赤坂御料地行幸啓(2)
7月7日日曜日正午、花御殿。
皇居から直接花御殿に向かったお母様、普段は私や兄と離れて暮らしている弟や妹たちも集まり、食堂で昼食会が開かれた。産褥が終わり、完全に体調が回復した節子さまも出席している。お父様が国軍の大演習で行幸している時に、お母様と、小学生以上の残りの家族で食事会をすることはしょっちゅうあるけれど、そこにお父様も加わるのは初めてだ。
「迪宮さまに会うのが楽しみですね」
「はい、昌子お姉さま」
私の隣で頷き合っているのは、妹の昌子さまと房子さまだ。この9月で、昌子さまは華族女学校の初等中等科に進学し、房子さまは高等小学科の第1級、……私の時代風に言うと、小学6年生になる。2人とも気立てが優しく、輔導主任の佐々木伯爵夫妻の指導の甲斐もあってか、お料理もお裁縫も上手だ。2人とも、和歌を私よりスラスラと詠めるのが、ちょっとうらやましい。
「私、迪宮さまをスケッチしてみたいです」
節子さまに話しかけているのは、房子さまの1学年下の妹の允子さまだ。彼女は芸術系の科目が得意なようで、彼女の住んでいる麻布の林子爵の家に遊びに行くと、描いた絵をよく見せてくれる。
「それなら私は、迪宮さまの写真を撮ってもいいでしょうか?」
昌子さまがニッコリ笑って手を挙げる。房子さまも「私も!」と元気よく手を挙げた。そう言えば、この2人は、写真撮影も共通の趣味としていた。もし彼女たちを私の生きていた時代に連れて行ったら、スマホのカメラで色々なものを撮影しまくるだろう。
と、
「どうした、輝仁。窮屈そうだな、お前」
兄が允子さまの隣に座っている輝仁さまに声を掛けた。彼はこの中にいる兄妹の中では一番年下で、去年の9月に学習院初等科に上がったばかりだ。
「外に出て遊びたいよ」
学習院の制服を着た輝仁さまは、つまらなそうにこう言った。勉強は余り得意ではないようだけれど、輝仁さまは身体を動かすのは大好きで、学習院の教職員たちには、“増宮殿下を彷彿とさせるご活発ぶり”と評されているらしい。
「元気なのは大変よい」
お父様は微笑しながら言った。小さいころ、私の教育方針を、“体力七分、教養二分、学問一分”と定めたように、お父様は元気な子が大好きで、
――学問ができなくても、元気であればいいではないか。
と、迪宮さまの輔導主任を決める時にも言っていた。
一方、
「お上、そればかりでもいけませんよ、満宮さんのためには」
お母様は、かなり教育熱心だ。勉学の成績が良いせいか、私はお母様に勉学のことは余り言われないけれど、その代わり、お母様は、折に触れて、書道の清書用の紙や短冊を私に贈ってくれるのだ。これは、“勉学もよいですが、教養を磨くことも忘れないでくださいね”というお母様のメッセージで、使わずに放っておくと、
――今日、参内いたしましたら、皇后陛下に、“先日贈ったお清書の紙を、増宮さんは使ったのかしら”と聞かれてしまいました。
と、母が必ず私に報告する。そのたびに、慌てて筆を執り、大山さんや山縣さんとも相談しながら、お母様への提出物を仕上げるのだ。そんなお母様だから、学業の成績が振るわない輝仁さまのことが、とても心配なのだろう。
「まぁまぁ、よいではないか」
お父様が鷹揚にお母様をなだめる。それでいったんはお母様は矛を収め、一家の団欒が滞りなく続いていった。
昼食会が終わると、私たちは迪宮さまのいる和室に移動した。迪宮さまは起きていて、大勢の家族の面会にも、機嫌よく笑顔を向けてくれた。私以外の年下の弟妹たちは、迪宮さまとは初対面だったけれど、全員が迪宮さまを抱き終わるころには、
「かわいいな……」
「章子お姉さまがおっしゃるように、本当に天使のようです」
と、完全に迪宮さまの虜になっていた。
「本当においとぼい……」
お母様が迪宮さまを抱き、頬ずりする。それを見守る家族一同、全員が笑顔に……。
「おい、梨花」
不意に、私の隣にいる兄が、私の肩を叩いて囁いた。
「ん?」
振り向いた私に、兄は視線で部屋の奥の方を示す。そこには、お父様が、1人ぽつんと正座していた。そう言えば、お父様は、迪宮さまを抱っこしていない。それに、何となく、こちらを恨めしそうに見ているような気もする。
「こっちに来ればいいのに」
小さな声で兄に言うと、
「それができるお父様だと思うか?」
と兄が囁き返す。私は首を軽く横に振った。
「俺たちはさりげなく、いったん部屋を出るか」
兄と囁き合っていると、お母様と節子さまも、私たちの様子に気が付いた。その2人にも手はずを小声で伝えると、
「ねぇねぇ、昌子さま、房子さま、允子さま」
と私は少し大きな声で言った。
「私、あなたたちに見せたいものがあるの。一緒に来てくれますか?」
すると、妹3人は、素直に「はい」と答えて立ち上がった。
それに続いて、
「私も、増宮さんについて行っていいかしら?」
「私も見たいです」
と、お母様と節子さまが、話を合わせながら返事をしてくれる。お母様は迪宮さまの身体を、そっと布団の上に置いた。
「いいですよ。じゃあ行きましょうか」
私が返事すると、お母様と節子さまも動き、女性陣は全員部屋を退出する。
「あー、置いてかれた」
不満げな声を上げる輝仁さまに、
「輝仁、久しぶりに会ったんだ。俺と将棋を指そうか」
と兄が話しかける。
「うん!」
輝仁さまはたちまち機嫌を直して立ち上がり、兄と一緒に部屋を出て行く。これで、部屋の中に残ったのは、迪宮さまと、お父様だけになった。部屋を出た私たちは、障子を閉めると、入り口から少しだけ離れたところに待機して、部屋の中の様子をじっと窺った。
「……誰もいなくなったか」
部屋の中から、微かにお父様の声がする。人が動く気配も、確かに感じられた。
「裕仁、……朕が、そなたのおじじ様だぞ。お前が無事に産まれて来てくれて、朕は本当に安心した」
「……覗いていい?」
障子に指を突き刺したくてウズウズしている輝仁さまに、
「ダメ。私も我慢してるんだから」
私は小声で注意を飛ばした。
「大体、障子に穴を開けたら、輝仁さま、自分で直せるの?」
そう言っていたら、反対側に待機している允子さまが、障子にそっと近づいて、ほんの僅かだけ障子を動かし、自分の後ろにいる昌子さまと房子さまとお母様を手招きする。……間違いなく、あの体勢は、部屋の中の様子を覗き見ている。
「俺も!」
輝仁さまが障子に駆け寄り、允子さまに倣ってほんの少しだけ障子を引き開けると、私と兄夫婦を手で招く。もちろん、その誘惑に抗えるはずもなく、私たちも出来た隙間の前に行き、部屋の中の様子を覗いてみた。
「……むむ、しかし、天狗さんが言う通り、お前は本当に、いとぼいなぁ」
ぎこちなく迪宮さまを抱きかかえたお父様は、満面の笑みを迪宮さまに向けている。普段の厳めしい表情が、嘘のようである。
と、お父様は顔色を急に変え、辺りに鋭い視線を放った。
「だ、誰だ、そこにいるのは!嘉仁か?章子に、美子もいるのか?!」
「……その通りですよ、お父様」
兄が苦笑しながら、一気に障子を開ける。室内の様子を窺っていた全員が、お父様の前に姿を現した。
「あ、あのな、朕は、そなたらが出て行ったから、このままでは裕仁がかわいそうだと思って……」
慌てて迪宮さまを下ろそうとするお父様を、
「陛下、お願いですから、どうぞそのまま!裕仁が泣き出してしまいます!」
と節子さまがすかさず止める。
「あー、うん、そうか、それなら」
迪宮さまを抱え直すお父様に、
「“迪宮さまを抱っこしたい”って、素直に言えばいいのに……」
私はため息をつきながらツッコミを入れた。
「そなたに言われたくはないぞ、章子」
「ちょっと、それ、どういう意味ですか」
気色ばむ私を、お母様が「まぁまぁ」と優しくなだめる。
「そうだ、写真を撮りましょう、お父様!」
昌子さまが手を叩くと、房子さまが「まぁ、それはいいですわ!」と笑顔になる。
「それはいいな」
「私も賛成です」
「俺も!」
兄夫婦と輝仁さまが即座に賛意を示す。私と允子さまも、ニヤニヤしながら頷いた。
「お上」
お母様が微笑を向けると、お父様は観念したように、がくりとうなだれた。
「では、お父様はそのままで」
「だね、兄上。じゃあ、お父様と迪宮さまの周りに、みんなで集まりましょ」
……こうして、私と兄が指揮して、たちまちのうちに集合写真を撮る態勢が整えられ、食事会の記念写真は、無事に撮影されたのだった。




