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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第28章 1901(明治34)年立夏~1901(明治34)年大雪
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指輪(2)

(な、何だ、この超絶イケメンは?!)

 霞が関にある威仁親王殿下のお屋敷。その舞踏室に先着していた男性に、私は見とれてしまった。

 このお屋敷の主である威仁親王殿下もかなりのイケメンで、小さいころに初めて対面した時、思わず見惚れてしまった記憶がある。そして、目の前に立っている彼の顔立ちの端整さも、威仁親王殿下に勝るとも劣らなかった。

「あ、あの!」

 名前を聞こうと声を上げると、私の姿に目を留めたイケメンの顔が、見る見るうちに青ざめた。

「ひ、妃殿下、なぜここに、増宮殿下がいらっしゃるのですか……?」

 ひきつった表情になったイケメンを見て、

「あら、お父様からは聞いていらっしゃらなかったの?」

慰子妃殿下が笑い転げている。「全く、困ったお父様ねぇ。らしいと言えばらしいですけれど」

「私は父に、“さる華族のお嬢さまが、舞踏の練習相手を探しているから行ってこい”と言われただけで……。ですから、行こうかどうしようかと思い悩んでいたのですが、まさか相手が増宮殿下とは……」

 狼狽する相手に、

「私だと、何か問題でも?」

と軽く睨み付けながら突っ込んだところ、

「ひいっ!」

……イケメンは私から一歩飛びのいた。

(あ……こいつ、ダメだ。単なるヘタレだわ……)

「安心してください。鬼じゃないから食べません」

 大きなため息をつきながら私は言った。「そう言えば、私、あなたを存じ上げないのですけれど、お名前を教えていただいてもよいですか?」

 すると、

陸奥(むつ)……陸奥廣吉(ひろきち)と申します。外務省に勤めています」

イケメンは、少し震える声で答えた。

(ん?陸奥?)

「あの、もしかして、立憲自由党の陸奥さんと関係あります?」

 少しだけ首を傾げながら尋ねると、

「はい、私の尊敬する父です」

イケメンはそう言って、私に深々と頭を下げた。

(なるほどねぇ……)

 そう言われてみれば、廣吉さんの顔立ちは陸奥さんにそっくりだ。陸奥さんに最初会った時は、結核が治っていなかった時だったから、顔立ちよりも、その身体の細さが気になってしまって、“そう言えば、陸奥さんはイケメンなのではないか”と感じたのは、結核の治療が終わってからである。そのイケメンは、毎週土曜日に決まって青山御殿に現れて、原さんと激論を繰り広げ、ついでに私をいじめていくのだけれど、こちらのイケメンは、どうやら父親と、性格が相当違っているようである。

「じゃあ、とにかく頑張ってください。よろしくお願いします」

 私は事務的にお辞儀をすると、さっさと廣吉さんの隣に歩み寄った。

 舞踏の練習の時は、ピアノが弾ける人に曲を弾いてもらうか、蓄音機で音楽のレコードを掛けるか、そのどちらかで音楽を流す。今日は蓄音機の方で、蓄音機の側に慰子妃殿下が立ち、私と廣吉さんが踊るのをじっと見ていた。今の時代の外交官にとって、西洋式の舞踏は大事な外交スキルの一つである。だから、外務省に勤める廣吉さんの舞踏は、とても上手だった。しかし、慰子妃殿下曰く、

「どうも、気持ちが入ってないわねぇ」

ということで、完璧とまではいかなかったようだ。その理由は、

(好きな人が相手じゃないからだろうな)

そう私は思った。廣吉さんは、両手に薄い白手袋をはめていたのだけれど、その手袋の下、右手の薬指の付け根に、指輪をはめていたのだ。彼に手を取られている時にそれに気が付いて、

「あ、あの、この指輪は?」

と小声で尋ねたら、廣吉さんがさっと顔を赤らめて、

「な、何でもありません。どうぞ、ご放念いただきますよう」

私から目を逸らしながら答えた。女学生の間でも、指輪をするのが流行っていて、“西洋のように、結婚したら左手の薬指に指輪をはめてもらうの”、などと言っている華族女学校の同級生もいたけれど、男性で指輪をしているのは少し珍しい。

(密かに思い合っている人がいるけれど、指輪を人に見られるのが恥ずかしくて、手袋で隠しているのかな?)

 ワルツを踊りながらそう思った瞬間、首筋に違和感を覚えた。舞踏室の入り口から、誰かが見ているような気がする。振り向いてみたけれど、入り口には人の姿はなかった。有栖川宮家の職員さんも、千夏さんも、入り口とは反対側の舞踏室の壁際に立っているから、彼らではない。

(まぁいいか。親王殿下の家だから、不審な奴はいないはずよね)

 それに、もし私に危害を加えようとするのなら、とっくに襲い掛かっていていいはずだ。私は違和感のことを頭から振り払い、廣吉さんとワルツを踊るのに集中した。


 1週間後の5月19日日曜日、午後3時。

 霞が関の威仁親王殿下の家での舞踏の練習が終わると、私は慰子妃殿下に連れられて、屋敷の庭園に出た。隣には、今日も私の舞踏の相手をさせられた陸奥廣吉さんがいる。まぁ、親王殿下は、今週半ばには航海から戻るので、廣吉さんと会うのは今日が最後のはずだ。……だといいけれど、昨日の土曜日、陸奥さんが全く青山御殿に現れなかったのが、何となく不気味ではある。

「2人とも、こちらにお掛けになって」

 池の前に広がる芝生の上には、テーブルと椅子が2脚置いてある。慰子妃殿下は私と廣吉さんを椅子に座らせると、

「じゃあ、私はお茶を淹れてきますから、お待ちになっていて」

と言って、私たちから離れた。

(うわー、このヘタレなイケメンと2人きりか……)

 非常に気まずい。ただ、それは、私に怯えている向こうも同じのはずだ。ならば、少しでも気持ちよくこの時間を過ごした方が、お互いのためだろう。そう思って口を開いた私が発した言葉は、

「あの、……好きな女性がいらっしゃるんですか?」

……という、後から考えれば、とんでもないものだった。

(わ、私、何言ってるんだよー!)

 一気に身体を熱くして、思考停止に陥りかけた私に、

「は、はい……」

緊張して顔をひきつらせた廣吉さんは頷いて、「よく、お分かりになりましたね」と言った。

「い、いや、指輪のことを聞いたら、顔を真っ赤になさったから……」

 私が何とか、こう指摘すると、

「はい……それで、大変申し訳ないのですが、私はとても困惑しているのです」

廣吉さんの表情が暗くなった。

「最初、ここに行くように父に言われた時、私はお見合いではないのかと思ったのです」

「は、はぁ?!」

 私は思わず、椅子から立ち上がった。

(陸奥さん……確かに、私の婿候補を探すとか、よく分からないことを言っていたけど、結局、自分の息子を私の婿候補として送り込んだってこと?!)

 すると、

「ま、増宮殿下、どうかお怒りにならないでください」

廣吉さんが必死の表情で、私を止めにかかった。

「勘違いしないでください。あなたには怒ってません!あなたのお父様に怒ってるんです!」

 ヘタレイケメンに全力で抗議すると、

「はい、勘違いはしていません。私の父に対して、怒らないでいただきたいと申し上げています」

彼は驚くほどしっかりした声で私に返して、

「私、父を尊敬していますので」

と付け加えた。

「高い英語力。広い視野。鍛え上げられた胆力。豊富な経験。そして、未来を予測する力……私は父を、父としてはもちろんですが、一流の政治家、一流の外交家として尊敬しています」

 真剣な眼で私を見つめる廣吉さんに、

「それは、申し訳ありませんでした」

私は深々と一礼した。どうやら私は、彼が大事にしているものを傷つけてしまったらしい。

(さて、どう話を続けようかな)

 そう思った瞬間、感覚に何かが引っかかった。誰かが、私と廣吉さんのことを見ている。

(誰?慰子さま?)

 周りを見渡してみると、慰子妃殿下の姿は見当たらない。けれど、池のそばにある茂みの陰に、誰かがいるような気配がする。そちらに視線を合わせると、

「おい、姉宮さまにバレたぞ!」

と小さな声が聞こえた。

(ん?この声は……)

「あの……そこの茂みの陰にいるのは分かってるから、出ておいで?輝久(てるひさ)殿下と……栽仁(たねひと)殿下もいるのかな?」

 呼びかけると、茂みが大きく動いて、学習院の制服を着た、2人の少年が姿を現す。有栖川宮(ありすがわのみや)栽仁王殿下と、北白川宮(きたしらかわのみや)輝久王殿下だ。

「ほら、こっちに来なさい、2人とも」

 手招くと、2人は素直に応じて、テーブルのそばにやってくる。慌てて2人に最敬礼する廣吉さんに、2人とも、硬い視線を投げていた。

「姉宮さまは渡さない。僕が守る」

「そうだ、貴様には渡さないぞ」

 廣吉さんを睨み付けたまま、怒りのこもった声で言う栽仁殿下と輝久殿下に、

「“渡さない”って、日本語がおかしいし、……大体、何であなたたち、ここにいるの?」

私はため息をつきながらツッコミを入れた。

 すると、

「だ、だって、姉宮さまが、父上じゃない男と舞踏をしていたから……」

栽仁殿下が、とても心配そうな眼を私に向けた。

「そう、栽仁からそれを聞いたから、もしかして、姉宮さまが、そいつと結婚させられるんじゃないかって思って……。鳩彦(やすひこ)稔彦(なるひこ)にも相談したんだけど、あの2人は幼年学校の受験勉強中だから、まず俺と栽仁が、様子を探ることになったんだ」

 輝久殿下もそう言うと、

「姉宮さま、結婚って話じゃないよね?」

と、私を縋るように見つめた。

(な、なぜそうなる、ってか、私は、どうすれば……)

 また考えがオーバーヒートしそうになった私の横で、

「ご安心ください。増宮殿下と結婚しようとは、毛頭考えておりません」

栽仁殿下と輝久殿下に最敬礼したまま、廣吉さんは大真面目に答えた。

「だろうね。だって、好きな人がいるって言ってたから」

 栽仁殿下が冷たい声で指摘すると、

「どうしてその人と結婚しないんだ」

輝久殿下が、廣吉さんを睨み付けた。

「あ、あのね、2人とも。相手は年上なんだし、国のために働いてくれている人なんだから、もっと丁寧な言葉を使おうよ……」

 私が何とか、王殿下たちをたしなめる横で、

「し、しかし、彼女は今、イギリスにおりまして……」

廣吉さんが戸惑いながら私たちに答える。

「ということは、相手はイギリス人……ですか?」

 栽仁殿下が尋ねると、廣吉さんは素直に「はい、そうです」と答えて、フロックコートのポケットから一枚の写真を取り出した。写真の中にいるのは、美人ではないけれど、純粋で、優しそうな容貌の若い女性だった。

「どういう……方、なんですか?」

 輝久殿下が、苦労しながら丁寧な言葉で聞くと、

「私がイギリスに留学していた時、下宿していた家の娘さんです。出会ってから、もう、13年ほどになりましょうか……」

廣吉さんは、ふっと遠くを見やった。「日本に帰ってからも、見合いの話はたくさんありました。しかし、どんな美人を前に持ってこられようとも、私の生涯の伴侶は彼女しかいません」

(うわぁ……)

 ヘタレイケメンから発せられた、思いがけない熱烈な愛の言葉に、思考が完全に止まってしまった私をよそに、

「それなら、どうして彼女と結婚しないんですか?」

「そうだそうだ。外国人との結婚が問題になるなら、彼女に日本に帰化してもらえばいいのに」

栽仁殿下と輝久殿下は、廣吉さんに食いついていく。……まだ中等科の1年のはずなのに、2人とも、ませているのだろうか。

「……父に、反対されているのです」

 廣吉さんは、少年たちの声にうつむいた。「数年前、留学から帰って来た後、父に彼女のことを話して結婚の許しを得ようとしたのです。しかし、“相手は外国人で、しかも元々武士である我が家とは違い、平民ではないか”と反対され、それ以上、何も言えなくなってしまいました。尊敬する父に反対されては、どうすることも……」

(まぁ、そりゃそうだろうけど、さ……)

 ようやく、思考能力が戻って来た私は、ため息をついた。相手は“妖刀”である。半端な論理では、あっという間に切り刻まれてしまうだろう。

「でも……愛して、いるんでしょう、彼女を?」

 私が辛うじてこう尋ねると、廣吉さんは「はい」と頷いた。

「……意気地なし」

 反射的に、言葉が口を突いて出た。

「彼女のことを思っているなら、何で、一度、ぶつかっただけで、諦めちゃうんですか」

 本当に、このイケメンはヘタレである。同じ陸奥さんを尊敬しているのでも、廣吉さんより原さんの方が、遥かに偉い。

 青山御殿で、陸奥さんと原さんが議論する時、原さんは、陸奥さんが正しくないと思えば、どこまでも陸奥さんの論に反対して、自分の論の優位性を主張する。それで、陸奥さんが機嫌を損ねることもあるぐらいに、だ。

――原君。もし僕が、原君の直属の上司でも、僕の論に反対するのかね?

 以前、青山御殿で、陸奥さんと原さんが大激論を交わし、陸奥さんが明らかに劣勢になった時、陸奥さんが片方の眉を跳ね上げて、原さんにこう言ったことがあった。

 すると、原さんは、

――もちろんですよ、先生!

と陸奥さんに言い放った。

――命令があれば、従わざるを得ません。しかし、議論の上では、先生が正しくないと思えば、わたしはどこまでも先生に反対します!

「……そりゃ、私だって、勇気がそんなにある訳じゃない、です」

 熱くなる思考をなだめながら、私は口を開いた。

「でも、私は決めてるんです。私は国、そしてお父様(おもうさま)と兄上のために、最善を尽くしたい。だから、やったことのせいで、後で大悪人だの、逆賊だのと、謗られても構わないんです。もちろん、兄上とお父様(おもうさま)に、怒られたってね」

「な、なんと……」

 廣吉さんが息を飲む。栽仁殿下も輝久殿下も、じっと私を見ている。

「あなたも、か、彼女のことを思ってるなら……守りたいと思うなら、お、お父様を説得したら、どうなん、です、か……?だ、だって、将来を誓い合った、(しるし)として、ゆ、指輪を、はめてるん、でしょ……?」

 自分の言葉に煽られて、私の身体がまた、一気に火照ってしまった。

「増宮殿下?」

「「姉宮さま?」」

 うつむいて、動きを止めてしまった私に、廣吉さんも、栽仁殿下も輝久殿下も駆け寄った。

「あう……ご、ごめん、なさい。わ、私、こういう、話は、大の、苦手で……」

 ようやく、これだけ言葉を出すと、

「そうでしたか……それは申し訳ないことを……」

廣吉さんが私に頭を下げた。

「そ、それは、気に、しないで……ください」

 私は、頭の中からあらゆる考えを排除するように心がけ、深く、ゆっくりと呼吸をした。熱は少しずつ外に逃げていくけれど、まだまだ身体の中にこもっている。

(大山さんか、兄上が、そばにいてくれれば……)

 そう思った瞬間、

「「姉宮さま?」」

真正面から、澄んだ、美しい瞳に見据えられた。

 ……栽仁殿下と、輝久殿下だ。

(あ……?!)

「ちょ……それ、反則……」

 こもった熱が、身体の中で一気に膨れ上がって、私の脳は、再び回転を止めてしまった。


 5月25日土曜日午後3時、花御殿。

「ところで、身体は大丈夫なのか?」

 私と、兄夫婦と、迪宮さましかいない和室の居間の中。節子さまの腕の中で、スヤスヤと寝ている迪宮さまの顔を、正座しながら眺めていると、兄が私の横から小さく声を掛けた。

「え?大丈夫だけど?」

 返答すると、兄がギロリと私を睨んで、

「ウソをつくな。苦手なことをして、1週間も経っていないのに、お前が完全に立ち直れている訳が無かろう」

と言った。

(1週間も経ってないって……)

「ああ、大兄(おおにい)さまの家でのことか……」

 兄の言葉にやっと思い至って、私は顔に苦笑を浮かべた。

 廣吉さんと話していたら、話が、私の苦手な恋のことになってしまった。完全に思考がストップした私を見て、側にいた廣吉さんたちが助けを求めたらしい。ようやく正常な思考ができるようになった時には、私は青山御殿に戻る馬車の中にいて、大山さんに優しく抱き締められていた。

――廣吉どのに、“苦手なことをおやりになった”と聞きました。

 私に苦笑を向けた我が臣下は、「話の流れで致し方なかったのでしょうが、無理は禁物ですよ」と言いながら私の頭を撫で、それでようやく、あちこちに跳ね回っていた私の心が、地面にそっと着地したのだった。

「まぁ、不幸な事故よ。全部、廣吉さんが意気地なしなのが悪い」

 唇を尖らせながら兄に返答すると、

「そうでもなさそうですよ、梨花お姉さま?」

と、微笑を含んだ声で節子さまが言った。「慰子さまが教えてくれましたけれど、あの後、廣吉さま、お父様に“想う人と結婚させて欲しい”と、直談判をなさったそうです。毎日、親子で結婚について、議論をなさっているとか」

「お、想う……」

 私は慌てて、迪宮さまの顔に視点を移した。迪宮さまは起きていても可愛いけれど、泣いていても可愛いし、寝ていても可愛い。本当に、天使としか言いようがない。

「こら、節子。梨花を余り刺激するな」

 苦笑交じりの兄の声を無視して、私はひたすら、迪宮さまの寝顔に癒されていた。

「しかし、本当に“事故”なのか、梨花?」

 私の隣で、兄が首を傾げた。

「当たり前よ」

 私は迪宮さまの天使のような寝顔から目を離さずに答えた。「大体、私は、医師免許を取らないといけないの。そのためには座学の勉強も、臨床実習も必要。恋にうつつを抜かしている暇なんてありません。場合によっては、女であることも捨てないと、……ねー、迪宮さま」

 迪宮さまに笑いかけると、

「お前、……そんなことを言っていていいのか?」

兄の声が急に冷たくなった。

「へ?」

 疑問の声を上げた私の肩を兄がそっと叩き、その手で私の背後を示す。……そこには、黒いフロックコートを着た大山さんが立っていた。なぜか、彼からは、気配が全く感じられない。

「?!」

 目を瞠った私に、

「迪宮殿下を怯えさせてはならないと思いまして、気配を殺しました」

不気味な微笑みを見せながら、私の非常に有能な別当さんは答えた。

「どうやら、ご教育が足りないご様子。これでは、皇后陛下もお悲しみになりましょう」

「え、あ、いや、その……」

「さぁ、そろそろ青山御殿に戻らねば。梨花さまにご教育を致しませんと」

 気配を殺したまま、一歩、また一歩と、大山さんは私との距離を詰めていく。

「お、お願い、助けて、兄上!」

 兄に縋ろうとすると、

「断る」

という声と共に、兄は私の身体を、ぽんっ、と大山さんの方に押し出した。

「なっ?!ちょっと、何するの、兄う……」

 思わず上げそうになった叫び声は、身を屈めた大山さんに身体ごと受け止められて、くぐもった音になった。

「お静かに、梨花さま。迪宮殿下が目を覚まされてしまいます」

「……陸奥さんが来るまで、迪宮さまの側にいたいんだけど」

 小さな声で大山さんに抗議すると、

「なりません。こちらの方が、迪宮殿下のお側にいていただくことより、もっと大事なことでございますから」

そう言いながら、彼は私を抱きかかえるようにして立ち上がらせた。

「頼んだぞ、大山大将。梨花は俺の誇りなのだから、しっかり“教育”しておくれ」

「かしこまりました、皇太子殿下」

 そして、大山さんに引きずられるようにして青山御殿に戻った私は、大山さんに、たっぷりと“教育”されてしまったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] いつも楽しみに読ませていただいてます。 臣下からの、ご教育。具体的な内容が気になってしまいます。
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