直った。
「勅許……?」
予想もしない単語だったのだろう。ベルツ先生が、目を丸くした。
「はい。……私、頑張って陛下を説得します。それまでどうか、待っていてください。お願いです」
私は頭を深々と下げた。
「え……は、はあ……」
ベルツ先生は、明らかに混乱していた。
「それで、勅許が下りたら……私を、先生の弟子にしてほしいのです」
「え……?」
伊藤さんも山縣さんも黒田さんも、口をぽかん、と開けた。
「増宮さま?なぜ、ベルツ先生に弟子入りを……」
「……経験が少なすぎるからです」
大山さんに、私はこう答えた。
「だって、私、医者として働いていたのは、たったの3か月ですよ?確かに、医学の知識は、私の方が、向こうよりもあるかもしれませんが、臨床経験は、あちらの方がはるかに上です」
「増宮さま、それは、増宮さまが、医師におなりになるように聞こえますが……」
「なりますよ、黒田さん」
「?!」
その場にいる大人全員が、驚愕に顔を歪めた。
「私の身体が大人になったら、私は医者になります」
「増宮さま……、確か、本当は医者になりたくなかった、歴史の教師になりたかったと……」
「そうね、伊藤さん。……けれど、今は違う。このしきたりだらけの状況で、陛下と、皇太子殿下が病気になったら、……私しか、助けられる人間がいない。いずれ、非合理的なしきたりは壊さないといけない。けれど、今の時点で、侵襲的な検査や治療を、陛下と殿下に直接できるのは、この私しか……何の因果か、皇族に生まれついた私しかいないんだ」
「確かに……」
山縣さんが呟いた。
「私、陛下と殿下を、医者として助けたい。助ける手段を知っているのに、助けられないなんて、そんなの、私は嫌だ!……お願い、伊藤さん、山縣さん、黒田さん、大山さん……ベルツ先生を、“梨花会”に入れてあげて!」
私は、高官たちに、これ以上ないくらい、深く頭を下げた。